小さい頃から、僕は母に溺愛されていた。「かわいいね」「すてきね」「すごいわ」と、母は何でもかんでも褒めてくれた。
それが、素直にとても嬉しかった。
ちょっとでも出来なかった事が出来たり、頑張れたりするだけで、母はいつだって褒めてくれたし、そばにいてくれたから、僕はいつしか母に褒められることで生きていくようになっていった気がする。
だけど、小学校に入学した辺りから、知らない大人に会う事が多くなって、その知らない大人たちは、僕のことを母のように「かわいい」「かっこいい」と口々に言うから、不思議に思った。
僕は母に言われるから嬉しかっただけで、知らない人にあいさつのように言われても、なんだかおかしいだけだと思っていた。
その大人たちの正体は、実は母が僕に内緒で応募していたオーディションの関係者だった。
もちろん、僕はそんなオーディションの話は見たことも聞いたこともなかったし、初めて母に連れられて来たスタジオで、その事実を知ることになった。
「君が蒼空くん? かわいーっ」
「初めまして、竹中蒼空の母です。よろしくお願いします」
バッチリとメイクののった顔に派手な衣装。 撮影の監督をしている方だと、母から説明を受けた。この時、僕は小学三年生だった。
その時は、撮影見学に連れて来てもらえただけだと思っていた。ここで、何をするとか、何かがあるとか、そんなのなにも事前には聞いていなかった。
「絶対に売れるよ君」
僕の目なんか見てない。
何を見ているのかは分からないけれど、その言葉の意味も分からないまま、母は隣で嬉しそうにはしゃいでいるように見えた。
しばらくして、ダンスのレッスンをしに行くよと、母に連れられてダンススクールに行った。やったこともないダンス。まして、僕はどちらかというと運動は苦手だった。反射神経だって鈍い。上手くなんて出来っこないのにと、最初から卑屈な気持ちでいた。
だけど、周りと比べて出来損ないの僕を、母はいつも応援してくれて、励ましてくれて、時には自分も一緒になって、上手く行くやり方を考えてくれた。
上手く出来た時は、すごく嬉しくて、母が喜んでくれるのならと、そこからダンスを頑張り始めた。
小学校を卒業する頃には、もっと小さい頃からやって来た子達に比べたらまだまだだったけれど、だいぶダンスも上達した。これから、母の望む僕になれる気がすると、気持ちも盛り上がっていた矢先だった。
突然の成長期がやってくる。中学入学前に、あまりに急激に伸びた身長。成長痛で足を痛めた。もちろん、ダンスはしばらく休まなければいけなくなった。ダンスグループのメンバーとしてデビュー間近だった僕には、大打撃だった。ステージに立つこともできなくて、初めからメンバー内に置く事ができないなんて、スタートが悪すぎる。
それに、僕の代わりなんて、いくらでもいた。僕は当然メンバーから除外された。
母も、仕方がないとは言いつつも、本当に落ち込んでいた。
『もう、蒼空には期待しません』
電話口で涙ながらにそう答えていた母の言葉を、僕は聞いてしまった。
母に喜んでもらうことを生き甲斐にしていたのに、あんなに落ち込む母を見て、もう、なにもかもどうでも良くなった。
背が高いから、モデルとしてなら今からでもデビュー出来ますよ? なんてことを、母は言われたのかもしれない。
『蒼空、モデルの話が来たんだけど、受けてみない?』
だけど、僕は嫌だった。
母に期待されて、また期待を裏切るようなことをしてしまったら、泣かせるようなことをしてしまったらと思うと、家でも素直に本音を吐き出せなくなった。
母が望むのならモデルの仕事はする。だけど、僕は竹中蒼空ではなく、アオという名前を作って、そして、誰にも期待されず、注目の的になるのも避けて、仕事も極力やる気がありませんと遠回しに断り続けた。
それなのに、世間はそんな態度のアオを受け入れ始めてしまった。
『君、なんか尖っててかわいいよね』
撮影の合間に、一緒に仕事をしていた年上の俳優女性が近づいて来て、僕の体に触れる。ぞわぞわして、気持ちが悪かった。その場には監督もいたのに、助けてなんかくれなかった。むしろ、冷たい瞳で一度だけこちらを見て、興味もないように逸らされた。
自分で作ったアオのキャラを壊したくなくて、僕は強がった。
