◇
吐き出す熱気が魂の形を成して、見上げた空に焼き付けばいいのに。強く頭を振る反動で、湿った髪の毛先からパッと弾け飛ぶ汗の雫。瞼に落ちる水滴を瞬きで飛ばして、ステージ下の熱狂に視線を向けた。
グッと膝を曲げて体重をかければ、鈍い音を立てて抜けてしまいそうな薄いベニヤ板の床。反動をつけて爪先で弾くと、それは手拍子を促す合図に変わる。周囲の音を聞いて、微妙に変化させる指運び。ドゥドゥと腹の音を突き上げるベース音に体を揺らしなながら一番いい音域を探って、掻き鳴らす音を溶け合わせた。
(っとに、下手くそ)
思わず零れそうになる苦笑を喉奥へ押し込んで、葛西日生は長い前髪の内側に表情を隠した。とはいえ、いま立っているのは学園祭のステージ。青春は懸けていても、誰も人生は懸けていない。客席で湧く生徒達もただ流行りの曲に合わせてノリを合わせることを楽しんでいるだけで、誰もメインボーカルの彼の歌声や、周りの演奏なんて真面目に聞いてやしない。
(楽しけりゃいい。楽しけりゃ、いい)
フツフツ、フツフツ。胸の底で遠慮がちに顔を覗かせる欲望。
瞼を伏せた視界に、出鱈目なパルスの幻影が見えた。ぐちゃぐちゃに絡んで噛み合わないサウンドの隙間を繋いで、1本の線が駆けて行くビジョン。
(見えちゃった、な)
日生は薄っすらと瞼を開き、曲が終盤に差し掛かっていることを確かめ、閉じていた唇の隙間をハッと開いた。
(少しだけ)
唱えた勢いに乗せて、解放する一線。ドクンと跳ねる心音で、目の前がパァと鮮やかに開ける。ビリビリ走る興奮物質。視界に星が瞬いて、脳が音を立てて回り出す。
頭に描く1本選に乗せて、すべての音を繋ぐ旋律を声で紡いだ。客の空気が少し変わったのが分かる。ザワッと漣のように湧き立つ気配。日生はわざと客席から視線を逸らし、俯いたまま言葉にならない音を乗せた。
最後の1音を紡ぎ切ったメインボーカルの彼は、マイクを握って肩で息をしたまま、ジッと日生を見ている。日生は顔の前に掛かる前髪を掻き上げ、彼に向ってヘラッと笑い、手を振った。
ワァと、打ち上げ花火のように湧く歓声。この日一番の盛り上がりを勝ち得たステージの裏で、バチンッと湿った肉にぶつかる殴打音が響いた。
「ちょ、おま落ち着けって」
歓声は幕を隔てた向こう側にあって、遠い。周りをシートで囲ったテントで誂えられた出演者の待機場所は、剥き出しの地面付近が一番冷たくて快適だった。殴り飛ばされ尻もちをつきながら、日生はそんなことをぼんやり思う。
日生の顔面を殴った男子生徒の腕を掴んで宥めつつも、バンドメンバーは全員彼の味方だと言わんばかりに、彼側に控えている。
日生は切れた口内に滲む鉄の味を噛んで、口の端を拭いながら体を起こした。
「んだよあの最後のアレンジ。俺らのこと全員食いやがって……バカにしてんのか、お前」
あくまで仲間たちに周囲を固められた立ち位置を維持したまま、彼は強気に吠えながら地面を蹴る。飛んで来た小石を顔を背けて避けつつ、日生は再び力の抜けた笑みを向けた。
「盛り上がったんだからよくない?」
「……っ、二度と呼ばねえ!」
彼は吐き捨てるように言って、日生の足元に札を投げ捨てる。勢いをつけて叩きつけるはずだったそれはヒラッと力なく地面に落ちて、日生は起き上がり様にその端を指先で摘まんだ。
「毎度ありぃ」
日生は札についた土埃を弾いて落としてポケットに入れ、ステージ裏のテントを出た。やたらと目を焼く陽光に目を細めて、フラッとステージの傍から離れる。
「だって、すげー可哀想だったじゃん」
なにが、音が。爆発できるのに、できなくて、燻ってたから。
(でもそれをぶっ壊すのも、俺の役目ではなかったわな)
呟いた音は重ねた溜息に押しつぶされて何処にも届かず消えていく。校門から校舎までを繋ぐ通りにひしめく色とりどりの屋台の裏を抜けながら、知り合いの顔を探しては顔を晒して挨拶を交わした。
「手伝いいる人おらんかねー。学祭割引するよー」
「あ、ヒナ! 手空いてるんだったらうち手伝って!」
「いいよ。あ、ヘルプ料金の代わりにクラスT1枚ちょうだい」
「いいけど……って、げっ。なんでそんな汗びっしょりなの!? ちょっとやだあ、タオルもあげるからあっちで着替えてきてよね!」
「ごめんって、助かる。タオルの料金分も働くわ」
「うん、よろしくねー! いらっしゃいませー!」
投げつけられたTシャツとタオルを両手でキャッチして、タオルの繊維に鼻先を埋める。冷える汗に、熱のない吐息。日生は光のない瞳をパタンと閉じて、濡れたワイシャツを脱いで地面に落とした。
シャツを蹴る爪先に、心地好いサウンドのリズムを刻む爪先が触れる。
◇
魂を焼きつけることの叶わなかった空は、自分だけの特別になるはずもなく遥か上から地上を見下ろす。その最底辺よりも少し上の窓際の席で、日生は顔面を突っ伏し微睡んでいた。
(あいつらの音、未完成だけどよかったな)
(混ぜてほしいって言っても、無理だろうけど)
眠りと覚醒の間を心地好く漂う意識を、一刀両断する衝撃音。
ビクッと肩を跳ね上げた日生は、顔面に貼り付いた髪をブルッと振って避けてから顔を上げる。
「んぇ?」
「……やっと見つけた」
「は……?」
ぼんやり見上げた先の視界。強烈な光を浴びたような錯覚が起きて、思わず目を細めた。目の前の相手は日生のリアクションに怪訝そうに顔を顰めて首を傾げる。
些細な仕草に色素の薄いグレーベージュの直毛が揺れる。透ける前髪に均整の取れた大きな瞳。一切日に焼けていないような白陶磁の肌にガラス窓からを通り抜けた日の光が差して、輪郭が白く光って見えた。
「すっげー、美……」
「つかお前、軽音部入っとけよ。探すの手間取っただろうが」
「うーわ、口悪」
「シンプルな悪口漏れてんぞ、オイ」
美しい造形を躊躇なく歪め、彼はハァと溜息を吐いた。体を起こした首元に白いヘッドホンが掛かっている。ワイシャツの袖から覗く腕は華奢で、女の子だと言っても通じるくらいだと思った。
「俺のこと探して来たってことは、何? ご依頼ですか?」
日生は目を伏せて言いながら、ポケットを漁ってスマートフォンを引き抜く。ロックを解除してアプリをタップ。表示させた画面を彼の視線の先に晒した。
相手は軽く顎を持ち上げて、目線だけで画面を見る。
「なんでも屋……」
「文字通り、ね。お困りごとなら何でもお受けしますよ。もちろん対価はいただくけどね」
「ふぅん」
相手が首を傾ける動作で、細いストレートヘアが揺れて流れる。光を反射して煌めく艶はやはり眩しくて、日生は吐きかけた溜息を呑んで目を細めた。
「金払える?」
「いくら?」
「まあとりあえず、これくらい?」
日生は彼の視界に5本指を開いて見せる。彼はフムとひとつ頷くと、ポケットを漁って1枚の硬化を投げてよこした。金とも銀ともとれる、鈍い光沢を放つ大きめの丸。
「……500円」
「んだよ、払っただろうが」
「まあ、はい。とりあえず10分ね。話聞きますよ」
日生は掌に500円玉を包むついでに腕時計の数字を確認して、椅子を引いて立ち上がる。彼は日生がついてくる素振りを見せると、即日生の席から離れて歩き出した。
「そうだ、名前は? 美少年くん」
「月永藍」
「え、芸名?」
「頭沸いてんのか? 一般人だよ」
「ほあー、キレーな名前ね」
「お前は?」
「ん?」
「名前」
「知ってて俺んとこ来たんじゃないの?」
「顔しか知らない」
「え、どっかで会った?」
「会うのは初めてだろ。名前言えよ」
「ああ、うん。葛西日生」
「ふぅん」
日生より頭ひとつ分低い身長。右巻きのつむじを眺めながら行く手を進む。廊下の端まで来た藍はフラッと視線をさ迷わせ、立ち入り禁止の鎖を跨いで埃が積もった階段を昇っていく。
「ひと気のないとこ行くねえ」
「聞かれたくないからな」
「え、ヤバイ系?」
「別にヤバかねえよ」
ハァと呆れたような息を吐いて、突き当りまで昇り切る藍。鍵のかかった屋上に続く扉の前に、古い体操マットや机や椅子などの廃備品が積み上がった物置のような場所。人の侵入でフワッと舞い上がった埃の粒子を掌で払いのけ、日生はコホッと空咳をした。
「で、何をしてほしいって?」
「これ聞いて」
「ん? ああ」
手渡されたレスイヤホンの片方を受け取り、表示を確認して右耳につける。視線で合図を送ると藍は小さく頷いて、手元の音楽プレーヤーを操作した。
耳に流れ込んで来たのは未完成のような曲だった。背景の音が混じる空間に、ピアノの生音が聞こえて、そこに男性ボーカルが歌詞のない音を乗せていく。
「デモテープ?」
「曲は完成してるよ」
「はあ、そう」
完成している、という言葉に集中し直す意識。日生は瞼を伏せて、余計な力を抜くためにフゥと緩く息を吐いた。録音環境が悪いだけで、一音一音は計算された場所にハマっていくイメージで聞くと、見え方が変わる。
「いい曲だな」
瞼を閉じたままだったから、藍がどんなリアクションをしたかは分からない。けれども微かに息を呑む気配を察して、反応は正解だったと密かに胸を撫でおろした。
「……10分って言ってたな? すぐやる。俺に合わせろ、できるか?」
「んぇ?」
曲の終わりは、音源であるスマートフォンを手にした藍の方が熟知している。プツッと分かりやすく途切れる音を立てて止まった音楽に顔を上げ、日生はイヤホンを返しながら逆光の中に立つ藍に視線を向ける。軽く脚を開いて、胸の前に手を当てる姿勢。半分瞼を伏せてみせる表情に、彼の纏う雰囲気が変わった。
「ちょ、ま……待ってな、うん、うん」
藍の意図を察した日生は、聞いたメロディーを反芻して体にリズムを刻み込む。一度聞いたものは大体記憶できる。音楽は特に。日生は自負を胸の内で唱えて、フゥと整える息を吐いた。
「オッケー、いける」
「じゃあ」
スゥ、と吸い込む息の音と、光の柱を待っていた粒子がフワッと浮き上がり白い光を躍らせる一瞬。さっき聞いたのには添えられていなかった言葉が音楽を奏で、曲になって脳を震わせる。
(うわ、上手いなこいつ)
空気を震わせる音は、腕の産毛を逆撫でゾワリ浮かせた。ピアノの旋律はないのに、一音もずれることなく紡がれるメロディー。ドッドッと勝手に湧き立つ心音に、詰まる息を意識して吐き出した日生は、藍が紡ぐ音に絡めるように、声を旋律に乗せた。
聞いたばかりの歌詞はよく分からないので、直前に聞いたフレーズを追いかけるように重ねていく。言葉に引っ張られて微妙にズレは生じるものの、上手く溶け合う瞬間もあってその度にカッと内側が湧き立った。
いつの間にか視線を交わし合っていて、日生は真正面から藍の歌声を受け止め、その歌を自身の声で包んで返した。
程度は加減して、突き抜けないように。気持ちよくなる直前でギリギリのセーブをかけながら。
即席のセッション。噛み合う波長の心地よさが、高い位置から差し込む光の色に染まるようで、堪らない。
「……いいな」
「そ? よかった」
ドッドッと内側を叩く心音も、指先までブルブル伝わる震えも、いったん意識の外に置く。日生はフゥと長く鼻から息を吐いて、一度瞼を伏せてから藍に視線を向けた。
「はい、時間切れ」
パチンッ、と。日生が両手を合わせて慣らした音で、光の柱の中の粒子がまるで逃げまどうように乱れる。音と同時に大きく見開いた目で日生を見上げる藍も、呆然とした瞳を日生に向けた。
