高校に入学して早数ヶ月。平凡だった俺の日常を彩るための彼女が出来たのは、つい最近だ。
 毛先をカールさせたウォールナッツブラウンの髪を風になびかせ、スクールバッグにはよく分からない水色の目立つキャラクターキーホルダーやぬいぐるみが、歩くたびにジャラジャラと音を立てている。短めのスカートから程よく筋肉のついた足が伸びて、隣を歩いていた彼女が颯爽と前にゆく。

「ねぇ、直人(なおと)ぉ」

 くるりと振り返れば、バッチリ上がったまつ毛にくっきりと描かれたラインによって強調された瞳が、ますます大きく見開いた。かと思えば、長いまつ毛が伏せて足元に視線を落とした。

「たまにはさぁ、手ぐらい繋ごうよ」
「……え」

 恥じらうように俯いた彼女は、そっと爪の先まで綺麗に整えられて、キラキラとした手を差し出してくる。
 同じクラスで、隣の席になった美々(みみ)に声をかけたのは、俺の方からだった。中学ではとくに目立ちもせず、どちらかと言えばおとなしくて存在感のない陰キャな日々を過ごしてきたおかげで、なんの事件も変化もないままに三年間を過ごしてきた。
 高校生になってもまた同じ繰り返しなんて嫌だ。ただ、単純にそう思った。
 だから、とりあえずやりすぎない程度に髪を染めた。ピアスも開けた。制服の着方も、動画や街行く高校生を観察しながら研究して、入学式を迎えた。
 運がいいことに、俺の隣の席はクラスでも特に目立つ、ギャル風の新倉(にいくら)美々だった。
 これは話しかけて仲良くなるしかないと思って、それとなく話をするようになった。そして、放課後もなにかと残っていたりする俺と一緒に、美々がいるようになった。

『直人って、彼女いんの?』

 二人きりしかいない教室で聞かれた。
 これはもしや? と、勘違いだったらやばいけど。とは思いつつ、チャンスなんじゃないかと思った。ダメならダメでしょうがない。陽キャな友達も出来たし、ダメでもなんとかなるだろう、とりあえず、今は迷うことなんてない。あの時の俺は、なぜか怖いものなしだった。

『いないよ』
『マジ!? へぇ、いないんだぁ』

 あからさまに嬉しそうにする美々に、これはいけるなと、冷静に頭が動いた。

『俺と付き合う?』
『え!! うん!付き合う!』

 あっさりとしたものだった。
 こんなに上手くいくのかと。彼女って、そんなに簡単に出来るものなのかと。なんだか拍子抜けしたくらいだった。
 俺の高校での目標が、入学早々に叶ってしまった。と言うことで、今に至る。

 まぁ、手ぐらいは繋ぐよな。彼氏彼女だし。
 そう思ったから、差し出された手をそっととる。思ったより小さくてふにゃふにゃだ。でも、爪がなんか、痛い。

「うわ、直人の手って意外とでかいねぇ。なんかノートとってる時とか細いなぁって思ってたのに」
「え、そう?」

 近い距離にきた美々の頬が色付いている。初めてみた時は、強気な感じで少し声をかけるのにも戸惑ったけど、今はそんな雰囲気ひとかけらもない。しかも、授業中に俺のことを見ていたとか、全然気が付かなかった。
 女の子と手を繋ぐのなんて、幼稚園の頃以来かもしれない。
 ふと空を見上げれば、今日も雲ひとつない快晴だ。風が強めに吹くからか、美々の体が時々腕にぶつかってくる。手を繋いだことによって、美々との距離がかなり近くなったのを感じた。
 彼女が出来たら世界は変わる。なんて、誰かが大袈裟に言っていたような気がするけど。いまいち、まだなにか物足りない。

 次の日、朝教室に入ると美々の机まわりに女子が集まっていた。
 正直、高校で彼女を作るを目標にしていた俺だけど、女子と関わるのはまだ苦手だ。
 目標のために、性格をわざと偽っている。しかし、目標達成した今、もう偽るのを終わりにしたいと思っていても、付き合うことになった相手が相手なだけに、今更キャラを変えるわけにもいかずにいる。

「おっはよー、なになにっ。めっちゃ集まってんじゃーん。さっすが美々、人気者ー」

 陽気な声高めのテンションで近づいて行けば、周りの女子たちが次々に「おはよー」と声をかけてくれる。そして、正式に彼女となった美々からは今までとは違う目線を向けられた。

