昼休み、海里に抱きしめられてから、記憶が飛んだ。
どうやって屋上から教室に戻ったのか分からないし、授業の記憶もない。
いつの間にか放課後になっていた。教科書だけは開いていたので、教師に注意されることはなかったが、ノートは真っ白。
それから、連日続いた裏方作業も終わりを迎えた。ずらりと完成した道具の空き教室に並ぶ。
「花栗くん、ありがとうー!」
美術部の奴らから、たっぷり礼を言われて、ようやく俺は解放された。
「ただいま」
帰宅すれば、ツンと鼻をつくようなスパイシーな香辛料の匂いが、室内に充満している。
キッチンに向かえば、母が夕食はスリランカ風カレーにすると、張り切って腕を振るっていた。なんでも、近所のアジアン料理屋の店主からレシピを教わったそうだ。
俺はそこの椅子に腰をかけて、母の背中をぼんやりと眺める。
「──七海、アンタ、どうしちゃったのよ?」
「ん~……何が?」
「それよ」
「それ?」
母が指さす方を見ると、驚くことに、俺は青唐辛子入りカレーの中にショートケーキを入れていた。
いつの間にか料理は出来上がっていたらしい。食べ始めたタイミングは分からないけど、口の中で辛みと甘みの不協和音が広がっていく。
「うげぇ、まずい。……母さん、ケーキとカレーを同じ食卓に出すのはどうかと思うよ」
「お客さんからケーキもらったのよ。でも同時に食べるのはどうかと思うわ」
「お兄ちゃん、とうとうおかしくなっちゃった?」
千香の嫌味にむっとしながら、カレーからケーキを別皿に避難させて、ひとつずつ平らげた。
「ごちそうさま!」
千香が紅茶を淹れている横で、俺は冷蔵庫にあったペットボトルの炭酸飲料を手に持ち、二階の自室へ向かった。
炭酸を一口含んで、机に腰かける。
夕食のこともそうだけど……。
「はぁ。午後の授業の内容が、まるっきり思い出せないとか。……俺、何やってんだろ」
俺は独りごちながら、鞄から教科書と、海里に頼んで借りたノートを取り出した。
『分からないところがあれば、電話して』と、懇切丁寧な言葉付きのノートだ。
それをめくってみると、ミミズみたいな文字が並んでいる。
読みづらいけど、要点はよくまとめられていて、分かりやすかった。おかげで、さくさく勉強が進んだ。
「う~ん」
午後の授業の復習が終わり、椅子に座ったまま身体を伸ばした。
机に置きっぱなしの携帯電話を、無意識に手に持つ。
ぼんやりと画面を眺めていたら、ふいに脳裏をよぎる言葉があった。
【男同士 恋愛】
それを検索エンジンのトップページに打ち込んでみると、一瞬で、色んなサイトが出てきた。
出会い系や怪しいサイトも多そうで、タップするのが危ぶまれる。
ひとつひとつのサイトを確認することが億劫となり、画像検索に切り替えた。
検索上位には筋肉質な男の裸、モデルみたいに整った顔立ちの男、イラストや二次創作などがある。どれも綺麗で芸術品のようだ。
生々しさがなくて綺麗なものだと思いながら、画像検索を止めて検索ページに戻った。
「これって……BLドラマ?」
誤ってどこかのページをタップしていたのか、BLドラマのページを開いてしまったようだ。
四話、無料配信中。
その言葉に引き寄せられるように、俺はイヤホンを耳に付けて、そっと覗いてみることにした。
――整った顔立ちの俳優がふたり。
どういうシチュエーションなのか、全身びちょ濡れで玄関にいた。
長身の男が、眼鏡の男の濡れたシャツに手を忍ばせる。すると、眼鏡の男はなまめかしい声を上げ、身体をくねらせた。
逃げることを許さないよう身体をより一層密着させ、キスをする。
重なった唇は、すぐに深まり、舌を絡ませ合う。
ふたりとも気持ちよさそうな表情をしていた。
キスを知らない俺は、一体どれほど気持ちいいのか分からない。けれど、嫌悪感は全く湧いてこなかった。
しいて言うなら凪(なぎ)。興奮とか、高揚感とか、欲望めいた何かが湧き上がってくることもない――。
「やめよ」
浅いため息をついたあと、携帯電話を置いてベッドに移動した。
瞼を閉じたら、昼間の屋上のことが脳裏に浮かぶ。
『七海のことが大事』
海里の笑顔を見たのは、久しぶりだった。
思い浮かべるだけで、ドキドキする。
こんなの友達には感じない。普通じゃない。
けど、ちゃんと色んなことを考えないと。
遊園地のあと、このまま海里のことを失うんじゃないかと思ったら心底怖かった。海里のことを失いたくない。
考え込んでいたのに、意識がゆっくりと遠くに引っ張られる。その感覚に身を任せながら、俺の方こそ、海里が大事なんだよ。と思った。
◆
『七海』
海里の声が聞こえる。
けれど、おかしい。ここは自室だし、最近うちには泊まりに来ていない。
声が近いはずがない……。
ごろんと横に寝返りを打つと、人の気配がある。ん?と薄目を開けると、俺を見つめる海里がいた。
『ひぃいっ!?』
いるとは思わず飛びあがった。動揺しながら辺りを見渡すけど、ここは間違いなく俺の部屋だ。
『海里……え、えっ、なんで!? いつからいたんだよ』
『五時』
『五時い!? なんでそんな時間から!? どうやってうちに入ったんだよ!?』
『ジョギングしようと家から出たら、ちょうど、玄関を開ける七海の親父さんとすれ違って、七海も誘えって』
今、六時十五分。一時間以上、何をしていたんだ。
まさか、ずっとそうやって見つめていたわけじゃないよな?