「続きはまた、金持ってきて」
膨らんだ気持ちを自ら萎ませる悪手を犯している自覚は持ちつつ。
藍は長い睫毛を2往復させ、薄く開いていた唇をクッと小さく噛みしめる。
「絶対」
ひとつ下の踊り場まで降りたところで、藍がそう呟くのが聞こえた。日生は階段を降りかけた足を止めて、藍と視線を交わす。睨みつけるような強い視線に柔らかな笑みを返して、日生は階段のステップに足を下した。
痺れた余韻の残る頭を揺らして、吐き出す息に熱を乗せて逃がす。ジワッと汗の滲んだ首筋を撫でて拭って、スゥハァと密かに深呼吸をした。
「……気持ちよかったな」
あの、文化祭の時のように。バラバラで噛み合わない音を、日生の声で繋いで調和を生んだ時の快感。それよりももっと自然で、楽に、ぴたりと噛み合い重なり響く、音楽。
日生は数分の内に体に馴染んだ曲を微かな鼻歌に乗せて、階段を降りきった。
◇
「いや来ねえ……」
「なにが?」
前髪クリップで全開にされた顔面を強い西陽が容赦なく照らす。日生の背後にいた位置から目線の先に入り込んだ篠原万里奈の行動のお陰で、日差しが遮られた。日生は焼かれた瞳を閉じて体を起こし、背もたれに背中をノシッと押し付ける。
「依頼主がなあ」
「なんでも屋の仕事? そういやヒナ、最近あんまり受けてないらしいじゃん?」
「いやそれはこの前の奴が低評価つけて嫌がらせしてきてるから……」
「ああー……だから音楽系の依頼はやめとけって言ってるのに」
「俺だって最初断ったよ。それでも10出すって言われたらさあ、受けるじゃん」
「報酬きっちり払ってもらってんでしょ? 本音では感謝してんだって。悪い噂なんてすぐ消えちゃうよお」
「まりりん優しいー……付き合って」
「え、絶対イヤ」
「てめ、人の彼女口説いてんなよ」
「痛てえ、痛てえよお」
背後から肩を掴まれユサユサと大仰に揺すられる。後ろに首を倒して見上げた先に、大河内亮太が日焼けした顔に白い歯を覗かせ肩に圧を掛けた。
「りょーちん! マジで肩逝くって! イッちゃう!」
「おらイケ!」
「ヤラシーってさあ、2人とも。ヒナなんか凹んでるみたいだし、亮太も手加減してやんなよ」
「なに、ヒナ凹んでんの? 相手の子可愛かったとか?」
「んあー……まあ、超絶美ではあったけど、男」
「そんな美な男子うちの学校にいたっけ? 面食いのヒナが言うんだから相当だよね?」
「いつ俺が面食いなんて設定ついた?」
「割と有名じゃん。んー……万里奈の情報網に引っ掛かってくる子はいないんだけどな。どういうタイプの美?」
「髪色薄くて独特で、目がデカくて睫毛も長い。体型は結構華奢な感じで、あとすげー色白」
「なぁるほど? あ、ねえ、これは?」
淡い水色のネイルでスマートフォンをスクロールさせていた万里奈は、タンッと画面を叩いて画像を表示させ日生の鼻先に向ける。
学内用のSNSの投稿画面。恐ろしくブレた画像で、ガラス窓の隙間から盗撮したような画角だった。
「……ぽい、な」
「マジ、当たり? やったあ」
「まりりんの検索能力と勘って本当すげーよな。これ歩道橋近くのコンビニっしょ? 俺行ってくる!」
「いってらっしゃーい」
ヒラッと手を振り重い瞼を瞬く万里奈。亮太は空になった椅子の脚をカタカタ揺らして、日生の後ろ姿を見送った。
「大丈夫かね、あいつ」
「亮太、なんか心配?」
「あいつがなんかに集中して回り見えなくなるときって、大体音楽が絡んでんじゃん。今のもそうなんじゃねーかなって」
「あり得るねえ……。さすが、ヒナに関する勘だけは冴えてんね、幼馴染くん」
「お前もだろーよ」
「そうでしたあ」
のんびりした口調で言って、万里奈は窓から校庭を見下ろす。走っていく日生は、すれ違う人に声を掛けられて何事か会話を交わしながらも焦った様子で校門を抜けた。
「お人好しで、お節介なヒナちゃん。器用なのに不器用で、いっつも燃え切らないまんまで。ヒナが思いっきりやれる相方に出会えたらいいよねえ」
「あいつん中でほぼほぼ答えは出てんだろうけどな」
「この間も爆発してましたもんねえ」
第二関節まで覆う袖の上から突き出た指を2本揃えて。万里奈と亮太は示し合わせようにニヤリと微笑む。
◇
勢いで通過しかけた自動ドアの前で片脚を踏ん張り、流れる体を留めて。気合でもう片方の脚を引き寄せたところで、モーター音を立てて目の前の扉が開いた。
ヒヤリと冷えた人工的な空気が頬を撫でる。日生は暮れかけた野外よりも眩しい店内に視線を巡らせ、目的の人物を探した。独特な髪色はすぐに目について、日生は「あっ」と声を上げつつ彼の傍に近づく。
「月永!」
「ひぁっ、……んだよ」
日生の息が触れたらしい首筋を押さえて、眼鏡のレンズ越しに色素の薄い瞳を向ける藍。日生はフンッと強く息を吐いて、藍の全身を視線でなぞる。彼は制服のスラックスの上にコンビニのユニフォームを着て、学校指定のローファーのままで働いていた。特徴的な顔立ちはマスクと眼鏡で念入りに誤魔化されている。
「なにしてんの、お前」
「見りゃ分かんだろ。バイトだよ」
「バイトって、うちの高校バイト禁止だろ」
「金払えっつったのお前だろうが」
「うっ……、まあ」
「ちょっと待ってろ」
チラッと時計を見上げた藍は、ずれたマスクを引き上げバックヤードに引っ込んだ。日生は藍の行方に目を向けつつ、万里奈に教えられた投稿画面を確認した。該当の画像は既に消されていて、万里奈から「ヤバそうだから投稿主に消させた」という旨のメッセージが届いていてホッと胸を撫で下ろす。
(まあイケメンの目撃情報だけ集めたシークレットスレッドなんて見る人間限られてるけどな……)
故に、対象者を貶める意図はないだろうとは予測してもいるが、念のため。
「お待たせ」
背中をポンッと叩いて、斜め下から視線を向けてくる藍。日生が視線を向けると、藍がクイッと顎を上げて日生に表へ出るよう促した。
コンビニ店舗横の薄暗い路地裏。湿った匂いと色の違う地面。壁面に貼り付いた苔に踵を引っかけ、日生は藍と正面で対峙する。藍はマスクと眼鏡を取って鳶色の瞳を真っ直ぐ日生に突き刺し、日生の胸に封筒を押し付けた。
「ほら、金」
「おま、これ全額……」
「お前に払うためにバイトしたんだから当然だろ。全部持ってけ。それでどれくらい雇えんだ」
「えぇー……」
受け取った封筒の口を微かに開けて中を覗くと、少なくとも一万円札が3枚入っているのが見える。
「30だと、まあ……当分はお前専属だわ」
「マジか!? やった」
藍はパッと顔を輝かせてガッツポーズを決めた。日生はパタッと瞬きをして、無邪気な藍の表情に目を細める。
「んで、俺はなにすりゃいいの?」
「俺と歌え。今すぐ行くぞ」
「え、んぇ、どこに?」
手首を掴んで路地裏から日生を引っ張り出す藍。脚をもつれさせる日生の不格好さに声を上げて笑う様子に、日生は瞬きをしてホゥっと息を吐きだす。
(なんで、こんな目立つ奴のこと知らないんだろう)
「なあ、月永」
「なに」
「もしかしてお前学校でも顔隠してる」
「学校あんま行ってない。担任言われた時と、テストのときだけはまあ行ってるけど、クラスのやつらでさえ俺のこと認識してるやつそんないねーんじゃねえかな」
「はぁ、そうなん……え、普段なにやってんの?」
「歌」
「歌い手さん? 配信者とか?」
「なんだそれ。そんなんじゃねーわ」
「んぇ……じゃあ、どんな」
「これから世に出すんだろうが」
掴んだ手を強く下へ引っ張る力。地下に続く階段のステップに足をかけた藍は、そこからまた強い眼差しを日生に向ける。日生はグンと背を逸らして入口の看板を視界に入れた。
「音楽、スタジオ?」
「音源録んの」
「いや待てお前、こういうとこって使用料高いだろ。金あんの?」
「さっきお前に渡したので全額」
「ねえじゃん! もお……さっき音源録るっつったな? 防音ならいいってことなら、再集合だ」
「あ?」
「いーとこ知ってっから」
日生は唇の端を吊り上げて笑い、立てた親指を背後に向ける。藍は怪訝そうに顔を顰めてハァと呆れたような息を吐いた。
「大丈夫、俺はどこにも行かねえよ
「その言葉、信じるからな」
藍はそう言いながら、強く日生の手首を引いた。不意打ちで階段に引き込まれた日生は、勢いで2、3段階段を降りる。反対に地上まで足を進めた藍は、逆転した高低差から日生のネクタイを掴んで引き上げた。
「お前は俺のもんだから」
「……わーぉ」
日生はヘヘッと苦笑いを浮かべて、藍の強い眼差しから目線を逸らす。
「再集合っていつ?」
「んぁ、ああ。夜の9時くらいに、学校で」
「任せていいんだな?」
「なんなりと。今は俺、あなたの犬ですから」
軽く握った拳を顔の前でニ三度上下に動かして、ワンと一声鳴いてみせた。藍は納得したように頷いて、日生のネクタイを掴んでいた手を離す。
「じゃあそれで」
「オッケー、段取りしとく。お前はお前で必要なもん持ってきて」
「音源いるか?」
「あー……まあ、デモならいいわ。頭の中に残ってるお前の音の方思い出しとく」
「……覚えてんの? あの1回で?」
「ああ、まあね。そういうの得意っつーか、好きな音だと特に、めちゃくちゃ残る」
「ふーん……」
逆光になった藍の白い肌にジワッと赤が滲んだ。日生は藍の態度をジィと静かに観察して、彼の内側を窺おうとする。逃げる瞳を追いかけるように顔を近づけると、藍は鬱陶しそうに掌で日生の鼻先を払った。
「んだよ」
「お前、自分の音楽めちゃくちゃ愛してんのな」
「俺のっつーか……」
「ん?」
「この曲のことは、めちゃくちゃ愛してるよ」
ワイシャツの胸ポケットを握る手つき。掴まれて浮き立つ四角い端末は、1週間前に藍が聞かせてくれた音楽プレーヤーだと察する。日生は青い血管の影が浮かぶ藍の手の甲をジッと見つめ、フム、と小さく頷いた。
「お前はなんか、大丈夫そうだ」
「……なにが?」
「なんでもねーよ。じゃあまた、夜にな」
降りかけた階段のステップを靴裏で押し返して、地下の暗闇から地上へと体を押し上げる。すれ違い様に藍の肩をポンと叩き、キュッと軽く握ってから離した。
行く手に見上げた薄明時の空に、ポツンと小さく白い星影が見える。
◇
「よっ、3時間ぶり」
夜に呑み込まれた世界で、日生は閉じた校門の前にしゃがみこんでいた藍に声を掛ける。藍も昼間と同じ制服姿のままで、眼鏡とマスクは外していた。
「どこ行くんだよ」
「もう来てるっしょ、学校」
「不法侵入?」
「バイトして校則破りしてるお前に言われたかねんだわ。俺のはね、普段からの積み重ねと交渉術が成せるわざなの。ちゃんと許可とってかんね」
「ふーん……」
納得のいかない調子で返事しながら、藍は日生の後ろについて鍵を開けるのを大人しく見ている。
「深夜の学校に忍び込む許可ってどんなだよ」
「忍び込んでねーっつの。まあいうたら、部活動? 愛好会活動? の一環扱いみたいなもんでさ。運動部だって普通に学内合宿とかしてるし」
「そうなんだ」
「興味なさすぎでしょ、お前。それでも生徒個人に鍵貸し出すっつーのは割と特例も特例だけどね」
「やっぱり悪事だろ」
「まあまあまあ」
ヘラッと気の抜けた笑い声に乗せて、日生は藍を伴って校舎に上がり、昇降口を抜けて渡り廊下に入り、特別教室棟を目指す。