「べ、別に人気者じゃないからぁ。直人と付き合うことになったって話したら、みんなが寄って来たの! それだけだし」

 普段見たことないくらいに顔を赤くして、怒ってるような口調なのに、嬉しそうな表情をしている。

「美々、ずっと本郷(ほんごう)くんのこと良いなーって言ってたもんね。良かったじゃん」
「おめでとーっ」

 キャッキャっと盛り上がる隣の席に、俺は圧倒されながらも、笑顔を顔に貼り付けて笑って話に参加していた。

 放課後になって、男子トイレの個室の中で、肩を落として座り込んでいた。
 なんだか、めっちゃくちゃ疲れた……
 女子たちの勢いが凄すぎて、会話を追うだけでも目眩がして来る。よく、今日も対応できていたな俺。でも、マジですっげぇ疲れた。
 ため息を吐き出しつつ個室から出ると、流しのところに竹中(たけなか)蒼空(そら)がいた。

「おう、蒼空。なんか久しぶりだな、会うの」

 相変わらず重たい前髪に黒マスク。ほとんど顔が見えなくて印象は暗いけど、身長は俺よりもたぶん、十センチは高いから羨ましくもある。蒼空は、高校では唯一同じ中学出身の同級生だ。

「……本郷くん、彼女できたの?」
「え? あ、うん。まぁね」
「……へぇ」

 ハンカチを取り出して拭きながら、ギロリとわずかに見える瞳がこちらを睨んだ気がした。そして、そのまま何も言わずに行ってしまった。
 元々は、俺も蒼空と同じ陰キャだった。
 クラスで目立ちもしないし、女子ともあまり、というか全然会話をしないタイプ。中学の頃は、ほとんど蒼空と過ごしていた気もする。ペアを組んだりとか、何かのグループ分けの時は、必ず蒼空と組んでいた。だから、まぁ、ひとりぼっちだったことはなかったから、それはそれで助かっていた。
 それにしても、なんで俺に彼女が出来て睨まれなくちゃならないのか。
 高校に入っていきなりデビューしてしまった俺に対して、もしかして怒っているのか? 彼女が出来たから、羨んでいるのか?
 あいつだって、もっと変わろうと思えば、めちゃくちゃ良い男なんだけどな。俺なんかよりも間違いないなくイケメンのはず。もったいない。
 そんなことを思いながら、ポケットの中に入ってもいないハンカチを探していると、スッと横からハンカチが差し出された。
 手元から見上げると、さっき出て行ったはずの蒼空が立っていて、驚く。

「え、あ、ありがとう」

 手に取ってさっと拭くと、すぐに返した。
 さっきは鋭い視線で睨まれたのに、今度はフッと柔らかく目元が緩んだ。思わず、ドキッとしてしまったのは、さっき蒼空がイケメンだと思い出したからかもしれない。

「別れたらすぐ教えてね」
「……はぁ!?」

 にっこりと笑いながら言うと、すぐに行ってしまうから、俺はその背中に思わず叫んでしまう。

「そんなすぐ、別れねーし!」

 昔の俺を知っているから、きっとあいつはあんなことを言ったんだ。隠キャが彼女作っても持つわけがない、とでも言いたいんだろう。そんなん余計なお世話だっての。
 苛立ちながら教室に戻ると、美々が一人で残っていた。

「あれ、まだ帰ってなかったのか?」
「なにそれ、ひどいし! 待ってたんだよ、直人のこと!」
「え、あ、まじ? わりぃ」

 今までは女子グループとカフェだ、カラオケだと言いながら、放課後になるとあっという間に居なくなっていたのに、今日は珍しく美々一人だけ教室に取り残されていたから、なんだか少し悪い気になる。

「一緒に帰りたかったから……」

 ポツリと、さっきまでの勢いがなくなって、しおらしくなる美々に驚く。本当に、今まで見てきた美々とは、なんだか一八〇度違う気がするのだが、たぶん気のせいではない。

「あー、美々! 良かった、まだいた!」
「遥、どうしたの?」

 ドタバタと足音を響かせてやってきたのは、よく美々と一緒に行動している同級生、(はるか)。手にしていた雑誌を美々の机の上にバンっと置いた。

「見て! ヒュートが表紙!」
「まじ!?」

 立ち上がった美々と興奮気味な遥がなにやら騒ぎ出す。二人を横目に帰る支度をする俺は、遥が机の上に広げた雑誌のページが視界に入ってきて、思わず視線が逸らせなくなった。
 開かれたページには、何人かのイケメンが質問に答えているようなレイアウトで載っていた。その中に、明らかに見覚えのある人物。

