車道を挟んだ家の庭に植えられた木の葉からは、すっかり緑色が消えている。赤味を帯びた葉を眺めていると、真後ろから肩をポンと叩かれた。
「おはよ。待った?」
「海里、おはよう。三分くらいかな」
俺たちは顔を合わせると、横並びに並んで歩き始めた。
「授業のノート、貸してくれてありがとう。あとで返す」
「うん。授業追いつけそう?」
「勉強はどうにかなりそうだけど、でも、一週間ぶりの高校は憂鬱だな」
海里はぼやくけれど、俺はまたこうして隣にいられることが単純に嬉しかった。
どこか浮ついた気持ちで登校すると、さっそく賑やかトリオが海里を囲んだ。
「皇、復活したのか!? 会いたかったぁ!」
復活を喜びながら、大木と杉本は海里を挟むように抱きしめた。
海里は憂鬱さを一切感じさせない爽やかな笑顔を振りまく。
「三人ともメールくれてありがとう」
「死ぬほど心配したよ~~」
「心配して泣いていたよ~~」
いや、それほど心配してなかっただろう。
窓際の壁にもたれて、ふたりの様子を内心でツッコんだ。
大木の横にいた園村は、指で眼鏡をくいっと上げる。
「死ぬほど心配していたのは、花栗だけどな」
「……っ、おい」
「では、先週の花栗のものまねしまーす!」
「へ? 俺?」
すると、杉本は自分の髪をぐしゃぐしゃに乱れさせるや、猫背になった。かなり陰々とした雰囲気だ。
なぜ、それが自分のものまねなのかと首を傾げる。
「……海里ぃ……海里がおらん、どこじゃ~」
ものまねの俺は、覇(は)気(き)のない細い声で海里を呼び続ける。
「んん? ちょっと待て。ツッコミどころありすぎて、黙って見てられない。それは本当に俺の真似か? そんな風にはしていないだろ」
「いやしていたな。なぁ、大木」
「あぁしていたよ。杉本」
していない。
ただ、海里の席に座って休み時間を過ごしていたことは事実だ。淋しかったことも間違いない。
「――ふざけすぎだろ」
海里は机に頬杖しながら、窓の外に目を向けて平坦な声で言った。
「七海はそんなことしないから」
「…………」
はっと目が覚めるような、違(・)い(・)だった。
背筋に冷たさが這いのぼる。
海里のひとことがいつもと違うこと。それが引っ掛かって仕方がない。
今までなら、俺が海里のことを心配すると、〝愛されているから当然〟という態度を取った。俺も相槌を打って、互いの仲を認め合っていた。
でも、これからは……。
「――なぁ、花栗。皇に話した?」
「え?」
杉本に声をかけられ顔を上げると、四人はこちらを見ていた。
多分、少し前から話題が変わっていたのだろう。
「あ、ごめん。ほんやりして聞いていなかった」
「だから、文化祭の話だよ」
「あぁ、まだ……」
海里が休んでいたあいだ、文化祭の出し物や準備について、クラス内で話し合いが進んでいた。
祭り好きが集まった一年三組は、賑やかトリオを中心に、あれもしたいこれもしたいと盛り上がっていた。
以前、磯辺先生のお別れパーティーを開いた際、目立ちたがり屋が多いことは分かっていて、劇をしようかという案も出た。
王道の白雪姫か、シンデレラか。
ストーリーはあっさりと決まりそうだったが、配役に問題が起きた。
『王子さま役は、皇くんしかいないでしょ!』
『休んでいる皇くんに、王子さまを押し付けるのは駄目だよ』
『でも、皇くん以外、有り得ないよ』
『皇くんの王子さまが見れないなら、劇をする意味ないよね』
複数人のイケメン至上主義の女子の声により、劇の話はボツとなったのだ。
その後もコスプレ喫茶やフラッシュモブ、アイデアは色々出たけど、盛り上がるだけで決まらない。
見かねた富田先生はあみだくじを用意した。
「で、お化け屋敷になった」
「……王子さまじゃなくてよかったよ」
「皇のカボチャパンツと白タイツ姿は見たかったな」
杉本の言葉に、海里は「休み明けは憂鬱だ」と張りのない声で言った。
◇
文化祭まで、残り二週間を切った。
お化け屋敷の装飾品や小道具の準備、部活動や委員会に所属していない生徒が中心に行うことが決まった。
どんなお化け屋敷にするかは、クラス全体の話し合いで決めているものの、詳細な設計は裏方にほぼ丸投げだった。
そこで段取りの上手い園村の出番だ。
総監督に任命された園村は、大まかに作業を振り分けた。
まず美術部員と絵の上手い奴が、デザインを起こしていく。他の奴はそれを元に資材を準備し、かたどったり、下地を塗ったりする。
滞っていた作業が一気に進み始めたのはいいが、俺の作業だけやたらと多かった。
園村曰く、適材適所らしい。
自分がやった方が早いなら仕方がないかと、与えられた作業をさくさく進めていたら――思いっきり裏目に出た。
「花栗くん、即戦力!」
美術部の姫野に目を付けられてしまったのだ。
短い期間だしと腹を括(くく)り、分担外の作業もこなす。すると、どうしてか演劇部の舞台美術の手伝いもする羽目になっていた。
「花栗ってさ、器用貧乏だよな」
「花栗お母ちゃん、大人気じゃん。モッテモテだな」
「花栗、姫野と本当に仲がいいな〜」
空き時間のたびに、美術部の奴に連行される俺を見て、トリオはひらひらと手を振った。
海里は雑誌を読んでいて、こちらを見なかった。
◇
今日も今日とて、俺は黙々と作業をしている。
段ボールを重ねて作った看板は、文化祭当日に教室の入り口に飾るものだ。
既に下地を塗られたそこに絵の具を乗せていきながら、今日何回目かのため息をついた。
「はぁ~」
「…………」
「はぁ~」
「……り」
「はぁ~~」
「花栗、お前の耳はブラジルにでも引っ越したのか」
独特なツッコミが耳に入り、顔を上げると園村がいた。
「あぁ……聞こえていなかった」
「そのようだな。ブラジルからおかえり」
「……ただいま」
「ところで、花栗はひとりで作業しているのか? 他の美術部の奴らは?」
「あぁ、教師に講堂の椅子を片付けるように頼まれて、出払ってる」
俺だけ残って作業することにしたのだと伝えると、園村はシャツの腕まくりをしながら、俺の横にしゃがんだ。
