肩口で黒髪を切りそろえて、どこか凛とした雰囲気を纏う少女。空良円花。制服はみんなと同じ、膝丈スカートに半袖なのに、衣服の覆われていない手足が白くひょろひょろとしていて、周りとすぐに見分けがつく。
円花は今、水着を手にして、どこかへ行こうとしているところだった。その水着が円花のものではなく、人のを漁って取り出したところも視力1.5で確認した。
円花の不審な行動を、僕は渡り廊下の奥から見ていた。僕以外に円花の行動に気付いたものはおらず、僕の隣の友達たちは馬鹿なことを言い合って笑い合っている。
僕もそうやって円花の行動を忘れるべきなのだろう。僕には関係ないのはわかりきっていたし。
(どうしたんだろう、空良さん……)
でもなぜだか胸がざわついた。触れ得ぬと思っていた月に、少し近づいたような、期待感。
円花が理科準備室にこもっているのは知っていた。
ずっと彼女のあとを目で追っていたから。彼女がふらりと教室を出ていくときも、それとなく後を追いかけて、そして、理科準備室をねぐらとしているのを突き止めた。
理科準備室は本来は鍵をかけているはずだが、昼休みは開いていることが多い。戸のガラス部分は段ボールがはられていて覗き込めず、窓際には絶対に黄ばんだカーテンがひかれている。
だから昼休みには、なかに先生がいるのだろうか? まさか円花ひとりなんてことないよな――と勝手に考えていた。
「悪い、トイレ」
僕はそう言って、仲間たちから離脱した。
「そんなに急いで、下痢か!? うんこかー!?」
と、仲間たちが騒いでいたが、構いやしない。
僕は走って、階段上まで駆け上がり、理科準備室を目指した。
理科準備室の前に辿り着き、戸の前で深呼吸。
僕は今まで円花とほとんど話したことがない。前後の席だったときにプリントを渡す際に「ん」「ありがとうございます」という会話はしたが、それは会話ではないだろう。
緊張していて、ノックなんてものはすっかり抜け落ちてしまった。
呼吸を整えると、僕は一息に戸をガラリと開けた。
そこには――
そこには、円花が乱れた衣服で寝転んでいた。段ボールの隙間に少しだけある床の隙間に、百均で売っているようなお昼寝マットを敷き、その上に円花は寝転んでいる。
細くて白い指はぐしゃぐしゃになったスカートの下のショーツの中に入っている。
水着は丸められて、円花の口元へ――
「な、なにしてるの……」
まったく予想していない展開だった。
(いや、エグいって)
なにをしているんだ、なんて間抜けな問い方をしてしまったが、僕も年頃の男子らしく、そういった知識は少しあるので、なにをしているのかはわかった。でもなぜそうしているのかはよくわからなかった。
水着は女の子のもので、空良円花は女の子で――なぜ?
頭の中が「?」で埋め尽くされる。
「戸、しめてくれない」
戸を開けた瞬間時間停止をくらっていた円花が動き出す。ショーツから手を抜いて、クールに言った。
僕は言われた通りに戸をしめる。念のため顔だけ廊下に出して、ほかに見ていた者がいないかも確認した。周りには人気はなく、大丈夫そうだった。
その間に円花は起き上がり、乱れた服装を正し、しゃんと座っていた。
「なんでここに来たの?」
「ええとそれは……空良さんが水着を持って入っていくのが見えたから」
「七瀬が好きなの? 七瀬を庇おうと思ってきたの?」
円花が水着を広げると、胸につけられた「七瀬」という字が読み取れた。
「いや……七瀬さんはどうでもいいんだけど」
(どちらかといと、空良さんが好きなんだけど……)
心の中でつぶやいて、でもそれは口にできなかった。さすがに。
「そう……」
円花はどういう解釈をしたのかうなづき、それから続けた。
「あのね……言っても、墨田君は信じないと思うんだけど、『俺』男なの」
「え? でも空良さん……」
(女の子だよね?)