その夜は何度も吐いて、吐いて、あれはアオがされたことであって、僕じゃないと言い聞かせた。
体調不良で仕事は休みつつ、学校へ行く。誰にも、僕がもう一つの顔を持っているということを知られたくなかった。だから、マスクをすることにした。誰にも話しかけられなくていい。人が怖くなっていたから、先生ですら、距離を置いていた。
そんな中、現れたのは直人だった。
控えめに僕に声をかけてくれて、距離感を保ったまま接してくれる。僕がマスクをしている理由も聞かないし、触れない。そのうち、当たり前に話をするようになって、僕にとって、直人は癒しの存在になっていた。
『アオ、モデルデビューが決まりそうよ。ほら、一番最初に撮影してくれたあの監督さんが、またアオに会いたいって』
『……え』
家に帰ると、母がとても嬉しそうにそう告げて来た。まだ、僕をモデルにする夢は諦めていないようだった。そして、母の中では、もう僕は蒼空じゃなくて、アオになっている。
『アオのことがずっと忘れられずにいるって。あの監督さん数々の著名人を撮ってきているから目をつけられるなんて、すごいじゃない』
心底嬉しそうにする母を、久しぶりに見た気がした。
だけど、そんな母の見えないところで、僕はまた嘔吐く。あの監督は嫌だ。絶対に嫌だ。僕の対人恐怖症になった原点はそもそもあの人だと思っている。
でも、母のことをまた悲しませたくない。
葛藤しながらも、やっぱり体は正直だ。体調をこわして、その撮影はなしになった。
だけど、勝手にアオはSNSやネットのニュースで独り歩きを始める。
知名度こそまだそこまでないけれど、今売り出し中のヒュートとの対談に参加しないかと話が持ちかけられた。あの監督がいないのならと、嫌々だったけれど参加した。撮影中も、ニコリともしないままで終わる。これでもう呼ばれないだろうと、ホッとして急いで帰ろうとしていたのも束の間。
『アオってどんなやつかと思ってたけど、思ったよりおもしれーわ。また一緒に仕事できるといいな。お疲れ様!』
人気絶大なモデルで、アイドルグループのメンバー、ヒュートには高評価を与えたようで、引き下がれなくなってしまった。雑誌が発売されて、ますますアオの知名度が上がっていってしまう。
僕の居場所が、どんどんなくなっていって、息苦しくて、毎日毎日、誰にも言えない「助けて」をマスクの下で唱え続けていたんだ。
だけど、自分で何の行動も起こせていない僕では、きっと誰も助けになんかきてくれない。
そんな時、あの日僕に声をかけてくれた直人のことを思い出したんだ。
僕がこの高校を選んだのも、直人が受験するって聞いていたからだ。でも、僕が直人を頼りにして同じ学校に行くなんて言ったら、直人はどう思うんだろうって、消極的に考えてしまって、なにも言えなかった。
歩み寄ることもしなかった僕のことなんか、直人は忘れてしまっているんじゃないかって、怖かった。でも、それ以上に、直人との繋がりが消えてしまうことの方が怖くて、嫌だった。
だから、あの日、勇気を出して声をかけた。
僕には、直人が必要だったから。
また、中学の頃みたいに、直人にそばにいて欲しかったから。
直人が笑ってくれると、僕も嬉しかったから。
「僕はもう、本当はアオにはなりたくない」
全てを話し終えて、なんだか頭の中が朦朧とする。酸素が薄くて、めまいが起こりそうだ。
直人はどう思ったんだろう。こんな僕のことを、嫌いになったんじゃないか。ただ、それだけが気になった。
話したことを今更後悔しても遅いし、聞いてくれただけでもありがたい。あとは、直人にできる限り嫌われないようにまた、静かに過ごすだけなのかもしれない。
「そんなの、ならなきゃいいじゃん」
あっけらかんとした直人の言葉が飛んできて、全神経を使って話した僕だったけど、一瞬頭の中が真っ白にリセットされた。直人があまりに楽観的すぎて、軽い調子で答えるから。
「……そんな簡単じゃないよ」
「難しく考えすぎだって。アオってさ、尖ったやつなんでしょ? じゃあ、もうやめたーって言って、逃げてくりゃいいじゃん」
「だから、そんな簡単じゃ……」
顔を上げて直人を見れば、細く呆れた目をしている。「直人には分からない」そんな言葉を投げかけてしまうところだったけど、「そんなの、当たり前だ」って返されるのが、オチだ。