園村は塗っている看板を見て、ここと、ここと、こことかが、と指を差していく。
「うまいな。美術部に入れば?」
「ありがと。でも、入る理由ない」
絵を描くことも工作も好きだけど、家でも十分楽しめる。
「語り合いたいような仲いい奴もいないしね」
「ふぅん」
「なぁ、やったら?」
腕まくりをしたのは手伝うためではなかったのか。
園村の目の前には、筆と絵の具が置いてあるのに、ちっともやろうとしない。
促したら、園村がちょいちょいと指で俺に近づくように指示する。
「なんだよ?」
「俺さ、超個人的理由で見守り隊なんだよね」
「何? はっきり言えば」
園村はふっと息を吐くように笑ったあと、周囲を見渡す。人がいないことを確かめると、前のめりになって俺に顔を寄せてきた。
「だからなんだ……」
「皇のこと、フッたでしょ」
「……っ」
耳元で囁かれた端的な言葉に、一瞬息が詰まる。
おそるおそる真横を見れば、近くにある園村の顔は笑っていないし、冗談めかしてもいない。
「な……んで?」
空気が乾燥したみたいに、喉が渇いて声がかすれた。
「皇が休んでいるあいだ、花栗の様子がずっとおかしかったこと、最近ふたりの様子にも違和感があるから。特に花栗がね」
園村は周囲に配慮して、声を潜めて、続けた。
「割と確信を持って、声をかけているつもり」
こいつ……。
その勘のよさに鳥肌が立って、俺はシャツの上から腕を撫でる。
以前、バスケの体育の授業で、園村が言ったことを思い出した。
海里の気持ちが分かるって。
応えてやらないのか――という問いは、当てずっぽうではなく、やっぱり核心を突いてきていたんだ。
「言いたくなければいいけど。それって、やっぱり男だから?」
「…………」
どうしてそんなことを聞くのだろう。
怒りのような感情を覚えながら、口の端に力を入れる。
秘密なのだから、誰であっても打ち明けられるわけがない。
そう思いながら、園村の問いを心の中で答えた。
――今まで、俺は男を性的に意識したことはない。
海里のことは好きだ。けど、恋愛として意識出来るかは未知。答えが出るまでどれくらいかかる? いい答えが出せなかったら? 下手に期待を持たせるよりすっぱり断った方が、傷は浅いはず。修正だって出来るはず。
海里の告白を迷わず断ったのは、そうした方が……。
「一緒にいられると思った」
秘密が守られる程度に、短く言葉を吐いた。
その結果が今。死ぬほど気まずくて、まともに視線を合わせられない。会話もひねり出してようやく二言ほど出るのみ。
海里の病欠明けから、日に日に接し方が迷子になっている。
「ふぅん」
園村は眼鏡をくいっと指で上げた。
次の瞬間には、いつものにやり顔に戻っている。目が線一本なので、漫画みたいな顔だ。
緊張を含んだ空気が急に緩む。
空気まで調整出来るとは、便利な顔だ。
「ぴろんぴろん」
「……何それ?」
「恋愛ゲームとかで攻略対象者で好感度上がる音。あ、勘違いするなよ。俺がお前をそういう意味で好きになることはないから」
「……ごめん。俺、恋愛ゲームはやったことがない」
「そういえば、俺もやらない。適当なイメージで言った」
軽薄で意味のない会話が始まり、園村はニヤニヤとする。
だが、次の瞬間、にやけ顔はひくっと小さく痙(けい)攣(れん)し、青ざめていく。
寒いのかと思ったら、大きな影がすっぽりと俺たちを包んだ。
振り向くと、そこにいたのは海里だ。
「なんで、くっついてんの?」
穏やかな目がつり上がって、眉間にはシワが寄っている。不機嫌を露(あら)わにしているので、俺も口角が引きつる。
「園村」
海里が呼ぶと、園村は俺の耳元にあった顔をすぅっと離した。
「はぁい。……こちらの場所は皇にお譲りいたします」
園村は海里に筆を渡し、水を交換してくると言って、廊下に出ていった。
しん、と教室が静まり返ると、グラウンドからランニングする掛け声が小さく入ってくる。
「……海里、部活は?」
「委員会だったから、休んだ」
「あぁ、そうなんだ」
海里は俺の横にしゃがんだ。
「手伝うよ」
「じゃあ血のところ赤で塗って……」
俺は説明しようと、海里の足元の方に身を乗り出した。
「お……っ」
同じ体勢ばかり取っていたせいで足が固まって、思うように動かず、バランスを崩した。
こてんと右側にいた海里の肩にもたれかかってしまう。
「ご……ごめん!」
俺は反対側の左足に重心をかけて、ゆっくりと離れた。
「いや、別に」
――気まずい。
沈黙を恐れて、急いで絵の具を取ろうとしたら、海里の手に重なる。
「ひゃっ、ごめん!」
大袈裟なほど、勢いよく手を離す。手くらいどうしたというんだ。
俺が過剰反応をするから、海里も面食らっている。
「七海?」
「ちがっ! 違うんだ、なんでもない!」
大袈裟に手を振ったとき、大木の能天気な声が教室に響いた。
「あぁー、見いちゃった! このふたりラブコメしていましたぁ!」
「お、大木……」
「俺も混ぜてくれよ~」
気まずい空気はおちゃらけた声に払(ふっ)拭(しょく)される。そのことに安堵していると、大木はジャケットを脱いで、袖を捲(まく)った。
「え……大木も手伝ってくれるのか?」
「うん。今日は残れる奴が多いみたいだから、みんなでやろうぜ」
大木はクラスメイトに声をかけていたようで、ぞくぞくと生徒がやって来た。
がやがやと賑やかに作業を始める空気に安堵しながら、俺も海里に指示を出す。
作業に没頭していたから、下校を促す放送が聞こえてくるまで、あっという間だった。
「あー、よくやった」
居残り組は自分たちを労(いた)わりながら、ぞろぞろと連なって校舎を出る。
さっきまで熟(う)れたトマトみたいな空だったのに、今はほんのりと空の端が明るい程度だ。
「うーん。一気に冬を感じるな」
大木の言葉に同意した。
気温がぐんと下がって、肌寒さにぶるりと胴震いする。
「七海」
「うわっ!?」
海里が耳元近くで名を呼んだので、大きく飛び跳ねた。またやってしまった、過剰反応だ。