体つきも――あ、胸はあんまりないけど――、軽やかな高い声も、言動もなにもかも、女の子らしいと僕は見ていた。男らしさを頑張って見つけようとするならば、堂々とした態度は男っぽいかもしれない。けど最近の気が強い女性ってみんなそうじゃない?
「中身は男なの。いつもクラスで一人称は『私』を使っているけど、本当は『俺』なの。だから七瀬が好きなの。犯したいの」
「え……えっ」
新事実が開陳され、僕は失恋するとともに、急に気持ち悪さが襲ってくる。
「おか……犯したいって犯罪じゃん!? なに言ってるの!? っていうか、水着を盗ってるのも犯罪だし!! 気持ち悪いよ、空良さん!!」
「水泳は五限。水着は五限までに返すから問題ない」
「そういう問題じゃない!」
叫んで、僕は口元を押さえた。大きな声を出しすぎた。
「でもさ、墨田君も同じ男なら、わかるんじゃないの? この気持ち……」
「わか、わかりたくないよっ!」
小さな声に留めようと思ったが、どうしてもできなかった。
僕はまた叫んで、理科準備室を飛び出した。
◆
僕は大人になんてなりたくない。
男友達が言う「おっぱいが大きなお姉さんに抱かれて死にたい」もわからなかったし「高校生になったら、彼女とヤリまくりてー」という言葉も下品すぎて、吐き気を催した。
「見たくないって」
「いいから見てみろよ、カズ」
兄に無理やり引っ張られて見せられたパソコンの画面では、男と女が裸で絡み合っているもので、
「嫌ッ」
僕は反射的に目を閉じて耳を塞いだ。
「そんなんじゃ大人になれないんだぞ」
兄にそう言って笑われたけど、僕はそれでもよかった。
大人になるためにそういうことをしなきゃいけないなら、一生子供のままで良かった。
男子生徒の話題や、兄から強制的に伝えられる情報で、子供を作るにはそういうことをしなきゃいけないのだとはわかっていた。でも、僕は、子供というのは男女が愛し合って、精神的に結びついて、新しい小さな生命を獲得するのだと思っていたし、そう思い続けていたかった。
保健体育で第二次性徴を学んで、今の中性的な体から、次第に男らしく逞しくなっていく成長や、声変わりが憎くて憎くて仕方なくなった。
時が、止まってほしかった。
いまの体のまま、死ぬまで、生きていたかった。
でも大人になるための目覚めは、着実に始まっていて――僕の願っているとおりには、なってくれないみたいだった。
いま僕の手には、白っぽい濁りを含んだ透明な液体がついている。
家に帰って、トイレに閉じこもりながら、今日のことを思い出していたら、そうなった。
(最低すぎる……)
玉ねぎを切ったら涙が出るのと同じように、生理現象なのはわかっていたが、自己嫌悪は収まってくれなかった。
トイレの壁を僕は殴る。殴って、殴って、殴る。拳が痛んだ。
トイレから出て、家族がいるところで泣き叫び暴れたくなった。そんなことをしても、家族は困ったような顔をするだけで、恥を捨てて悩みを告白したとて、母も父も兄も――きっとだれひとり理解してくれないだろう。家族だけじゃなくて、きっと友達のだれひとり理解してくれない。それが予想できるのも、つらかった。
◆
昼休みは給食を摂ったあとの三十分間しかない。大切な休憩時間。
仲間たちはバスケやサッカーをすることが多い。
だが今日は僕は仲間の誘いを断り、理科準備室に向かっていた。
今日はきちんとノックをする。
「どうぞ」
と、円花の声が聞えてから、僕はそっと戸を開けた。
円花は今日は床に寝っ転がっているということもなく、僕に横顔をみせる形で机に座り、本を読んでいた。ちらりと僕を見、すぐに視線を本へと戻す。
「墨田君か。なにしに来たの?」
「空良さんと話をしてみたいなって思って……」
窺うように視線をやったが、円花はあまり気にした様子もなく、ふつうに本を読んでいた。迷惑だと言われるかと思ったが、はっきりとした拒絶もないことに安堵する。
「いいよ。何話す?」
「空良さんって自分の性欲、気持ち悪くないの? あ、えと、その……男性なら抜くのは当たり前だけどさ、その円花さんは身体は女性なわけじゃんか……その齟齬が気持ち悪くないのかなって」
「抜くのは気持ち悪くないけど、自分の身体はキモイ。なんで女なんだろーって思う」
「男性になりたいの?」
「うん、まあ。手術とかホルモン剤はこわいけど、やっぱり男性器があったほうが、女性と付き合いやすいし。それに胸とか違和感しかない。キモイ」
「……そうなんだ、あの……あのさ……僕は、男性の性欲が気持ち悪いんだよね」
「へえ?」
そこで円花はようやく僕をじっくりと見た。
「話してみてよ」
「話す……ことも、ないような……あるような……。僕はこのままがいいんだよね。大人の男性になるのが怖いんだ。せ、性行為が怖い。なにもしたくない」
まごつきながら、僕は本心を話した。
「好きな人はいるの? 女子?」
「……一応いるよ」
(空良さんなんだけど!)