「え、なんで?」

 思わず、声に出してしまっていた。

「ん? どうしたの? 直人」

 すぐに、こちらに気がついた美々が首を傾げた。

「これってさ……」

 そっと、ページの中の一人を指差す。
 黒髪をセンター分けして、ぱっちりとした瞳は目力が強い。獲物を捕らえるような鋭い視線で、睨まれている気もする。

「え! アオくん?」
「……アオ?」
「そうそう、最近よく雑誌出てるよね。モデルデビュー直前とか書いてるけど、本人はあまり乗り気じゃないっぽい。でも、かなりスタイル良いしビジュも良いから、絶対人気出ると思うんだけどなぁ」
「それ、無口であまり語らないとこが良いとか言ってる子もいるから、すでに人気は出てるんじゃない?」
「まぁね、あたしもヒュートがいなきゃアオくん推しなんだけど、ヒュートが神すぎてっ」

 ページを閉じて、表紙のヒュートとやらに熱視線を向ける遥に、もう一度今のアオくんを見せてくれとは言えなくて、なんだか胸の中がモヤモヤする。
 誰がどう見てもキラキラのイケメン。雑誌に載るようなモデルのアオくんが、俺の知っているあいつなわけがないとは思うのだが、俺にはどうしても、蒼空にしか見えなかった。

 校舎を出るまで、美々と遥はさっきの推しの話で盛り上がっている。
 俺は、その後ろでスマホを取り出し検索をかけた。
 【モデル アオ イケメン】
 知った情報がこれしかなくて、だけど、検索表示のトップに当たり前のように、さっきと同じイケメンが出て来た。
 普段と髪型も表情も全然違うけど、やっぱりこの目は、蒼空で間違いない。
 確信を持つと、なんだか胸がドキドキと高鳴っていく。秘密を知ってしまったことが、なんだか嬉しいような、申し訳ないような。
 もしかしたら、普段顔を隠しているのは、単に隠キャなだけじゃなくて、こう言う事情があったからかと、妙に納得できた。
 だけど、あの蒼空が、モデルかぁ。
 さっきまでは自分よりも下の存在だと思っていたのに、一瞬にして天よりも高い存在だったと知って、なんだか落胆してしまう。
 悔しいというより、虚しい。
 あれ、俺、なんでこんなにショック受けてんだろう……

「直人っ」
「え、」

 弾む声が聞こえて来て、右手に触れる感触。

「もう、遥ってば推しの話で盛り上がり過ぎだよね。せっかく二人だけで帰れるはずだったのに」

 ぷぅっと頬を膨らませて怒っている美々が、こちらを上目遣いで見てくる。
 やっぱり、今までの美々とは別人だ。
 甘えて来るような仕草に、違和感を抱いてしまった。

「そう、だね」

 横に一歩離れて美々から視線をずらすと、美々が手を離した。

「……ごめん。距離感、バグった」
「え」

 また隣を見れば、今度は泣きそうに顔を歪めている美々がいて、驚く。

「あたしさ、直人が思ってる以上に直人のこと好きだったみたいで……付き合えるのめっちゃ嬉しくって、だから、つい、はしゃいじゃって……ごめん」
「……あ、いや」

 そんな落ち込まれても、なんて言っていいのか困る。上手く言葉が出て来なくて、気まずいまま美々とは「また明日」と手を振り、駅で別れた。
 はぁ。思わずため息が出てしまう。
 彼女が出来たからといって、その後のことなんてなにも考えていなかった。とにかく、中学の頃の暗くて恥ずかしがって女子とは喋れずに、決して前に出れない性格を打破したくて、俺は変わったんだ。だけど、正直それにも無理は感じてきている。
 もう一度ため息を吐き出しそうになったところで、後ろから声をかけられた。

「本郷くん」

 振り返ると、蒼空が立っていた。

「おう、蒼空。今帰り?」
「うん。本郷くんも?」
「そう」

 電車が来る合図を聞きながら、俺は前を向いたまま答える。

「なんか、元気ない?」
「え、あー、ちょっとね」

 俺のことを気にかけてくれるなんて、やっぱり蒼空は優しい。中学の時も、俺のつまらない悩みを聞いてくれるのはいっつも蒼空だったな。そんなことを思い出していると、電車が来て、二人で乗り込んだ。
 蒼空とは中学が同じだし、当然帰る電車も同じ方向だ。高校に入ってからは、一緒に帰ることはなかったけど、たぶん、俺が目立つような奴らと仲良くなってしまっていたから、声をかけづらかったのかもしれない。