「あぁっ、ごめん。何?」
海里は眉をひそめたが、すぐに表情を戻し、俺の前にカイロを差し出した。
「新品のカイロ、鞄の中にあったからあげる」
親切にもビニール袋を破いてから使うようにと手に持たせてくれる。ごく自然にこういうことが出来るところ、本当に紳士だ。
「おぉ~、ぶるぶる……寒い、寒い。皇、俺にはカイロないの?」
大木が鼻を啜りながら言うが、海里は目も向けない。
「悪い。ひとつしか持ってない」
「…………」
この対応が万人に出来るほどまめまめしくないことも知っている。
「風邪引くなよ、死ぬほど心配するから」
「……う、うん」
思わず、じりっと一歩下がった。
大木や杉本のふざけた言い方とは違う。海里の告白を聞いてから、何気ない言葉でも意味を探ってしまう。
俺はもらったカイロをポケットの中に入れて、ぎゅっと握った。
◇
「はぁ、もう十一月も半ばかぁ──ん? 何やっているんだ? あいつら」
「なんの遊び?」
次の授業のために、別館にある科学実験室に移動していた。
渡り廊下で、俺と海里を少し後ろの方で見ているトリオの呑気な声が聞こえてくる。
「最近、あのふたり、よくかげふみしているよな」
かげふみ、自分の影を相手に踏まれたら負け。
もちろん、そんな遊びはしていないが、俺が一歩下がると海里も下がる。
並ぶと肩が触れそうで、斜めに一歩離れたら、一歩海里が詰め寄ってくる。それを繰り返していたら、周りからツッコまれても仕方がない。
「七海さぁ、なんで俺から逃げるの?」
真横から圧を感じる。
だって、一歩離れないと、肩同士が触れ合ってしまう……。
「逃げているわけじゃ……」
「逃げてるでしょ」
「い、今だけ……」
「なんで?」
海里は詮(せん)索(さく)するような目で俺を見るので、だらだらと汗が噴き出てきた。
「──ああっ、そうだ! 実験の準備しておかないと怒られる。怖い怖い。ほら、早く行こう!」
なじるような視線を避けるように、俺は早足で実験室へ向かった。
科学室には水槽があり、そこには零れ落ちそうなほど大きなほっぺたをした金魚が二匹いる。
そのほっぺただと思っていたものは、角(かく)膜(まく)が肥大化したものだと、ここ最近図鑑を読んで知った。
ぷっくらした角膜が揺れているのを横目に、俺は棚から実験に必要な道具を取り出した。花粉を顕微鏡で調べる実験だ。
「皇さ、なんか変じゃない?」
顕微鏡をセットしていると、同じ班の杉本が俺に耳打ちをした。
俺たちの班の隣の席には、海里と大木が座っている。
「おっかないというか……。いつもの余裕綽綽な皇じゃないというか」
「そうか?」
とぼけてみたものの、十中八九、原因は俺。
ここ数日、挙動不審というレベルで、俺は海里を避けてしまっていた。
特に昨日の自分は最悪だった。登校時、海里は側道に移動するために、俺の肩を抱き寄せた。ただの親切だったのに、思わず、俺は海里の胸を突っぱねてしまったのだ。
俺が力を入れたくらいでは、海里はびくともしない。ただ、空気がぴりっとしたのは分かった。
「皇、こっちを睨んでないか?」
「…………」
ほら、っと杉本は顎で指す。
おそるおそる海里の方を向けば、バチッと視線が合った。
う。おかしい……。俺の視線が、ふよふよ泳いでしまう。
なるべく自然にしたいのに、うまく出来ない。
ぎこちなく顔を逸らすと、海里からの視線が強まった気がした。
「ごめんなさい……」
言ったのは俺じゃない。
俺と海里のちょうどあいだに座る大木が、自分が海里に睨まれていると勘違いして謝った。それで海里の視線は俺から外れたが、不機嫌オーラを纏(まと)ったまま。
実験中、プレパラートの上に乗せる薄いカバーガラスなんかは、その怒気だけでヒビが入ってしまいそうだ。
大木はビビりながら、俺にどうにかしろと目配せした。付近にいる奴らもこっちを見る。
皆の視線に耐え兼ね、授業が終わると、俺は海里に声をかけた。
「海里、教室へ戻ろう」
「……あぁ」
「次は地理だな」
「あぁ」
相槌は打ってくれるけれど、声も表情も苛々(いらいら)しているのが丸わかり。
海里は何事にもあっさりしているので、こんな風にずっと不機嫌なままでいることは初めてだ。
クラスメイトは、俺にどうにか出来ないことを他の奴が出来るわけがないとでも踏んだのだろう。
触らぬ神に祟(たた)りなし──。
誰も海里に近寄ろうとしなかった。教師ですら、視線を合わせない。そんな状況だったが……。
「これ、食べてよ」
昼食時、俺が弁当を差し出すと、海里の不機嫌な表情が、わずかにほぐれた。
ピーマンの肉詰めに、レンコンのはさみ揚げ、ほうれん草のキッシュに炊き込みご飯……。
「……うま」
海里は一口頬張って、弁当を凝視したあと、俺を見た。
「これ作るの、大変だったんじゃないか?」
「た、大したことないよ」
今日の弁当には、冷凍食品も昨日の残り物も入れていない。朝の四時から起きて作った。
ここ数日、自分の態度が酷すぎるので、詫びとして弁当作りに全力を注いだのだ。ちなみに海里の好物ばかり入れた。
「ありがとう」
「いや、自分たちのついでだし……」
こんな方法しか思い浮かばないのは、我ながら情けない。
海里はもう一口頬張って、もう一度「うまい」と言った。
「このレンコンのはさみ揚げ、絶品。何百個でもイケるよ。炊き込みご飯ももちもちして美味しい」
食べるとテンションが高くなってきたのか、先ほどまでの海里の不機嫌なオーラは消え失せている。
よかった。
喜んで食べてくれる海里にホッとして、口元を緩ませる。
「これ食べたら、七海が丁寧に作ってくれたの分かるよ。やっぱり本当は時間かかっただろ?」
「う、まあ」
「最近、俺のこと避けていただろ? もしかして、俺に悪いと思って気を使ってくれた……とか?」
「う」
バレてる。
返事にまごまごしていると、海里の口角がうにゅっと上がった。
「ごほん」
海里は軽く咳払いをして、口元を手で押さえた。
