『人気町中華!』としてネットで取り上げられたブログ記事が急上昇してから、二か月。
 落ち着くどころか、全く客足は途絶えない。
「お兄ちゃん! 私、どんぶりは嫌だって言ったじゃん。太るでしょ!」
 キッチンに立つ俺の背に向かって、千香があーしろこーしろと文句ばかり垂(た)れている。
「嫌なら、自分で作れ。休みなんだから時間はあるだろう」
「私が作るより、お兄ちゃんが作った方が一億倍美味しいもん」
 一億倍……。
「……明日は、野菜メニューにしてやるよ」
「お兄ちゃんってチョロいよね」
「…………」
 いいように言われまくって不機嫌になっていると、インターフォンが鳴る。そのあと、海里の声が聞こえてきた。
「はーい、海里くん。玄関開いてるよ」
 千香が答えると、海里はお邪魔しますと言って、ダイニングルームに入ってきた。
「うわっ! すっごい美味しそうな匂いがするんですけど!?」
「開口一番にそれかよ」
 海里は俺の背後に立ち、手元を覗き込んでくる。
「あぁ~、やっぱり牛丼か。昼食は要らないなんて言うんじゃなかった。時間を巻き戻したい」
 大(おお)袈(げ)裟(さ)なほどしょんぼりした声だ。それから、その腹からも、ぐう……と悲しい音が鳴っている。
「まだ具材が残っているから、食べるか?」
「いいの!? 食べる。七海の牛丼、唐揚げと麻婆豆腐の次に好物だ」
 ちなみに海里の好物は何百個もある。どれが一番好きなのか、俺ですら把握出来ない。
「分かった。ちょっと待って」
 目を輝かせる海里に俺の機嫌も上昇する。
 俺が妹に腹を立てても、怒りを長引かせずにすむのは、海里の存在が上手く中和してくれるからだろう。
「七海、面倒見のいいところも愛してるよ」
「そうだろうとも。俺はもっと愛されるべきだ。妹よ、海里を見習え」
 振り向いて睨むと、妹は投げやりに「はい」を二回言った。
「はい、は一回」
「はあい」
 思うところはあるが、ひとまずその返事をよしとして、俺は冷蔵庫を開けた。
 残っていた牛肉を玉ねぎと一緒に甘辛く煮込んで、盛り付ける。
 海里は紅しょうがをたっぷりめに添えて、俺の分と一緒にテーブルに置いた。
「いただきます」
「ん、おあがり」
 一緒に手を合わせて、どんぶりを手に持ち、同時に牛丼をかき込んだ。
 甘だれがご飯に絡んで、旨味が口の中に広がる。横に座る海里は、幸せそうに目を細めて味わっている。
 千香はやかんを手に持ち、空になったグラスに麦茶を注いでくれた。
「海里くん、朝練だけだったんだ」
「うん。午後から武道館が使えないらしい」
「ふーん、そうなんだ」
 ふたりはのんびりと喋っているから、俺の方が早く食べ終えた。食器を下げながら、千香に「洗っといて」と頼む。それからエプロンを付けた。
 今日は一日、店の手伝いだ。これからまた店に戻る。
「ちいちゃん、食器だけ下げてくれたら俺が洗うから」
 海里は千香にそう言うと、立ち上がって俺の方へ来る。ポケットの中から四つ折りのチラシを取り出して俺に差し出す。
「なに?」
 チラシを受け取って折り目を開くと、そこには夜店の案内があった。
 本日夕方から近所の神社で、秋祭りが開催されるらしい。
「今日、一緒に行くべ?」
「急に方言だべか?」
 普通に誘えよと笑うと、海里が耳元を指で掻いた。
「どっち、行ける?」
「うん。予定はないよ」
「七時に迎えにくるから」
「はいよ……」
 返事をしたあと、俺たちの後ろで千香が食器を下げる音が、かちゃっと聞こえる。
 振り向くと、千香は流しに置いた食器を水に浸けていた。
 なんにも言わないけど、今の話を聞いていたよな。
 ――ということは、一緒に行きたいはずだ。
「千香、お前も一緒に行くか?」
「え。急にどうしたのよ。この年になってお兄ちゃんと歩くのって恥ずかしい」
「いや、まあその通りだが……」
 俺が邪魔? それならここは気を利かせてやろうかと思っていると、海里が言った。
「ちいちゃん、お土産買って来てあげる。リクエストある?」