「どこいくんだ?」
夜の校舎の空気は、昼に蓄えた温度との落差も影響してかキンッと鋭く冷えているように感じる。静寂の音だけが耳底に貼り付いて、たまにそこに溶けあう自身の足音を聞いてホッとした。
「意外性も何もなくて申し訳ないけど、まあ、ここよね」
最上階まで階段を昇って、廊下を進んだ突き当り。音楽室、と書かれたプレートを指さして日生は言う。
「音源録るなら、防音で、プレーヤーとスピーカーあって、場合によってはピアノとかも使うかなーって、どう?」
「……悪くない」
「ご依頼に添えて光栄です」
噛み合わせの重い二重扉を連続で引いて、踏み入れる室内。円形状の室内は中央にかけて窪んだ造りになっていて、ぐるっと取り囲む席の下にピアノが置かれて、その真上がちょうどドーム状の天井の中心と重なるようになっている。日生は階段状に配置された机の間の通路を降りて、ピアノが置かれた位置まで足を進める。
「ピアノ使う? それともお前の音源流す?」
「使うって言って、弾けんのかよ」
「まあ、多少はね。聞く?」
カタッ、と。微かな音を立てて開く黒光りする蓋。赤いフェルト地の布を取って、並ぶ鍵盤を指先でなぞった。
藍は小さく息を呑んで顎を引き、日生の指の動きを見つめている。日生はフッ軽い息を吐いて、四角い椅子を引き出しそこに座る。
まずは片手で奏でる出だしのAメロ。綺麗な色の鳶色が見開いて、スゥと柔らかく細められた。日生は藍の表情をチラッと盗み見ながら、次々と音を押し込んでいった。
「お前、すごくね?」
「長男だからさ」
「あ?」
「最初の子供ってすげー手かけてもらえるっしょ? 音楽が好きって分かったら、すげーちっちゃい頃からピアノ習わせてもらえてさ。そんで今のベースができたわけだけど、弟妹が生まれてきたら俺だけ特別じゃなくなるだろ? むしろ下の子たちに譲って、俺は俺の意志で大事なもん守ってかなきゃってなってさ。んでも、父親が死んじゃって、母さんひとりになって、そんな悠長なことも言ってらんなくなってさ」
「そんで、金とってんのか」
「まあねえ。うちの高校バイト禁止だし。器用に育ててもらった分、恩に報いて存分に利用して返してくのが筋ってもんでしょ」
「でもそれが、枷になってんだろ」
日生の指が止まる。空気を震わせる余韻をそのままに、日生は薄闇の中で藍を振り仰ぐ。
「お前の噂聞いた。器用で何でもできるからなんでも屋の評判はいいけど、音楽関係ではトラブル起こすことが多いって。ひとりで暴走して余計なアレンジ入れて主役を食うとか、主張が激しいとか、そんな」
「言葉では一言も言ってないし、コミュ力高いほうなんだけどねえ、俺」
「自分の音楽をやりゃいいのに」
「そんな余裕ないでーす」
「そんで他人のフィールドに金貰って踏み入って、めちゃくちゃにしたらそりゃ評判悪くても文句言えねーだろ」
「毎回じゃないって」
「そんでも、抑えられないんだろ」
フッ、と。長く引いていた余韻が途切れた静寂に、ポツリ落とされる静かな声。日生はジッと、色のない視線を藍に据えた。
「俺と合わせた時もセーブしてただろ、お前」
「セーブしなかったら、お前のこと食っちゃうよ、俺」
わざと歯を剥き出しにして、顔の横に爪を立てた掌を置く。ガウッと吠える音を立てるが、藍は冷めたリアクションしか返さない。
「試してみろよ」
言いながら、藍は制服の胸ポケットから音楽プレーヤーを取り出し、イヤホン端子を外してピアノの上に置いた。日生は椅子から立ち上がりつつ、自身のスマートフォンを操作して、録画を起動してから画面を伏せて藍が置いた端末の傍に並べて置く。
「気持ちよくしてやるよ」
「えっろ」
スゥと形の良い唇の内側を撫でる淡い色の舌先。濡れた先端が唇に濃く色を添えるのに興奮気味の吐息を吐いて、日生は藍が先に繰り出したソロパートに自身の声を合わせた。
以前、階段で交わしたセッションよりも深く、肌がビリビリと焼かれるように思う感覚。神経を裂かれ、細かい電流が走りぬけるような心地好い痛み。心臓がゾワゾワと音を立てて沸き立って、息継ぎの度に肩が大きく跳ねる。
高い天井をグルッと巡るように高く、遠くへ響かせる声。声量同士はぶつかり合って、溶けあって、心地好い音楽になる。湿った毛先から汗の雫が飛んで、木目の床に落ちて濃い色の染みを作った。曲の終わりでフッと力を抜いて、膝に手を置き項垂れる。
「……っ、はぁ……どーよ、イッたかよ」
「やっぱ気持ちよくしてやるってそういう意味で言った? おー、軽くイッたかもな」
日生はピアノに寄りかかって、録音状態のままだった端末の赤いボタンをタップした。
「録ってた?」
「おうよ。この形でいいんかしらんけど、一応録れてんよ」
「じゃあ送ろうぜ」
「いや待て待て。前後切ったりしないと。俺らがイクイカネーの話してんのも入ってるから。つか、送るってどこへ?」
「なんでもいい。どこか、たくさんの人に届くところへ」
「……ほーん?」
日生は前後を切って曲部分だけにしたデータを再生しながら、音域の形に振れて美しい図形を描くパルスを眺める。
「このままで、いいかも」
「え?」
「バズるだけならな。でも、どうせならコンテスト系に送るか?」
「分かんの? そんなの」
「まー、調べれば……つーか、お前も学校こないで歌ってんだったら、こういうこと調べ尽くしてないの?」
「ネットとかできないし。スマホ持ってない」
「はぁ? ああ、うん。確かにな。音楽流すのにプレーヤー使ってる時点でそうだろうとは思ったけど。じゃああれだな、お前はお前のやりたいことのために、俺に出会えてよかったってことだ」
「調子よすぎんだろ」
「事実じゃね?」
検索で探し出したコンテストで、締め切りが近く音源の送付だけでエントリーができるものを見つけて切り出した動画をアップロードする。緑色のバーが左から右へ満ちていくのを眺めながら、日生はフゥと淡い息を吐いた。
「依頼完了?」
「んなわけあるかよ」
「ですよねー。お、送れた」
パッと光った画面を覗き込んで来る藍。
「ここ、グループ名なんて書いた?」
「放課後音楽室」
「まんまかよ」
「いいっしょ。刹那的で、なんか」
「まあな。容姿とか、名前とか、そんなんどうでもいい」
「……うん。なあ」
「ん?」
「お前は? 気持ちよかった?」
「おー」
ニィと形の良い唇の口角を上げて、藍は眩しい笑顔を浮かべる。気持ちいと感じるレベルまで本気を出しても、飲まれなかった。日生はピアノの上に投げ出した指先を、同じように投げ出された藍の指先に重ねかけて、躊躇って引っ込めた。
「このまま、俺のものになれよ、お前」
「は?」
鳶色の瞳に星空を抱くガラス窓を映して、藍は真顔のまま声を零す。日生はグッと強く唾を呑んで、ハァと長く息を吐いた。
「お前金ねーじゃん」
「稼げるようになればいいだろ。俺とお前で」
「夢みてーなこと言ってんなって」
「なんで、本気だけど」
「はあ……」
「この曲は本物だから」
「なあ、この曲作ったの、誰?」
ようやく、窓の向こうから日生の方に戻ってくる目線。藍はパタッと瞬きした後で、柔らかく微笑んだ。
「明日付き合えよ。会わせてやるから」
「……ふーん?」
ピアノの上に頬をつけたまま、2人。顔を見合わせ視線を交わして、貼り付いた後を残して体を起こす。
「じゃあ明日も、放課後?」
「ああ、そういうことで」
視線を交わして、音楽室を出る。響いた音の余韻がまだ残っているようで名残惜しく、日生はフゥと短く息を吐いた。
「お前スマホないの不便な。連絡とれねーじゃん」
「ああ、でもお前は俺を見つけんだろ。今日だってそうだったし」
「お前ねえ……とりあえずちゃんと学校来とけよ」
「明日はまあ、行っとく」
「お願いしあす」
クァと欠伸を吐いて、職員室に入り鍵を返してから、守衛に挨拶をして学校を出る。校門で別れてそれぞれの帰路につく間、日生は耳底を震わせる音楽の余韻にキュッと固く目を閉じる。
「このままずっと、ねえ……」
ポツッと呟いた言葉は、なんの形を成すこともなく夜の空気に紛れて消えた。
ドアを見下ろすように照らすライトが点る玄関先。取り出した鍵で解錠し、ポーチにひしめく靴群れを避けて自身のスニーカーを脱ぐ。
シンと静まり返った空気に微かに混じる寝息の気配。日生は足音を潜めて洗面所に向かい、手洗いと着替えを済ませてリビングに入る。ダイニングテーブルにはラップのかかった夕飯とメモが置かれていて、日生はメモを手に取り文面を視線でなぞりながら、食器の置かれた席に座る。
メモ書きは母親からで、夜勤に出るので弟妹たちを頼むというものだった。日生ははいはい、と届かない返事をして、冷えたまま夕飯に箸をつける。
ぼんやりと暗闇に沈む部屋の奥に視線を置いていると、一点に集まる消失点の先に、自身の将来も押し込められるような錯覚を覚えた。
(まあ実際は、なにも言われてねーけど)
なんでも屋稼業で得られる金額は微々たる額でも、ないよりはあったほうがいい。日生はポケットに入れたままだった藍の給料袋を取り出し、伏せたメモの上に重ねて置いた。
(俺の都合でやめるわけにいかねーよなあ)
折角育ててもらった能力で、今できる精一杯を尽くして返す。下の弟妹たちが得られなかった分の幸福をすべて、独り占めすることがないように。
繰り返し備えてきた戒めを再び心に刻んで、日生は完食した食器を重ねて席を立った。水の溜まった洗い桶に食器を滑り込ませ、スポンジに染み込ませた洗剤を握って泡立てる。
「夢見れんのは恵まれたやつだけだって」
(才能みたいなものや、意欲があったところで)
本気で、何十時間も練習しているような人たちと比べたら許せない半端さだろう。
本気で、好きだから。本気で賭けられないのが、歯痒い。
「ぜーたくな悩み」
キュッとノズルを締めて水流を吐き出させた蛇口の先に、泡をつけた食器を差し出し洗い流した。スゥと透明に張る水の膜が、弓なりの線を引いて平らな表面を滑り落ちる。ポタッと落ちる雫を揺すって散らして、水気を切った食器をカゴの中に立てかけた。
◇
「チャリで来いっつったの、そういうことかよ」
「なんか文句あんのか?」
「ありませーん!」
ギッ、ギッと、踏みつぶす勢いで漕ぎ出すペダル。全体重をかけて踏み込みながら、後ろに乗せた藍が落ちないように絶妙なバランスも保つ。
「バス乗る金ねーし」
「なんでも屋のフル活用しますねえ、さすが依頼金30のVIP様ですわ」
「一週間の労働の対価にしちゃ悪くない」
「そーすか」
ギッ、ギッ、と鈍い音を立てながら昇り切る坂道。緩やかな下り傾斜のついた道に、軽くブレーキを効かせながら車輪を走らせる。
「この先のでけー白い建物な」
「あ? お前それ、病院じゃね?」
「そーだよ」
フッと軽い吐息に乗せて返された言葉に、日生はグッと喉を締めた。病院の駐輪場に自転車を停めて、先を歩く藍の後ろについて建物に入った。受け付けで手続きを済ませ、首から下げるネームタグを受け取り入院病棟へと足を踏み入れる。
「病院って滅多にこないかも」
「そうか?」
「ああ、父親が死んだとき以来かなー」
「ふぅん」
気を遣わせるかとも思ったが、藍はそんな素振りは一切見せずに廊下を進んだ。やりやすい相手だ、と判断した日生も、肩に入れかけた力をフッと解いて藍と歩調を合わせる。