直人はいつだって前向きで、自分に正直ものだ。名前がもうそれを物語っている。
そんな直人の姿に、僕はずっと前から憧れて、惹かれて、追い続けているんだと思う。
高校に入って、変わったのは僕だけじゃなかった。直人は明るくて誰とでも話せるように変わっていて、彼女まで出来た。
僕はひたすらに自分の存在を隠して消して、誰も寄せ付けずに、誰からも触れられずにいようとしてきた。
でも、本当は気づいて欲しかった。
直人に、僕はここにいるって。変わっていく直人が眩しすぎて、僕の手の届かない場所に行ってしまうようで、怖かった。
だから、声をかけた時に、変わらずにいてくれた事が、すごく、嬉しかったんだ。
「日曜日に、また例の監督のオーディションがあるんだ。行きたくない。怖くて、怖くて、たまらない。だけど、母はそのオーディションが最終目的で、僕がこれに絶対に合格出来ると勝手に信じている」
情けないけど、本当に無理だから、考えただけで体が震える。吐き気が込み上げる。
もう、直人にこれ以上話すのも限界だと立ちあがろうとした瞬間、ふわっと暖かい温もりに包まれた。
「そんなの、適当にしてくればいい。母親のために行かなきゃって思ってるなら、なんとかして行って、そこでケリつけてこいよ。なんかあったら、俺が助けに行く。絶対に」
直人に強く抱きしめられていて、全身の強張った力が抜けていった。
込み上げていた吐き気が、涙となって流れ出てくる。直人は、僕に優しすぎる。
彼女なんかなんで作ったりしたんだ。好きでもないなら、ずっと僕のそばでこうして抱きしめていてほしいのに。
直人が、僕には必要なのに。全部、この気持ちを直人に伝える事が出来たら、どんなに心強いだろう。だけど、きっとこの気持ちを直人に伝えてしまうことは、困らせてしまうことになるから、言わずにいる。
伝えたいのに、伝えられないなんて、辛すぎるよ。
直人の背中に手を回して、きつく抱きしめ返した。もう、なにも考えられずに思い切り泣いた。
道ゆく人の目なんて、どうでも良かった。
今は、直人がそばにいてくれることが、なによりも、嬉しかった。
それが、素直にとても嬉しかった。
ちょっとでも出来なかった事が出来たり、頑張れたりするだけで、母はいつだって褒めてくれたし、そばにいてくれたから、僕はいつしか母に褒められることで生きていくようになっていった気がする。
だけど、小学校に入学した辺りから、知らない大人に会う事が多くなって、その知らない大人たちは、僕のことを母のように「かわいい」「かっこいい」と口々に言うから、不思議に思った。
僕は母に言われるから嬉しかっただけで、知らない人にあいさつのように言われても、なんだかおかしいだけだと思っていた。
その大人たちの正体は、実は母が僕に内緒で応募していたオーディションの関係者だった。
もちろん、僕はそんなオーディションの話は見たことも聞いたこともなかったし、初めて母に連れられて来たスタジオで、その事実を知ることになった。
「君が蒼空くん? かわいーっ」
「初めまして、竹中蒼空の母です。よろしくお願いします」
バッチリとメイクののった顔に派手な衣装。 撮影の監督をしている方だと、母から説明を受けた。この時、僕は小学三年生だった。
その時は、撮影見学に連れて来てもらえただけだと思っていた。ここで、何をするとか、何かがあるとか、そんなのなにも事前には聞いていなかった。
「絶対に売れるよ君」
僕の目なんか見てない。
何を見ているのかは分からないけれど、その言葉の意味も分からないまま、母は隣で嬉しそうにはしゃいでいるように見えた。
しばらくして、ダンスのレッスンをしに行くよと、母に連れられてダンススクールに行った。やったこともないダンス。まして、僕はどちらかというと運動は苦手だった。反射神経だって鈍い。上手くなんて出来っこないのにと、最初から卑屈な気持ちでいた。
だけど、周りと比べて出来損ないの僕を、母はいつも応援してくれて、励ましてくれて、時には自分も一緒になって、上手く行くやり方を考えてくれた。
上手く出来た時は、すごく嬉しくて、母が喜んでくれるのならと、そこからダンスを頑張り始めた。