「へえ。LGBTQのどれかなんじゃない? LGBTQはわかる? レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クエスチョニング・クィア。性別がないとか、中性とかはクエスチョニング、クィアに含められるよ」
「…………うん」
そこまでは僕もスマホで検索して、知っている。
「でもさ、僕が一番聞きたいのは……気持ち悪さをどうしたらいいのかってことなんだよね」
「なるほどね。いまは自分のこと、自分で認めてあげられているの?」
「えと、認めるって……?」
円花は顎に手をあてた。
「性自認は中性だけど性欲はあって女の子が好き、とか自分できちんと認識できているっかって話」
「認識するとどう変わるの? 他人がAV見せてくるとき、気持ち悪くなくなる? 男友達の下品な下ネタを肯定できるようになる?」
「あのね、墨田君」
ちょっと落ち着いた声音で、円花は僕を止めるように名前を呼んだ。
いけない。食い気味になってしまっていた。僕は反省し、口をつぐむ。
「世界が自分を認めてくれないなんて当然でしょ。たとえLGBTQじゃなくても、性差別はありふれているし、体と精神の性が一致しているとかも、あまり関係ないの。世界はいつも俺vs.多数。残酷で厳しい世界なの。だからね、自分だけは、自分を認めてあげようっていう気持ちが大事じゃないって俺は思うわけ」
「……うん」
「この世界に白馬に乗った王子様はいない。救世主は現れない。地獄から救い出してくれる蜘蛛の糸もない。だから、自分で自分を捨てずに、自分だけは自分を愛して、生きていくことが必要なんじゃないの?」
「…………」
僕はさらに押し黙ってしまった。そんなふうに考えたことはなかった。
僕が黙ると、円花もそれ以上続けることはなかった。
壁にかけられた時計で時間を見て、あと五分で昼休みが終わるというところで――僕は訊ねた。
「ねえ、どうして理科準備室の鍵、昼休みだけ開いてるの?」
まるで空良さんを迎え入れるためだけに開いているみたいで、変だと思っていたのだ。
「それは……俺がここの鍵担当してるユカちゃんと、寝たから」
(え? 冗談?)