一番端の病室の前で停まった藍は、コンコンと2回白い扉をノックした。病室に入る前に視界に入れたネームプレートには「月永」の名前が見えた気がする。
「叔父さん」
藍の一声で関係が知れる。目隠しのカーテンを払って覗き込んだベッドには、藍とよく似た顔立ちの男性が体を起こして座っていた。
「藍。……そちらは?」
「同じ学校の葛西。一緒に音楽やってる」
「どうもっす」
「こんにちは。月永千晃です。藍がお世話になってます」
丁寧に頭を下げられむず痒い想いがした。ベッドサイドに立ったままでいる日生を放置して、藍は楽しそうに千晃に向けて話しかけている。
「あ、葛西くんも座って」
「あ、大丈夫っす。俺、なんか飲み物買ってくるんで」
愛想笑いを浮かべて、仕切りカーテンの外に出た。不意に藍が言った「この曲のことはめちゃくちゃ愛してる」という言葉を思い出す。
「そういうこと? か」
赤く光った商品ボタンを押して、ガコンッと派手な音を立てて転がり落ちるペットボトルを手にとって、湿った表面に額を押し付けた。ツゥと伝う雫の生温さが不快で、思わずため息が漏れる。
日生はそのまま病室に戻ることはせず、廊下に置かれたベンチに座って時計を眺めていた。長針が半周したところで傍らの空気が動き、日生と反対向きの姿勢で藍が隣に座る。
「なんで戻って来ねーんだよ」
「邪魔しちゃ悪いかなって」
「空気読むじゃん」
「否定しろや。会わせてやるって言ったくせに」
「なんでお前がちょっと不機嫌なんだよ、ウケる」
「お前はご機嫌だな」
「なあ、それ頂戴」
「間接キスなんですけど」
「イカせあった仲だろうが」
「外でそういう発言しないでくださーい」
棒読みで返しながら、日生は躊躇いなく飲みかけのペットボトルに口をつける藍の横顔を眺めた。伏せられた長い睫毛が震えて、伏し目の角度がなんとも言えない色気を湛える。
仄かに赤く染まった頬も、緩んだままの口元も全部、誰かへの好意。
「お前があの音楽を外に出したいのって、あの叔父さんのため?」
「そうだよ」
真っ直ぐ、即答で返された返事に胸がヒリつく。
「俺の音楽は全部叔父さんにもらったもんなんだ。叔父さんさ、音楽が本当に好きで、生み出す音楽もすげーのに、体弱くて人前で歌うことできなくて。楽曲提供の道とかも探ったんだけど、ゴーストライターみたいなことに利用されそうになってさ、俺がバトッて潰したんだ。そしたら相手が割と業界に幅きかせてる人で、どの業界からも締め出されちゃって……俺のせいで」
口を離したペットボトルの端を爪で弾きながら、藍は瞼を半分下ろして自嘲気味に呟いた。日生はそれ返して、とも言えないまま、藍の横顔をぼんやり眺めた。
「だから、俺が証明すんだよ」
「ふぅん……」
日生は掌に残ったキャップを弾いて、小さく息を吐く。
「モチベは下がるけど、料金分の仕事はするよ」
「なんで下がんだよ」
「あの顔、俺にも向けてくれたら報われる気がすんだけどなあ」
「はあ? どの顔だよ」
「まあ、本気でなりふり構わないってんなら、持ってるもん全部使えばいいんじゃねーの?」
「あ?」
「来いよ」
日生は藍に向けてキャップを投げ、出口に向かって先に歩き出す。藍は片手でキャップをキャッチして、飲み口に嵌めながらついて来た。
「この間みたいな感じでいいから、顔出して動画撮ろうぜ」
「……なるほどな」
「俺に任せとけよ」
◇
「イケメンって正義なんだよなあ……」
「わたしのマーケティング能力も褒めてくれていいんだよお」
「俺の編集技術もなあ」
「はいはい。感謝してますりょーまり最高」
「まあでも、これはお前もスゲーよ、ヒナ」
日生が両手の指を添え支えていたスマートフォンを取り上げて、動画を眺めながら亮太が言う。病院の敷地の一角を借りて撮影した動画を、亮太の手を借りて編集し、万里奈の情報網を借りて拡散した。動画のクオリティが高いことも手伝ってか、2人の歌唱動画の再生数は万単位で伸びていた。
「本物の力ってやつ」
「まあ、世の中で一番強いのは数字だからさ。匿名で出してる分には文句言えないとこまで伸ばせるんじゃねーの」
「うん……」
「うかねーじゃん?」
「うん? うーん……うん」
「お前もな、すげーって言ってんの」
「俺は……まあ、ね」
「あ、電話」
「んぇ?」
数字が表示された画面が見えるように差し出して来る亮太。日生は亮太からスマートフォンを受け取って電話を受ける。
「はい。え、動画? はあ、俺ですけど……え、ああ……はい、はい……ああ……」
一方的なペースで話す相手の声を聞き切って通話を切った日生は、黒く染まる画面を呆然と見つめて息を詰めた。亮太と万里奈は顔を見合わせてから日生の表情を覗き込む。
「誰から?」
「なんか、偉い人っぽい人」
「うぇ、ヤベーやつ?」
「ヤベーやつかも。月永んとこ行ってくるわ」
「いってらー」
ポケットにスマートフォンを捻じ込んで、教室を出て行く日生。
「なんで電話とかメッセ送ったりしないんだろうね」
「なんかあれ、月永ってスマホ持ってないらしい」
「え、マジ?」
日生は廊下を速足で進み、藍のクラスの後ろドアに立って教室内を見回した。
「月永!」
日生の声が通り抜け、教室の空気がザワッと粟立つ。窓際の席で顔を伏せていた藍は、日生の声に顔を上げ、鳶色の瞳を瞬かせた。
「来いよ」
「ああ」
窓から差す光の全てを真っ白なシャツに吸収したように。妙に光って見える体を揺らして藍が日生の元に近づいてくる。日生は詰まる息をゆっくりと吐いて、藍の腰を抱き寄せ廊下に出た。
「調子悪そうくね?」
「学校好きじゃねえんだよ……やたらとみられるし、話しかけられてウザい」
「誘蛾灯みたないもんかね」
「お前何気ひでえな?」
「別にみんなのこと蛾だと思ってるとか言ってないでしょーよ」
「ほぼ言ってんだわ。で、何だよ」
「なんか、偉いとこから連絡きた。動画見たって」
「マジか」
藍は廊下の真ん中で足を止め、興奮気味に瞳を輝かせる。日生はフゥと短く息を吐いて、ぶら下った藍の手首を掴んで立ち入り禁止の札が掛かる階段へ引き込んだ。
初めて藍と対峙した場所。初めてあの曲を聞いて、2人で声を合わせた場所。
「世に出せんのか? あの曲」
「曲、じゃねえな」
「は?」
「俺らのビジュと声がいいって。曲は変えるかもっつーんだけど、どうする?」
「受けるか、そんなもん」
「……言うと思った」
「お前は不満か?」
「なあ、月永」
「んだよ」
「お前は叔父さんのこと本物だっていうけど、俺のことはどう思ってんの?」
「……あ?」
「俺と、音楽やらね?」
藍は大きな目を零れそうなほど見開いて、日生の表情と差し出された手とに交互に視線をさ迷わせた。日生は自身の発言の真意を上手く固めきれないままでも、辛うじて視線だけは藍の瞳に据える。
藍は鳶色の瞳を揺らして、ハァと温い息を吐いた。
「お前と、そこまでの絆は、結んでねえだろ」
「叔父さんには勝てないってことか」
「俺が歌う理由はそれだから。ブレない」
「俺の歌は、魅力的に思えない?」
「……っんだ、よ……そんな……の」
「選んでよ、俺を」
「はあ……?」
戸惑う藍の様子は分かっているのに、日生はさらに彼の方へ手を伸ばした。藍はグッと控えめな喉仏を上下させ、強い眼差しを日生に向けた。
「お前、そこまで俺に興味ねえだろうが」
「お前に選ばれたら、一途になっちゃう」
「んだそれ……」
「なあ月永、曲作ろうぜ」
「んだよ、いきなり」
「お前が叔父さんを捨てらんねえって言うなら、叔父さんから教えられた技術とかノウハウとか感性とか全部詰めて、お前が受け継いで、全部イチから作ったらいいじゃん。そんで認めさせたって、いいんじゃねーの? あの曲がそんな大事だっつーなら、大事にしとけ。それ以外のお前の全部、出せよ」
「お前もそこに付き合うって言うのかよ」
「いいぜ、それなら」
「……分かった」
覚悟を決めた表情になった藍は、その場にドカッと座り込む。藍はフッと柔らかく笑い、スマホの録画ボタンを押した。
「思いつくフレーズ、何でもいいから歌って」
「そんなんで出来んのかよ」
「わかんねーけど、フレーズ譜面に起こすくらいならできるし」
「それってすげーことなんじゃねーの?」
「今さら気づいたのか? 俺って実はスゲーの。最高の仲間も貸してやんよ」
「仲間……」
「最愛の人間がいたってなあ、それ以外が全部光ってねえわけじゃねえんだよ。お前はもっと世界を知れ、世界と出会え。叔父さんの音楽だけに浸ってんじゃねえよ。そっから世界を見てみろよ。やべーくらい光って見えんだろうよ」
「……スゲー自信だな」
「お前を振り向かせようっつーんだから、必死にもなんだわ」
「熱烈な愛の告白かよ」
「分かってんなら返事考えとけよ、ばーか」
日生はインカメラにした画面を藍の方に向け、藍の姿を映した画面に進んでいく録画の数字を見せた。藍は画面に映る自分に苦笑いを向け、天井を仰いで鼻歌を紡ぐ。
日生は瞼を伏せて、藍が紡ぐフレーズを頭の中で追った。部分から、全体を描いて、繋いでいく。一番得意な作業。
「……いいじゃん、そのまま」
「マジか。スゲー」
「惚れろよ」
「考え中だな」
鼓動が速くなる。藍の紡ぐメロディを体に仕舞って、そこから新しく生み出す感覚。ブルッと背中が震える感覚。腹の奥がゾクゾクと湧き立つ感じ、日生はハァと深く息を吐いて、録画ボタンを止めた。
「おっけ、こんだけ材料あればなんとかする」
「……本当に」
「叔父さん超えるから」
「簡単に言うなよ」
セリフと噛み合わない笑顔を交わして、宣戦布告。音楽への想いが溢れる、生み出したい音がと気持ちが、爆発する。
「絶対超えるから」
◇
開け放した窓から吹き込む風が頬を撫でる。晴天続きの空の向こうには、ジワッと不快な湿気をつれて夏が滲んでいた。
窓際の席に突っ伏す白い背中に近づき、グレーベージュの細い髪にソッと添わせる指先。形のいい輪郭を露出させ、凹凸にソッと差し込むイヤホン。
ヒクッと身じろぎした背中に目を細めて、日生はフゥと短く息を吐き、再生ボタンを押した。白い数字のカウントアップ。自身の体に染みついた展開を思い描いて、体が揺れる。スゥ、ハァ、と、呼吸を乗せる。浮き上がる爪先が床を蹴って踊った。グッと詰まる息で、呼吸が苦しくなった。もうすぐいっぱいになる白いバー。身じろぎした背中が起き上がる。
振り向いた視線の美しさに息を呑んで、日生はフッと柔らかく笑った。
「……どうよ?」
「俺を殺す気か、お前」
「どういう意味だよ」
「好きすぎて苦しい」
「うーわ」
緩む頬の抑えが効かないまま、日生はにやけた顔をそのまま藍に向ける。
「ライバルくらいにはしてもらえる?」
「……んだな。バトッて、俺のことものにしてみせろよ」
「火ぃつけられちゃったから、覚悟しろよ」
日生はスマートフォンを操作して、画面を藍に示す。なんでも屋のアカウントだったはずのプロフィールは、「放課後音楽室」に名前を変えていた。
「それお前ひとりじゃねーんだわ」
「正式加入ですかあ?」
「お前が言うなよ、バーカ」
目尻を窄めて、頬に赤を滲ませ愛しく笑う表情。日生はギュウと胸が詰まる思いを覚えつつ、藍が差し出した掌に自身の掌を重ねた。
吐き出す吐息が熱く、胸を焦がす予感。焼き付けろ、想いを。本気で走り出せ。
《END》