「なんだ、そういうことか。……七海って真面目」
海里がふっと穏やかな表情をした途端、教室の空気が一気に和らいだ。
見ているだけで、俺の喉奥のつっかえ感が消失し、食欲が出てくる。
箸を進めようとしたとき、うっと喉が詰まった。
大木がうるうると潤んだ瞳でこっちを見ている……。
……そういえば、さっきひたすら海里の冷気を浴びさせてしまったっけ。
申し訳なさがじわりと込み上げ、詫びにピーマン肉詰めを大木に差し出した。
「いいの!?」
「……おあがりなさい」
大木は大口を開けて、それを頬張った。
「うんまあああ! 中にチーズが入ってる。肉とチーズの旨味が、口の中でハーモニーを起こしちゃってますよ!? 中華料理屋もいいけど、小料理屋とかも開けるんじゃないですか。花栗お母ちゃんは天才ですか。俺、これでご飯三杯はいけます」
「なら、俺は五杯いけます」
なぜか海里が張り合い出す。
「皇が五杯なら、俺は六杯」
「なら俺は十杯」
「食欲くらい勝たせてくれよ!」
「やだ」
大木に負けまいとする海里に、その場が和む。
久しぶりに海里が俺のことで、ノリに乗ってくれた。それが嬉しくて、「はは」っと笑いが漏れたとき――。
「こ(・)れ(・)は(・)、皇が手放せないはずだよなぁ」
大木がため息まじりに言った。
「…………」
――そのジャブは、今の俺たちには適していない。
笑っていた自分の顔が引きつり、机に置かれた海里の指もピクリと反応する。
微かな沈黙のあと、海里は最後の一口を食べて両手を合わせた。
「ごちそうさま」
大木の言葉に、海里は答えなかった。
大木はまた園村と他愛ないことで盛り上がっていて、騒がしいし、海里が不機嫌になっているでもない。
なのに、俺は今、どうしようもない虚しさを覚えている。
俺と海里のあいだに、一歩分の距離が出来ているような気がした。
──自分から作った一歩分の距離。
つきん、つきん。
「……?」
胸に知らない痛みを感じ、服の上から手を置いた。
それにもやもやしていたら、海里がぽつりと呟く。
「手放せるわけがないじゃん」
誰にも聞かせるつもりがない、独り言のような小さい呟きだ。
手を置いた胸元から、どくんっと大きな音が聞こえた。
ど、ど、ど……それは一度の高まりだけじゃなく、ずっと騒がしい。
大木や杉本よりもうるさい。教室で一番うるさいのは自分の心臓のように思えて、恥ずかしい。
じっとしていられなくなって、空になった弁当箱を回収して立ち上がった。
「あっ、俺……っ、美術部へ行ってきます――ん?」
すると、海里も立ち上がる。まだその口角は上がったまま。かなり機嫌がいい。
同じように教室を出たから、トイレかと思ったのに──急に腕を掴まれた。
「へ……?」
「来て。七海はなんでも引き受けすぎだって。無理しすぎだから、美術部の奴らから隠す」
「隠す?」
「うん」
「え、ちょ……」
海里が大股で歩を進めるので、俺の身体も引っ張られる。
いつになく強引な様子で向かった先は屋上だった。
屋上のドアを開けた瞬間、強めの風が吹いてきた。上空にある灰色の雲は、ぐんぐんと流れていく。
気温がめっきり低くなったせいか、屋上には誰もいなくて、がらんとしていた。
「よかった。誰もいない」
のんびり出来る場所を見つけたと言わんばかりに、海里は明るい声を出す。
「あぁ、けど寒い……」
「ん」
海里は両手を広げた。意図が分からず、小首を傾げる。「何」と言いかけたとき、その腕が俺の身体を包んだ。
「へ……、お前っ、何やって!?」
「温めてる」
「あ、温め!?」
確かに海里の体温は高い。
俺の体温も急上昇していき、寒さなど一切感じなくなった。
「いや……どう考えても、おかしいから……」
その腕の中で俺はもぞもぞと身体をよじった。
「まだ駄目」
「へあっ!?」
俺を抱きしめる腕の力が強まる。
「か、海里……!?」
「ん~」
呼んでも生返事がくるだけ。離す気は毛頭ないようだ。
ただ、俺は離して欲しくて仕方がない。
だって──、心臓がうるさい。
教室にいた頃よりも、心臓の音がパワーアップしている。
自分でもなんでこんなに動揺しているのか分からない。久々に海里を近くに感じるから?
「あーやっぱり、コレだな」
「…………」
そのコ(・)レ(・)は、馴染みの毛布を使ったときとかに、思わず呟くようなニュアンスだった。
「考えてみたら、俺たち、喧嘩したわけじゃないじゃん。なのに最近ぎこちないし、一緒にいる時間も少なくってさ。距離が離れている気がしない? そっちの方が俺たち変じゃない? どう思う?」
海里は問うけど、俺の答えを急いではいないようだった。
それよりも俺の髪の感触を楽しむように頬ずりしている。さらにそこに顔を埋めてすんっと俺のことを吸い始めた。
男の頭なんていい匂いはしないはずなのに、海里はコ(・)レ(・)だと言わんばかりに顔をそこから離さない。
あまりに執(しつ)拗(よう)に吸われるから、思わず、俺も目の前にある首筋に顔を寄せて匂いを嗅ぐ。
匂いなんて意識したことはなかったけど、よく知っていた。
海里の匂いと体温。まさしくコレで、うろたえていたのに落ち着いてくる。
「…………」
拒否出来ない程の強い力で抱きしめられているわけでもない。なのに、動く気になれなかった。
包まれたままでいると、海里が小さな声で言った。
「俺、七海にフラれてもさ」
フッたのは俺なのに、その言葉を聞くと身体が強張る。
そんな俺をあやすように大きな手が背中を上下する。身勝手にもそのぬくもりに安堵していると、身体をやや離された。
「七海のことが大事」
「……大、じ?」
「凄く大事。俺に大事にさせて欲しい」
海里は真顔だったのに俺と目が合ったら、ふっと目尻を下げて笑顔になる。
「……っ」
身体がぶるりと震えた。
……言えてよかったみたいな顔、すんなよ。
嬉しいけど、叫び声を上げたくなるような未知の感覚が、勢いよく身体を駆けまわっている。
ひと足遅れて、胸がきゅうっと絞られるみたいに苦しくなった。口を開けて、息を短く吐く。なんだよ、これ……。
