『ななみ、いっしょにいよう』
 幼い海里が笑いながら言った。前歯が一本抜けている。
 この感じ……、年中くらいかな。
 ──懐かしい夢だ。
 遊園地で、あんな風に海里を傷つけたのに。それなのに、俺は夢で海里に会っている。いや、あんなことがあったからこそ、夢にまで見てしまうのだろう。
 海里が初めてうちに来たのは、ちょうど、これくらいの年だ。
 家政婦の目をかいくぐって来たというものだから、母の驚きようはすさまじかった。
『──ご迷惑をおかけしました』
 母が皇家に連絡すると、家政婦が先に来て、謝罪する声が聞こえた。
 けれど、俺と海里は遊びに夢中。大人のことなんか気にも留めない。
 当時、ダイニングルームの横にある六畳の和室は子供部屋で、鉄道模型やブロックやら、おもちゃがいくつも並んでいた。
 何で遊んだのか、どんなおもちゃを触ったのか、それは覚えていないけれど、海里とどんな話をしたのかは妙に覚えている。
『パパはおいしゃさん。ママはながくおやすみしていたんだけど、またおいしゃさんになったの』
『すごーい、ふたりともおいしゃさんなの!? すごーい』
 風邪を治す医者の凄さは、物心ついた頃から見知っていて、俺は『すごい』を連発した。
 海里は自分のことを褒められたように、へへんと自慢げな表情をする。
『だから、とってもいそがしいの』
 忙しい。その言葉は父と母がよく使うので、俺はとてもイメージしやすかった。
 油がじゅうっと飛び跳ねる音、客にありがとうと言う母の声、暖(の)簾(れん)をくぐってやってくる客、立ちっぱなしの父の背中、よく動く手。時折その腕にはツンッとした匂いの湿布が巻き付けられている。
『かいり、わがままいわないんだー。えらいもん』
 我(わが)儘(まま)を言わない、その言葉も俺にはよく理解出来た。
 母は、年子の妹の方ばかりを構う。何かと『お兄ちゃんなんだから我慢しなさい』『小さい子に譲ってあげなさい』と注意される。妹の方がなんでも優先されていた。
 俺は、我儘なんて言ったつもりはないのに。
 ――ちょっと自分を見て欲しかっただけ。
『がまんってたいへんだよね。しってる。ななみも、ななみもね』
『かいりもかいりも』
『ほんと、おとなってかってだよね』
『うんうん』
 子供はいかに大変か。
 意気投合し合った俺たちは、子供の苦労を言い合った。けど、単純だから、すぐに中身は変わっていく。いつの間にか、また親の自慢話になっていた。
『ななみのとうちゃんは、あっというまにごはんつくるよ。とととん、ざざーって。かあちゃんのごはんもおいしいよ』
『いいなあ。かいりのママ、チンがおおいよ。おべんとうもチンのやつばかり。あとデリバリー』
『けど、かぜなおせる!』
『うん。ママとパパ、ほんをいっぱいよんで、べんきょうしているんだ』
『すごいね! おいしゃさんもべんきょうがんばってるんだ!』
『へへへ。ずっとがんばってるよ』
 がんばっている、がんばっている。
 俺と海里は、淋しくても、構って欲しくても、親にあまり上手く甘えられなかった。
 けど、頑張っている姿を傍で見ているから、大好きだから、親を褒めたくて仕方がなかったんだと思う。だから、海里の親がうちに迎えに来たとき、尊敬の眼差しで見ることが出来た。
 同時にしゅんとする海里の気持ちも分かって――。
『やだぁ! まだ、ななみは、かいりといっしょにいる~』
 大声で叫ぶと、海里はくりっとした瞳を大きく見開いた。
 それから、彼も俺の声に共鳴するように、一緒に声を上げた。
『か、かいりも……っ。かいりもななみといっしょにいたいもん!』
『いっしょにいるもん~』
 ふたりして、床に寝っ転がり、駄々を捏(こ)ねまくった。
 困っている両親を前にして、俺は海里の手を繋いだ。