吐き出す熱気が魂の形を成して、見上げた空に焼き付けばいいのに。強く頭を振る反動で、湿った髪の毛先からパッと弾け飛ぶ汗の雫。瞼に落ちる水滴を瞬きで飛ばして、ステージ下の熱狂に視線を向けた。
グッと膝を曲げて体重をかければ、鈍い音を立てて抜けてしまいそうな薄いベニヤ板の床。反動をつけて爪先で弾くと、それは手拍子を促す合図に変わる。周囲の音を聞いて、微妙に変化させる指運び。ドゥドゥと腹の音を突き上げるベース音に体を揺らしなながら一番いい音域を探って、掻き鳴らす音を溶け合わせた。
(っとに、下手くそ)
思わず零れそうになる苦笑を喉奥へ押し込んで、葛西日生は長い前髪の内側に表情を隠した。とはいえ、いま立っているのは学園祭のステージ。青春は懸けていても、誰も人生は懸けていない。客席で湧く生徒達もただ流行りの曲に合わせてノリを合わせることを楽しんでいるだけで、誰もメインボーカルの彼の歌声や、周りの演奏なんて真面目に聞いてやしない。
(楽しけりゃいい。楽しけりゃ、いい)
フツフツ、フツフツ。胸の底で遠慮がちに顔を覗かせる欲望。
瞼を伏せた視界に、出鱈目なパルスの幻影が見えた。ぐちゃぐちゃに絡んで噛み合わないサウンドの隙間を繋いで、1本の線が駆けて行くビジョン。
(見えちゃった、な)
日生は薄っすらと瞼を開き、曲が終盤に差し掛かっていることを確かめ、閉じていた唇の隙間をハッと開いた。
(少しだけ)
唱えた勢いに乗せて、解放する一線。ドクンと跳ねる心音で、目の前がパァと鮮やかに開ける。ビリビリ走る興奮物質。視界に星が瞬いて、脳が音を立てて回り出す。
頭に描く1本選に乗せて、すべての音を繋ぐ旋律を声で紡いだ。客の空気が少し変わったのが分かる。ザワッと漣のように湧き立つ気配。日生はわざと客席から視線を逸らし、俯いたまま言葉にならない音を乗せた。
最後の1音を紡ぎ切ったメインボーカルの彼は、マイクを握って肩で息をしたまま、ジッと日生を見ている。日生は顔の前に掛かる前髪を掻き上げ、彼に向ってヘラッと笑い、手を振った。
ワァと、打ち上げ花火のように湧く歓声。この日一番の盛り上がりを勝ち得たステージの裏で、バチンッと湿った肉にぶつかる殴打音が響いた。
「ちょ、おま落ち着けって」
歓声は幕を隔てた向こう側にあって、遠い。周りをシートで囲ったテントで誂えられた出演者の待機場所は、剥き出しの地面付近が一番冷たくて快適だった。殴り飛ばされ尻もちをつきながら、日生はそんなことをぼんやり思う。
日生の顔面を殴った男子生徒の腕を掴んで宥めつつも、バンドメンバーは全員彼の味方だと言わんばかりに、彼側に控えている。
日生は切れた口内に滲む鉄の味を噛んで、口の端を拭いながら体を起こした。
「んだよあの最後のアレンジ。俺らのこと全員食いやがって……バカにしてんのか、お前」
あくまで仲間たちに周囲を固められた立ち位置を維持したまま、彼は強気に吠えながら地面を蹴る。飛んで来た小石を顔を背けて避けつつ、日生は再び力の抜けた笑みを向けた。
「盛り上がったんだからよくない?」
「……っ、二度と呼ばねえ!」
彼は吐き捨てるように言って、日生の足元に札を投げ捨てる。勢いをつけて叩きつけるはずだったそれはヒラッと力なく地面に落ちて、日生は起き上がり様にその端を指先で摘まんだ。
「毎度ありぃ」
日生は札についた土埃を弾いて落としてポケットに入れ、ステージ裏のテントを出た。やたらと目を焼く陽光に目を細めて、フラッとステージの傍から離れる。
「だって、すげー可哀想だったじゃん」
なにが、音が。爆発できるのに、できなくて、燻ってたから。
(でもそれをぶっ壊すのも、俺の役目ではなかったわな)
呟いた音は重ねた溜息に押しつぶされて何処にも届かず消えていく。校門から校舎までを繋ぐ通りにひしめく色とりどりの屋台の裏を抜けながら、知り合いの顔を探しては顔を晒して挨拶を交わした。
「手伝いいる人おらんかねー。学祭割引するよー」
「あ、ヒナ! 手空いてるんだったらうち手伝って!」
「いいよ。あ、ヘルプ料金の代わりにクラスT1枚ちょうだい」
「いいけど……って、げっ。なんでそんな汗びっしょりなの!? ちょっとやだあ、タオルもあげるからあっちで着替えてきてよね!」
「ごめんって、助かる。タオルの料金分も働くわ」
「うん、よろしくねー! いらっしゃいませー!」
投げつけられたTシャツとタオルを両手でキャッチして、タオルの繊維に鼻先を埋める。冷える汗に、熱のない吐息。日生は光のない瞳をパタンと閉じて、濡れたワイシャツを脱いで地面に落とした。
シャツを蹴る爪先に、心地好いサウンドのリズムを刻む爪先が触れる。
◇
魂を焼きつけることの叶わなかった空は、自分だけの特別になるはずもなく遥か上から地上を見下ろす。その最底辺よりも少し上の窓際の席で、日生は顔面を突っ伏し微睡んでいた。
(あいつらの音、未完成だけどよかったな)
(混ぜてほしいって言っても、無理だろうけど)
眠りと覚醒の間を心地好く漂う意識を、一刀両断する衝撃音。
ビクッと肩を跳ね上げた日生は、顔面に貼り付いた髪をブルッと振って避けてから顔を上げる。
「んぇ?」
「……やっと見つけた」
「は……?」
ぼんやり見上げた先の視界。強烈な光を浴びたような錯覚が起きて、思わず目を細めた。目の前の相手は日生のリアクションに怪訝そうに顔を顰めて首を傾げる。
些細な仕草に色素の薄いグレーベージュの直毛が揺れる。透ける前髪に均整の取れた大きな瞳。一切日に焼けていないような白陶磁の肌にガラス窓からを通り抜けた日の光が差して、輪郭が白く光って見えた。
「すっげー、美……」
「つかお前、軽音部入っとけよ。探すの手間取っただろうが」
「うーわ、口悪」
「シンプルな悪口漏れてんぞ、オイ」
美しい造形を躊躇なく歪め、彼はハァと溜息を吐いた。体を起こした首元に白いヘッドホンが掛かっている。ワイシャツの袖から覗く腕は華奢で、女の子だと言っても通じるくらいだと思った。
「俺のこと探して来たってことは、何? ご依頼ですか?」
日生は目を伏せて言いながら、ポケットを漁ってスマートフォンを引き抜く。ロックを解除してアプリをタップ。表示させた画面を彼の視線の先に晒した。
相手は軽く顎を持ち上げて、目線だけで画面を見る。
「なんでも屋……」
「文字通り、ね。お困りごとなら何でもお受けしますよ。もちろん対価はいただくけどね」
「ふぅん」
相手が首を傾ける動作で、細いストレートヘアが揺れて流れる。光を反射して煌めく艶はやはり眩しくて、日生は吐きかけた溜息を呑んで目を細めた。
「金払える?」
「いくら?」
「まあとりあえず、これくらい?」
日生は彼の視界に5本指を開いて見せる。彼はフムとひとつ頷くと、ポケットを漁って1枚の硬化を投げてよこした。金とも銀ともとれる、鈍い光沢を放つ大きめの丸。
「……500円」
「んだよ、払っただろうが」
「まあ、はい。とりあえず10分ね。話聞きますよ」
日生は掌に500円玉を包むついでに腕時計の数字を確認して、椅子を引いて立ち上がる。彼は日生がついてくる素振りを見せると、即日生の席から離れて歩き出した。
「そうだ、名前は? 美少年くん」
「月永藍」
「え、芸名?」
「頭沸いてんのか? 一般人だよ」
「ほあー、キレーな名前ね」
「お前は?」
「ん?」
「名前」
「知ってて俺んとこ来たんじゃないの?」
「顔しか知らない」
「え、どっかで会った?」
「会うのは初めてだろ。名前言えよ」
「ああ、うん。葛西日生」
「ふぅん」
日生より頭ひとつ分低い身長。右巻きのつむじを眺めながら行く手を進む。廊下の端まで来た藍はフラッと視線をさ迷わせ、立ち入り禁止の鎖を跨いで埃が積もった階段を昇っていく。
「ひと気のないとこ行くねえ」
「聞かれたくないからな」
「え、ヤバイ系?」
「別にヤバかねえよ」
ハァと呆れたような息を吐いて、突き当りまで昇り切る藍。鍵のかかった屋上に続く扉の前に、古い体操マットや机や椅子などの廃備品が積み上がった物置のような場所。人の侵入でフワッと舞い上がった埃の粒子を掌で払いのけ、日生はコホッと空咳をした。
「で、何をしてほしいって?」
「これ聞いて」
「ん? ああ」
手渡されたレスイヤホンの片方を受け取り、表示を確認して右耳につける。視線で合図を送ると藍は小さく頷いて、手元の音楽プレーヤーを操作した。
耳に流れ込んで来たのは未完成のような曲だった。背景の音が混じる空間に、ピアノの生音が聞こえて、そこに男性ボーカルが歌詞のない音を乗せていく。
「デモテープ?」
「曲は完成してるよ」
「はあ、そう」
完成している、という言葉に集中し直す意識。日生は瞼を伏せて、余計な力を抜くためにフゥと緩く息を吐いた。録音環境が悪いだけで、一音一音は計算された場所にハマっていくイメージで聞くと、見え方が変わる。
「いい曲だな」
瞼を閉じたままだったから、藍がどんなリアクションをしたかは分からない。けれども微かに息を呑む気配を察して、反応は正解だったと密かに胸を撫でおろした。
「……10分って言ってたな? すぐやる。俺に合わせろ、できるか?」
「んぇ?」
曲の終わりは、音源であるスマートフォンを手にした藍の方が熟知している。プツッと分かりやすく途切れる音を立てて止まった音楽に顔を上げ、日生はイヤホンを返しながら逆光の中に立つ藍に視線を向ける。軽く脚を開いて、胸の前に手を当てる姿勢。半分瞼を伏せてみせる表情に、彼の纏う雰囲気が変わった。
「ちょ、ま……待ってな、うん、うん」
藍の意図を察した日生は、聞いたメロディーを反芻して体にリズムを刻み込む。一度聞いたものは大体記憶できる。音楽は特に。日生は自負を胸の内で唱えて、フゥと整える息を吐いた。
「オッケー、いける」
「じゃあ」
スゥ、と吸い込む息の音と、光の柱を待っていた粒子がフワッと浮き上がり白い光を躍らせる一瞬。さっき聞いたのには添えられていなかった言葉が音楽を奏で、曲になって脳を震わせる。
(うわ、上手いなこいつ)
空気を震わせる音は、腕の産毛を逆撫でゾワリ浮かせた。ピアノの旋律はないのに、一音もずれることなく紡がれるメロディー。ドッドッと勝手に湧き立つ心音に、詰まる息を意識して吐き出した日生は、藍が紡ぐ音に絡めるように、声を旋律に乗せた。
聞いたばかりの歌詞はよく分からないので、直前に聞いたフレーズを追いかけるように重ねていく。言葉に引っ張られて微妙にズレは生じるものの、上手く溶け合う瞬間もあってその度にカッと内側が湧き立った。
いつの間にか視線を交わし合っていて、日生は真正面から藍の歌声を受け止め、その歌を自身の声で包んで返した。
程度は加減して、突き抜けないように。気持ちよくなる直前でギリギリのセーブをかけながら。
即席のセッション。噛み合う波長の心地よさが、高い位置から差し込む光の色に染まるようで、堪らない。
「……いいな」
「そ? よかった」
ドッドッと内側を叩く心音も、指先までブルブル伝わる震えも、いったん意識の外に置く。日生はフゥと長く鼻から息を吐いて、一度瞼を伏せてから藍に視線を向けた。
「はい、時間切れ」
パチンッ、と。日生が両手を合わせて慣らした音で、光の柱の中の粒子がまるで逃げまどうように乱れる。音と同時に大きく見開いた目で日生を見上げる藍も、呆然とした瞳を日生に向けた。