すると、海里は何を思ったのか俺の布団を捲りベッドに入ってこようとする。
『最近七海が足りなかったから、補充しようと思って』
『補充って……え、ちょっと、なんで一緒に寝ようとするんだ』
『んー』
海里は生返事をしながら、俺の横に寝そべった。足をしっかり絡ませてくる。
当然と言わんばかりに抱き枕にされて、そのぬくさに驚いた。
俺は布団に寝ていたはずなのに、とても寒かった気がしたのだ。
あ……コレ。
『あー、なんか、コレだわあ』
セリフにデジャヴを感じていると、海里が俺の頭にこつんと額を軽く当てて、ぐりぐりとする。
遊ぶような仕草に緊張はしない。
固めな髪の毛の感触がくすぐったくて、身をよじると、ますますじゃれついてくる。どうしたものかと思っていたら――。
『え……』
にゅるっと生暖かい感触が首筋を這った。見れば、海里は俺の首筋を舐めているではないか。
『おい、何して!?』
さらに耳まで。
耳(じ)朶(だ)を舌でころころと転がされ、軽めに引っ張られて吸われる。まるで自分の耳が美味しい菓子になったようだった。
目を白黒させていると、ふぅっとそこに息を吹きかけられる。
『ひゃはっ!』
くすぐったくて声を上げると、海里が耳から顔を離した。
俺の視界に笑顔が飛び込んでくる。
『…………』
最近、視線を合わせづらくて、海里のことを真っすぐ見られなかった。今は、遊びの最中だからか、真正面から見ることが出来た。
近くにあると、胸が温かくなる笑顔だ。
今は少し熱いくらい。
俺は海里の背中に手を回し、おそるおそる撫でた。
『……笑ってる、よかった』
『何? 俺が笑うと嬉しい?』
『うん、泣いてなくてよかった。遊園地では泣かせちゃってごめんな』
あのとき、ちゃんと考えずに返事してごめん。あんなに泣かせたことをなかったことにしてごめん。傷つけない方法を探していたけど、日に日にどうしていいのか分からなくなったんだ。
喉の奥にずっとあった謝罪がするすると出てきた。安堵して厚い胸に顔を埋めると、昼間の匂いと同じで気分が高揚する。
お日様の匂いみたいだ。
いつも海里が俺にしてくれるみたいに、ぎゅうぎゅうと力を込めて抱きつく。
心地いい。自分にぴったり馴染むから気持ちいい。
『気持ちいいの?』
『……え?』
『俺、男だよ?』
今、俺は声に出していたっけ?
その言葉に驚いて、俺は顔を上げた。
すると、したり顔の海里が、服を脱ぎ始めた。筋肉隆々の上半身が現れる。
『えぇ、なんで脱ぐんだよ!?』
『七海も脱いで』
『ひぎゃ!?』
俺の抵抗などお構いなしだ。あっという間に裸にひん剥かれた。驚くほどの早わざだ。
海里が素っ裸の俺に覆いかぶさり、また耳を食(は)む。
『俺は美味しくないからっ!?』
『七海ほどのごちそうはないでしょ』
海里はそう言って、俺の耳に歯を立てる。身をすくめると、なだめるような優しい手つきで俺の胸元を撫で始めた。
ひと撫で、ふた撫で……そして中心にある小さい突起にも触れてくる。
その手の動きはさっき見たドラマのような淫(いん)靡(び)な動きをしていた。
『え、え?』
ただひたすらに俺は『え』を連発してしまう。
『七海のここ、大きくなったな』
『え』
ここ……?
海里の熱っぽい視線の先には、興奮している自分の下半身があった。そこをツンと指で軽くつつかれて、内股が震える。
『……っ!?』
自分の反応にぎょっとしていると、海里は俺の性器を手で包み、きゅっきゅっと揉む。
『か、海里……、やめろ』
『なんで? 反応いいけど。……なあ、俺、男だよ?』
同じことをもう一度、海里は言う。矛盾を指摘するみたいだ。
……確かに。こんなのはおかしい。眠る前の俺は、男の画像や動画を見て、何も感じなかったはずなのに。
なのに抱きしめられて、触れられて、気持ちよくなっている?
しかも、全然嫌じゃない……。
あれ?
『キスしていい?』
そう言って海里は、俺に顔を寄せてくる。
『えっ!? いや……まだ、俺はちゃんと分かってないのに』
『キスしたら分かるかも。俺だけは別だって。俺が七海をどれだけ好きかも』
海里だけは別? キスしたら、分かるかも……ってそんなアバウトな。俺は真剣に悩んでいるんだぞ。
目の前の厚い胸を押すけれど、屈強な男は離れない。今にも唇がくっついてしまいそう。
口角がいつも上がっていて、ちょっと肉厚で形がいい唇、そこから覗く綺麗な歯並び。見慣れたそれらを急に意識する。
鼻が当たって、吐息が肌に当たる。
キスをする? 俺と海里が!? 今から!?
『キス以上も俺はしたいけど』
『――っ』
ひぃい、待て待て待て。
そういうのは、付き合ってからで――。
ずるり。
ベッドからずり落ちて、目が覚めた。
「え……?」
自室をぐるりと見渡すと、そこに海里の姿もぬくもりもなかった。
時計を見れば、二十三時を回っている。
夢?
どうやら俺は、考えていることがそのまま夢に出てくるタイプらしい。
やけにリアルに感じる夢を思い出して、顔から火が出そうになる。
「――俺、なんて夢を見てんだよぉ!?」
いやらしい夢を見て、嫌悪感もなく受け入れている自分に驚く。触れられても全然嫌じゃなかった。
それに『付き合ってからで』ってなんだよ!? ナチュラルに受け入れすぎだろ!?