 海里も手を握り返してくれる。テレパシーみたいに以心伝心した。
『んもう、この子たちったら』
 母はため息をついて、海里の両親に提案した。
『子供たちもこう言っていますし、うちでご飯を食べていかれませんか?』
『でも、ご迷惑をおかけしたばかりですし……』
 困っている海里母だったが、大きく頷く俺と海里を見て、『じゃあ是非』と言ってくれた。
 丸テーブルを皆で囲んで、父が作った中華を食べる。何を食べたか覚えていないけれど、海里はずっとにこにことして、とても嬉しそうだった。
『ありがとうございました』
 海里の両親がお礼を言っているあいだに、俺たちはしたり顔で『またね』と言い合った。
 そして、その日から味を占めた海里は、こっそりうちに来るようになったのだ。
 親に見つからないように遊んでいたのに、報告魔の妹はすぐに母の元に走ってしまう。
『ここなら』
『ね』
 押し入れの中に入って、こっそり遊ぶようになった。
 真っ暗闇の中、光るおもちゃで辺りを照らすと、ぎゅっと海里が俺の手を掴む。
『ななみといるの、すき』
『うん。いっしょだね』
『いっしょ』
 何が面白いのか、互いにくすくす笑い合った。
 暗くて狭い俺たちだけの秘密基地。
 だけど、ふたりして眠ってしまったことがあり、とうとう母に秘密がバレてしまったのだ。
 いつもなら母は俺にだけ怒るけど、その日は海里とふたりで説教を受けた。
 どうして言いつけを破ってしまうのか。母は海里に理由を求めた。
『──それじゃあ、海里くんは、頑張っているお父さんとお母さんを応援したいってこと?』
『うん。じゃましたくない。ななみといっしょにいると、さびしくないから』
『ななみもななみも! かいりがいたら、とうちゃんとかあちゃんのじゃましないもん。ちかともなかよくするし、いいこにするもん』
『おねがいします!』
『っ……、う……。おばちゃん、そういうの、弱いの……』
 そうだったな……。
 思い出した。俺たちの言葉で母を動かしたんだ。それで、母が海里の両親にいつでも食べに来られるように提案してくれた。
 海里がいてくれると、千香と遊んでいても腹が立ちすぎない。少しだけ優しく出来る。お兄ちゃんが出来ている気がする。今まで出来なかったことが、すっと出来るようになる。
 海里も俺との時間が一番楽しいと言ってくれ、一緒にいるのが当たり前のように思っていた。
 小学校に入ってからは、登下校もずっと一緒で、もっと仲が深まった。
 一年の頃から海里は皆の人気者。
 そんな海里が俺にべったりくっついていたものだから、やっかむ奴もいた。
 海里とクラスが別れた小四のときが、一番うざったかったっけ。
 海里に憧れ空手を始めた岡(おか)田(だ)という奴に、小さい嫌がらせをされたことがあった。
 岡田は口が悪く乱暴だけど、仲間集めは上手かった。
 嫌がらせは大したことはない。ドッジボールをすると俺だけ集中的に狙われたり、遊びに入れてもらえなかったりしただけ。
 俺には他にも仲いい友達はいたし、相手にしていなかった。
 けど、岡田はしつこかった。
 ある日の昼休み、強制的にドッジボールに参加させられた。仲のいい友達がいないときに狙われたんだ。
 内野も外野も俺の敵だらけ。
 四方八方からボールを当てられて外野に入るのに、すぐにまたボールを与えられる。
 やる気なく弱く投げたボールにすら、わざとぶつかってくる奴がいて、内野に戻された。
『うあっ』
 顔面に強烈なヒットを食らった俺は、鼻を押さえ、その場にうずくまった。
『顔面セーフ!』
 ボールを投げた岡田は、そう言って嬉しそうに飛び跳ねる。
 ひりひりと顔が痛くて、いい加減に腹が立ってきた。
 先生にも親にもチクってやるからな!
