一気に走ってきて辿り着いた時には、息が切れて、汗が流れ落ちてきた。
 ビルが立ち並ぶ一角。目的の場所まであと少し。関係者とかじゃないけれど、中には入れるのだろうかと不安になりつつ、進む。

「通行許可証はありますか?」
「え?」

 警備員らしき人に止められてしまった。
 ここまできて中に入れないとか、嘘だろ。絶望しかけたその時だった。

「あ、ちょっと。君もしかしてオーディション受けに来た子? もう時間ギリギリだよ。間に合わないかもしれない」

 焦る俺を見て、そばを通り過ぎた男の人が声をかけてくれた。まさか、オーディションを受けに来たんだと勘違いしてくれている。このチャンスを逃すわけにはいかない。

「オーディションは間に合わなくてもいいんです。あの、中に入るだけでも……」

 オーディションを受けに来たわけではないから、そんなのはどうでもいい。とにかく、俺は蒼空に会いたい。

「うーん、じゃあ、ダメ元で行ってみる? 会場のあるフロアは分かってる?」
「はい! 六階の多目的ホールですよね?」

 蒼空にさっき聞いていたメッセージに、書いてあったのを思い出す。

「そうそう。まぁ、頑張っておいで」

 すっかりオーディションを受けに来たと勘違いしてもらえたのか、警戒することもなく、男の人は笑顔で手を振ってくれた。ここで入れずに待つだけだったら、途方に暮れていた。

「ありがとうございますっ!!」

 俺は地面にぶつかる勢いで頭を下げてお辞儀をすると、ついにビルのドアを突破した。

 エレベーターに乗り、六階を目指す。扉が開くと、シンッとしていて、誰もいないように感じた。だけど、耳をすましてみると、わずかに声が聞こえてくる。
 そっと、極力足音を立てないように前に進む。広い廊下は窓もなく灯りはあるけれど、薄暗く感じる。いくつかのドアの前を通り過ぎて、ようやく多目的ホールと書かれたドアの前に立つ。
 やはり、聞こえてきていたのはここからの声だ。

「もう、やめてくれ……お願いだ。もう、十分だろ」

 途切れ途切れに耳に入ってきた声は、蒼空のもの。息遣いを荒くして、苦しそうな声に、胸が張り裂けそうになる。

「僕を苦しめないで……」

 泣きそうに切なくなる声で、蒼空がそう言った瞬間。俺の中でなにかが途切れて、ドアノブをひねり、ドアを思い切り開け放つと、中に入った。
 必死になって蒼空を探す。目の前に見えたのは、床に倒されている蒼空と、馬乗りになっている女の姿。
 一気に頭まで熱があがってしまって、気が付いたら体が勝手に動いていた。
 視界が宙を舞って、女を飛び蹴りで蒼空から引き離すと、すぐに震えているように見える蒼空を抱きしめた。

「遅くなった! 蒼空! ごめん、怖い思いさせて。もう大丈夫だからな!」

 ギュッと、蒼空が安心してくれるようにと無我夢中でキツく抱きしめる。
 パンッと、手を叩くような大きな音がして、ハッとした。
 そして、何度も何度も手を叩く音が聞こえ始める。これは……拍手を、されている?

 ようやく冷静になってきた頭で、周りの状況がどうなっているのか、見渡すことが出来た。
 蒼空と女の人だけしかいないと思っていた空間には、よく見ればたくさんの人がいる。そして、拍手をしている人物は、さっき入り口で会った男の人だった。

「んもぉ、いたーい! なによ、誰なのあんた! 部外者じゃない!?」

 倒れていた女の人が起き上がって、俺に向かって睨みながら声を荒げる。

「うわ、す、すみませんっ! 俺」

 夢中だったから、なんだか記憶が曖昧で。だけど、俺はさっきこの人のことを飛び蹴りしてしまった。蒼空を助けるためとはいえ、女の人に飛び蹴りとか、ありえない。なんてことをしてしまったんだと、もうやり切れない。

「申し訳ありません。僕の友達です。助けに来てくれました」

 スッと、俺の横に立ち上がって、蒼空が頭を下げた。チラリと俺の方を見て、少しだけ微笑んでくれた気がする。

「助けにって! オーディション中に乱入してくるとかありえないでしょ」

 怒る女の人に近づいて行って手を差し伸べた男の人は笑っている。

「彼はオーディション参加者ですよ?」
「え? だって、アオくんで最後だって」
「いいえ。先ほどオーディションに来たと、私が中に入ることを許可しました」
「先ほどって、とっくに時間も過ぎてるじゃない」
「ですが、彼の演技、いや、熱意をものすごく感じてしまったものですから。多めに見てくださいよ。あなたも突然蹴られて嬉しくなかったですか?」
「はぁ!? 蹴られて嬉しいわけあるか! ボケ」
「相変わらず口が悪い。皆様失礼致しました。今回のオーディションは後日仕切り直しと言うことで。皆さんまだ今ひとつ自分の殻を破り切れていなかった。彼のように度胸を持って飛び込むくらいの迫力がもっとほしいのです。なので、また出直してきてください。本日はここまでです。お疲れ様でした」

 丁寧に頭を下げて、男の人は参加者だっただろう人たちを後ろの扉から出るようにと誘導して、全員が退場し終わると、こちらに戻ってきた。

「直人くん、ですよね?」
「え……はい。そうです、けど」

 当たり前のように俺の名前を聞くから、驚いてしまう。一瞬、本当にオーディションに応募していたんだっけ? と意味の分からないことを考えてしまった。

「この前はご来店ありがとうございました。アオくんからは、今日のオーディションについて相談をもらっていました。私がいるから大丈夫だったんですが、やっぱり直人くんを頼ってしまったんですね? ご迷惑をおかけして、すみませんでした」

