◇◇◇
 ごちそうさまでした。
 向かい合って、二人で手を合わせる。
 コンビニから家に帰るまでの道中、俺たちの会話はいつも通りだった。不自然な点は一つもなく、冬城も先ほどのような急にしょげたり、迫ってきたりなどしなくて、俺が意識しすぎていたんだと改めて思わされた。
 でも、そう思ってしまうくらいにさっきの冬城はいつもと違った気がしたのだ。周りを気にするようなやつなのに。カゴを握っていた手が少し触れていたようにも思う。
 五月の終わり。日は、四月よりも長くなったような気がする。初夏の匂いを感じつつも、その前に嫌な季節がやってくるんだよな、と俺は曇り空を見て思った。六月は片頭痛が多い季節。五月病の蔓延する季節の次に嫌いな季節だ。夏のカラッとした暑さよりもたちが悪い。
 俺は、流し台にプラスチックのごみを持っていき水道をひねった。洗ってきれいにして捨てる。これはずっと昔からやっていることだ。
「ビッチ先輩」
「うわああっ、何!? お前、気配消してあるけんの?」
「先輩が鈍感なだけですよ。俺も、洗っていいですか」
「あーいいよ。俺が洗うし。てか、一応、お前は客人だし。ゴミが一つ増えようが、ゴミ出しは一緒」
「なんか、生活感あふれててちょっと引きます」
「冬城……そういうときは褒めたほうがいいぞ。モテ男としてあるまじき発言だかんな?」
 俺がそういうと、冬城は「申し訳ないですよ」と眉を下げる。そして、近くにあったエプロンを持って俺に近づいてきた。「手を上げてください」なんていう冬城の命令に俺は何故か従ってしまった。水は出しっぱなし。手もべたべたというのに、俺はばんざいのポーズで冬城のほうを見る。すると、冬城は持ってきたエプロンを俺に着せて、後ろでリボン結びをした。
 「手を下ろしていいですよ」と言われたときには、ピンクのエプロンを着用済みの状態になり、俺は訳が分からず冬城のほうを見た。
「な、なに? これ、なに?」
「ビッチ先輩、そのまま洗ったら水飛ばしそうなので。エプロンつけたほうがいいですよ。あ、似合ってます」
「なんか、付け加えたように聞こえたんだけど」
「似合ってますよ。ピンクのエプロン」
 冬城はフッと口の端を上げて笑った。
 やっぱり、こいつおかしいかもしれない。前よりも、言葉では言い表しにくいけど、優しくなっているような、丸くなっているような気がする。俺が、そう勘違いしているだけという可能性は大いにありえつつも、俺も冬城に触れられるとドキドキしてしまう。
 頬骨に乗っかっているほっぺが熱い。
 このピンクのエプロンは多分お母さんのだ。着ているところを見たことがないが、俺のじゃなければ必然的にお母さんのものになる。
 冬城の言っていることはごもっともだろうが、いちいち行動の原理が分からなくて困惑する。ただ、楽しそうにしているこいつに文句を言うのはちょっと違うな、と俺は空気を読む。俺だって水を差したいわけじゃない。
 出しっぱなしの水が排水溝に吸い込まれていく。しかし、キッチンで男二人が見つめあっているというシュールさに、俺は耐えきれなくなった。
「手伝ってくれねえの?」
「さっき、先輩が『俺がやる!』って言ったので、監視してようかと」
「監視って……でも、なんかお前がいるのに洗い物するの違う気がする。冬城、時間大丈夫そう?」
 俺は、リビングにあった時計を見る。斜めからでは正確な時間は分からないが、多分八時を超えている。ここから最寄りまでは歩いて数分だが、冬城が帰ったら九時になるのではないだろうか。
 冬城はスマホのロック画面で時刻を確認し「あー」と漏らす。
「そうですね。そろそろ、お暇させてもらおうかと……」
「おぅ……なんか、冬城帰っちゃうの寂しいな」
 口から出た言葉に、俺は自分でも驚いた。それを聞いていた冬城もまた驚いていたようで、俺のほうを丸い目で見ている。
(あー、何で俺……)
 俺は水で濡れたままの手で口を覆い、流しっぱなしの水道を止めた。水の音がしなくなり、排水溝がこぽこぽこぽ……と唸るように音を立て、そしてしばらくして静かになった。
 この微妙な空気が嫌いだ。
 でも、自らこの空気を換えるほどの勇気も技量も持ち合わせていない。
「……先輩。また、来ていいですか」
「ふゆ、しろ……っ」
「ゲームセンターもいいですけど、ここもいいって思えました。先輩の好きなゲームで、勝ってもあの写真消してあげていいですよ」
「……っ、あー写真。そうだった」
 弾かれたように意識が戻ってくる。
 そういえば、俺と冬城の関係ってそこから始まったんだなと思い出した。俺はすっかり忘れていたが、冬城はしっかりと覚えていたんだ。
(あの写真、消してもらったらそこで終わりなのか……)
 この関係はよくわからない。
 最近は先輩後輩っぽいやり取りをしているから忘れていたが、出発地点は不毛なものだった。
 冬城が、俺の回答を待っている。黒い瞳が俺を見つめている。俺はエプロンの中心をぎゅっと握った。水がしみ込んでいくのを感じる。
「また、来いよ。あれだったら、今度はお泊りでも……って。あーえっと、お母さんが夜勤のとき、とか?」
「いいですね。お誘いありがとうございます」
 顔を上げれば、優しく微笑む冬城の笑顔がある。いつもの意地悪な笑みじゃなくて、年相応の。へにゃっとしたような柔らかい笑み。
 知り合いを家にあげるのも久しぶりなのに、お泊りなんて初めてじゃないだろうか。高校生にもなってちょっと子どもっぽい? そんな考えが頭の中を巡ったが、それよりも先の予定を二人で決めたことに俺は胸がいっぱいになる。
 冬城は、リビングに置いてあったリュックを背負うと玄関に向かって歩いていく。俺はエプロンをつけたまま冬城のあとをおった。
「それじゃあ、先輩。おやすみなさい。鍵、ちゃんと閉めておいてくださいね」
「バカにすんなって。ちゃんと戸締りぐらいできる」
「アホかわ……じゃあ、先輩、また学校で」
 ゆっくりと閉められる扉。俺は乱暴に閉めちゃうから大違いだなと思う。
 冬城がいなくなってまた、部屋に静寂が戻ってくる。電機はすべてついているのに、静かに色が褪せていくような感覚だ。
 先ほどまで冬城が立っていた場所、座っていた場所を順にみて、俺はふぅ……と大きく息を吐く。
「……予定、か。てか、また学校でって」
 これまで言われたことがなかった。あいつ、あんなことも言うんだな、と俺は笑いがこみあげてきた。
「また……か」
 じゃあ、昼休みまた一緒にご飯が食べられるだろうか。それはちょっと楽しみだな、と俺は部屋の中でスキップしながら洗い物を洗うべくキッチンへと戻った。