円花はさらりと言って、
「もうそろそろ出て行って。また来てもいいけど、理科準備室から一緒に出るとこ見られるの嫌だから」
「わかった」
と、僕は返事したのだった。
◆
その日の放課後、帰りの会が終わり、解散となったときに事件は起きた。
僕が仲間たちと少し話している間に、女子たちが口論になっていた。
「また七瀬ってば嘘ついてる。だからいじめられるんでしょ?」
そんな声が、女子の間から聞こえてきた。
いじめられている七瀬と、その七瀬をいじめている女子たちが中心になって口論になっているようだ。
仲間たちは女子のその争いに興味もなく「じゃな」と言って帰ってしまった。
僕はなんとなく予感がして、帰れずにいた。ちらりと見ると、円花も帰りのカバンを背負ったまま、七瀬たちのほうを見ていた。
そのうち七瀬は泣き出してしまう。いじめっこたちのほうは、七瀬が負けたのを見て、笑い声をあげていた。
円花が動く――
「なにがそんなにおかしいわけ?」
「え?」
七瀬と相対していた一番強そうな、背が高くて肌が浅黒い、三木さんが笑いながら振り向く。
三木さんの頬へ、円花の鋭い手のひらが吸い込まれる。
それはスローモーションみたいだった。
「女の子泣かせて、あんた、最低だね」
ぱちんと肉の当たる音が弾け、三木さんは「なにがなんだかわからない」というふうに、表情をなくし、束の間、静寂。
一拍おいて、周りが「なにしてんの! 空良さん! 大丈夫?」と三木さんに駆け寄る。
「はっ、七瀬のほうが何倍も痛いっつーの」
と、円花は言い残し、教室を出て行った。
僕はすぐに円花を追いかけた。
(空良さん、空良さん、空良さん……!)
僕は円花に追いつく。呼吸を整える暇もないまま、感情の溢れるままに言ってしまう。
「空良さん! すごくカッコよかった!」
「……そう。それより教師に告げ口される前に逃げなきゃ。はやく帰りたいし」
円花は落ち着いていた。
昇降口に辿り着いて、靴を二人で履き替える。
「あのさ、空良さん」
「なに?」
「ふたりで逃げたい」
「え? もしかして……」
(空良さんを好きなのバレた?)
言い当てられるかと心の弱い部分が怯えたが――
「七瀬を助ける算段を立てたいってやつ?」
「違うよ」
(全然違った)
ふーっと安堵の息を吐く。
そんな僕を横目に、円花は円花でため息を吐いた。めんどくさいことがやっと終わったというような意味のため息だと、僕は思った。
「ふーん。まあいいや。今日はいっしょに帰ろうか」
「うん」
僕はわくわくとしながら答えた。円花が男である以上は、男の僕を好くとは思えないし、僕が七瀬を好きなのだと勘違いされている状態でしか、この友好的な関係は続きそうにはなかったが――それでもよかった。僕が好きな空良円花といっしょにいられる時間が、性別だとか性欲だとか気持ち悪いものを忘れられて、いまの僕には至上の幸福に感じられた。
「ね、空良さん。少し寄り道すると、たい焼き屋さんがあるんだけど、買っていかない? お金持ってる?」
「少しなら……」
「じゃあ寄っていこ」
僕たちは数少ないお小遣いでたい焼きを買い、公園で食べた。
学校にお金を持って行っていることも買い食いも、学校では禁止されていることだったが、僕らのどちらもそのことについてなにも言わなかった。
公園のブランコに乗りながら、僕は言う。
「空良さんが悪いことしたら、僕もどこまでも一緒に逃げるよ……」
「なにそれ。っていうか、七瀬の水着、借りてたこと言いふらされるかと思ってびくびくしてたのに」
「しないよ」
「約束する?」
「うん、約束する。ね、ね、僕ら二人で『居場所委員会』を結成しようよ」
「なにそれ」
「僕たちがありのままでいられる居場所を作るんだよ」
それは授業中考えていたことだった。円花は「世界はいつでも俺vs.多数」と言った。それを「俺と少数の理解者vs.多数」にできないかなと思ったのだった。
円花に話して笑われるかと思ったが、彼女は笑わなかった。
「それ、いいんじゃない。理科準備室っていう場所もあるし、あとは理解してくれそうな人を集めてくればいいだけ」
飛び上がりそうなほどのうれしさがあった。
「じゃあ明日から……活動しようか」
「そうしよう」
帰り際、僕たちは、指切りげんまんをした。