 またしても、丁寧に謝ってくるから、それは違うと首を振る。

「俺が蒼空のことが気になって仕方なくて。だから来たんです。蒼空は今日のオーディション頑張ろうとしていたんです。それなのに、こんな乱入してしまって、オーディションもなかったことになるなんて、ほんと、こっちこそ、すみませんでした!」

 ふっと、笑った様な気がして、顔を上げてその笑顔を見た。すぐに、蒼空に連れて行ってもらった服屋さんを思い出した。
『この前はご来店ありがとうございました』

「……って、え? あの店の人? え?」

 頭の中が混乱する。だって、あの時は違和感はあったけど、女の人だったのに。今、目の前にいるのは完全にスラリとしたスーツ姿の、綺麗な顔立ちをした男の人だ。

「え?」

 隣にしゃがみ込んだ蒼空が、無言で笑っている。

「いや、笑ってるだけじゃわかんねぇし。ってか、このおばちゃんに悪いことされそうになってたんじゃないの?」
「はぁ!? 誰がおばちゃんよ!」
「この人は今回のオーディションのための役者さん。アクション俳優さんだから、たぶん突然の飛び蹴りも上手く受け止めていたから、怪我もないよね? サファさん?」
「当たり前でしょ。がきんちょの飛び蹴りなんて蚊に刺されるようなもんよ」

 ピンピンしている様子に、俺は安心するのと同時に驚く。

「それに、問題の彼女は、私がアオと関わらないようにって裏でうまくやっておいたから、今日は来ていないの。安心して」

 小指を立てた手を顎に置き、ウインクをしてくるから、背中がぞわりとする。

「ちょっと、ユリさん、口調が店バージョンになってるよ。直人が引いてる」
「あらやだ! 二人のこと見てたら素が出ちゃったわ〜」

 指摘したとしても、もはや完全に出てるから、笑うしかない。
 俺は一気に脱力して、広い床に寝転んだ。めちゃくちゃ走ったし、心配したし、焦ったし、とにかく無我夢中だったから、ようやく安心して力がはいんねぇ。

「ありがとう、直人」

 覗き込むように微笑んでくる蒼空の笑顔に、心から安心する。

「この部屋あと一時間はとってあるから、休んでいくと良いわ。ほら、サファさんもお疲れ様。下のカフェでお茶でもしましょう」
「えー、やった! その前にユリさん着替えた方いいですよ」
「あら、それもそうね。じゃあ、お二人はごゆっくり」

 賑やかに去っていくと、一気にホールの中は静まり返った。

「ショップにいたユリさんは、実はプロデューサーもしているんだ」
「え!? ショップ店員しながらプロデューサー? え? どういうこと?」

 まだあの人が男なのか女なのかも分かっていない頭で、更に難解なことを言われても思考は上手く働かない。

「あの店は趣味でやっているだけ。普段はほとんどいないんだけど、あの日は僕が行くからって、あらかじめ連絡していたんだよ」
「……まぁ、蒼空にしては慣れたように話してたからな。気の知れた知り合いなんだとは思ってたけど」
「でしょ? 人見知りの僕が唯一心開ける人」
「……唯一?」

 なんだか、その言葉がチクリと心に刺さった。

「仕事をする上での話。僕が一番心を開いているのは、直人だよ。分かってるでしょ?」

 意地悪そうに口角を上げて笑うと、そっと、蒼空が俺の横に同じように仰向けに寝る。
 近い距離に、なんだか胸の鼓動が早くなっていく気がする。
 もうとっくに汗も熱も引いたはずなのに、隣にいる蒼空の体が近いせいか、体温が伝わってくるみたいに全身が熱い。
 動かした手、指が蒼空の手に触れた。と、同時に、蒼空が俺の手を取って繋いだ。
 熱かった体が、ますます熱を帯びていく。なんだか不思議な気持ちに不安になって、蒼空の方に顔を傾けた。
 今日の蒼空は、マスクもしていないし、前髪も上がっている。完全にモデルのアオだ。だけど、見た目はアオでも中身は蒼空で、変わらない。俺には、蒼空は蒼空にしか見えない。

 蒼空のじっと見つめる瞳が熱っぽい。なんだか、ドキドキする。
 繋がった手からなのか、見つめられた瞳からなのか、どこからか分からないけれど、全部がドキドキする。
 美々といた時は感じなかった気持ちだ。

「……なぁ、俺さ、今めちゃくちゃドキドキしてるんだけど」

 素直に言ってみると、蒼空が目を見開いた。そして、優しく微笑む。

「僕もだよ」

 ドキドキの中に、なんだか優しい愛おしさみたいな気持ちが生まれる。
 心の中があったかくなる。
 蒼空のそばにいれることが、幸せだと感じる。

「もっと、近づいてもいい?」

 蒼空が聞くよりも早く、俺を抱きしめる。ドキドキが高鳴って、なんだかおかしくなりそうだ。

「リベンジ、失敗したって思っていいの?」
「……大失敗だよ」
「悲しい?」
「いや、全然」
「そっか、やったね」

 ははっと笑う蒼空の反応は、今まで以上に嬉しそうだ。

「ねぇ、直人」
「ん?」
「好きだよ」

 至近距離で見つめられる瞳。
 逸らすことなんてできなくて、そのまま吸い込まれたいとまで思った。気が付けば、俺も頷いていて、自然と近づいて触れる唇。
 ドキドキする。
 蒼空にだけは、なにをしていても、ドキドキする。
 そして、それがすごく、愛おしくて心地いい。