「続きはまた、金持ってきて」
膨らんだ気持ちを自ら萎ませる悪手を犯している自覚は持ちつつ。
藍は長い睫毛を2往復させ、薄く開いていた唇をクッと小さく噛みしめる。
「絶対」
ひとつ下の踊り場まで降りたところで、藍がそう呟くのが聞こえた。日生は階段を降りかけた足を止めて、藍と視線を交わす。睨みつけるような強い視線に柔らかな笑みを返して、日生は階段のステップに足を下した。
痺れた余韻の残る頭を揺らして、吐き出す息に熱を乗せて逃がす。ジワッと汗の滲んだ首筋を撫でて拭って、スゥハァと密かに深呼吸をした。
「……気持ちよかったな」
あの、文化祭の時のように。バラバラで噛み合わない音を、日生の声で繋いで調和を生んだ時の快感。それよりももっと自然で、楽に、ぴたりと噛み合い重なり響く、音楽。
日生は数分の内に体に馴染んだ曲を微かな鼻歌に乗せて、階段を降りきった。
◇
「いや来ねえ……」
「なにが?」
前髪クリップで全開にされた顔面を強い西陽が容赦なく照らす。日生の背後にいた位置から目線の先に入り込んだ篠原万里奈の行動のお陰で、日差しが遮られた。日生は焼かれた瞳を閉じて体を起こし、背もたれに背中をノシッと押し付ける。
「依頼主がなあ」
「なんでも屋の仕事? そういやヒナ、最近あんまり受けてないらしいじゃん?」
「いやそれはこの前の奴が低評価つけて嫌がらせしてきてるから……」
「ああー……だから音楽系の依頼はやめとけって言ってるのに」
「俺だって最初断ったよ。それでも10出すって言われたらさあ、受けるじゃん」
「報酬きっちり払ってもらってんでしょ? 本音では感謝してんだって。悪い噂なんてすぐ消えちゃうよお」
「まりりん優しいー……付き合って」
「え、絶対イヤ」
「てめ、人の彼女口説いてんなよ」
「痛てえ、痛てえよお」
背後から肩を掴まれユサユサと大仰に揺すられる。後ろに首を倒して見上げた先に、大河内亮太が日焼けした顔に白い歯を覗かせ肩に圧を掛けた。
「りょーちん! マジで肩逝くって! イッちゃう!」
「おらイケ!」
「ヤラシーってさあ、2人とも。ヒナなんか凹んでるみたいだし、亮太も手加減してやんなよ」
「なに、ヒナ凹んでんの? 相手の子可愛かったとか?」
「んあー……まあ、超絶美ではあったけど、男」
「そんな美な男子うちの学校にいたっけ? 面食いのヒナが言うんだから相当だよね?」
「いつ俺が面食いなんて設定ついた?」
「割と有名じゃん。んー……万里奈の情報網に引っ掛かってくる子はいないんだけどな。どういうタイプの美?」
「髪色薄くて独特で、目がデカくて睫毛も長い。体型は結構華奢な感じで、あとすげー色白」
「なぁるほど? あ、ねえ、これは?」
淡い水色のネイルでスマートフォンをスクロールさせていた万里奈は、タンッと画面を叩いて画像を表示させ日生の鼻先に向ける。
学内用のSNSの投稿画面。恐ろしくブレた画像で、ガラス窓の隙間から盗撮したような画角だった。
「……ぽい、な」
「マジ、当たり? やったあ」
「まりりんの検索能力と勘って本当すげーよな。これ歩道橋近くのコンビニっしょ? 俺行ってくる!」
「いってらっしゃーい」
ヒラッと手を振り重い瞼を瞬く万里奈。亮太は空になった椅子の脚をカタカタ揺らして、日生の後ろ姿を見送った。
「大丈夫かね、あいつ」
「亮太、なんか心配?」
「あいつがなんかに集中して回り見えなくなるときって、大体音楽が絡んでんじゃん。今のもそうなんじゃねーかなって」
「あり得るねえ……。さすが、ヒナに関する勘だけは冴えてんね、幼馴染くん」
「お前もだろーよ」
「そうでしたあ」
のんびりした口調で言って、万里奈は窓から校庭を見下ろす。走っていく日生は、すれ違う人に声を掛けられて何事か会話を交わしながらも焦った様子で校門を抜けた。
「お人好しで、お節介なヒナちゃん。器用なのに不器用で、いっつも燃え切らないまんまで。ヒナが思いっきりやれる相方に出会えたらいいよねえ」
「あいつん中でほぼほぼ答えは出てんだろうけどな」
「この間も爆発してましたもんねえ」
第二関節まで覆う袖の上から突き出た指を2本揃えて。万里奈と亮太は示し合わせようにニヤリと微笑む。
◇
勢いで通過しかけた自動ドアの前で片脚を踏ん張り、流れる体を留めて。気合でもう片方の脚を引き寄せたところで、モーター音を立てて目の前の扉が開いた。
ヒヤリと冷えた人工的な空気が頬を撫でる。日生は暮れかけた野外よりも眩しい店内に視線を巡らせ、目的の人物を探した。独特な髪色はすぐに目について、日生は「あっ」と声を上げつつ彼の傍に近づく。
「月永!」
「ひぁっ、……んだよ」
日生の息が触れたらしい首筋を押さえて、眼鏡のレンズ越しに色素の薄い瞳を向ける藍。日生はフンッと強く息を吐いて、藍の全身を視線でなぞる。彼は制服のスラックスの上にコンビニのユニフォームを着て、学校指定のローファーのままで働いていた。特徴的な顔立ちはマスクと眼鏡で念入りに誤魔化されている。
「なにしてんの、お前」
「見りゃ分かんだろ。バイトだよ」
「バイトって、うちの高校バイト禁止だろ」
「金払えっつったのお前だろうが」
「うっ……、まあ」
「ちょっと待ってろ」
チラッと時計を見上げた藍は、ずれたマスクを引き上げバックヤードに引っ込んだ。日生は藍の行方に目を向けつつ、万里奈に教えられた投稿画面を確認した。該当の画像は既に消されていて、万里奈から「ヤバそうだから投稿主に消させた」という旨のメッセージが届いていてホッと胸を撫で下ろす。
(まあイケメンの目撃情報だけ集めたシークレットスレッドなんて見る人間限られてるけどな……)
故に、対象者を貶める意図はないだろうとは予測してもいるが、念のため。
「お待たせ」
背中をポンッと叩いて、斜め下から視線を向けてくる藍。日生が視線を向けると、藍がクイッと顎を上げて日生に表へ出るよう促した。
コンビニ店舗横の薄暗い路地裏。湿った匂いと色の違う地面。壁面に貼り付いた苔に踵を引っかけ、日生は藍と正面で対峙する。藍はマスクと眼鏡を取って鳶色の瞳を真っ直ぐ日生に突き刺し、日生の胸に封筒を押し付けた。
「ほら、金」
「おま、これ全額……」
「お前に払うためにバイトしたんだから当然だろ。全部持ってけ。それでどれくらい雇えんだ」
「えぇー……」
受け取った封筒の口を微かに開けて中を覗くと、少なくとも一万円札が3枚入っているのが見える。
「30だと、まあ……当分はお前専属だわ」
「マジか!? やった」
藍はパッと顔を輝かせてガッツポーズを決めた。日生はパタッと瞬きをして、無邪気な藍の表情に目を細める。
「んで、俺はなにすりゃいいの?」
「俺と歌え。今すぐ行くぞ」
「え、んぇ、どこに?」
手首を掴んで路地裏から日生を引っ張り出す藍。脚をもつれさせる日生の不格好さに声を上げて笑う様子に、日生は瞬きをしてホゥっと息を吐きだす。
(なんで、こんな目立つ奴のこと知らないんだろう)
「なあ、月永」
「なに」
「もしかしてお前学校でも顔隠してる」
「学校あんま行ってない。担任言われた時と、テストのときだけはまあ行ってるけど、クラスのやつらでさえ俺のこと認識してるやつそんないねーんじゃねえかな」
「はぁ、そうなん……え、普段なにやってんの?」
「歌」
「歌い手さん? 配信者とか?」
「なんだそれ。そんなんじゃねーわ」
「んぇ……じゃあ、どんな」
「これから世に出すんだろうが」
掴んだ手を強く下へ引っ張る力。地下に続く階段のステップに足をかけた藍は、そこからまた強い眼差しを日生に向ける。日生はグンと背を逸らして入口の看板を視界に入れた。
「音楽、スタジオ?」
「音源録んの」
「いや待てお前、こういうとこって使用料高いだろ。金あんの?」
「さっきお前に渡したので全額」
「ねえじゃん! もお……さっき音源録るっつったな? 防音ならいいってことなら、再集合だ」
「あ?」
「いーとこ知ってっから」
日生は唇の端を吊り上げて笑い、立てた親指を背後に向ける。藍は怪訝そうに顔を顰めてハァと呆れたような息を吐いた。
「大丈夫、俺はどこにも行かねえよ
「その言葉、信じるからな」
藍はそう言いながら、強く日生の手首を引いた。不意打ちで階段に引き込まれた日生は、勢いで2、3段階段を降りる。反対に地上まで足を進めた藍は、逆転した高低差から日生のネクタイを掴んで引き上げた。
「お前は俺のもんだから」
「……わーぉ」
日生はヘヘッと苦笑いを浮かべて、藍の強い眼差しから目線を逸らす。
「再集合っていつ?」
「んぁ、ああ。夜の9時くらいに、学校で」
「任せていいんだな?」
「なんなりと。今は俺、あなたの犬ですから」
軽く握った拳を顔の前でニ三度上下に動かして、ワンと一声鳴いてみせた。藍は納得したように頷いて、日生のネクタイを掴んでいた手を離す。
「じゃあそれで」
「オッケー、段取りしとく。お前はお前で必要なもん持ってきて」
「音源いるか?」
「あー……まあ、デモならいいわ。頭の中に残ってるお前の音の方思い出しとく」
「……覚えてんの? あの1回で?」
「ああ、まあね。そういうの得意っつーか、好きな音だと特に、めちゃくちゃ残る」
「ふーん……」
逆光になった藍の白い肌にジワッと赤が滲んだ。日生は藍の態度をジィと静かに観察して、彼の内側を窺おうとする。逃げる瞳を追いかけるように顔を近づけると、藍は鬱陶しそうに掌で日生の鼻先を払った。
「んだよ」
「お前、自分の音楽めちゃくちゃ愛してんのな」
「俺のっつーか……」
「ん?」
「この曲のことは、めちゃくちゃ愛してるよ」
ワイシャツの胸ポケットを握る手つき。掴まれて浮き立つ四角い端末は、1週間前に藍が聞かせてくれた音楽プレーヤーだと察する。日生は青い血管の影が浮かぶ藍の手の甲をジッと見つめ、フム、と小さく頷いた。
「お前はなんか、大丈夫そうだ」
「……なにが?」
「なんでもねーよ。じゃあまた、夜にな」
降りかけた階段のステップを靴裏で押し返して、地下の暗闇から地上へと体を押し上げる。すれ違い様に藍の肩をポンと叩き、キュッと軽く握ってから離した。
行く手に見上げた薄明時の空に、ポツンと小さく白い星影が見える。
◇
「よっ、3時間ぶり」
夜に呑み込まれた世界で、日生は閉じた校門の前にしゃがみこんでいた藍に声を掛ける。藍も昼間と同じ制服姿のままで、眼鏡とマスクは外していた。
「どこ行くんだよ」
「もう来てるっしょ、学校」
「不法侵入?」
「バイトして校則破りしてるお前に言われたかねんだわ。俺のはね、普段からの積み重ねと交渉術が成せるわざなの。ちゃんと許可とってかんね」
「ふーん……」
納得のいかない調子で返事しながら、藍は日生の後ろについて鍵を開けるのを大人しく見ている。
「深夜の学校に忍び込む許可ってどんなだよ」
「忍び込んでねーっつの。まあいうたら、部活動? 愛好会活動? の一環扱いみたいなもんでさ。運動部だって普通に学内合宿とかしてるし」
「そうなんだ」
「興味なさすぎでしょ、お前。それでも生徒個人に鍵貸し出すっつーのは割と特例も特例だけどね」
「やっぱり悪事だろ」
「まあまあまあ」
ヘラッと気の抜けた笑い声に乗せて、日生は藍を伴って校舎に上がり、昇降口を抜けて渡り廊下に入り、特別教室棟を目指す。