思わず、俺は両手で頭を抱え込んだ。
……それって、初めから海里なら……いいってこと? 別枠ってこと?
「やば……俺って。俺って奴はぁ……」
自分の単純さに悶(もん)絶(ぜつ)し、ゴロゴロと床に転がった。
◇
「海里くん、ごめん! お兄ちゃん寝坊しちゃって。先に行ってくれって」
「七海が? 珍しいね。待ってるけど」
「ううん。寝ぐせも酷くって格闘しているらしいから」
登校時、家まで迎えに来てくれた海里に千香が説明する。
海里とキスをする夢を見てから休みを挟んだが、回想しては悶絶している。まだ、ふたりっきりになる心の準備は出来ていない。
パタンと玄関のドアが閉まる音をリビングで聞いていた俺は、胸を撫でおろした。
「お兄ちゃん!」
千香はわざと大きな足音を立てながら戻ってきて、ソファに体育座りする俺を見てキッと睨む。
「私のことを使わないでくれる!?」
「ごめん」
お前だって俺のことを使うだろう。いつもならそうやって言い返すけれど、素直に謝った。
すると、千香は馬鹿にしたように鼻で嗤(わら)う。妹という生き物はつくづく可愛くない。
「まだ喧嘩してるの?」
「してない」
「どっちでもいいけど、早く仲直りしなよ。海里くんが可哀想」
海里びいきの千香の言葉を無視して、ぎりぎりの時間に家を出た。
ホームルーム開始、七分前。
黙々とした早歩きは少しだけ余裕を生んだ。
昇降口にある時計を目にしたあと、下駄箱で靴を履き替えていたら、とぼとぼと大木がやってくる。
「大木、おはよう」
「はよ……」
元気印の大木の声に覇気がない。
どうしたのかと聞いたら、なんてことはない。朝の五時までゲームをしていたそうだ。
大木がハマっているのは、ネット経由で世界中と対戦出来るゲームだ。そこで知り合った仲間と意気投合し、気づけば夜通しゲームをしていた、と。
「あ、そう」
「ねむ……」
大木は喉ちんこが見える程、大きな口を開けてあくびをした。手で隠そうという気は一切ない。
そのあくびは絶え間なく出てくるようで、廊下の角を曲がったときにもあくびをした。そのでかい口で「あ」と言った。
「そういえば昨日さ、本屋へ行ったんだよ」
「昨日……」
昨日と言えば、学校の創立記念日。姫野たちがうちの店で女子会を開いた。
家にいれば何かと手伝わされるので、日中は漫画喫茶で時間を潰した。
一応予約を承った人間として、あとから姫野たちの様子を聞けば、とても盛り上がっていたらしい。ただ、〝未知な世界〟だったと父だけじゃなく母も首を傾げていた。カップリングがどうのこうの……一生触れたくない話題だなと思った。
そんなことを思い出していたら、大木が「皇」と言うので、ドキリと胸が跳ねる。
「皇、女の子と一緒にいたんだよね」
「……え?」
「ショートボブでボーイッシュな女の子。ちょっと猫っぽい感じの顔つきでさ……あれって噂の花栗の妹かなあ」
「あぁ……」
大木が並べた特徴は、千香っぽい。俺は息をゆっくり吐きながら、頷く。
「多分、うちの妹だな」
「そうか~、あんな可愛い妹、俺もいたらよかったなあ」
可愛い?
家を出るときの妹の小馬鹿にしたような嗤い方が脳裏に浮かぶ。
「そうでもない」
「ふぅん? まぁ俺にも姉がいるから、気持ちは察する」
「うん」
「それでさ」
大木は話を続ける。昨日、海里は千香と書店で参考書を一緒に見ていたらしい。そのあと、書店に併設されているカフェで仲よくケーキを食べていたとか。
「海里と千香がねぇ……」
千香は受験生だ。うちの高校を受験する予定らしい。
海里は先輩として参考書選びを手伝ってあげていたのかもしれない。ふたりともケーキが好きだから、甘い匂いのする店に引き寄せられたのだろう。想像に容易い。
「腕なんか組んでさ。しょっちゅう遊んでいるんだろう? やっぱり、ふたり付き合っているんじゃないか?」
「有り得ない、かな」
「でもさ、皇って好きな子がいるっぽいニュアンスで話すことがあるじゃん」
それは多分、俺……。
う。胸がじぃんとする。やめろ。俺の心臓。
「ん? なんで花栗が顔を赤くすんの?」
「……俺のことは気にするな」
大木は訝(いぶか)しげに俺を見たが、興味なさげに前を向き、またあくびをする。
教室に着くと、杉本と喋っていた海里が俺に気づいた。海里は爽やかな顔して手を振るので、俺も振り返して着席する。
隣にいる園村が俺に声をかけてきた。
「おはよう。顔赤いけど、走ってきたの?」
「……走っていない」
手で顔を覆うと、チャイムが鳴った。
「――文化祭は晴れ予報です。外部からの客も多く見込まれるでしょう」
あと二日。今週土曜日に文化祭が開催される。
高校初めての文化祭に、一年三組は色めき立っていた。
壇上に立つ富田先生は、そんな自分たちに念入りな注意喚起を促す。要するに、高校生として節度ある行動を心がけるようにということだ。
二限目までの自習時間は、文化祭準備に充(あ)てられた。