たとえ小指だけでも好きな人に触れられたのは、嬉しかった。
「なんか同性と話してる気分なんだけど……」と円花に言われながらも、胸の中に温かなものが広がっていった。
円花とこれから話していくなかで、彼女のことをもっと知りたいと思った。現実の窮屈さから、救われたいし、救ってあげたいと思った。
円花は今、水着を手にして、どこかへ行こうとしているところだった。その水着が円花のものではなく、人のを漁って取り出したところも視力1.5で確認した。
円花の不審な行動を、僕は渡り廊下の奥から見ていた。僕以外に円花の行動に気付いたものはおらず、僕の隣の友達たちは馬鹿なことを言い合って笑い合っている。
僕もそうやって円花の行動を忘れるべきなのだろう。僕には関係ないのはわかりきっていたし。
(どうしたんだろう、空良さん……)
でもなぜだか胸がざわついた。触れ得ぬと思っていた月に、少し近づいたような、期待感。
円花が理科準備室にこもっているのは知っていた。
ずっと彼女のあとを目で追っていたから。彼女がふらりと教室を出ていくときも、それとなく後を追いかけて、そして、理科準備室をねぐらとしているのを突き止めた。
理科準備室は本来は鍵をかけているはずだが、昼休みは開いていることが多い。戸のガラス部分は段ボールがはられていて覗き込めず、窓際には絶対に黄ばんだカーテンがひかれている。
だから昼休みには、なかに先生がいるのだろうか? まさか円花ひとりなんてことないよな――と勝手に考えていた。
「悪い、トイレ」
僕はそう言って、仲間たちから離脱した。
「そんなに急いで、下痢か!? うんこかー!?」
と、仲間たちが騒いでいたが、構いやしない。
僕は走って、階段上まで駆け上がり、理科準備室を目指した。
理科準備室の前に辿り着き、戸の前で深呼吸。
僕は今まで円花とほとんど話したことがない。前後の席だったときにプリントを渡す際に「ん」「ありがとうございます」という会話はしたが、それは会話ではないだろう。
緊張していて、ノックなんてものはすっかり抜け落ちてしまった。
呼吸を整えると、僕は一息に戸をガラリと開けた。
そこには――
そこには、円花が乱れた衣服で寝転んでいた。段ボールの隙間に少しだけある床の隙間に、百均で売っているようなお昼寝マットを敷き、その上に円花は寝転んでいる。
細くて白い指はぐしゃぐしゃになったスカートの下のショーツの中に入っている。
水着は丸められて、円花の口元へ――
「な、なにしてるの……」
まったく予想していない展開だった。
(いや、エグいって)
なにをしているんだ、なんて間抜けな問い方をしてしまったが、僕も年頃の男子らしく、そういった知識は少しあるので、なにをしているのかはわかった。でもなぜそうしているのかはよくわからなかった。
水着は女の子のもので、空良円花は女の子で――なぜ?
頭の中が「?」で埋め尽くされる。
「戸、しめてくれない」
戸を開けた瞬間時間停止をくらっていた円花が動き出す。ショーツから手を抜いて、クールに言った。
僕は言われた通りに戸をしめる。念のため顔だけ廊下に出して、ほかに見ていた者がいないかも確認した。周りには人気はなく、大丈夫そうだった。
その間に円花は起き上がり、乱れた服装を正し、しゃんと座っていた。
「なんでここに来たの?」
「ええとそれは……空良さんが水着を持って入っていくのが見えたから」
「七瀬が好きなの? 七瀬を庇おうと思ってきたの?」
円花が水着を広げると、胸につけられた「七瀬」という字が読み取れた。
「いや……七瀬さんはどうでもいいんだけど」
(どちらかといと、空良さんが好きなんだけど……)
心の中でつぶやいて、でもそれは口にできなかった。さすがに。
「そう……」
円花はどういう解釈をしたのかうなづき、それから続けた。
「あのね……言っても、墨田君は信じないと思うんだけど、『俺』男なの」
「え? でも空良さん……」
(女の子だよね?)
体つきも――あ、胸はあんまりないけど――、軽やかな高い声も、言動もなにもかも、女の子らしいと僕は見ていた。男らしさを頑張って見つけようとするならば、堂々とした態度は男っぽいかもしれない。けど最近の気が強い女性ってみんなそうじゃない?