小学校を卒業する頃には、もっと小さい頃からやって来た子達に比べたらまだまだだったけれど、だいぶダンスも上達した。これから、母の望む僕になれる気がすると、気持ちも盛り上がっていた矢先だった。
突然の成長期がやってくる。中学入学前に、あまりに急激に伸びた身長。成長痛で足を痛めた。もちろん、ダンスはしばらく休まなければいけなくなった。ダンスグループのメンバーとしてデビュー間近だった僕には、大打撃だった。ステージに立つこともできなくて、初めからメンバー内に置く事ができないなんて、スタートが悪すぎる。
それに、僕の代わりなんて、いくらでもいた。僕は当然メンバーから除外された。
母も、仕方がないとは言いつつも、本当に落ち込んでいた。
『もう、蒼空には期待しません』
電話口で涙ながらにそう答えていた母の言葉を、僕は聞いてしまった。
母に喜んでもらうことを生き甲斐にしていたのに、あんなに落ち込む母を見て、もう、なにもかもどうでも良くなった。
背が高いから、モデルとしてなら今からでもデビュー出来ますよ? なんてことを、母は言われたのかもしれない。
『蒼空、モデルの話が来たんだけど、受けてみない?』
だけど、僕は嫌だった。
母に期待されて、また期待を裏切るようなことをしてしまったら、泣かせるようなことをしてしまったらと思うと、家でも素直に本音を吐き出せなくなった。
母が望むのならモデルの仕事はする。だけど、僕は竹中蒼空ではなく、アオという名前を作って、そして、誰にも期待されず、注目の的になるのも避けて、仕事も極力やる気がありませんと遠回しに断り続けた。
それなのに、世間はそんな態度のアオを受け入れ始めてしまった。
『君、なんか尖っててかわいいよね』
撮影の合間に、一緒に仕事をしていた年上の俳優女性が近づいて来て、僕の体に触れる。ぞわぞわして、気持ちが悪かった。その場には監督もいたのに、助けてなんかくれなかった。むしろ、冷たい瞳で一度だけこちらを見て、興味もないように逸らされた。
自分で作ったアオのキャラを壊したくなくて、僕は強がった。
その夜は何度も吐いて、吐いて、あれはアオがされたことであって、僕じゃないと言い聞かせた。
体調不良で仕事は休みつつ、学校へ行く。誰にも、僕がもう一つの顔を持っているということを知られたくなかった。だから、マスクをすることにした。誰にも話しかけられなくていい。人が怖くなっていたから、先生ですら、距離を置いていた。
そんな中、現れたのは直人だった。
控えめに僕に声をかけてくれて、距離感を保ったまま接してくれる。僕がマスクをしている理由も聞かないし、触れない。そのうち、当たり前に話をするようになって、僕にとって、直人は癒しの存在になっていた。
『アオ、モデルデビューが決まりそうよ。ほら、一番最初に撮影してくれたあの監督さんが、またアオに会いたいって』
『……え』
家に帰ると、母がとても嬉しそうにそう告げて来た。まだ、僕をモデルにする夢は諦めていないようだった。そして、母の中では、もう僕は蒼空じゃなくて、アオになっている。
『アオのことがずっと忘れられずにいるって。あの監督さん数々の著名人を撮ってきているから目をつけられるなんて、すごいじゃない』
心底嬉しそうにする母を、久しぶりに見た気がした。
だけど、そんな母の見えないところで、僕はまた嘔吐く。あの監督は嫌だ。絶対に嫌だ。僕の対人恐怖症になった原点はそもそもあの人だと思っている。
でも、母のことをまた悲しませたくない。
葛藤しながらも、やっぱり体は正直だ。体調をこわして、その撮影はなしになった。
だけど、勝手にアオはSNSやネットのニュースで独り歩きを始める。
知名度こそまだそこまでないけれど、今売り出し中のヒュートとの対談に参加しないかと話が持ちかけられた。あの監督がいないのならと、嫌々だったけれど参加した。撮影中も、ニコリともしないままで終わる。これでもう呼ばれないだろうと、ホッとして急いで帰ろうとしていたのも束の間。
『アオってどんなやつかと思ってたけど、思ったよりおもしれーわ。また一緒に仕事できるといいな。お疲れ様!』
人気絶大なモデルで、アイドルグループのメンバー、ヒュートには高評価を与えたようで、引き下がれなくなってしまった。雑誌が発売されて、ますますアオの知名度が上がっていってしまう。