俺たち裏方の準備は滞りなく、残るは当日に飾るのみ。
当日のコースなどを確認しているあいだ、お化け役の奴らは、本番さながらのメイクをし、衣装を身に纏う。
「ぎゃは……」
そして、メイクを終えた大木が、お披露目のために教室に入って来た瞬間――その場は笑いに包まれた。
大木が化けたのは口裂け女だ。
胸までのロングヘアのウィッグに、唇は大きく顔の端まで塗られている。メイクは気合が入っているが、衣装はそれしかなかったのか、白のミニワンピースだ。
だが、大木に照れは一切ない。モデルのようなしなやかな動きで教室中央まで進み、堂々とポーズを決める。
俺の隣でコース確認をしていた園村が、携帯電話を構えてパシャパシャと撮影。待ち受けにすると大笑いしている。どこまで本気か分からない。
二番目にやってきた杉本も、顔全体を長い前髪で覆っていた。八尺様なんだそう。でかい。身長を高く見せるために厚底靴を履いているそうだ。それを隠すためなのかカーテンみたいなロングワンピースを引きずっている。そして中心にいる大木の横に並ぶと、ふたりでまたポーズを決める。園村が大興奮。
「はーい、メイクがまだのお化け役男子! 空き教室まで来て!」
メイク担当の姫野が呼びかける。
複数の女子の視線が俺の隣にいる海里へと集まった。
確か、海里は女性に殺された情夫霊の役だ。
なぜだか海里の役だけは詳細設定があり、江戸時代、呉服屋の女将(おかみ)との痴(ち)情(じょう)のもつれで殺された色男という役らしい。
「皇くんの顔に触れられるなんて、メイク係が羨ましい」
ぽつりと教室のどこかから、そんな声が漏れるや、海里は俺の腕を掴む。
「――ん?」
「俺の化粧は七海が担当してくれるっぽいので、連れていきまーす」
「は? 俺、メイクなんてしたことないって!?」
「大丈夫」
「何を根拠に……!?」
有無を言わさず連れていかれた先でも、海里はメイク担当の女子たちに言い切った。
爽やかに、でも有無を言わさない様子に女子たちは頷くほかない。結局、イケメンの頼みとやらには逆らえないようだ。
海里は衣装係から衣装の着物を受け取り、衝立(ついたて)で目隠しされた場所で着替えた。
無地の黒い着物も、海里が着ると様(さま)になる。
さらに、胸元を大きく開けるように指示されていて、厚い胸元が見え、男らしい色香が漂っていた。
――なるほど、色男。
情夫は適役だと思いながら、しぶしぶ、俺は椅子に腰かけた海里の前に立つ。
「失敗しても知らないからな」
「いいよ、練習だし」
やって、と海里がやや上を向いて瞼を閉じた。
周囲から羨(せん)望(ぼう)の眼差しを浴びながら、俺は化粧係から借りた道具を手に持つ。
お化け役のメイクを思い出して、まずはおしろいを顔につけていく。
しっかり瞼を閉じるように声をかけると、やや長い海里のまつ毛が震える。
さっき教室で女子が漏らした羨望の言葉が脳裏に浮かび、唐突に意味を理解した。
無防備で言いなり。メイクするあいだは、見つめ放題。
「…………」
改めて俺は、よく見慣れた顔を眺めた。額、眉、まつ毛、鼻、……ひとつひとつのパーツがよく整っている。
ゆっくりと視線を移動させていくと、妙に唇が気になった。
健康的な色味に誘われ、何気なく人差し指でつついてみる。
ふに、と弾力があって、柔らかい。男も女もこの感触は、大して変わらないのだろうか。キスしたら……どんな感じがするんだろう。
海里は、どんなキスをする……?
俺はもう一度、その唇を指で軽くつついて、なぞってみる。
「何やってんの」
「んー」
海里の言葉に生返事で答えると、触れている唇の端が震え始めた。
「それは、ちょっと照れるから」
「――っ、うぉっ!? 俺は何をやって!?」
指摘が耳に入るまで、夢中で唇の感触を楽しんでしまった。
あの夢のせいだ。海里とキス寸前だったから、変に意識してしまう。
学校では平常心を保つため気を張っていた。なのに、無防備な海里を前にして油断した。
「ごめん!」
「いいけど」
海里は薄目を開けて苦笑いを浮かべる。
「セクハラは駄目だからね」
「う。メイク……続けるよ」
そう言って海里はまた瞼を閉じた。
今の一瞬で物凄く動揺したので、きっと俺の顔は赤くなっている。海里が早めに瞼を閉じてくれてよかった。
静かに深呼吸し、メイクに意識を集中させる。
海里のメイクは、大木や杉本のような濃さじゃないだろう。情夫役ならば、求められているのは色気だ。
ほんのりと影を出すために、見よう見まねで目元にアイシャドウを入れた。調整が分からず、はっきりと色が乗る。濃すぎたと、軽くティッシュでふき取った。
「なあ、七海。文化祭は一緒に見て回ろう?」
「……あ? あぁ、休憩時間が重なったら」
「やった。七海と過ごせるの楽しみ」
途端に海里は声を弾ませる。
休憩時間が合えばの話なのに、滅茶苦茶嬉しそうにするじゃん。
……そんなに俺と一緒にいたいのかよ?