「中身は男なの。いつもクラスで一人称は『私』を使っているけど、本当は『俺』なの。だから七瀬が好きなの。犯したいの」
「え……えっ」
新事実が開陳され、僕は失恋するとともに、急に気持ち悪さが襲ってくる。
「おか……犯したいって犯罪じゃん!? なに言ってるの!? っていうか、水着を盗ってるのも犯罪だし!! 気持ち悪いよ、空良さん!!」
「水泳は五限。水着は五限までに返すから問題ない」
「そういう問題じゃない!」
叫んで、僕は口元を押さえた。大きな声を出しすぎた。
「でもさ、墨田君も同じ男なら、わかるんじゃないの? この気持ち……」
「わか、わかりたくないよっ!」
小さな声に留めようと思ったが、どうしてもできなかった。
僕はまた叫んで、理科準備室を飛び出した。
◆
僕は大人になんてなりたくない。
男友達が言う「おっぱいが大きなお姉さんに抱かれて死にたい」もわからなかったし「高校生になったら、彼女とヤリまくりてー」という言葉も下品すぎて、吐き気を催した。
「見たくないって」
「いいから見てみろよ、カズ」
兄に無理やり引っ張られて見せられたパソコンの画面では、男と女が裸で絡み合っているもので、
「嫌ッ」
僕は反射的に目を閉じて耳を塞いだ。
「そんなんじゃ大人になれないんだぞ」
兄にそう言って笑われたけど、僕はそれでもよかった。
大人になるためにそういうことをしなきゃいけないなら、一生子供のままで良かった。
男子生徒の話題や、兄から強制的に伝えられる情報で、子供を作るにはそういうことをしなきゃいけないのだとはわかっていた。でも、僕は、子供というのは男女が愛し合って、精神的に結びついて、新しい小さな生命を獲得するのだと思っていたし、そう思い続けていたかった。
保健体育で第二次性徴を学んで、今の中性的な体から、次第に男らしく逞しくなっていく成長や、声変わりが憎くて憎くて仕方なくなった。
時が、止まってほしかった。
いまの体のまま、死ぬまで、生きていたかった。
でも大人になるための目覚めは、着実に始まっていて――僕の願っているとおりには、なってくれないみたいだった。
いま僕の手には、白っぽい濁りを含んだ透明な液体がついている。
家に帰って、トイレに閉じこもりながら、今日のことを思い出していたら、そうなった。
(最低すぎる……)
玉ねぎを切ったら涙が出るのと同じように、生理現象なのはわかっていたが、自己嫌悪は収まってくれなかった。
トイレの壁を僕は殴る。殴って、殴って、殴る。拳が痛んだ。
トイレから出て、家族がいるところで泣き叫び暴れたくなった。そんなことをしても、家族は困ったような顔をするだけで、恥を捨てて悩みを告白したとて、母も父も兄も――きっとだれひとり理解してくれないだろう。家族だけじゃなくて、きっと友達のだれひとり理解してくれない。それが予想できるのも、つらかった。
◆
昼休みは給食を摂ったあとの三十分間しかない。大切な休憩時間。
仲間たちはバスケやサッカーをすることが多い。
だが今日は僕は仲間の誘いを断り、理科準備室に向かっていた。
今日はきちんとノックをする。
「どうぞ」
と、円花の声が聞えてから、僕はそっと戸を開けた。
円花は今日は床に寝っ転がっているということもなく、僕に横顔をみせる形で机に座り、本を読んでいた。ちらりと僕を見、すぐに視線を本へと戻す。
「墨田君か。なにしに来たの?」
「空良さんと話をしてみたいなって思って……」
窺うように視線をやったが、円花はあまり気にした様子もなく、ふつうに本を読んでいた。迷惑だと言われるかと思ったが、はっきりとした拒絶もないことに安堵する。
「いいよ。何話す?」
「空良さんって自分の性欲、気持ち悪くないの? あ、えと、その……男性なら抜くのは当たり前だけどさ、その円花さんは身体は女性なわけじゃんか……その齟齬が気持ち悪くないのかなって」
「抜くのは気持ち悪くないけど、自分の身体はキモイ。なんで女なんだろーって思う」
「男性になりたいの?」
「うん、まあ。手術とかホルモン剤はこわいけど、やっぱり男性器があったほうが、女性と付き合いやすいし。それに胸とか違和感しかない。キモイ」
「……そうなんだ、あの……あのさ……僕は、男性の性欲が気持ち悪いんだよね」
「へえ?」
そこで円花はようやく僕をじっくりと見た。
「話してみてよ」
「話す……ことも、ないような……あるような……。僕はこのままがいいんだよね。大人の男性になるのが怖いんだ。せ、性行為が怖い。なにもしたくない」
まごつきながら、僕は本心を話した。
「好きな人はいるの? 女子?」
「……一応いるよ」
(空良さんなんだけど!)