「彼女とうまくいってないの?」
「え」

 俺の反応に、蒼空がじっと見つめていた瞳を緩ませる。

「うまくいってないんだ?」
「な、なんで嬉しそうなんだよ。腹立つ。ちょっと分かんなくなっただけだよ」
「へぇ、なにが?」
「彼女が出来たからって何をすれば良いのか、よく分かんなくて」

 正直に話して、もう一度蒼空の方を見ると、わずかに前髪の隙間から見える瞳が細くなった。

「そうなんだ。僕なら……」

 うーん、と悩むように顎に手を置いた蒼空は、次の瞬間俺の膝の上に置いていた手をそっと掴んでくる。

「は!?」

 慌てて振り払うと、なぜかドクドクと高鳴る心臓を押さえながら、少し蒼空と距離を取った。

「あれ? もしかして、まだ手も繋いでないの?」

 俺の反応を見て、呆れたように聞いて来るから、「繋いだよ、手くらい」と、少し怒り気味で返してしまう。

「なーんだ。繋いだのかぁ」
「なんだよ。俺だって別に何もしてないわけじゃねぇよ?」

 焦って、つい、もう何かあったみたいな話し方になってしまった。けれど、単なる強がりだ。そんな俺に対して、蒼空がギロリと睨んでくる。

「な、なんだよ……」
「別に」

 ふいっと、視線を真っ直ぐ前に戻した蒼空の表情は、前髪とマスクで全然分からない。
 彼女がほしいとか言って、いざ出来ても何をすれば良いのかよく分からないでいる俺なんかに、呆れているんだろう。
 そもそも、蒼空はどうなんだ。
 学校ではほとんど誰とも話さないで、一人でいるのをよく見かける。つまらなくないのかな、なんて余計なことを考えてしまう。
 ふと、見上げた先に、さっき教室で見た雑誌の表紙が目に入った。美々の友達の遥の推し、ヒュート。そして、あの雑誌の中に載っていた、アオと言うモデルのことを思い出す。

「なぁ、蒼空」
「ん?」
「お前ってさ、モデル……とか、やってる?」

 じっと、鋭くこちらを見つめるヒュートと目を合わせながら聞くと、すぐには返事が返って来なくて、数秒過ぎてから視線を蒼空に下ろした。

「なんで?」

 至って冷静に、蒼空は聞いて来る。

「あ、いや。さっき教室で女子が見てた雑誌に、アオってモデルが載ってたんだけどさ、あれってどう見ても、お前……」

 最後まで言う前に、電車は目的地に辿り着く。そして、蒼空がまた俺の手を掴んだ。今度は、振り払う隙なんてなくて、そのままの勢いで立ち上がった。

「は? ちょ、なん、だよ」

 訳がわからず、引っ張られながら、俺は電車から降りた。そして、そのまま改札を抜けて、どんどん先に進んでいく。
 人もまばらになって、あたりが薄暗い道の途中で、ようやく蒼空は止まった。そして、公園の外壁に俺を追い詰めて、手をつく。

「絶対に誰にも言うな」 

 低くて重い声。
 すぐ目の前にある蒼空の表情は、暗がりでよく見えないけれど、焦っているように感じた。

「な、なんだよ。別に言わねぇよ!」

 睨む瞳が、鋭さを増して俺を見て来るから、危機感に心臓が速くなっていくのを感じる。
 冷や汗が出て、背中に流れていくのを感じながら、嘘じゃないと、睨んでくる蒼空の目から、俺も逸さずに睨み返した。
 こんな乱暴なことをするやつじゃないとは思っていたけれど、思いがけない蒼空の行動には、驚くしかなかった。
 ハッとしたように目を見開いてから、蒼空はようやく俺から目を逸らして俯いた。そして、小さく「ごめん」と謝るから、首を横に振った。

「でも、あのモデルが蒼空ってことは、本当なんだな?」

 今の行動からして、普段からモデルのことを隠して生活しているのは、よっぽど知られたくないことなんだと思った。
 公園内のベンチに場所を変えて、俺と蒼空は少し距離をとって並んで座った。