う。また胸が……きゅん、としてきた。
動揺しながら視線を逸らすと、少し離れたところに立つ姫野が、早くとジェスチャーするのが見える。
海里のメイクもこれ以上付け加えるのをやめて、手を止めた。
「――よし、これでいっか。目を開けていいよ」
海里の前に手鏡を差し出して言った。
そしてメイク係の女子が海里を囲むと、黄色い声が上がる。
見よう見まねだったが、なんとか形になったようだ。
仕上げに、胸まである長さのウィッグを付けて、ひとつにまとめれば――。
「情夫!」
「情夫の再現度が高い!」
隣の教室に戻って、情夫姿の海里を見た女子たちが湧く。べた褒めだ。
その盛り上がりを見た園村は、俺の横でぽつりと呟いた。
「これは、痴情のもつれがあるな……」
どうやって屋上から教室に戻ったのか分からないし、授業の記憶もない。
いつの間にか放課後になっていた。教科書だけは開いていたので、教師に注意されることはなかったが、ノートは真っ白。
それから、連日続いた裏方作業も終わりを迎えた。ずらりと完成した道具の空き教室に並ぶ。
「花栗くん、ありがとうー!」
美術部の奴らから、たっぷり礼を言われて、ようやく俺は解放された。
「ただいま」
帰宅すれば、ツンと鼻をつくようなスパイシーな香辛料の匂いが、室内に充満している。
キッチンに向かえば、母が夕食はスリランカ風カレーにすると、張り切って腕を振るっていた。なんでも、近所のアジアン料理屋の店主からレシピを教わったそうだ。
俺はそこの椅子に腰をかけて、母の背中をぼんやりと眺める。
「──七海、アンタ、どうしちゃったのよ?」
「ん~……何が?」
「それよ」
「それ?」
母が指さす方を見ると、驚くことに、俺は青唐辛子入りカレーの中にショートケーキを入れていた。
いつの間にか料理は出来上がっていたらしい。食べ始めたタイミングは分からないけど、口の中で辛みと甘みの不協和音が広がっていく。
「うげぇ、まずい。……母さん、ケーキとカレーを同じ食卓に出すのはどうかと思うよ」
「お客さんからケーキもらったのよ。でも同時に食べるのはどうかと思うわ」
「お兄ちゃん、とうとうおかしくなっちゃった?」
千香の嫌味にむっとしながら、カレーからケーキを別皿に避難させて、ひとつずつ平らげた。
「ごちそうさま!」
千香が紅茶を淹れている横で、俺は冷蔵庫にあったペットボトルの炭酸飲料を手に持ち、二階の自室へ向かった。
炭酸を一口含んで、机に腰かける。
夕食のこともそうだけど……。
「はぁ。午後の授業の内容が、まるっきり思い出せないとか。……俺、何やってんだろ」
俺は独りごちながら、鞄から教科書と、海里に頼んで借りたノートを取り出した。
『分からないところがあれば、電話して』と、懇切丁寧な言葉付きのノートだ。
それをめくってみると、ミミズみたいな文字が並んでいる。
読みづらいけど、要点はよくまとめられていて、分かりやすかった。おかげで、さくさく勉強が進んだ。
「う~ん」
午後の授業の復習が終わり、椅子に座ったまま身体を伸ばした。
机に置きっぱなしの携帯電話を、無意識に手に持つ。
ぼんやりと画面を眺めていたら、ふいに脳裏をよぎる言葉があった。
【男同士 恋愛】
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出会い系や怪しいサイトも多そうで、タップするのが危ぶまれる。
ひとつひとつのサイトを確認することが億劫となり、画像検索に切り替えた。
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生々しさがなくて綺麗なものだと思いながら、画像検索を止めて検索ページに戻った。
「これって……BLドラマ?」
誤ってどこかのページをタップしていたのか、BLドラマのページを開いてしまったようだ。
四話、無料配信中。
その言葉に引き寄せられるように、俺はイヤホンを耳に付けて、そっと覗いてみることにした。
――整った顔立ちの俳優がふたり。
どういうシチュエーションなのか、全身びちょ濡れで玄関にいた。
長身の男が、眼鏡の男の濡れたシャツに手を忍ばせる。すると、眼鏡の男はなまめかしい声を上げ、身体をくねらせた。
逃げることを許さないよう身体をより一層密着させ、キスをする。
重なった唇は、すぐに深まり、舌を絡ませ合う。
ふたりとも気持ちよさそうな表情をしていた。
キスを知らない俺は、一体どれほど気持ちいいのか分からない。けれど、嫌悪感は全く湧いてこなかった。
しいて言うなら凪(なぎ)。興奮とか、高揚感とか、欲望めいた何かが湧き上がってくることもない――。
「やめよ」
浅いため息をついたあと、携帯電話を置いてベッドに移動した。
瞼を閉じたら、昼間の屋上のことが脳裏に浮かぶ。
『七海のことが大事』
海里の笑顔を見たのは、久しぶりだった。
思い浮かべるだけで、ドキドキする。
こんなの友達には感じない。普通じゃない。
けど、ちゃんと色んなことを考えないと。
遊園地のあと、このまま海里のことを失うんじゃないかと思ったら心底怖かった。海里のことを失いたくない。
考え込んでいたのに、意識がゆっくりと遠くに引っ張られる。その感覚に身を任せながら、俺の方こそ、海里が大事なんだよ。と思った。
◆
『七海』
海里の声が聞こえる。
けれど、おかしい。ここは自室だし、最近うちには泊まりに来ていない。
声が近いはずがない……。
ごろんと横に寝返りを打つと、人の気配がある。ん?と薄目を開けると、俺を見つめる海里がいた。
『ひぃいっ!?』
いるとは思わず飛びあがった。動揺しながら辺りを見渡すけど、ここは間違いなく俺の部屋だ。
『海里……え、えっ、なんで!? いつからいたんだよ』
『五時』
『五時い!? なんでそんな時間から!? どうやってうちに入ったんだよ!?』
『ジョギングしようと家から出たら、ちょうど、玄関を開ける七海の親父さんとすれ違って、七海も誘えって』
今、六時十五分。一時間以上、何をしていたんだ。
まさか、ずっとそうやって見つめていたわけじゃないよな?