全然ドキドキが止まらないじゃないか。
「おはよ。待った?」
「海里、おはよう。三分くらいかな」
俺たちは顔を合わせると、横並びに並んで歩き始めた。
「授業のノート、貸してくれてありがとう。あとで返す」
「うん。授業追いつけそう?」
「勉強はどうにかなりそうだけど、でも、一週間ぶりの高校は憂鬱だな」
海里はぼやくけれど、俺はまたこうして隣にいられることが単純に嬉しかった。
どこか浮ついた気持ちで登校すると、さっそく賑やかトリオが海里を囲んだ。
「皇、復活したのか!? 会いたかったぁ!」
復活を喜びながら、大木と杉本は海里を挟むように抱きしめた。
海里は憂鬱さを一切感じさせない爽やかな笑顔を振りまく。
「三人ともメールくれてありがとう」
「死ぬほど心配したよ~~」
「心配して泣いていたよ~~」
いや、それほど心配してなかっただろう。
窓際の壁にもたれて、ふたりの様子を内心でツッコんだ。
大木の横にいた園村は、指で眼鏡をくいっと上げる。
「死ぬほど心配していたのは、花栗だけどな」
「……っ、おい」
「では、先週の花栗のものまねしまーす!」
「へ? 俺?」
すると、杉本は自分の髪をぐしゃぐしゃに乱れさせるや、猫背になった。かなり陰々とした雰囲気だ。
なぜ、それが自分のものまねなのかと首を傾げる。
「……海里ぃ……海里がおらん、どこじゃ~」
ものまねの俺は、覇(は)気(き)のない細い声で海里を呼び続ける。
「んん? ちょっと待て。ツッコミどころありすぎて、黙って見てられない。それは本当に俺の真似か? そんな風にはしていないだろ」
「いやしていたな。なぁ、大木」
「あぁしていたよ。杉本」
していない。
ただ、海里の席に座って休み時間を過ごしていたことは事実だ。淋しかったことも間違いない。
「――ふざけすぎだろ」
海里は机に頬杖しながら、窓の外に目を向けて平坦な声で言った。
「七海はそんなことしないから」
「…………」
はっと目が覚めるような、違(・)い(・)だった。
背筋に冷たさが這いのぼる。
海里のひとことがいつもと違うこと。それが引っ掛かって仕方がない。
今までなら、俺が海里のことを心配すると、〝愛されているから当然〟という態度を取った。俺も相槌を打って、互いの仲を認め合っていた。
でも、これからは……。
「――なぁ、花栗。皇に話した?」
「え?」
杉本に声をかけられ顔を上げると、四人はこちらを見ていた。
多分、少し前から話題が変わっていたのだろう。
「あ、ごめん。ほんやりして聞いていなかった」
「だから、文化祭の話だよ」
「あぁ、まだ……」
海里が休んでいたあいだ、文化祭の出し物や準備について、クラス内で話し合いが進んでいた。
祭り好きが集まった一年三組は、賑やかトリオを中心に、あれもしたいこれもしたいと盛り上がっていた。
以前、磯辺先生のお別れパーティーを開いた際、目立ちたがり屋が多いことは分かっていて、劇をしようかという案も出た。
王道の白雪姫か、シンデレラか。
ストーリーはあっさりと決まりそうだったが、配役に問題が起きた。
『王子さま役は、皇くんしかいないでしょ!』
『休んでいる皇くんに、王子さまを押し付けるのは駄目だよ』
『でも、皇くん以外、有り得ないよ』
『皇くんの王子さまが見れないなら、劇をする意味ないよね』
複数人のイケメン至上主義の女子の声により、劇の話はボツとなったのだ。
その後もコスプレ喫茶やフラッシュモブ、アイデアは色々出たけど、盛り上がるだけで決まらない。
見かねた富田先生はあみだくじを用意した。
「で、お化け屋敷になった」
「……王子さまじゃなくてよかったよ」
「皇のカボチャパンツと白タイツ姿は見たかったな」
杉本の言葉に、海里は「休み明けは憂鬱だ」と張りのない声で言った。
◇
文化祭まで、残り二週間を切った。
お化け屋敷の装飾品や小道具の準備、部活動や委員会に所属していない生徒が中心に行うことが決まった。
どんなお化け屋敷にするかは、クラス全体の話し合いで決めているものの、詳細な設計は裏方にほぼ丸投げだった。
そこで段取りの上手い園村の出番だ。
総監督に任命された園村は、大まかに作業を振り分けた。
まず美術部員と絵の上手い奴が、デザインを起こしていく。他の奴はそれを元に資材を準備し、かたどったり、下地を塗ったりする。
滞っていた作業が一気に進み始めたのはいいが、俺の作業だけやたらと多かった。
園村曰く、適材適所らしい。
自分がやった方が早いなら仕方がないかと、与えられた作業をさくさく進めていたら――思いっきり裏目に出た。
「花栗くん、即戦力!」
美術部の姫野に目を付けられてしまったのだ。
短い期間だしと腹を括(くく)り、分担外の作業もこなす。すると、どうしてか演劇部の舞台美術の手伝いもする羽目になっていた。
「花栗ってさ、器用貧乏だよな」
「花栗お母ちゃん、大人気じゃん。モッテモテだな」
「花栗、姫野と本当に仲がいいな〜」
空き時間のたびに、美術部の奴に連行される俺を見て、トリオはひらひらと手を振った。
海里は雑誌を読んでいて、こちらを見なかった。
◇
今日も今日とて、俺は黙々と作業をしている。
段ボールを重ねて作った看板は、文化祭当日に教室の入り口に飾るものだ。
既に下地を塗られたそこに絵の具を乗せていきながら、今日何回目かのため息をついた。
「はぁ~」
「…………」
「はぁ~」
「……り」
「はぁ~~」
「花栗、お前の耳はブラジルにでも引っ越したのか」
独特なツッコミが耳に入り、顔を上げると園村がいた。
「あぁ……聞こえていなかった」
「そのようだな。ブラジルからおかえり」
「……ただいま」
「ところで、花栗はひとりで作業しているのか? 他の美術部の奴らは?」
「あぁ、教師に講堂の椅子を片付けるように頼まれて、出払ってる」
俺だけ残って作業することにしたのだと伝えると、園村はシャツの腕まくりをしながら、俺の横にしゃがんだ。