 胸の中で怒りを爆発させて立ち上がろうとしたとき、ぽと……ぽと……と血の雫が地面に落ちた。
 え。
 鼻を押さえていた手が真っ赤になっているのを見て、頭の中が真っ白になった。
 鼻血だ。
 止まらない。
 鼻を押さえても溢れてくる血に、俺はビビってしまった。目の奥がじん、と熱くなる。けれど、岡田たちにはそう思われたくない。負けたくない。
 ――海里、どうしよう。
 心の中で相棒を思い浮かべたときだ。
 俺の前に影が出来、白い布で鼻を押さえられた。
『七海!! 大丈夫か!?』
『ふぇ、ふぁいり!?』
 目の前にいたのは海里だった。
『鼻血が止まるまで動かないで。ティッシュ、持ってないか!?』
 心の中で呼んだだけなのに、本人が来てくれたから驚いた。
 それから自分の鼻を押さえられている白い布は、海里が着ているシャツだった。彼は自分が汚れるのもお構いなしに心配してくれる。
 ティッシュはデニムの右ポケット。もごもごしながら言うと、海里はポケットからティッシュを取り出して、鼻に詰めてくれる。
『血が止まるまで外すなよ』
『う、うん』
『あいつら、許さない』
 そのとき、初めて俺は海里の怒った顔を見た。
 海里は俺の前に仁王立ちになった。ざんっと俺の中で、ヒーロー参上の音が鳴る。
『今から俺は七海のチームに入る』
『海里くん、誤解だよ。そいつの顔にたまたま当たっただけなんだ』
 海里を前にした途端、岡田は媚(こ)びた態度を取る。
 猫なで声に腹が立ち、嘘つき!と叫ぼうとしたら、先に海里が言った。
『たまたま?』
『うん。ドッジボールだし。よくあることでしょ?』
『はぁ、そんなわけがないだろ。お前は七海の顔にわざとボールをぶつけた。絶対に許さないからな!』
 そのきつい口調に、岡田の顔が引きつったときだ。
 海里は俺の足元に転がるボールを手に持ち、勢いよく岡田にぶつけた。重い音が辺りに響く。
 それからの快進撃は凄かった。
 相手チームのボールを海里は全部受け止め、剛速球で相手を一発で仕留める。さっきまでふんぞり返っていた奴らが、逃げ回る。
 俺は、海里の後ろで座っているだけでよかった。
『か……』
 格好いい~!
 すげぇ。最高!
 絶対に守る、という力強さが海里の背中からひしひしと伝わってくる。胸の奥から興奮が込み上げてきた。
『七海』
 相手チームを打ち負かした海里は、俺の前にしゃがみ込んだ。
『大丈……』
『すっごおおい、かあっこいいっ! いつ練習したの、ドッジボール強すぎ! 海里ってば、格好よすぎ!』
『え。そんなに格好よかったかな? 七海に言われると嬉しい』
『うん、ヒーローみたいだ。この世界で一番格好いい! 海里のこと一番すき!』
『えぇえっ、一番!? えっえっ? すすす、すき? 七海は俺を一番すすすすすすき?』
『うん!』
 さっきまでの威勢はどうしたというのか、海里は真っ赤になって、尻もちをついた。海里を見ていると、岡田たちのことなんてどうでもよくなる。
 俺は感謝の気持ちを込めて、ヒーローに抱きついた。

『ふ、ふ、ふ。俺は七海の一番なんだから』
 その日から、海里は口癖のように俺に言うようになった。
 数日のあいだは、俺も思いっきり首を縦に振っていたけど、あまりに何度も言うものだから次第に『はいはい』と適当に流すようになる。
『当たり前のことを何度も言うなよ』
 そう言うと、海里は『うっ』と矢でも刺さったかのように胸を手で押さえた。
『どうかした?』
『……ううん。そっか、当たり前か。俺もそう……思ってる』
『うん? あっ、そうだ。この前、炒飯作ったんだ』
『えっ、七海が料理を!? 食べたい! お願い、食べさせて!』
 そんなに美味しくなかった、と続くはずの言葉は言えなかった。
『う、うん……』
『やったぁああ!』
 思わず頷いてみたものの、海里の目の輝き、興奮具合、期待度はかなり高い。
 この顔が、がっかりするのは見たくない。
 ――やばい。これは直(ただ)ちに料理の腕を上げなくちゃ!
