朝から保健室で過ごしていた。

「雨音くん、学校来たならちゃんと職員室に声かけてね。ま、先生的には、こうして来てくれれば様子も見られるし、それだけでも十分だけど……今日は体調、大丈夫? 数学の課題、田中先生に『出してね』って言われたから、それだけお願いね」

 いつものベッドで横になっていたところを、担任に起こされる。

 俺が言葉を発さないことに、もう慣れているんだろう。担任はいつも通り、一方的に連絡事項を伝えていく。

 リアクションせず、ただ聞き流すだけ。
 その方が、ずっとラクだ。

 目を合わせないまま、窓の外に視線を向ける。
 声を出さない分、表情で何かを読み取ろうとされるから、目をしっかり合わせるのは、どうにも苦手だ。

 課題を出してさえいれば、授業に出なくても、教室にいなくても、何か言われることが減った。
 だから、せめて課題くらいは出さないと……そう思ってる。

「今あるなら、預かるよ?」

 あとで出しに行くつもりだったのに。

 重い身体を起こし、カバンを漁る。
 ――ない。

 そういえば昨日、テキストを教室に置いてきたんだった。

 枕元に置いてあるメモを取って、
 『あとで自分で出します』
 と書き、担任に見せる。

 騒がしい教室に行くのは……やっぱり、苦手だ。
 放課後、誰もいないときを見計らって取りに行こう。

 再びベッドへ横になる。
 保健室を出ていく担任が、振り返らずに言葉を残す。

「今日までに出してね」

 昼休み終了まで、あと10分ちょっと。
 放課後は職員会議があるって言ってた。

 ……このタイミングで取りに行くしかないか。

 廊下にあふれる言葉たちを、イヤフォンの音量を上げて塞ぐ。
 教室にいることのほうが少なくて、いても声を出すこともない。

 たとえ今、自分が教室に入ったとして――
 きっと誰も、気にも留めないだろう。

 ……あの日、あいつと一緒に、俺もこの世界からいなくなっていたのかもしれない。
 そのほうが、都合がよかったのかもな。

 なんて言ったら、あいつに怒られるかな。

 廊下の一番奥の教室。
 クラスの中でも目立つ女子グループの甲高い笑い声が響く。
 「まって!それはやばい!」
 「バカじゃん」
 「きゃ~~~~~~! しぬしぬしぬ! しんどい!」
 いつも通りの、変わらない光景。

 グループの中心で笑う、風間一花《かざまいちか》
 その横を通りながら、ふと彼女に目をやる。
 不自然なくらい明るく振る舞う姿は、あの神社での彼女とはまるで別人だった。

 ─そのとき、ふいに目が合う。
 彼女が、口角を少しだけ上げた。
 その表情に、思わず目をそらす。

 女子グループの話の内容までは聞き取れなかった。
 もしや、朝の出来事を話しているのか─。
 一瞬そんな考えがよぎったけれど、彼女が、自分の話を他人にするような子には見えなかった。
 なんとなく、だけど。


 
 教室の窓際、一番前の自分の席にたどり着く。

 机の横では、陽キャの男子ふたりが笑いながら寄りかかって話していた。
 俺の存在に気づいて、一人が「あ、わりぃ」と言って少し離れる。
 視線も、言葉も、どこか気まずそうだった。

 何も言わず、静かに椅子を引いて腰を下ろす。
 机の中に手を伸ばすと、折れ曲がったプリントが無造作に突っ込まれていた。

【合唱コンクールの自由曲アンケート】

 たぶん、誰かがあとから雑に入れたんだろう。
 最近は最初から俺の分が抜かれていることも多い。
 それならそれでいいのに――と、思う。
 どうせ多数決で決まるなら、俺ひとりの意見なんて、なくても変わらないのに。

 目的のテキストと、クシャッとしたプリントを手に取って、教室を出ようと立ち上がった、そのとき――

「雨音くん、待って!」

 女子グループの真ん中から、名前を呼ぶ声が飛んできた。

 ポッキーを持った手を振っているのは、風間一花だった。
 騒がしかった教室の空気が、ピン、と張りつめ一気に冷めていく。

「え、雨音いるんだけど。めずらしっ」
「てか、一花話しかけてるのやば~」
「あいつ勇者かよ」
「話せないやつに話しかける意味」

 あっという間に集まる視線。

 一花の顔にも、名前を呼んだ声にも、悪意はなかった。
 でも今、この場で、俺に向けられる視線が刺さる。

 彼女にネガティブな言葉が向くのは、見たくない。
 だから、変に拒絶することもできなかった。


 
 そんなクラスの反応に気づいていないのか、彼女が近づいてくる。
 
 「合唱コンクールの自由曲のアンケート。雨音くんも適当に丸つけておいて」
 
 周りの人に推薦されたかなんかで実行委員に選ばれたんだろうな。
 簡単に想像がつく。
 アンケートも、音楽教師に催促でもされたのだろう。

 「あ、めんどくさいって思ったでしょ~?だめだよ?雨音くんもクラスメイトなんだから。ちゃんと全員の意見いれないとね。はい!全然適当に丸付けちゃっていいよ。あ、適当はだめか」
 
 一人で言葉を詰めるように並べながら、笑っている。
 
 勝手に話しかけて気まずそうにするのはやめてほしい。
 
「雨音くんごめんね~。風間ってちょ~っとズレてんだわ。気にしないで。」
 
 風間のグループにいる男子が、肩を組んでくる。

 その言葉にも風間は、曖昧に笑って、同じように「ごめんね」と手を合わせて笑う。
 はい、と頭の部分にチャームのついたシャーペンを渡され、逃げるに逃げられなくなった。
 シャーペンを受け取り、適当に一番上に書いている曲に丸を付け、シャーペンとプリントを彼女に渡す。
 
 それを受け取った彼女は、ぱぁっと、無邪気に笑った。
 ためらいのない笑顔。まっすぐで、曇りのないやつ。

 それが、どうしようもなく、誰かと重なって見えた。

 「ありがとう!雨音くんも練習参加してね」
 と、言って、またグループの中へと戻っていく。

 心の奥で、ひやりとした何かが広がる。
 似ている――そう思った瞬間、怖くなって、目をそらした。


 ――あいつも、彼女も、お人よしなんだよ。

 
 「雨音くんって、1年生の頃は明るかったよね?」
 「そうなん?今だいぶ陰キャだけど」
 「あれきっかけでしょ?きっと」
 「あーね。実際、うちらでも結構ショックだったしね。私もちょっと学校行きたくなかったもん」
 「ね~ぇ~、絶対嘘じゃん。やめろ?」
 「え、でもさ、実際さ、自分だったらって思ったら無理じゃない?」
 「むりむりむりむり。絶対生きていけない」
 「雨音もよくやってるよ」
 「誰目線だよ、うける」


 教室を出るとき、背中越しに聞こえてきた声。
 何度も、何度も聞いてきたような言葉だった。

 最初は、驚いたし、腹も立った。
 でも、そのたびに反応して、疲れて、やがて――もう、どうでもよくなった。

 今じゃ、どれだけ言われても、心のどこにも届かない。

 それよりも。

 ……今日もまた、あいつのいない時間を生きてることの方が、よほど重い。