「どこいくんだ?」
夜の校舎の空気は、昼に蓄えた温度との落差も影響してかキンッと鋭く冷えているように感じる。静寂の音だけが耳底に貼り付いて、たまにそこに溶けあう自身の足音を聞いてホッとした。
「意外性も何もなくて申し訳ないけど、まあ、ここよね」
最上階まで階段を昇って、廊下を進んだ突き当り。音楽室、と書かれたプレートを指さして日生は言う。
「音源録るなら、防音で、プレーヤーとスピーカーあって、場合によってはピアノとかも使うかなーって、どう?」
「……悪くない」
「ご依頼に添えて光栄です」
噛み合わせの重い二重扉を連続で引いて、踏み入れる室内。円形状の室内は中央にかけて窪んだ造りになっていて、ぐるっと取り囲む席の下にピアノが置かれて、その真上がちょうどドーム状の天井の中心と重なるようになっている。日生は階段状に配置された机の間の通路を降りて、ピアノが置かれた位置まで足を進める。
「ピアノ使う? それともお前の音源流す?」
「使うって言って、弾けんのかよ」
「まあ、多少はね。聞く?」
カタッ、と。微かな音を立てて開く黒光りする蓋。赤いフェルト地の布を取って、並ぶ鍵盤を指先でなぞった。
藍は小さく息を呑んで顎を引き、日生の指の動きを見つめている。日生はフッ軽い息を吐いて、四角い椅子を引き出しそこに座る。
まずは片手で奏でる出だしのAメロ。綺麗な色の鳶色が見開いて、スゥと柔らかく細められた。日生は藍の表情をチラッと盗み見ながら、次々と音を押し込んでいった。
「お前、すごくね?」
「長男だからさ」
「あ?」
「最初の子供ってすげー手かけてもらえるっしょ? 音楽が好きって分かったら、すげーちっちゃい頃からピアノ習わせてもらえてさ。そんで今のベースができたわけだけど、弟妹が生まれてきたら俺だけ特別じゃなくなるだろ? むしろ下の子たちに譲って、俺は俺の意志で大事なもん守ってかなきゃってなってさ。んでも、父親が死んじゃって、母さんひとりになって、そんな悠長なことも言ってらんなくなってさ」
「そんで、金とってんのか」
「まあねえ。うちの高校バイト禁止だし。器用に育ててもらった分、恩に報いて存分に利用して返してくのが筋ってもんでしょ」
「でもそれが、枷になってんだろ」
日生の指が止まる。空気を震わせる余韻をそのままに、日生は薄闇の中で藍を振り仰ぐ。
「お前の噂聞いた。器用で何でもできるからなんでも屋の評判はいいけど、音楽関係ではトラブル起こすことが多いって。ひとりで暴走して余計なアレンジ入れて主役を食うとか、主張が激しいとか、そんな」
「言葉では一言も言ってないし、コミュ力高いほうなんだけどねえ、俺」
「自分の音楽をやりゃいいのに」
「そんな余裕ないでーす」
「そんで他人のフィールドに金貰って踏み入って、めちゃくちゃにしたらそりゃ評判悪くても文句言えねーだろ」
「毎回じゃないって」
「そんでも、抑えられないんだろ」
フッ、と。長く引いていた余韻が途切れた静寂に、ポツリ落とされる静かな声。日生はジッと、色のない視線を藍に据えた。
「俺と合わせた時もセーブしてただろ、お前」
「セーブしなかったら、お前のこと食っちゃうよ、俺」
わざと歯を剥き出しにして、顔の横に爪を立てた掌を置く。ガウッと吠える音を立てるが、藍は冷めたリアクションしか返さない。
「試してみろよ」
言いながら、藍は制服の胸ポケットから音楽プレーヤーを取り出し、イヤホン端子を外してピアノの上に置いた。日生は椅子から立ち上がりつつ、自身のスマートフォンを操作して、録画を起動してから画面を伏せて藍が置いた端末の傍に並べて置く。
「気持ちよくしてやるよ」
「えっろ」
スゥと形の良い唇の内側を撫でる淡い色の舌先。濡れた先端が唇に濃く色を添えるのに興奮気味の吐息を吐いて、日生は藍が先に繰り出したソロパートに自身の声を合わせた。
以前、階段で交わしたセッションよりも深く、肌がビリビリと焼かれるように思う感覚。神経を裂かれ、細かい電流が走りぬけるような心地好い痛み。心臓がゾワゾワと音を立てて沸き立って、息継ぎの度に肩が大きく跳ねる。
高い天井をグルッと巡るように高く、遠くへ響かせる声。声量同士はぶつかり合って、溶けあって、心地好い音楽になる。湿った毛先から汗の雫が飛んで、木目の床に落ちて濃い色の染みを作った。曲の終わりでフッと力を抜いて、膝に手を置き項垂れる。
「……っ、はぁ……どーよ、イッたかよ」
「やっぱ気持ちよくしてやるってそういう意味で言った? おー、軽くイッたかもな」
日生はピアノに寄りかかって、録音状態のままだった端末の赤いボタンをタップした。
「録ってた?」
「おうよ。この形でいいんかしらんけど、一応録れてんよ」
「じゃあ送ろうぜ」
「いや待て待て。前後切ったりしないと。俺らがイクイカネーの話してんのも入ってるから。つか、送るってどこへ?」
「なんでもいい。どこか、たくさんの人に届くところへ」
「……ほーん?」
日生は前後を切って曲部分だけにしたデータを再生しながら、音域の形に振れて美しい図形を描くパルスを眺める。
「このままで、いいかも」
「え?」
「バズるだけならな。でも、どうせならコンテスト系に送るか?」
「分かんの? そんなの」
「まー、調べれば……つーか、お前も学校こないで歌ってんだったら、こういうこと調べ尽くしてないの?」
「ネットとかできないし。スマホ持ってない」
「はぁ? ああ、うん。確かにな。音楽流すのにプレーヤー使ってる時点でそうだろうとは思ったけど。じゃああれだな、お前はお前のやりたいことのために、俺に出会えてよかったってことだ」
「調子よすぎんだろ」
「事実じゃね?」
検索で探し出したコンテストで、締め切りが近く音源の送付だけでエントリーができるものを見つけて切り出した動画をアップロードする。緑色のバーが左から右へ満ちていくのを眺めながら、日生はフゥと淡い息を吐いた。
「依頼完了?」
「んなわけあるかよ」
「ですよねー。お、送れた」
パッと光った画面を覗き込んで来る藍。
「ここ、グループ名なんて書いた?」
「放課後音楽室」
「まんまかよ」
「いいっしょ。刹那的で、なんか」
「まあな。容姿とか、名前とか、そんなんどうでもいい」
「……うん。なあ」
「ん?」
「お前は? 気持ちよかった?」
「おー」
ニィと形の良い唇の口角を上げて、藍は眩しい笑顔を浮かべる。気持ちいと感じるレベルまで本気を出しても、飲まれなかった。日生はピアノの上に投げ出した指先を、同じように投げ出された藍の指先に重ねかけて、躊躇って引っ込めた。
「このまま、俺のものになれよ、お前」
「は?」
鳶色の瞳に星空を抱くガラス窓を映して、藍は真顔のまま声を零す。日生はグッと強く唾を呑んで、ハァと長く息を吐いた。
「お前金ねーじゃん」
「稼げるようになればいいだろ。俺とお前で」
「夢みてーなこと言ってんなって」
「なんで、本気だけど」
「はあ……」
「この曲は本物だから」
「なあ、この曲作ったの、誰?」
ようやく、窓の向こうから日生の方に戻ってくる目線。藍はパタッと瞬きした後で、柔らかく微笑んだ。
「明日付き合えよ。会わせてやるから」
「……ふーん?」
ピアノの上に頬をつけたまま、2人。顔を見合わせ視線を交わして、貼り付いた後を残して体を起こす。
「じゃあ明日も、放課後?」
「ああ、そういうことで」
視線を交わして、音楽室を出る。響いた音の余韻がまだ残っているようで名残惜しく、日生はフゥと短く息を吐いた。
「お前スマホないの不便な。連絡とれねーじゃん」
「ああ、でもお前は俺を見つけんだろ。今日だってそうだったし」
「お前ねえ……とりあえずちゃんと学校来とけよ」
「明日はまあ、行っとく」
「お願いしあす」
クァと欠伸を吐いて、職員室に入り鍵を返してから、守衛に挨拶をして学校を出る。校門で別れてそれぞれの帰路につく間、日生は耳底を震わせる音楽の余韻にキュッと固く目を閉じる。
「このままずっと、ねえ……」
ポツッと呟いた言葉は、なんの形を成すこともなく夜の空気に紛れて消えた。
ドアを見下ろすように照らすライトが点る玄関先。取り出した鍵で解錠し、ポーチにひしめく靴群れを避けて自身のスニーカーを脱ぐ。
シンと静まり返った空気に微かに混じる寝息の気配。日生は足音を潜めて洗面所に向かい、手洗いと着替えを済ませてリビングに入る。ダイニングテーブルにはラップのかかった夕飯とメモが置かれていて、日生はメモを手に取り文面を視線でなぞりながら、食器の置かれた席に座る。
メモ書きは母親からで、夜勤に出るので弟妹たちを頼むというものだった。日生ははいはい、と届かない返事をして、冷えたまま夕飯に箸をつける。
ぼんやりと暗闇に沈む部屋の奥に視線を置いていると、一点に集まる消失点の先に、自身の将来も押し込められるような錯覚を覚えた。
(まあ実際は、なにも言われてねーけど)
なんでも屋稼業で得られる金額は微々たる額でも、ないよりはあったほうがいい。日生はポケットに入れたままだった藍の給料袋を取り出し、伏せたメモの上に重ねて置いた。
(俺の都合でやめるわけにいかねーよなあ)
折角育ててもらった能力で、今できる精一杯を尽くして返す。下の弟妹たちが得られなかった分の幸福をすべて、独り占めすることがないように。
繰り返し備えてきた戒めを再び心に刻んで、日生は完食した食器を重ねて席を立った。水の溜まった洗い桶に食器を滑り込ませ、スポンジに染み込ませた洗剤を握って泡立てる。
「夢見れんのは恵まれたやつだけだって」
(才能みたいなものや、意欲があったところで)
本気で、何十時間も練習しているような人たちと比べたら許せない半端さだろう。
本気で、好きだから。本気で賭けられないのが、歯痒い。
「ぜーたくな悩み」
キュッとノズルを締めて水流を吐き出させた蛇口の先に、泡をつけた食器を差し出し洗い流した。スゥと透明に張る水の膜が、弓なりの線を引いて平らな表面を滑り落ちる。ポタッと落ちる雫を揺すって散らして、水気を切った食器をカゴの中に立てかけた。
◇
「チャリで来いっつったの、そういうことかよ」
「なんか文句あんのか?」
「ありませーん!」
ギッ、ギッと、踏みつぶす勢いで漕ぎ出すペダル。全体重をかけて踏み込みながら、後ろに乗せた藍が落ちないように絶妙なバランスも保つ。
「バス乗る金ねーし」
「なんでも屋のフル活用しますねえ、さすが依頼金30のVIP様ですわ」
「一週間の労働の対価にしちゃ悪くない」
「そーすか」
ギッ、ギッ、と鈍い音を立てながら昇り切る坂道。緩やかな下り傾斜のついた道に、軽くブレーキを効かせながら車輪を走らせる。
「この先のでけー白い建物な」
「あ? お前それ、病院じゃね?」
「そーだよ」
フッと軽い吐息に乗せて返された言葉に、日生はグッと喉を締めた。病院の駐輪場に自転車を停めて、先を歩く藍の後ろについて建物に入った。受け付けで手続きを済ませ、首から下げるネームタグを受け取り入院病棟へと足を踏み入れる。
「病院って滅多にこないかも」
「そうか?」
「ああ、父親が死んだとき以来かなー」
「ふぅん」
気を遣わせるかとも思ったが、藍はそんな素振りは一切見せずに廊下を進んだ。やりやすい相手だ、と判断した日生も、肩に入れかけた力をフッと解いて藍と歩調を合わせる。