僕の居場所が、どんどんなくなっていって、息苦しくて、毎日毎日、誰にも言えない「助けて」をマスクの下で唱え続けていたんだ。
だけど、自分で何の行動も起こせていない僕では、きっと誰も助けになんかきてくれない。
そんな時、あの日僕に声をかけてくれた直人のことを思い出したんだ。
僕がこの高校を選んだのも、直人が受験するって聞いていたからだ。でも、僕が直人を頼りにして同じ学校に行くなんて言ったら、直人はどう思うんだろうって、消極的に考えてしまって、なにも言えなかった。
歩み寄ることもしなかった僕のことなんか、直人は忘れてしまっているんじゃないかって、怖かった。でも、それ以上に、直人との繋がりが消えてしまうことの方が怖くて、嫌だった。
だから、あの日、勇気を出して声をかけた。
僕には、直人が必要だったから。
また、中学の頃みたいに、直人にそばにいて欲しかったから。
直人が笑ってくれると、僕も嬉しかったから。
「僕はもう、本当はアオにはなりたくない」
全てを話し終えて、なんだか頭の中が朦朧とする。酸素が薄くて、めまいが起こりそうだ。
直人はどう思ったんだろう。こんな僕のことを、嫌いになったんじゃないか。ただ、それだけが気になった。
話したことを今更後悔しても遅いし、聞いてくれただけでもありがたい。あとは、直人にできる限り嫌われないようにまた、静かに過ごすだけなのかもしれない。
「そんなの、ならなきゃいいじゃん」
あっけらかんとした直人の言葉が飛んできて、全神経を使って話した僕だったけど、一瞬頭の中が真っ白にリセットされた。直人があまりに楽観的すぎて、軽い調子で答えるから。
「……そんな簡単じゃないよ」
「難しく考えすぎだって。アオってさ、尖ったやつなんでしょ? じゃあ、もうやめたーって言って、逃げてくりゃいいじゃん」
「だから、そんな簡単じゃ……」
顔を上げて直人を見れば、細く呆れた目をしている。「直人には分からない」そんな言葉を投げかけてしまうところだったけど、「そんなの、当たり前だ」って返されるのが、オチだ。
直人はいつだって前向きで、自分に正直ものだ。名前がもうそれを物語っている。
そんな直人の姿に、僕はずっと前から憧れて、惹かれて、追い続けているんだと思う。
高校に入って、変わったのは僕だけじゃなかった。直人は明るくて誰とでも話せるように変わっていて、彼女まで出来た。
僕はひたすらに自分の存在を隠して消して、誰も寄せ付けずに、誰からも触れられずにいようとしてきた。
でも、本当は気づいて欲しかった。
直人に、僕はここにいるって。変わっていく直人が眩しすぎて、僕の手の届かない場所に行ってしまうようで、怖かった。
だから、声をかけた時に、変わらずにいてくれた事が、すごく、嬉しかったんだ。
「日曜日に、また例の監督のオーディションがあるんだ。行きたくない。怖くて、怖くて、たまらない。だけど、母はそのオーディションが最終目的で、僕がこれに絶対に合格出来ると勝手に信じている」
情けないけど、本当に無理だから、考えただけで体が震える。吐き気が込み上げる。
もう、直人にこれ以上話すのも限界だと立ちあがろうとした瞬間、ふわっと暖かい温もりに包まれた。
「そんなの、適当にしてくればいい。母親のために行かなきゃって思ってるなら、なんとかして行って、そこでケリつけてこいよ。なんかあったら、俺が助けに行く。絶対に」
直人に強く抱きしめられていて、全身の強張った力が抜けていった。
込み上げていた吐き気が、涙となって流れ出てくる。直人は、僕に優しすぎる。
彼女なんかなんで作ったりしたんだ。好きでもないなら、ずっと僕のそばでこうして抱きしめていてほしいのに。
直人が、僕には必要なのに。全部、この気持ちを直人に伝える事が出来たら、どんなに心強いだろう。だけど、きっとこの気持ちを直人に伝えてしまうことは、困らせてしまうことになるから、言わずにいる。
伝えたいのに、伝えられないなんて、辛すぎるよ。
直人の背中に手を回して、きつく抱きしめ返した。もう、なにも考えられずに思い切り泣いた。
道ゆく人の目なんて、どうでも良かった。
今は、直人がそばにいてくれることが、なによりも、嬉しかった。