「へえ。LGBTQのどれかなんじゃない? LGBTQはわかる? レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クエスチョニング・クィア。性別がないとか、中性とかはクエスチョニング、クィアに含められるよ」
「…………うん」
そこまでは僕もスマホで検索して、知っている。
「でもさ、僕が一番聞きたいのは……気持ち悪さをどうしたらいいのかってことなんだよね」
「なるほどね。いまは自分のこと、自分で認めてあげられているの?」
「えと、認めるって……?」
円花は顎に手をあてた。
「性自認は中性だけど性欲はあって女の子が好き、とか自分できちんと認識できているっかって話」
「認識するとどう変わるの? 他人がAV見せてくるとき、気持ち悪くなくなる? 男友達の下品な下ネタを肯定できるようになる?」
「あのね、墨田君」
ちょっと落ち着いた声音で、円花は僕を止めるように名前を呼んだ。
いけない。食い気味になってしまっていた。僕は反省し、口をつぐむ。
「世界が自分を認めてくれないなんて当然でしょ。たとえLGBTQじゃなくても、性差別はありふれているし、体と精神の性が一致しているとかも、あまり関係ないの。世界はいつも俺vs.多数。残酷で厳しい世界なの。だからね、自分だけは、自分を認めてあげようっていう気持ちが大事じゃないって俺は思うわけ」
「……うん」
「この世界に白馬に乗った王子様はいない。救世主は現れない。地獄から救い出してくれる蜘蛛の糸もない。だから、自分で自分を捨てずに、自分だけは自分を愛して、生きていくことが必要なんじゃないの?」
「…………」
僕はさらに押し黙ってしまった。そんなふうに考えたことはなかった。
僕が黙ると、円花もそれ以上続けることはなかった。
壁にかけられた時計で時間を見て、あと五分で昼休みが終わるというところで――僕は訊ねた。
「ねえ、どうして理科準備室の鍵、昼休みだけ開いてるの?」
まるで空良さんを迎え入れるためだけに開いているみたいで、変だと思っていたのだ。
「それは……俺がここの鍵担当してるユカちゃんと、寝たから」
(え? 冗談?)