一番端の病室の前で停まった藍は、コンコンと2回白い扉をノックした。病室に入る前に視界に入れたネームプレートには「月永」の名前が見えた気がする。
「叔父さん」
藍の一声で関係が知れる。目隠しのカーテンを払って覗き込んだベッドには、藍とよく似た顔立ちの男性が体を起こして座っていた。
「藍。……そちらは?」
「同じ学校の葛西。一緒に音楽やってる」
「どうもっす」
「こんにちは。月永千晃です。藍がお世話になってます」
丁寧に頭を下げられむず痒い想いがした。ベッドサイドに立ったままでいる日生を放置して、藍は楽しそうに千晃に向けて話しかけている。
「あ、葛西くんも座って」
「あ、大丈夫っす。俺、なんか飲み物買ってくるんで」
愛想笑いを浮かべて、仕切りカーテンの外に出た。不意に藍が言った「この曲のことはめちゃくちゃ愛してる」という言葉を思い出す。
「そういうこと? か」
赤く光った商品ボタンを押して、ガコンッと派手な音を立てて転がり落ちるペットボトルを手にとって、湿った表面に額を押し付けた。ツゥと伝う雫の生温さが不快で、思わずため息が漏れる。
日生はそのまま病室に戻ることはせず、廊下に置かれたベンチに座って時計を眺めていた。長針が半周したところで傍らの空気が動き、日生と反対向きの姿勢で藍が隣に座る。
「なんで戻って来ねーんだよ」
「邪魔しちゃ悪いかなって」
「空気読むじゃん」
「否定しろや。会わせてやるって言ったくせに」
「なんでお前がちょっと不機嫌なんだよ、ウケる」
「お前はご機嫌だな」
「なあ、それ頂戴」
「間接キスなんですけど」
「イカせあった仲だろうが」
「外でそういう発言しないでくださーい」
棒読みで返しながら、日生は躊躇いなく飲みかけのペットボトルに口をつける藍の横顔を眺めた。伏せられた長い睫毛が震えて、伏し目の角度がなんとも言えない色気を湛える。
仄かに赤く染まった頬も、緩んだままの口元も全部、誰かへの好意。
「お前があの音楽を外に出したいのって、あの叔父さんのため?」
「そうだよ」
真っ直ぐ、即答で返された返事に胸がヒリつく。
「俺の音楽は全部叔父さんにもらったもんなんだ。叔父さんさ、音楽が本当に好きで、生み出す音楽もすげーのに、体弱くて人前で歌うことできなくて。楽曲提供の道とかも探ったんだけど、ゴーストライターみたいなことに利用されそうになってさ、俺がバトッて潰したんだ。そしたら相手が割と業界に幅きかせてる人で、どの業界からも締め出されちゃって……俺のせいで」
口を離したペットボトルの端を爪で弾きながら、藍は瞼を半分下ろして自嘲気味に呟いた。日生はそれ返して、とも言えないまま、藍の横顔をぼんやり眺めた。
「だから、俺が証明すんだよ」
「ふぅん……」
日生は掌に残ったキャップを弾いて、小さく息を吐く。
「モチベは下がるけど、料金分の仕事はするよ」
「なんで下がんだよ」
「あの顔、俺にも向けてくれたら報われる気がすんだけどなあ」
「はあ? どの顔だよ」
「まあ、本気でなりふり構わないってんなら、持ってるもん全部使えばいいんじゃねーの?」
「あ?」
「来いよ」
日生は藍に向けてキャップを投げ、出口に向かって先に歩き出す。藍は片手でキャップをキャッチして、飲み口に嵌めながらついて来た。
「この間みたいな感じでいいから、顔出して動画撮ろうぜ」
「……なるほどな」
「俺に任せとけよ」
◇
「イケメンって正義なんだよなあ……」
「わたしのマーケティング能力も褒めてくれていいんだよお」
「俺の編集技術もなあ」
「はいはい。感謝してますりょーまり最高」
「まあでも、これはお前もスゲーよ、ヒナ」
日生が両手の指を添え支えていたスマートフォンを取り上げて、動画を眺めながら亮太が言う。病院の敷地の一角を借りて撮影した動画を、亮太の手を借りて編集し、万里奈の情報網を借りて拡散した。動画のクオリティが高いことも手伝ってか、2人の歌唱動画の再生数は万単位で伸びていた。
「本物の力ってやつ」
「まあ、世の中で一番強いのは数字だからさ。匿名で出してる分には文句言えないとこまで伸ばせるんじゃねーの」
「うん……」
「うかねーじゃん?」
「うん? うーん……うん」
「お前もな、すげーって言ってんの」
「俺は……まあ、ね」
「あ、電話」
「んぇ?」
数字が表示された画面が見えるように差し出して来る亮太。日生は亮太からスマートフォンを受け取って電話を受ける。
「はい。え、動画? はあ、俺ですけど……え、ああ……はい、はい……ああ……」
一方的なペースで話す相手の声を聞き切って通話を切った日生は、黒く染まる画面を呆然と見つめて息を詰めた。亮太と万里奈は顔を見合わせてから日生の表情を覗き込む。
「誰から?」
「なんか、偉い人っぽい人」
「うぇ、ヤベーやつ?」
「ヤベーやつかも。月永んとこ行ってくるわ」
「いってらー」
ポケットにスマートフォンを捻じ込んで、教室を出て行く日生。
「なんで電話とかメッセ送ったりしないんだろうね」
「なんかあれ、月永ってスマホ持ってないらしい」
「え、マジ?」
日生は廊下を速足で進み、藍のクラスの後ろドアに立って教室内を見回した。
「月永!」
日生の声が通り抜け、教室の空気がザワッと粟立つ。窓際の席で顔を伏せていた藍は、日生の声に顔を上げ、鳶色の瞳を瞬かせた。
「来いよ」
「ああ」
窓から差す光の全てを真っ白なシャツに吸収したように。妙に光って見える体を揺らして藍が日生の元に近づいてくる。日生は詰まる息をゆっくりと吐いて、藍の腰を抱き寄せ廊下に出た。
「調子悪そうくね?」
「学校好きじゃねえんだよ……やたらとみられるし、話しかけられてウザい」
「誘蛾灯みたないもんかね」
「お前何気ひでえな?」
「別にみんなのこと蛾だと思ってるとか言ってないでしょーよ」
「ほぼ言ってんだわ。で、何だよ」
「なんか、偉いとこから連絡きた。動画見たって」
「マジか」
藍は廊下の真ん中で足を止め、興奮気味に瞳を輝かせる。日生はフゥと短く息を吐いて、ぶら下った藍の手首を掴んで立ち入り禁止の札が掛かる階段へ引き込んだ。
初めて藍と対峙した場所。初めてあの曲を聞いて、2人で声を合わせた場所。
「世に出せんのか? あの曲」
「曲、じゃねえな」
「は?」
「俺らのビジュと声がいいって。曲は変えるかもっつーんだけど、どうする?」
「受けるか、そんなもん」
「……言うと思った」
「お前は不満か?」
「なあ、月永」
「んだよ」
「お前は叔父さんのこと本物だっていうけど、俺のことはどう思ってんの?」
「……あ?」
「俺と、音楽やらね?」
藍は大きな目を零れそうなほど見開いて、日生の表情と差し出された手とに交互に視線をさ迷わせた。日生は自身の発言の真意を上手く固めきれないままでも、辛うじて視線だけは藍の瞳に据える。
藍は鳶色の瞳を揺らして、ハァと温い息を吐いた。
「お前と、そこまでの絆は、結んでねえだろ」
「叔父さんには勝てないってことか」
「俺が歌う理由はそれだから。ブレない」
「俺の歌は、魅力的に思えない?」
「……っんだ、よ……そんな……の」
「選んでよ、俺を」
「はあ……?」
戸惑う藍の様子は分かっているのに、日生はさらに彼の方へ手を伸ばした。藍はグッと控えめな喉仏を上下させ、強い眼差しを日生に向けた。
「お前、そこまで俺に興味ねえだろうが」
「お前に選ばれたら、一途になっちゃう」
「んだそれ……」
「なあ月永、曲作ろうぜ」
「んだよ、いきなり」
「お前が叔父さんを捨てらんねえって言うなら、叔父さんから教えられた技術とかノウハウとか感性とか全部詰めて、お前が受け継いで、全部イチから作ったらいいじゃん。そんで認めさせたって、いいんじゃねーの? あの曲がそんな大事だっつーなら、大事にしとけ。それ以外のお前の全部、出せよ」
「お前もそこに付き合うって言うのかよ」
「いいぜ、それなら」
「……分かった」
覚悟を決めた表情になった藍は、その場にドカッと座り込む。藍はフッと柔らかく笑い、スマホの録画ボタンを押した。
「思いつくフレーズ、何でもいいから歌って」
「そんなんで出来んのかよ」
「わかんねーけど、フレーズ譜面に起こすくらいならできるし」
「それってすげーことなんじゃねーの?」
「今さら気づいたのか? 俺って実はスゲーの。最高の仲間も貸してやんよ」
「仲間……」
「最愛の人間がいたってなあ、それ以外が全部光ってねえわけじゃねえんだよ。お前はもっと世界を知れ、世界と出会え。叔父さんの音楽だけに浸ってんじゃねえよ。そっから世界を見てみろよ。やべーくらい光って見えんだろうよ」
「……スゲー自信だな」
「お前を振り向かせようっつーんだから、必死にもなんだわ」
「熱烈な愛の告白かよ」
「分かってんなら返事考えとけよ、ばーか」
日生はインカメラにした画面を藍の方に向け、藍の姿を映した画面に進んでいく録画の数字を見せた。藍は画面に映る自分に苦笑いを向け、天井を仰いで鼻歌を紡ぐ。
日生は瞼を伏せて、藍が紡ぐフレーズを頭の中で追った。部分から、全体を描いて、繋いでいく。一番得意な作業。
「……いいじゃん、そのまま」
「マジか。スゲー」
「惚れろよ」
「考え中だな」
鼓動が速くなる。藍の紡ぐメロディを体に仕舞って、そこから新しく生み出す感覚。ブルッと背中が震える感覚。腹の奥がゾクゾクと湧き立つ感じ、日生はハァと深く息を吐いて、録画ボタンを止めた。
「おっけ、こんだけ材料あればなんとかする」
「……本当に」
「叔父さん超えるから」
「簡単に言うなよ」
セリフと噛み合わない笑顔を交わして、宣戦布告。音楽への想いが溢れる、生み出したい音がと気持ちが、爆発する。
「絶対超えるから」
◇
開け放した窓から吹き込む風が頬を撫でる。晴天続きの空の向こうには、ジワッと不快な湿気をつれて夏が滲んでいた。
窓際の席に突っ伏す白い背中に近づき、グレーベージュの細い髪にソッと添わせる指先。形のいい輪郭を露出させ、凹凸にソッと差し込むイヤホン。
ヒクッと身じろぎした背中に目を細めて、日生はフゥと短く息を吐き、再生ボタンを押した。白い数字のカウントアップ。自身の体に染みついた展開を思い描いて、体が揺れる。スゥ、ハァ、と、呼吸を乗せる。浮き上がる爪先が床を蹴って踊った。グッと詰まる息で、呼吸が苦しくなった。もうすぐいっぱいになる白いバー。身じろぎした背中が起き上がる。
振り向いた視線の美しさに息を呑んで、日生はフッと柔らかく笑った。
「……どうよ?」
「俺を殺す気か、お前」
「どういう意味だよ」
「好きすぎて苦しい」
「うーわ」
緩む頬の抑えが効かないまま、日生はにやけた顔をそのまま藍に向ける。
「ライバルくらいにはしてもらえる?」
「……んだな。バトッて、俺のことものにしてみせろよ」
「火ぃつけられちゃったから、覚悟しろよ」
日生はスマートフォンを操作して、画面を藍に示す。なんでも屋のアカウントだったはずのプロフィールは、「放課後音楽室」に名前を変えていた。
「それお前ひとりじゃねーんだわ」
「正式加入ですかあ?」
「お前が言うなよ、バーカ」
目尻を窄めて、頬に赤を滲ませ愛しく笑う表情。日生はギュウと胸が詰まる思いを覚えつつ、藍が差し出した掌に自身の掌を重ねた。
吐き出す吐息が熱く、胸を焦がす予感。焼き付けろ、想いを。本気で走り出せ。
《END》