 その日から母を付き合わせて、料理の猛特訓を始めた。
 玉ねぎの切り方、具の炒め方、母はイチから丁寧に教えてくれた。
 父が使う中華鍋は重すぎて使えないし、家と店じゃ火力も違う。何度やっても父の味にはならなかった。
 なのに約束した日がやってきて、俺はしょぼくれたまま、海里の前に炒飯を出した。
 米もべちゃっとしていて、味もまとまっていない……。
 こんなんじゃ、海里に喜んでもらえない。
 それが悔しくて、悲しくて、顔を上げられない。
『う、ま!』
『え?』
 その声に顔を上げると、海里はリスみたいに頬をパンパンにして炒飯を詰め込んでいた。んぐ、んぐ、ごくん、と噛んで飲み込んだあと、花が咲いたように笑う。
『俺、こんなに美味しい炒飯食べたことないよ! 七海みたいに優しい味がする!』
『……本当?』
『うん!』
 海里は、炒飯を米粒ひとつ残さず食べてくれ、平らげたあともたくさん褒めてくれた。にこにこする海里は、俺が見たかった顔をしていた。
『また作って。お願い! おねがぁい!』
『そんなに言うなら、まぁ』
『嬉しい! 楽しみにしているから』
 次を期待してくれたから、俺は料理を続けるようになった。
 海里はどんな料理を作っても、喜んで食べてくれた。いつか俺が店の厨房に立つようになったら、『ラーメン、餃子、炒飯』と注文するのが夢だとか。笑ってしまうような嬉しいことを言ってくれる。
『ずっと、七海のご飯が食べたい』
『ずっと?』
『うん、一生!』
『はは』
 声を上げて笑った次の瞬間、夢の中の空間がぐにゃりと歪んだ。
 目の前にいるのは高校生の海里だ。それから俺ン家のダイニングルーム、テーブルには自分が作ったであろう炒飯がある。
 あぁ、いつものように一緒に食べているのか。
『七海』
『うん、どうした……』
 視線を下げると、海里に差し出した炒飯は減っていなかった。
 皿をじっと見つめていた海里は、ゆっくりと視線を上げる。その表情は、いつもと違って、強張っていた。
『俺のこと嫌いなら、もう一緒にいなくていいよ』

「ちが――」
 俺は自分の声で、目を覚ました。
 暗い天井を見ながら、心臓が早鐘のように鳴っている。その胸を手で押さえながら呟く。
「違うのに」
 いつもの冗談のように話が流れると少しでも思った俺は、大馬鹿だ。
 海里があんな風に泣くなんて思わなかった。あんなに傷つくなんて知らなかった。
 傷つけたいわけじゃなかったのに――。

 ◇

 遊園地へ行った翌日、海里は学校を休んでいた。
 その翌日も翌々日も海里の席だけがらんとしている。
「よう、花栗!」
「皇、なんで休みなの?」
「風邪? メールしても返事なくてさ。まぁ、アイツは急用じゃないとレスポンスが遅いんだけどさ。メールも既読にならないんだよ。花栗なら何か知っているだろ?」
 休み時間になると、賑やかトリオは俺の席までやってきて、質問をしてくる。
 答えを知らない俺は、無言で立ち上がった。
「あ。無視すんなよ」
「待て、杉本。どうも花栗の様子がおかしい。よく観察するべきだ」
「ふらふらしているな。皇がいないと生気が出ないのか?」
「そういえば、どよんとしているな……」
 俺が向かった先は、海里の席だった。
「あ。皇がいなくとも、いつもと同じ行動を取り始めた」
 そこに座って机の上に突っ伏す。長いため息をついたあと、ごりごりと机に頭を擦り付けた。
「知らないから、ほっといて」
 うつ伏せで小さな声で呟いても、俺の席にいる三人には聞こえないだろう。