園村は塗っている看板を見て、ここと、ここと、こことかが、と指を差していく。
「うまいな。美術部に入れば?」
「ありがと。でも、入る理由ない」
絵を描くことも工作も好きだけど、家でも十分楽しめる。
「語り合いたいような仲いい奴もいないしね」
「ふぅん」
「なぁ、やったら?」
腕まくりをしたのは手伝うためではなかったのか。
園村の目の前には、筆と絵の具が置いてあるのに、ちっともやろうとしない。
促したら、園村がちょいちょいと指で俺に近づくように指示する。
「なんだよ?」
「俺さ、超個人的理由で見守り隊なんだよね」
「何? はっきり言えば」
園村はふっと息を吐くように笑ったあと、周囲を見渡す。人がいないことを確かめると、前のめりになって俺に顔を寄せてきた。
「だからなんだ……」
「皇のこと、フッたでしょ」
「……っ」
耳元で囁かれた端的な言葉に、一瞬息が詰まる。
おそるおそる真横を見れば、近くにある園村の顔は笑っていないし、冗談めかしてもいない。
「な……んで?」
空気が乾燥したみたいに、喉が渇いて声がかすれた。
「皇が休んでいるあいだ、花栗の様子がずっとおかしかったこと、最近ふたりの様子にも違和感があるから。特に花栗がね」
園村は周囲に配慮して、声を潜めて、続けた。
「割と確信を持って、声をかけているつもり」
こいつ……。
その勘のよさに鳥肌が立って、俺はシャツの上から腕を撫でる。
以前、バスケの体育の授業で、園村が言ったことを思い出した。
海里の気持ちが分かるって。
応えてやらないのか――という問いは、当てずっぽうではなく、やっぱり核心を突いてきていたんだ。
「言いたくなければいいけど。それって、やっぱり男だから?」
「…………」
どうしてそんなことを聞くのだろう。
怒りのような感情を覚えながら、口の端に力を入れる。
秘密なのだから、誰であっても打ち明けられるわけがない。
そう思いながら、園村の問いを心の中で答えた。
――今まで、俺は男を性的に意識したことはない。
海里のことは好きだ。けど、恋愛として意識出来るかは未知。答えが出るまでどれくらいかかる? いい答えが出せなかったら? 下手に期待を持たせるよりすっぱり断った方が、傷は浅いはず。修正だって出来るはず。
海里の告白を迷わず断ったのは、そうした方が……。
「一緒にいられると思った」
秘密が守られる程度に、短く言葉を吐いた。
その結果が今。死ぬほど気まずくて、まともに視線を合わせられない。会話もひねり出してようやく二言ほど出るのみ。
海里の病欠明けから、日に日に接し方が迷子になっている。
「ふぅん」
園村は眼鏡をくいっと指で上げた。
次の瞬間には、いつものにやり顔に戻っている。目が線一本なので、漫画みたいな顔だ。
緊張を含んだ空気が急に緩む。
空気まで調整出来るとは、便利な顔だ。
「ぴろんぴろん」
「……何それ?」
「恋愛ゲームとかで攻略対象者で好感度上がる音。あ、勘違いするなよ。俺がお前をそういう意味で好きになることはないから」
「……ごめん。俺、恋愛ゲームはやったことがない」
「そういえば、俺もやらない。適当なイメージで言った」
軽薄で意味のない会話が始まり、園村はニヤニヤとする。
だが、次の瞬間、にやけ顔はひくっと小さく痙(けい)攣(れん)し、青ざめていく。
寒いのかと思ったら、大きな影がすっぽりと俺たちを包んだ。
振り向くと、そこにいたのは海里だ。
「なんで、くっついてんの?」
穏やかな目がつり上がって、眉間にはシワが寄っている。不機嫌を露(あら)わにしているので、俺も口角が引きつる。
「園村」
海里が呼ぶと、園村は俺の耳元にあった顔をすぅっと離した。
「はぁい。……こちらの場所は皇にお譲りいたします」
園村は海里に筆を渡し、水を交換してくると言って、廊下に出ていった。
しん、と教室が静まり返ると、グラウンドからランニングする掛け声が小さく入ってくる。
「……海里、部活は?」
「委員会だったから、休んだ」
「あぁ、そうなんだ」
海里は俺の横にしゃがんだ。
「手伝うよ」
「じゃあ血のところ赤で塗って……」
俺は説明しようと、海里の足元の方に身を乗り出した。
「お……っ」
同じ体勢ばかり取っていたせいで足が固まって、思うように動かず、バランスを崩した。
こてんと右側にいた海里の肩にもたれかかってしまう。
「ご……ごめん!」
俺は反対側の左足に重心をかけて、ゆっくりと離れた。
「いや、別に」
――気まずい。
沈黙を恐れて、急いで絵の具を取ろうとしたら、海里の手に重なる。
「ひゃっ、ごめん!」
大袈裟なほど、勢いよく手を離す。手くらいどうしたというんだ。
俺が過剰反応をするから、海里も面食らっている。
「七海?」
「ちがっ! 違うんだ、なんでもない!」
大袈裟に手を振ったとき、大木の能天気な声が教室に響いた。
「あぁー、見いちゃった! このふたりラブコメしていましたぁ!」
「お、大木……」
「俺も混ぜてくれよ~」
気まずい空気はおちゃらけた声に払(ふっ)拭(しょく)される。そのことに安堵していると、大木はジャケットを脱いで、袖を捲(まく)った。
「え……大木も手伝ってくれるのか?」
「うん。今日は残れる奴が多いみたいだから、みんなでやろうぜ」
大木はクラスメイトに声をかけていたようで、ぞくぞくと生徒がやって来た。
がやがやと賑やかに作業を始める空気に安堵しながら、俺も海里に指示を出す。
作業に没頭していたから、下校を促す放送が聞こえてくるまで、あっという間だった。
「あー、よくやった」
居残り組は自分たちを労(いた)わりながら、ぞろぞろと連なって校舎を出る。
さっきまで熟(う)れたトマトみたいな空だったのに、今はほんのりと空の端が明るい程度だ。
「うーん。一気に冬を感じるな」
大木の言葉に同意した。
気温がぐんと下がって、肌寒さにぶるりと胴震いする。
「七海」
「うわっ!?」
海里が耳元近くで名を呼んだので、大きく飛び跳ねた。またやってしまった、過剰反応だ。
「あぁっ、ごめん。何?」