「いつから?」
「……中ニの終わりくらい」
「え、中学ん時からやってんの?」

 驚いた俺に、蒼空はこくりと頷く。
 一応友達として接して来ていたのに、何も知らなかった。
 ただ、一度だけ、休みの日に蒼空を家の前で見かけたことがあったけど、あの時の蒼空は学校での姿と全然違う格好で、なんだか芸能人みたいにカッコいい見た目だったのを覚えている。だけど、俺は別にそれを気にも止めずに、なにも突っ込むことなく過ごしていた。
 もしかしたら、あの時からすでに、モデルとして活動していたということなのだろうか。

「すげぇじゃん。全然知らなかった。ってか、めちゃくちゃ有名人じゃんアオって」

 さっき知ったばかりのモデル、アオの情報を思い出す。

「アオのことは、知ってたの?」
「いや? 全然。さっき検索して知った」

 スマホを片手に、もう一度アオの情報を表示しようとして、遮られる。

「本郷くんは知らなくていい」
「……え?」
「知って欲しくない」
「え、なんでだよ。別にいいじゃん、カッコいいだろ、モデルとか」
「そんなことない」

 蒼空が寂しそうに目を伏せるから、なんだかこれ以上は深入りしない方がいいと感じて、スマホをポケットにしまった。

「ところでさ、なんで蒼空、俺のこと本郷くんなんて呼ぶの? 前は直人って言ってたじゃん」

 中学二年のクラス替えで、初めて同じクラスになった。友達が少ないだけなのか、まったくいないのか、とにかく教室の中で俺と蒼空だけが浮いていた。だから、お互いに似たもの同士だなと思ったのかもしれない。
 勇気を出して話しかけてみたら、ずっと無愛想な顔で真っ直ぐ黒板を見ていた蒼空が、笑ってくれてホッとした。

 蒼空は、俺が出会った頃にはもうマスクをしていた。最初は風邪でも引いているかと思っていたけど、一週間、一か月経っても、蒼空がマスクを外す様子はない。もう、それが当たり前になっていて、不思議とも思わなくなっていた。
 けれど、さすがに真夏の炎天下。体育の授業ではマスクを外さないと、息苦しくて死んでしまうんじゃないかと思って、思わず聞いていた。

『なんでマスクしてんの?』
『顔、見られたくないから』
『え? そんな理由?』
『僕にとっては大事な理由だよ』
『……ふーん』

 そこまで、俺は蒼空の顔に興味もなかったし、中二で背も高くて大人びている蒼空だったから、ニキビでも気にして隠しているのかもしれない、なんて、たいして気にもしなかったのを思い出す。

「モデルをやってたから、顔隠してたんだな」

 ようやくあの頃のことが、腑に落ちる。
納得して頷いていると、蒼空が大きなため息をついた。

「別に、それだけが理由じゃないけど」
「え? なんだよ。他にもあんの?」

 驚いて聞く俺に、蒼空は目を細めて何も言わずに視線を逸らした。他にもある理由は言いたくないらしい。

「まぁ、モデルのこと、俺は誰にも言わないよ。安心しろ」
「……それは、ありがとう」
「で、俺のことも絶対に言うなよ」
「……え?」

 きょとんと、緊張感の抜けた顔をしてこちらを見る蒼空に、ため息が出てしまう。

「俺が中学の時、ダサかったこと、絶対言うなよ。美々にバレたらマジで別れようって言われそうだし」

 今まで作り上げて来たものが全部雪崩の如く崩れ落ちていくのを想像すると、足が震えて来る。

「それって、僕と本郷くんだけの秘密ってこと?」
「おう! そうだな! 秘密だ。まじ、シークレット!」
「じゃあ、本郷くんは、僕がモデルだってことをバラさないし、僕は本郷くんがダサかったことをバラさない。お互いにお互いの秘密を共有するってことだよね」
「……そう、だな」

 みるみるうちに、蒼空の瞳が輝きだすから、自分の言葉に自信がなくなっていく。

「絶対に約束だよ」

 スッと小指を向けられて、戸惑いながらも小指を絡めた。
 マスク越しでもわかる。蒼空がめちゃくちゃ笑っていることが。そんなにモデルであることを隠したいのかと、有名になったことなんてない俺にはわからない心情だけど、ホッとしてくれたなら良かった。
 それになんだろう。美々と手を繋ぐよりも、今、蒼空と繋がる小指がジンジンとする。なんだか、熱を持っているみたいに熱くて、胸までドキドキしてしまった。