 だけど、園村は空気を読んで、ふたりを教室の外へ連れていく。また何かを察したのだろうか。
 何気なく上げた視線の先に時計があった。
 休憩時間、残り三分。
 いつもはチャイムが鳴る寸前まで気にもしない時計の針がはっきりと見えてしまう。

「花栗。これ、皇に」
 放課後、学校から配布されるプリントを家に届けるように、担任から頼まれる。
 磯辺先生のあとを引き継いだのは、副担任だった富(とみ)田(た)先生だ。
 授業の説明は分かりやすいのに、声が小さいことが欠点。けど、今はそれくらいの音量の方が落ち着いて聞いていられる。
「分かりました」
 受け取った茶封筒を鞄の中に入れて、校舎を出る。
 いつもの帰り道、俺は海里の家の前で立ち止まり、鞄から茶封筒を取り出した。
 大きなコンクリートの塀越しに視線を上げると、二階の海里の部屋が目に入る。昼間だというのに、カーテンが閉め切られたままだった。
 ――どうして、何日も休んでいるんだよ?
 じぃ、と目の前にあるインターフォンを見つめた。
 押せば、海里は出てきてくれるだろうか。理由を教えてくれるだろうか。
 けれど、四角いボタンを押す勇気は絶対になくて、茶封筒をポストの中に突っ込んだ。
 身体の向きを変えると、店の朱色の暖簾が強風に煽られている。
 左右に揺れるそれを横目に見ながら、俺は玄関の方へ回った。ドアの鍵を差し込むと、鍵はかかっていない。
 ドアを開けると、和風出汁のいい匂いが漂っていた。
「母ちゃん?」
 ダイニングルームへ向かうと、キッチンに立つ母の背中があった。
「おかえり」
「ただいま。今日、お店のお客さんの数、どうだった?」
「平日ってこともあるだろうけど、ちょっと落ち着いてきたね」
「そっか」
 母の手元を見れば、ネギが刻まれている。
 ふたつある鍋のひとつは味噌汁。もうひとつの鍋の蓋を開ければ、肉じゃがだった。
「海里くん、今日はうちに来る?」
「……来ないよ」
 海里に直接聞いたわけではなかったけれど、来ないと分かっているからそう言った。
「そう」
「うん」
 返事をして、部屋に戻ろうと階段を上がったら、自室の隣の部屋から千香が出てくる。
 勉強していたのか、眼鏡姿だ。
「おかえり。今日、海里くんって、うち来る?」
「来ないよ」
「そっかー。ちょっと頼みたいことあったんだけどなあ」
 残念そうに言いながら、千香は一階へ下りていった。
 俺は自室に入り、私服に着替えたあと、ベッドに転がりながら携帯電話を手に持つ。
「メールだ」
 飛びあがるように上体を起こし、その画面をタップする。
 差出人は姫野だった。
 なんだ……。
 肩透かしを食らった気分になりながら、メールを読む。
《女子会の件。十一月十九日の水曜日、二時から。四名でお店を予約したいんだけど、どうかな?》
「来月じゃん。……水曜?」
 俺は携帯のカレンダーを開いた。そこには青里高校の創立記念日と書いてある。
 あぁなら、時間帯といい、客の数もそれほど多くないはずだ。
 母にはあとで伝えておくことにして、まずは姫野に連絡する。
《ご予約ありがとうございます。承りました》
「キャンセルは、前もって言ってね……と」
 呟きながら返事をし、ベッドから降り立った。再び母がいるキッチンへと向かう。
 千香は椅子に座って、カップアイスを頬張りながら、テレビの情報番組を楽しんでいる。
「母ちゃん、十一月十九日の水曜、二時から四名。クラスメイトが予約したいって」
「はいよ」
