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「――それでさ、冬城。来週末のテスト期間終わってからさ、俺修学旅行で」
「へーそれは寂しくなりますね」
「全然寂しそうじゃねえじゃん。でも、まっ、お前にだけお土産買ってきてやるから」
「俺だけにですか? それ嬉しいです」
「あっ、お前ちゃんとそういうこと言えるんだな」
「失礼ですよ、先輩」
 何気ない会話。
 普通の会話ができていた。昼休みの出来事が嘘のように、俺は冬城とだべりながら廊下を歩いていた。
 来週末のテストが終わったら俺は修学旅行に行く。二年生で一番楽しみにしていた行事であるためワクワクしている。すでに班分けや部屋割りも決まっているため、後はいくだけなのだが、その間冬城に会えないと思うと少し寂しい気もした。
 テスト期間の終わりにっていうのはご褒美でもありつつ、修学旅行のことで頭がいっぱいで勉強に集中できそうにない。しかし、担任が冗談か本当かわからないが「赤点取ったやつは修学旅行に行けないからなー」と言ったこともあり、これまでよりも身が引き締まっている。
 さすがにお母さんにも修学旅行の話はしているし、クローゼットの奥からキャリーケースは出してもらった。すでにキャリーケースの中にはほとんど中身を詰めている。気が早いって言われたらまさにその通り。
 梅雨で滑りそうな廊下をゆっくり歩いていると、反対側から明るいベージュのズボンを履いた先生らしき人物が歩いてくるのが見えた。
 みんな、すれ違いざまに「さようなら、あっきー先生」とあいさつをしている。そのあだ名に「おー」と手を振りながら挨拶を返したその先生に俺は見覚えがあった。
 あちらも俺に気づいたようで、手に誰のか分からないノートを持ったまま手を上げて軽い挨拶をする。
「蓮澄じゃん」
「ゆずき兄ちゃんじゃん。そーだった、先生やってたんだった」
「お前~俺、蓮澄が入学してきたときにここに就任してきたんだけど?」
 俺は知り合いに会えたため駆け寄ったが、廊下が滑りやすくなっていたことをすっかり忘れてつるんと足がとられる。そこを、ゆずき兄ちゃん――秋梨柚葵が受け止めてくれた。
「廊下は走らないんだぞ。蓮澄」
「へーい」
「教師に向かってその口の利き方はないだろ。蓮澄」
「兄ちゃんだって、だいたい生徒のこと名字で呼んでんのに、俺のこと名前でいいわけ?」
 俺がそういうと「じゃあ、小春。走っちゃだめだぞ」と先生っぽく説教した。しかし、俺はこの人のことをよく知っているため、先生っぽくしているその姿が笑えて来てしまう。
 秋梨柚葵は、俺の従兄だ。
 小学校は一緒だったし、何かとお世話になった。母の兄夫婦の子どもで、たまに母方のおばあちゃんの家に遊びに行ったとき、俺の相手をしてくれた。
 あそこは妹夫婦の子どもがよしよしされていたから、居心地が悪かったけど、ゆずき兄ちゃんがいてくれた時は俺のことをかまってくれた。ちょっとヤンキーっぽくて、でも話していると楽しくて。そんな明るいゆずき兄ちゃんに俺は懐いていた。
 大学生二年生になってタバコデビューしたのちやめられなくなったと聞いたときは衝撃だったが、今も健在らしい。そんなゆずき兄ちゃんが先生になっていたなんて衝撃だ。
「似合ってねえの。あと、ちょっとタバコ臭いし。先生なのにタバコ吸ってていいのかよ」
「昼休みにコンビニまでダッシュしてんの。あそこなら吸っても大丈夫だし……って、小春はなんで冬城と?」
 ゆずき兄ちゃん……改め秋梨先生は、俺の後ろにいた冬城のほうを見た。
「兄ちゃん……あ、秋梨先生は冬城とどういう関係?」
「いや、どうもこうも。俺、冬城のクラスの副担任だし」
「あーそう……冬城も言えよ」
「……言う暇なかったじゃないですか。先輩がいきなり走っていくから」
 また暗いトーンで冬城はそういうと、俺を抱きしめていた秋梨先生の手を見た。
「先生がそんな、生徒にべたべたしてていいんですか」
「いや、秋梨先生は従兄で……」
 先輩は黙っていてください、的なオーラを感じ取り俺は口を閉じた。
 昼休みみたいな空気を感じ取って俺は視線が下に落ちる。冬城は時々こうやって怒るから分からない。でも、最近まで本気で怒ったことはなかった。悲しそうな顔をすることはあったが。
 俺は、秋梨先生の手に持っていたノートの名前を確認し、知らない人だなと見たうえで冬城のほうを今一度見た。
 リュックの左のひもをぎゅっと握った冬城は、不機嫌そうに秋梨先生を睨んでいる。
「何、俺、これ挟まっちゃった感じ?」
「何言ってんの、秋梨先生」
「いーや、これは。ほーん……そ~いうことね」
 秋梨先生は何かに気づいたように、俺のことを抱き寄せる。白いシャツからはタバコの臭いが漂ってきてとても臭い。鼻が曲がりそうだ。
「冬城、いっちょ前に嫉妬して、ちょっとカッコ悪いぞ」
「先生、何を言っているかよくわかりません。あと、変な噂たてられたくなかったら先輩のこと放してください」
 今すぐに――と語勢を強めてそういうと俺に向かって手を伸ばした。いや、秋梨先生にかもしれない。
 俺は冬城の指の先を追っていると、秋梨先生が、先に冬城の腕を掴む。冬城のきれいな顔にしわが寄り、キッと目がつり上がった。しかし、秋梨先生がそんな冬城にひるむわけもなく、彼の耳元でそっと何かを呟いた。
「あと、蓮澄に悪いこと教えたのは俺。かわいい、従弟だもんな?」
「……っ」
「ちょ、冬城って。滑る、滑る!!」
 ゾワッと毛が逆立つような嫌な雰囲気が場に広がった。何だと思えば、その発生源は冬城で、秋梨先生の手を勢いよくはじくと、俺の手を掴んで廊下をぐんぐんと歩き出した。俺が待って、と言っても止まってくれず、冬城はまた自分勝手に足を進める。
(あーまた! 冬城よくわかんねー!!)
 少し、彼のことを理解した気になっていたが、また分からなくなる。
 寂しそうな大きな背中を見て、俺は「冬城」としか名前を呼べない。
 後ろで秋梨先生がニコニコとした笑みを浮かべ手を振っていたが、俺はさよならも言えず、冬城にただただ引っ張られていくしかなかった。