円花はさらりと言って、
「もうそろそろ出て行って。また来てもいいけど、理科準備室から一緒に出るとこ見られるの嫌だから」
「わかった」
と、僕は返事したのだった。
◆
その日の放課後、帰りの会が終わり、解散となったときに事件は起きた。
僕が仲間たちと少し話している間に、女子たちが口論になっていた。
「また七瀬ってば嘘ついてる。だからいじめられるんでしょ?」
そんな声が、女子の間から聞こえてきた。
いじめられている七瀬と、その七瀬をいじめている女子たちが中心になって口論になっているようだ。
仲間たちは女子のその争いに興味もなく「じゃな」と言って帰ってしまった。
僕はなんとなく予感がして、帰れずにいた。ちらりと見ると、円花も帰りのカバンを背負ったまま、七瀬たちのほうを見ていた。
そのうち七瀬は泣き出してしまう。いじめっこたちのほうは、七瀬が負けたのを見て、笑い声をあげていた。
円花が動く――
「なにがそんなにおかしいわけ?」
「え?」
七瀬と相対していた一番強そうな、背が高くて肌が浅黒い、三木さんが笑いながら振り向く。
三木さんの頬へ、円花の鋭い手のひらが吸い込まれる。
それはスローモーションみたいだった。
「女の子泣かせて、あんた、最低だね」
ぱちんと肉の当たる音が弾け、三木さんは「なにがなんだかわからない」というふうに、表情をなくし、束の間、静寂。
一拍おいて、周りが「なにしてんの! 空良さん! 大丈夫?」と三木さんに駆け寄る。
「はっ、七瀬のほうが何倍も痛いっつーの」
と、円花は言い残し、教室を出て行った。
僕はすぐに円花を追いかけた。
(空良さん、空良さん、空良さん……!)
僕は円花に追いつく。呼吸を整える暇もないまま、感情の溢れるままに言ってしまう。
「空良さん! すごくカッコよかった!」
「……そう。それより教師に告げ口される前に逃げなきゃ。はやく帰りたいし」
円花は落ち着いていた。
昇降口に辿り着いて、靴を二人で履き替える。
「あのさ、空良さん」
「なに?」
「ふたりで逃げたい」
「え? もしかして……」
(空良さんを好きなのバレた?)
言い当てられるかと心の弱い部分が怯えたが――
「七瀬を助ける算段を立てたいってやつ?」
「違うよ」
(全然違った)
ふーっと安堵の息を吐く。
そんな僕を横目に、円花は円花でため息を吐いた。めんどくさいことがやっと終わったというような意味のため息だと、僕は思った。
「ふーん。まあいいや。今日はいっしょに帰ろうか」
「うん」
僕はわくわくとしながら答えた。円花が男である以上は、男の僕を好くとは思えないし、僕が七瀬を好きなのだと勘違いされている状態でしか、この友好的な関係は続きそうにはなかったが――それでもよかった。僕が好きな空良円花といっしょにいられる時間が、性別だとか性欲だとか気持ち悪いものを忘れられて、いまの僕には至上の幸福に感じられた。
「ね、空良さん。少し寄り道すると、たい焼き屋さんがあるんだけど、買っていかない? お金持ってる?」
「少しなら……」
「じゃあ寄っていこ」
僕たちは数少ないお小遣いでたい焼きを買い、公園で食べた。
学校にお金を持って行っていることも買い食いも、学校では禁止されていることだったが、僕らのどちらもそのことについてなにも言わなかった。
公園のブランコに乗りながら、僕は言う。
「空良さんが悪いことしたら、僕もどこまでも一緒に逃げるよ……」
「なにそれ。っていうか、七瀬の水着、借りてたこと言いふらされるかと思ってびくびくしてたのに」
「しないよ」
「約束する?」
「うん、約束する。ね、ね、僕ら二人で『居場所委員会』を結成しようよ」
「なにそれ」
「僕たちがありのままでいられる居場所を作るんだよ」
それは授業中考えていたことだった。円花は「世界はいつでも俺vs.多数」と言った。それを「俺と少数の理解者vs.多数」にできないかなと思ったのだった。
円花に話して笑われるかと思ったが、彼女は笑わなかった。
「それ、いいんじゃない。理科準備室っていう場所もあるし、あとは理解してくれそうな人を集めてくればいいだけ」
飛び上がりそうなほどのうれしさがあった。
「じゃあ明日から……活動しようか」
「そうしよう」
帰り際、僕たちは、指切りげんまんをした。
たとえ小指だけでも好きな人に触れられたのは、嬉しかった。
「なんか同性と話してる気分なんだけど……」と円花に言われながらも、胸の中に温かなものが広がっていった。
円花とこれから話していくなかで、彼女のことをもっと知りたいと思った。現実の窮屈さから、救われたいし、救ってあげたいと思った。