 母は魚を捌(さば)いている途中だったから、降り向かずに返事をする。
「この前、店に来た女子。姫野って奴。うちで女子会開きたいってさ」
「んま、女子会! 若い女の子たちが集まるなんて! 母ちゃん、エステへ行って綺麗にしないと!」
「なんで張り合うんだよ。化粧とかも変に濃くしないでくれよ」
「あらまぁ、すっぴんが可愛いだなんて、アンタは本当によく出来た子だね」
 どうして、そんなにプラス思考なのか。
 返す言葉をなくした俺は、家族共有のカレンダーに予約を書き込んだ。姫野女子会・四名、と。
「――あっ!」
 でかい声に驚いて振り返ると、千香は携帯画面を見つめていた。
「何?」
「海里くんにメールしてみたんだけど、流行り風邪だって」
「……風邪?」
 珍しい。海里は空手を始めてから、めっきり風邪を引かなくなったのに。
 もしかして、遊園地で俺と別れたあともずっと外にいたのだろうか。午後から小雨が降る時間帯もあった。
 ベンチに座ったままの海里の姿が頭をよぎり、自分のせいだと、背筋が凍りつく。
「それで、具合は?」
「うん。微熱まで下がったみたい」
「……そっか」
 海里を心配する母と妹の声を聞きながら、スウェットパンツのポケットに入れっぱなしの携帯電話を手に持つ。
 三日も海里から連絡が来なかったことはない。
 俺は連絡していいのか、駄目なんじゃないか。
 椅子に腰を下ろし、画面をじっと見つめながら、繰り返し自問自答する。
《千香から風邪だって聞いた。大丈夫? なんか消化のいいもの、持っていこうか?》
 迷いに迷って、メールを送った。
 どこか落ち着かない気持ちで返事を待っていると、夕食の方が先に出来た。
 テーブルに並ぶ湯気立つ料理は、どれも胃に優しい食べ物ばかりだ。手を付けず眺めていたら、海里からメールが入る。
《ありがとう。もう微熱だし、親もいるから》
 ……そっか。だよな。
 海里の両親は医者なんだから、俺が悩むまでもなかった。
《分かった》
 携帯電話から視線を上げると、ふたりが俺を見ていた。
「海里くんかい?」
「うん」
「なんだか変。お兄ちゃん、元気ない?」
「海里くんが風邪だからでしょう。昔っから、この子は海里くんにべったりだからね」
「……そうかな」
 いつもなら速攻で頷くところを、間を空けて返事する。
「なんだい。あんたたち、喧嘩でもしたの?」
「え。珍しいね」
 珍しい、というか初めてだ。
 怒ったり言い合ったりすることはあっても、尾を引きずることはなく、ひとこと謝って仲直り。ずっとそうだった。
「もしかして海里くんが寝込んだのも、お兄ちゃんが原因?」
 図星を言い当てられて、無言でご飯に箸を進めた。
 あんまり腹が減っていないからか、飲み込むのに時間がかかる。もういいや、と茶碗に入ったご飯だけを空にして立ち上がった。
「ごちそうさま」
「もう?」
「暗すぎ。重症だね」
 千香の声に反応するのも面倒くさくて、電気をつけていない真っ暗な階段をのぼった。

「七海~!」
 一階から俺を呼ぶ母の声で目が覚めた。
 壁掛け時計を見れば、朝の七時。
 土曜の朝に起こされるってことは、また店を手伝わされるのだろうか。嫌な予感がしつつ、起き上がって、母がいる一階へ向かう。
「はよ……」
 テーブルには、出来立ての朝食が並んでいた。それは母が時間に余裕があることを意味している。
「母ちゃん、なに?」
「さっき、真(ま)理(り)ちゃんからメールがあってねぇ、休めない仕事が入っているんだって」