すると、海里は何を思ったのか俺の布団を捲りベッドに入ってこようとする。
『最近七海が足りなかったから、補充しようと思って』
『補充って……え、ちょっと、なんで一緒に寝ようとするんだ』
『んー』
海里は生返事をしながら、俺の横に寝そべった。足をしっかり絡ませてくる。
当然と言わんばかりに抱き枕にされて、そのぬくさに驚いた。
俺は布団に寝ていたはずなのに、とても寒かった気がしたのだ。
あ……コレ。
『あー、なんか、コレだわあ』
セリフにデジャヴを感じていると、海里が俺の頭にこつんと額を軽く当てて、ぐりぐりとする。
遊ぶような仕草に緊張はしない。
固めな髪の毛の感触がくすぐったくて、身をよじると、ますますじゃれついてくる。どうしたものかと思っていたら――。
『え……』
にゅるっと生暖かい感触が首筋を這った。見れば、海里は俺の首筋を舐めているではないか。
『おい、何して!?』
さらに耳まで。
耳(じ)朶(だ)を舌でころころと転がされ、軽めに引っ張られて吸われる。まるで自分の耳が美味しい菓子になったようだった。
目を白黒させていると、ふぅっとそこに息を吹きかけられる。
『ひゃはっ!』
くすぐったくて声を上げると、海里が耳から顔を離した。
俺の視界に笑顔が飛び込んでくる。
『…………』
最近、視線を合わせづらくて、海里のことを真っすぐ見られなかった。今は、遊びの最中だからか、真正面から見ることが出来た。
近くにあると、胸が温かくなる笑顔だ。
今は少し熱いくらい。
俺は海里の背中に手を回し、おそるおそる撫でた。
『……笑ってる、よかった』
『何? 俺が笑うと嬉しい?』
『うん、泣いてなくてよかった。遊園地では泣かせちゃってごめんな』
あのとき、ちゃんと考えずに返事してごめん。あんなに泣かせたことをなかったことにしてごめん。傷つけない方法を探していたけど、日に日にどうしていいのか分からなくなったんだ。
喉の奥にずっとあった謝罪がするすると出てきた。安堵して厚い胸に顔を埋めると、昼間の匂いと同じで気分が高揚する。
お日様の匂いみたいだ。
いつも海里が俺にしてくれるみたいに、ぎゅうぎゅうと力を込めて抱きつく。
心地いい。自分にぴったり馴染むから気持ちいい。
『気持ちいいの?』
『……え?』
『俺、男だよ?』
今、俺は声に出していたっけ?
その言葉に驚いて、俺は顔を上げた。
すると、したり顔の海里が、服を脱ぎ始めた。筋肉隆々の上半身が現れる。
『えぇ、なんで脱ぐんだよ!?』
『七海も脱いで』
『ひぎゃ!?』
俺の抵抗などお構いなしだ。あっという間に裸にひん剥かれた。驚くほどの早わざだ。
海里が素っ裸の俺に覆いかぶさり、また耳を食(は)む。
『俺は美味しくないからっ!?』
『七海ほどのごちそうはないでしょ』
海里はそう言って、俺の耳に歯を立てる。身をすくめると、なだめるような優しい手つきで俺の胸元を撫で始めた。
ひと撫で、ふた撫で……そして中心にある小さい突起にも触れてくる。
その手の動きはさっき見たドラマのような淫(いん)靡(び)な動きをしていた。
『え、え?』
ただひたすらに俺は『え』を連発してしまう。
『七海のここ、大きくなったな』
『え』
ここ……?
海里の熱っぽい視線の先には、興奮している自分の下半身があった。そこをツンと指で軽くつつかれて、内股が震える。
『……っ!?』
自分の反応にぎょっとしていると、海里は俺の性器を手で包み、きゅっきゅっと揉む。
『か、海里……、やめろ』
『なんで? 反応いいけど。……なあ、俺、男だよ?』
同じことをもう一度、海里は言う。矛盾を指摘するみたいだ。
……確かに。こんなのはおかしい。眠る前の俺は、男の画像や動画を見て、何も感じなかったはずなのに。
なのに抱きしめられて、触れられて、気持ちよくなっている?
しかも、全然嫌じゃない……。
あれ?
『キスしていい?』
そう言って海里は、俺に顔を寄せてくる。
『えっ!? いや……まだ、俺はちゃんと分かってないのに』
『キスしたら分かるかも。俺だけは別だって。俺が七海をどれだけ好きかも』
海里だけは別? キスしたら、分かるかも……ってそんなアバウトな。俺は真剣に悩んでいるんだぞ。
目の前の厚い胸を押すけれど、屈強な男は離れない。今にも唇がくっついてしまいそう。
口角がいつも上がっていて、ちょっと肉厚で形がいい唇、そこから覗く綺麗な歯並び。見慣れたそれらを急に意識する。
鼻が当たって、吐息が肌に当たる。
キスをする? 俺と海里が!? 今から!?
『キス以上も俺はしたいけど』
『――っ』
ひぃい、待て待て待て。
そういうのは、付き合ってからで――。
ずるり。
ベッドからずり落ちて、目が覚めた。
「え……?」
自室をぐるりと見渡すと、そこに海里の姿もぬくもりもなかった。
時計を見れば、二十三時を回っている。
夢?
どうやら俺は、考えていることがそのまま夢に出てくるタイプらしい。
やけにリアルに感じる夢を思い出して、顔から火が出そうになる。
「――俺、なんて夢を見てんだよぉ!?」
いやらしい夢を見て、嫌悪感もなく受け入れている自分に驚く。触れられても全然嫌じゃなかった。
それに『付き合ってからで』ってなんだよ!? ナチュラルに受け入れすぎだろ!?
思わず、俺は両手で頭を抱え込んだ。
……それって、初めから海里なら……いいってこと? 別枠ってこと?