海里は眉をひそめたが、すぐに表情を戻し、俺の前にカイロを差し出した。
「新品のカイロ、鞄の中にあったからあげる」
親切にもビニール袋を破いてから使うようにと手に持たせてくれる。ごく自然にこういうことが出来るところ、本当に紳士だ。
「おぉ~、ぶるぶる……寒い、寒い。皇、俺にはカイロないの?」
大木が鼻を啜りながら言うが、海里は目も向けない。
「悪い。ひとつしか持ってない」
「…………」
この対応が万人に出来るほどまめまめしくないことも知っている。
「風邪引くなよ、死ぬほど心配するから」
「……う、うん」
思わず、じりっと一歩下がった。
大木や杉本のふざけた言い方とは違う。海里の告白を聞いてから、何気ない言葉でも意味を探ってしまう。
俺はもらったカイロをポケットの中に入れて、ぎゅっと握った。
◇
「はぁ、もう十一月も半ばかぁ──ん? 何やっているんだ? あいつら」
「なんの遊び?」
次の授業のために、別館にある科学実験室に移動していた。
渡り廊下で、俺と海里を少し後ろの方で見ているトリオの呑気な声が聞こえてくる。
「最近、あのふたり、よくかげふみしているよな」
かげふみ、自分の影を相手に踏まれたら負け。
もちろん、そんな遊びはしていないが、俺が一歩下がると海里も下がる。
並ぶと肩が触れそうで、斜めに一歩離れたら、一歩海里が詰め寄ってくる。それを繰り返していたら、周りからツッコまれても仕方がない。
「七海さぁ、なんで俺から逃げるの?」
真横から圧を感じる。
だって、一歩離れないと、肩同士が触れ合ってしまう……。
「逃げているわけじゃ……」
「逃げてるでしょ」
「い、今だけ……」
「なんで?」
海里は詮(せん)索(さく)するような目で俺を見るので、だらだらと汗が噴き出てきた。
「──ああっ、そうだ! 実験の準備しておかないと怒られる。怖い怖い。ほら、早く行こう!」
なじるような視線を避けるように、俺は早足で実験室へ向かった。
科学室には水槽があり、そこには零れ落ちそうなほど大きなほっぺたをした金魚が二匹いる。
そのほっぺただと思っていたものは、角(かく)膜(まく)が肥大化したものだと、ここ最近図鑑を読んで知った。
ぷっくらした角膜が揺れているのを横目に、俺は棚から実験に必要な道具を取り出した。花粉を顕微鏡で調べる実験だ。
「皇さ、なんか変じゃない?」
顕微鏡をセットしていると、同じ班の杉本が俺に耳打ちをした。
俺たちの班の隣の席には、海里と大木が座っている。
「おっかないというか……。いつもの余裕綽綽な皇じゃないというか」
「そうか?」
とぼけてみたものの、十中八九、原因は俺。
ここ数日、挙動不審というレベルで、俺は海里を避けてしまっていた。
特に昨日の自分は最悪だった。登校時、海里は側道に移動するために、俺の肩を抱き寄せた。ただの親切だったのに、思わず、俺は海里の胸を突っぱねてしまったのだ。
俺が力を入れたくらいでは、海里はびくともしない。ただ、空気がぴりっとしたのは分かった。
「皇、こっちを睨んでないか?」
「…………」
ほら、っと杉本は顎で指す。
おそるおそる海里の方を向けば、バチッと視線が合った。
う。おかしい……。俺の視線が、ふよふよ泳いでしまう。
なるべく自然にしたいのに、うまく出来ない。
ぎこちなく顔を逸らすと、海里からの視線が強まった気がした。
「ごめんなさい……」
言ったのは俺じゃない。
俺と海里のちょうどあいだに座る大木が、自分が海里に睨まれていると勘違いして謝った。それで海里の視線は俺から外れたが、不機嫌オーラを纏(まと)ったまま。
実験中、プレパラートの上に乗せる薄いカバーガラスなんかは、その怒気だけでヒビが入ってしまいそうだ。
大木はビビりながら、俺にどうにかしろと目配せした。付近にいる奴らもこっちを見る。
皆の視線に耐え兼ね、授業が終わると、俺は海里に声をかけた。
「海里、教室へ戻ろう」
「……あぁ」
「次は地理だな」
「あぁ」
相槌は打ってくれるけれど、声も表情も苛々(いらいら)しているのが丸わかり。
海里は何事にもあっさりしているので、こんな風にずっと不機嫌なままでいることは初めてだ。
クラスメイトは、俺にどうにか出来ないことを他の奴が出来るわけがないとでも踏んだのだろう。
触らぬ神に祟(たた)りなし──。
誰も海里に近寄ろうとしなかった。教師ですら、視線を合わせない。そんな状況だったが……。
「これ、食べてよ」
昼食時、俺が弁当を差し出すと、海里の不機嫌な表情が、わずかにほぐれた。
ピーマンの肉詰めに、レンコンのはさみ揚げ、ほうれん草のキッシュに炊き込みご飯……。
「……うま」
海里は一口頬張って、弁当を凝視したあと、俺を見た。
「これ作るの、大変だったんじゃないか?」
「た、大したことないよ」
今日の弁当には、冷凍食品も昨日の残り物も入れていない。朝の四時から起きて作った。
ここ数日、自分の態度が酷すぎるので、詫びとして弁当作りに全力を注いだのだ。ちなみに海里の好物ばかり入れた。
「ありがとう」
「いや、自分たちのついでだし……」
こんな方法しか思い浮かばないのは、我ながら情けない。
海里はもう一口頬張って、もう一度「うまい」と言った。
「このレンコンのはさみ揚げ、絶品。何百個でもイケるよ。炊き込みご飯ももちもちして美味しい」
食べるとテンションが高くなってきたのか、先ほどまでの海里の不機嫌なオーラは消え失せている。
よかった。
喜んで食べてくれる海里にホッとして、口元を緩ませる。
「これ食べたら、七海が丁寧に作ってくれたの分かるよ。やっぱり本当は時間かかっただろ?」
「う、まあ」
「最近、俺のこと避けていただろ? もしかして、俺に悪いと思って気を使ってくれた……とか?」
「う」
バレてる。
返事にまごまごしていると、海里の口角がうにゅっと上がった。
「ごほん」
海里は軽く咳払いをして、口元を手で押さえた。
「なんだ、そういうことか。……七海って真面目」
海里がふっと穏やかな表情をした途端、教室の空気が一気に和らいだ。