 母が海里の母の名を親しげに呼んだ。ふたりは互いに、ちゃん付けで呼び合っている。うちの母は陽(よう)子(こ)なので、真理ちゃん、陽子ちゃんって。
 真理さんはうちの母のことを世界一可愛いと褒めちぎり、高級化粧品やらサプリメントなどを毎月のようにプレゼントしている。万が一、うちの両親が病気にかかろうものなら、最新医療を取り入れて、ケアすると豪(ごう)語(ご)している。
「……海里は大丈夫?」
「えぇ、すっかり熱も下がったらしいわ。お粥作ったから、持っていってあげてよ」
 それで、俺を起こしたのか。
「……分かった」
 俺は頷き、海里に連絡を入れる。一分ほどして海里から返事が届いた。

 お膳に中華粥と蒸し鶏と薬味。
 俺は母が用意した食事をトレイに乗っけて、隣の家へ向かった。
 インターフォンを鳴らすと、モニターに映っていたのか、名乗らずとも鍵が開く。
「おはよう」
 ドアを開ければ、玄関先でマスク姿の海里が俺を迎えてくれた。
「お……おはよう」
 五日ぶりの海里を見て、緊張が走り、額から変な汗が滲(にじ)む。
「これ――朝食!」
 俺は海里の顔を見てすぐに視線を下げた。その出っ張った喉(のど)仏(ぼとけ)に目をやりながら、明るい声を出す。
「無理せず食べられる分だけ食べて」
「うん。持ってきてくれてありがとう。……うちに上がって?」
「……あぁ、じゃあ……お邪魔します」
 靴を脱ぐ際に、海里は俺が両手で持つトレイを受け取ってくれた。
 ちょっとした海里の動きに動悸がし、視線をさまよわせながら、その後ろに続く。
 広々としたリビングには、モダンでハイセンスな家具が並ぶ。
 いつ来ても、床はピカピカに磨かれて綺麗なのは、家政婦が掃除をしているのだそう。
 海里は透明のガラステーブルにトレイを置くと、振り返った。
「七海、何か飲む?」
「い、いいよ。病み上がりなんだからお気遣いなく。――その、長居するべきじゃないよな、もう帰るよ。昼飯を届けにくるときに食器……」
 言い終わる前に、海里が首を横に振っていて、言葉が詰まる。
 一瞬で頭の中が真っ白になった。
 何かを言わないと、と頭の中で言葉を探すけれど、全然思考がまとまらない。
「座って?」
「…………」
 声をかけられたけど、俺は俯(うつむ)いて、立ち尽くしてしまう。
 すると、海里が俺の方に近づいてきて、ポン、と肩を叩いた。
「七海……、普通にしてくれよ」
「…………」
「フラれたけど、友達でいられなくなるわけじゃないだろ」
 友達。その言葉を胸の内で繰り返す。
 もしかして、と聞き返した。
「それって、俺は……まだ海里の傍にいていいの?」
「俺はそうしたいよ」
「……っ」
 病み上がりだからか、海里の声に元気はないけれど、そう言ってくれた。
 ようやく俺は顔を上げて、海里を見ることが出来た。ちゃんと視線を合わせてくれる。
「だから、すぐに帰るなよ。風邪も治って暇してるのに」
 拗ねたような言葉が、緊張した空気を柔らかくしてくれる。
「……うん。俺も今日は、店の手伝いじゃないんだ……」
「なら、なおのこと、早く帰る必要ないじゃん」
「じゃあ……じゃあさ、俺がお茶を淹れるよ。台所借りるね。海里はお粥食べてて!」
 キッチンを借り、お茶を湯(ゆ)呑(のみ)に淹れながら、
 ──よかった、よかった、よかった、よかった。
 そう何度も胸の中で叫んでしまう。
 よかった!
 海里をなくしたわけじゃなくて、よかった。
 あまりに嬉しくて、笑ったときに、じわぁ、と涙が滲んだ。