「やば……俺って。俺って奴はぁ……」
自分の単純さに悶(もん)絶(ぜつ)し、ゴロゴロと床に転がった。
◇
「海里くん、ごめん! お兄ちゃん寝坊しちゃって。先に行ってくれって」
「七海が? 珍しいね。待ってるけど」
「ううん。寝ぐせも酷くって格闘しているらしいから」
登校時、家まで迎えに来てくれた海里に千香が説明する。
海里とキスをする夢を見てから休みを挟んだが、回想しては悶絶している。まだ、ふたりっきりになる心の準備は出来ていない。
パタンと玄関のドアが閉まる音をリビングで聞いていた俺は、胸を撫でおろした。
「お兄ちゃん!」
千香はわざと大きな足音を立てながら戻ってきて、ソファに体育座りする俺を見てキッと睨む。
「私のことを使わないでくれる!?」
「ごめん」
お前だって俺のことを使うだろう。いつもならそうやって言い返すけれど、素直に謝った。
すると、千香は馬鹿にしたように鼻で嗤(わら)う。妹という生き物はつくづく可愛くない。
「まだ喧嘩してるの?」
「してない」
「どっちでもいいけど、早く仲直りしなよ。海里くんが可哀想」
海里びいきの千香の言葉を無視して、ぎりぎりの時間に家を出た。
ホームルーム開始、七分前。
黙々とした早歩きは少しだけ余裕を生んだ。
昇降口にある時計を目にしたあと、下駄箱で靴を履き替えていたら、とぼとぼと大木がやってくる。
「大木、おはよう」
「はよ……」
元気印の大木の声に覇気がない。
どうしたのかと聞いたら、なんてことはない。朝の五時までゲームをしていたそうだ。
大木がハマっているのは、ネット経由で世界中と対戦出来るゲームだ。そこで知り合った仲間と意気投合し、気づけば夜通しゲームをしていた、と。
「あ、そう」
「ねむ……」
大木は喉ちんこが見える程、大きな口を開けてあくびをした。手で隠そうという気は一切ない。
そのあくびは絶え間なく出てくるようで、廊下の角を曲がったときにもあくびをした。そのでかい口で「あ」と言った。
「そういえば昨日さ、本屋へ行ったんだよ」
「昨日……」
昨日と言えば、学校の創立記念日。姫野たちがうちの店で女子会を開いた。
家にいれば何かと手伝わされるので、日中は漫画喫茶で時間を潰した。
一応予約を承った人間として、あとから姫野たちの様子を聞けば、とても盛り上がっていたらしい。ただ、〝未知な世界〟だったと父だけじゃなく母も首を傾げていた。カップリングがどうのこうの……一生触れたくない話題だなと思った。
そんなことを思い出していたら、大木が「皇」と言うので、ドキリと胸が跳ねる。
「皇、女の子と一緒にいたんだよね」
「……え?」
「ショートボブでボーイッシュな女の子。ちょっと猫っぽい感じの顔つきでさ……あれって噂の花栗の妹かなあ」
「あぁ……」
大木が並べた特徴は、千香っぽい。俺は息をゆっくり吐きながら、頷く。
「多分、うちの妹だな」
「そうか~、あんな可愛い妹、俺もいたらよかったなあ」
可愛い?
家を出るときの妹の小馬鹿にしたような嗤い方が脳裏に浮かぶ。
「そうでもない」
「ふぅん? まぁ俺にも姉がいるから、気持ちは察する」
「うん」
「それでさ」
大木は話を続ける。昨日、海里は千香と書店で参考書を一緒に見ていたらしい。そのあと、書店に併設されているカフェで仲よくケーキを食べていたとか。
「海里と千香がねぇ……」
千香は受験生だ。うちの高校を受験する予定らしい。
海里は先輩として参考書選びを手伝ってあげていたのかもしれない。ふたりともケーキが好きだから、甘い匂いのする店に引き寄せられたのだろう。想像に容易い。
「腕なんか組んでさ。しょっちゅう遊んでいるんだろう? やっぱり、ふたり付き合っているんじゃないか?」
「有り得ない、かな」
「でもさ、皇って好きな子がいるっぽいニュアンスで話すことがあるじゃん」
それは多分、俺……。
う。胸がじぃんとする。やめろ。俺の心臓。
「ん? なんで花栗が顔を赤くすんの?」
「……俺のことは気にするな」
大木は訝(いぶか)しげに俺を見たが、興味なさげに前を向き、またあくびをする。
教室に着くと、杉本と喋っていた海里が俺に気づいた。海里は爽やかな顔して手を振るので、俺も振り返して着席する。
隣にいる園村が俺に声をかけてきた。
「おはよう。顔赤いけど、走ってきたの?」
「……走っていない」
手で顔を覆うと、チャイムが鳴った。
「――文化祭は晴れ予報です。外部からの客も多く見込まれるでしょう」
あと二日。今週土曜日に文化祭が開催される。
高校初めての文化祭に、一年三組は色めき立っていた。
壇上に立つ富田先生は、そんな自分たちに念入りな注意喚起を促す。要するに、高校生として節度ある行動を心がけるようにということだ。
二限目までの自習時間は、文化祭準備に充(あ)てられた。
俺たち裏方の準備は滞りなく、残るは当日に飾るのみ。
当日のコースなどを確認しているあいだ、お化け役の奴らは、本番さながらのメイクをし、衣装を身に纏う。
「ぎゃは……」
そして、メイクを終えた大木が、お披露目のために教室に入って来た瞬間――その場は笑いに包まれた。
大木が化けたのは口裂け女だ。
胸までのロングヘアのウィッグに、唇は大きく顔の端まで塗られている。メイクは気合が入っているが、衣装はそれしかなかったのか、白のミニワンピースだ。