見ているだけで、俺の喉奥のつっかえ感が消失し、食欲が出てくる。
箸を進めようとしたとき、うっと喉が詰まった。
大木がうるうると潤んだ瞳でこっちを見ている……。
……そういえば、さっきひたすら海里の冷気を浴びさせてしまったっけ。
申し訳なさがじわりと込み上げ、詫びにピーマン肉詰めを大木に差し出した。
「いいの!?」
「……おあがりなさい」
大木は大口を開けて、それを頬張った。
「うんまあああ! 中にチーズが入ってる。肉とチーズの旨味が、口の中でハーモニーを起こしちゃってますよ!? 中華料理屋もいいけど、小料理屋とかも開けるんじゃないですか。花栗お母ちゃんは天才ですか。俺、これでご飯三杯はいけます」
「なら、俺は五杯いけます」
なぜか海里が張り合い出す。
「皇が五杯なら、俺は六杯」
「なら俺は十杯」
「食欲くらい勝たせてくれよ!」
「やだ」
大木に負けまいとする海里に、その場が和む。
久しぶりに海里が俺のことで、ノリに乗ってくれた。それが嬉しくて、「はは」っと笑いが漏れたとき――。
「こ(・)れ(・)は(・)、皇が手放せないはずだよなぁ」
大木がため息まじりに言った。
「…………」
――そのジャブは、今の俺たちには適していない。
笑っていた自分の顔が引きつり、机に置かれた海里の指もピクリと反応する。
微かな沈黙のあと、海里は最後の一口を食べて両手を合わせた。
「ごちそうさま」
大木の言葉に、海里は答えなかった。
大木はまた園村と他愛ないことで盛り上がっていて、騒がしいし、海里が不機嫌になっているでもない。
なのに、俺は今、どうしようもない虚しさを覚えている。
俺と海里のあいだに、一歩分の距離が出来ているような気がした。
──自分から作った一歩分の距離。
つきん、つきん。
「……?」
胸に知らない痛みを感じ、服の上から手を置いた。
それにもやもやしていたら、海里がぽつりと呟く。
「手放せるわけがないじゃん」
誰にも聞かせるつもりがない、独り言のような小さい呟きだ。
手を置いた胸元から、どくんっと大きな音が聞こえた。
ど、ど、ど……それは一度の高まりだけじゃなく、ずっと騒がしい。
大木や杉本よりもうるさい。教室で一番うるさいのは自分の心臓のように思えて、恥ずかしい。
じっとしていられなくなって、空になった弁当箱を回収して立ち上がった。
「あっ、俺……っ、美術部へ行ってきます――ん?」
すると、海里も立ち上がる。まだその口角は上がったまま。かなり機嫌がいい。
同じように教室を出たから、トイレかと思ったのに──急に腕を掴まれた。
「へ……?」
「来て。七海はなんでも引き受けすぎだって。無理しすぎだから、美術部の奴らから隠す」
「隠す?」
「うん」
「え、ちょ……」
海里が大股で歩を進めるので、俺の身体も引っ張られる。
いつになく強引な様子で向かった先は屋上だった。
屋上のドアを開けた瞬間、強めの風が吹いてきた。上空にある灰色の雲は、ぐんぐんと流れていく。
気温がめっきり低くなったせいか、屋上には誰もいなくて、がらんとしていた。
「よかった。誰もいない」
のんびり出来る場所を見つけたと言わんばかりに、海里は明るい声を出す。
「あぁ、けど寒い……」
「ん」
海里は両手を広げた。意図が分からず、小首を傾げる。「何」と言いかけたとき、その腕が俺の身体を包んだ。
「へ……、お前っ、何やって!?」
「温めてる」
「あ、温め!?」
確かに海里の体温は高い。
俺の体温も急上昇していき、寒さなど一切感じなくなった。
「いや……どう考えても、おかしいから……」
その腕の中で俺はもぞもぞと身体をよじった。
「まだ駄目」
「へあっ!?」
俺を抱きしめる腕の力が強まる。
「か、海里……!?」
「ん~」
呼んでも生返事がくるだけ。離す気は毛頭ないようだ。
ただ、俺は離して欲しくて仕方がない。
だって──、心臓がうるさい。
教室にいた頃よりも、心臓の音がパワーアップしている。
自分でもなんでこんなに動揺しているのか分からない。久々に海里を近くに感じるから?
「あーやっぱり、コレだな」
「…………」
そのコ(・)レ(・)は、馴染みの毛布を使ったときとかに、思わず呟くようなニュアンスだった。
「考えてみたら、俺たち、喧嘩したわけじゃないじゃん。なのに最近ぎこちないし、一緒にいる時間も少なくってさ。距離が離れている気がしない? そっちの方が俺たち変じゃない? どう思う?」
海里は問うけど、俺の答えを急いではいないようだった。
それよりも俺の髪の感触を楽しむように頬ずりしている。さらにそこに顔を埋めてすんっと俺のことを吸い始めた。
男の頭なんていい匂いはしないはずなのに、海里はコ(・)レ(・)だと言わんばかりに顔をそこから離さない。
あまりに執(しつ)拗(よう)に吸われるから、思わず、俺も目の前にある首筋に顔を寄せて匂いを嗅ぐ。
匂いなんて意識したことはなかったけど、よく知っていた。
海里の匂いと体温。まさしくコレで、うろたえていたのに落ち着いてくる。
「…………」
拒否出来ない程の強い力で抱きしめられているわけでもない。なのに、動く気になれなかった。
包まれたままでいると、海里が小さな声で言った。
「俺、七海にフラれてもさ」
フッたのは俺なのに、その言葉を聞くと身体が強張る。
そんな俺をあやすように大きな手が背中を上下する。身勝手にもそのぬくもりに安堵していると、身体をやや離された。
「七海のことが大事」
「……大、じ?」
「凄く大事。俺に大事にさせて欲しい」
海里は真顔だったのに俺と目が合ったら、ふっと目尻を下げて笑顔になる。
「……っ」
身体がぶるりと震えた。
……言えてよかったみたいな顔、すんなよ。
嬉しいけど、叫び声を上げたくなるような未知の感覚が、勢いよく身体を駆けまわっている。
ひと足遅れて、胸がきゅうっと絞られるみたいに苦しくなった。口を開けて、息を短く吐く。なんだよ、これ……。
全然ドキドキが止まらないじゃないか。


