俺が名前を呼ぶと先輩――三年生の夏川菊馬先輩は、真夏の太陽のような眩しい笑顔を俺に向けた。白い歯は歯並びがよくて、ちょっと短めにカットされた髪の毛も一年前と変わらなくて爽やかだ。
「先輩、知り合い?」
「え? あー、うん。一年生の時、部活で一緒だった……俺、一年生の夏ぐらいまでバドミントン部で」
 冬城が食い気味に聞いてきたため、俺はビクッと身体を震わせつつ答えると、冬城の眉間にしわが寄る。答えたのに、その態度はなんだと文句を言いたかったが言える雰囲気でもない。
 梅雨の湿気でべたべたな廊下を歩き、階段の一段目を踏んだ先輩は変わらない様子で俺に話しかけてくる。
「な、夏川先輩はどうしてここに?」
「いやー恋人が今、美術室に忘れ物したっていうからついてきてて。ほら、この階の端、美術室だろ?」
「まあ、そうっすね……」
 俺はこの階の間取りを思い出そうとしたがなかなか思い出せなかった。この会談もそうだが、この階に人が少ないのは、部活や選択授業で使うような特別教室が多いからだ。美術室や、書道部つかう教室、あとは音楽室とか。
 だから、昼休みに人はほとんどいない。
 夏川先輩は「まだ帰って来ないかなー」なんて言いながら、階段の下から、廊下の端を見ていた。そこは一緒にいないんだ、と思いながらも俺は手に持った割りばしが震えていることに気が付いた。
 あっちは覚えていないのだろうか。
「小春はどう? 元気でやってる?」
「ぼちぼちは……他の部活にはいったりとかはなく、今は、帰宅部ですけど」
 「……っす」というように俺はたどたどしく返す。それでも、夏川先輩は嫌な顔一つせず「そうか」と笑ってくれる。
 気を遣わせてしまっているかなと思ったが、どうやら相手は気にしていないらしい。
 いつもだったら、普通に顔を合わせられるんだろうけど、冬城が隣にいるせいか、俺は夏川先輩の顔を見ることができなかった。別にあれは過去のことだし、先輩には今恋人がいる。その情報を知って「あの時告白した子かな?」と俺は思ってしまうのだ。
 そう、俺はこのバドミントン部の先輩、夏川菊馬先輩と一年生のころ付き合っていた。でも、一か月もしないうちに別れて、同時に部活を止めた。
 初恋だったのかなと今では思うが、もしかしたら初恋じゃなかったのかもしれないとも思う。
 憧れや尊敬が強くて、好きだったかと聞かれたら、まあ好きだけど。恋愛的かと言われたら今ではあいまいだ。けれど、先輩はあのころと変わっていなくて、爽やかで、気前良くて。部活を止めた俺のことを覚えていてくれた上に声までかけてくれた。
 それが同時に、先輩にとって俺ってその程度だったんだと思わされる。
「それで、隣の彼は?」
「ああ、えっと……後輩。今、一緒に清掃バイトしてる後輩、っす」
 本当は複雑な経緯の上で今の関係になっているので、その説明を夏川先輩にするのは気が引けた。
 俺が自撮りを投稿するSNSをやっていて、パパ活をやっていて、それでその現場を取り押さえられて、なんて夏川先輩は知らないだろうし、知りたくもないだろう。今さら幻滅されたところで、こっちも痛くもかゆくもない。もう会わないだろうなと思っていた先輩だったから、何たる偶然だろうか。
 何より恋人がいるのだから、部活を止めた後輩のことなんて気にする必要もない。
 夏川先輩にSNSのはなしをしたら正義感が強い人だから止められるかもしれない。でも、俺は夏川先輩に止められることは望んでいなかった。
「そっかー、部活やってないとバイトする時間あるもんなー」
「そうなんですよ。有効活用してます。先輩は……あ、垂れ幕見ました。県大会出場おめでとうございます」
「おっ、見てくれた? あれ、ちょっと恥ずかしいよな。でも、ありがと。小春。お前もまた何かあったら部室に来いよ。俺たちは、次の試合勝てなきゃ引退だし、二年生も俺たちの跡継いでって感じで。あー、顧問が今副担任なんだっけ?」
 夏川先輩は懐かしそうにそう言いながら、一歩、また一歩と階段を上ってくる。
 先輩は、バドミントン部のエースで小学校からやっていると聞いた。本当は強い学校に行く予定だったが、強豪校でトップを狙うよりも、そこそこの学校でトップを張ったほうがいいと考えたらしくうちの高校に進学したのだとか。その作戦はあっていたのか、シングルスでは負けなしの実力で、一年生のころから活躍していたらしい。
 俺も、先輩と当たったことがあるが、一点が奇跡的に取れたくらいで、手も足も出なかった。
(先輩はちゃんと部活続けるよなあ……)
 次の試合で勝てなきゃと言っているが、彼の目には負ける気はないというやる気の炎が燃えている。俺の前では謙遜してそういっているだけだろう。
 先輩が近づいてくるたびに、ドクン、ドクンと心臓の音が大きくなる。割りばしが折れるのではないかというくらい手に力が入った。
 この心臓の嫌な感じは、久しぶりに会えた先輩に合せる顔がないからか。いや、きっと今会いたくないと俺が思ってしまったからだろう。
 なぜか――
 しかし、途中まで登ってきたところで、彼の足が止まった。どうしたのだろうかと思うと、隣で冬城が威嚇するように夏川先輩を見下ろしていたのだ。
「ちょ、冬城」