だが、大木に照れは一切ない。モデルのようなしなやかな動きで教室中央まで進み、堂々とポーズを決める。
俺の隣でコース確認をしていた園村が、携帯電話を構えてパシャパシャと撮影。待ち受けにすると大笑いしている。どこまで本気か分からない。
二番目にやってきた杉本も、顔全体を長い前髪で覆っていた。八尺様なんだそう。でかい。身長を高く見せるために厚底靴を履いているそうだ。それを隠すためなのかカーテンみたいなロングワンピースを引きずっている。そして中心にいる大木の横に並ぶと、ふたりでまたポーズを決める。園村が大興奮。
「はーい、メイクがまだのお化け役男子! 空き教室まで来て!」
メイク担当の姫野が呼びかける。
複数の女子の視線が俺の隣にいる海里へと集まった。
確か、海里は女性に殺された情夫霊の役だ。
なぜだか海里の役だけは詳細設定があり、江戸時代、呉服屋の女将(おかみ)との痴(ち)情(じょう)のもつれで殺された色男という役らしい。
「皇くんの顔に触れられるなんて、メイク係が羨ましい」
ぽつりと教室のどこかから、そんな声が漏れるや、海里は俺の腕を掴む。
「――ん?」
「俺の化粧は七海が担当してくれるっぽいので、連れていきまーす」
「は? 俺、メイクなんてしたことないって!?」
「大丈夫」
「何を根拠に……!?」
有無を言わさず連れていかれた先でも、海里はメイク担当の女子たちに言い切った。
爽やかに、でも有無を言わさない様子に女子たちは頷くほかない。結局、イケメンの頼みとやらには逆らえないようだ。
海里は衣装係から衣装の着物を受け取り、衝立(ついたて)で目隠しされた場所で着替えた。
無地の黒い着物も、海里が着ると様(さま)になる。
さらに、胸元を大きく開けるように指示されていて、厚い胸元が見え、男らしい色香が漂っていた。
――なるほど、色男。
情夫は適役だと思いながら、しぶしぶ、俺は椅子に腰かけた海里の前に立つ。
「失敗しても知らないからな」
「いいよ、練習だし」
やって、と海里がやや上を向いて瞼を閉じた。
周囲から羨(せん)望(ぼう)の眼差しを浴びながら、俺は化粧係から借りた道具を手に持つ。
お化け役のメイクを思い出して、まずはおしろいを顔につけていく。
しっかり瞼を閉じるように声をかけると、やや長い海里のまつ毛が震える。
さっき教室で女子が漏らした羨望の言葉が脳裏に浮かび、唐突に意味を理解した。
無防備で言いなり。メイクするあいだは、見つめ放題。
「…………」
改めて俺は、よく見慣れた顔を眺めた。額、眉、まつ毛、鼻、……ひとつひとつのパーツがよく整っている。
ゆっくりと視線を移動させていくと、妙に唇が気になった。
健康的な色味に誘われ、何気なく人差し指でつついてみる。
ふに、と弾力があって、柔らかい。男も女もこの感触は、大して変わらないのだろうか。キスしたら……どんな感じがするんだろう。
海里は、どんなキスをする……?
俺はもう一度、その唇を指で軽くつついて、なぞってみる。
「何やってんの」
「んー」
海里の言葉に生返事で答えると、触れている唇の端が震え始めた。
「それは、ちょっと照れるから」
「――っ、うぉっ!? 俺は何をやって!?」
指摘が耳に入るまで、夢中で唇の感触を楽しんでしまった。
あの夢のせいだ。海里とキス寸前だったから、変に意識してしまう。
学校では平常心を保つため気を張っていた。なのに、無防備な海里を前にして油断した。
「ごめん!」
「いいけど」
海里は薄目を開けて苦笑いを浮かべる。
「セクハラは駄目だからね」
「う。メイク……続けるよ」
そう言って海里はまた瞼を閉じた。
今の一瞬で物凄く動揺したので、きっと俺の顔は赤くなっている。海里が早めに瞼を閉じてくれてよかった。
静かに深呼吸し、メイクに意識を集中させる。
海里のメイクは、大木や杉本のような濃さじゃないだろう。情夫役ならば、求められているのは色気だ。
ほんのりと影を出すために、見よう見まねで目元にアイシャドウを入れた。調整が分からず、はっきりと色が乗る。濃すぎたと、軽くティッシュでふき取った。
「なあ、七海。文化祭は一緒に見て回ろう?」
「……あ? あぁ、休憩時間が重なったら」
「やった。七海と過ごせるの楽しみ」
途端に海里は声を弾ませる。
休憩時間が合えばの話なのに、滅茶苦茶嬉しそうにするじゃん。
……そんなに俺と一緒にいたいのかよ?
う。また胸が……きゅん、としてきた。
動揺しながら視線を逸らすと、少し離れたところに立つ姫野が、早くとジェスチャーするのが見える。
海里のメイクもこれ以上付け加えるのをやめて、手を止めた。
「――よし、これでいっか。目を開けていいよ」
海里の前に手鏡を差し出して言った。
そしてメイク係の女子が海里を囲むと、黄色い声が上がる。
見よう見まねだったが、なんとか形になったようだ。
仕上げに、胸まである長さのウィッグを付けて、ひとつにまとめれば――。
「情夫!」
「情夫の再現度が高い!」
隣の教室に戻って、情夫姿の海里を見た女子たちが湧く。べた褒めだ。
その盛り上がりを見た園村は、俺の横でぽつりと呟いた。
「これは、痴情のもつれがあるな……」