 おいおい、土産じゃなくて千香を誘ってやれって。
 それで千香の方も「やった!」と喜んでいる。色気より食い気か。
 俺はふたりのやりとりに首を傾げながら、店に戻った。

 小学校の頃、近所の神社の秋祭りは、心躍る楽しみのひとつだった。
 境(けい)内(だい)の前の通りに並ぶ夜店のくじ引きだけでも仲間うちで盛り上がったし、大きな銀杏(いちょう)の木を囲んで〝だるまさんがころんだ〟をしたものだ。
 あんなに楽しみだったのに、他の祭りの方が夜店はよく出ているとか、くじ引きの当たる確率なんかを考えると、年々テンションが上がらなくなってくる。
 境内の前に十軒ほど並んだ夜店を見て、小学校のときはピュアだったんだなと感慨深さを覚えた。
「お。型抜きあるじゃん。絶滅したかと思ってた! やりたい」
 ピュアだ……。
 海里は千香への土産用のたい焼きを手に持って、無邪気な笑顔で俺のシャツを軽く引っ張った。
「ふっ、どうやら俺だけすさんだ大人になってしまった件」
「やろう」
 どうしてもやりたい海里は、俺の分と合わせて六枚の型抜きの菓子を購入する。奢(おご)ってくれるらしい。
「一枚でも上手くくり抜けたら、一日なんでも言うことを聞くっていうのはどう」
「お、賭けかいいな。どっちも成功したらどうする?」
「その場合は引き分けで、無効」
「分かった」
 俺たちは屋台横の型抜き台の前で、互いに向き合うように立つ。
 賭けをしたものの、型抜きなんてするのは小学生の頃以来だ。
 型抜き、その名の通り、専用のお菓子の板から型を抜くだけ。薄っぺらいピンクの板状には、色々な形が描かれている。
 俺が手に持っているのはひょうたんの形をしている。割と簡単な形だが、ひょうたんのくびれと蓋(ふた)部分が細くてやっかいだ。
 わずかな振動でも折れてしまいそうな、ピンクの板状の菓子を見つめる。
 形に沿ったわずかなくぼみ。そこにそっと針を立てた。慎重に少しずつ溝を深めるように削っていく。まばたきひとつするのもはばかられる作業だ。
 海里に勝ったら、どんなことをさせようか。
 課題を手伝わせるのもいいし、家の掃除などをやらせてもいい。あぁ、俺の汚れた自転車をピッカピカに磨(みが)いてもらうのもいいだろう。
 ぽき。ぽきき。
「あぁああ……」
 邪念だらけが悪かったのか、三枚とも上手くいかなかった。
 型抜きなんぞ上手く出来る奴がこの世にいるものかと思いながら、海里を見ると、三枚目に取り掛かっていた。二枚は失敗している。ラスト一枚だ。
 海里は息を潜め、細い部分に針を入れた。
 その細い部分は、俺も駄目だった。何をやっても絶対折れる。
 だが、海里はそれを成し遂げた。すっとお菓子の板から型が綺麗に抜けたのだ。
 この時点で俺にとってはとんでもない偉業だが、まだ安心出来ない。
 屋台の親父の判定はいかなるときも厳しいものだ。少し欠けているだけでも、すぐにアウト。
「出来ているな」
「すげえ……まじか」
 屋台の親父は不服そうな顔をして、好きな景品を持っていけと言った。
 ドヤ顔をしている海里だが、景品には興味がなかったようで、俺に目配せをする。俺も大して欲しいものはなかったが、その中で一番光り輝く金のブタの貯金箱を手に取った。目が大きく、まつ毛がくるんとしている。
「もらっていいのか?」
「あぁ」
「ならば、ブタ美と名付けよう。店に置いたら金運アップしそうだな」
 俺の小遣いアップも頼むぞと、ブタ美を胸に抱えた。さらに境内の中でも金運を願ったので、小遣いアップが現実に近づいたように思える。
「行くか」
「うん」
 結局、俺たちは十五分も経たずに、その場を離れた。
 せっかく外出したのに、このまま帰るには物足りなさを覚える。
 チカチカと明かりのついたファミレスに吸い寄せられるように入って、コーラを注文して喉を潤(うるお)した。ついでに大盛りポテトを注文する。
 磯辺先生から手紙が送られてきたとか、新しい担任はどうだとか、英語のテストが最悪だったとか、だらけながら話す。
 共通の話題が多いから、会話が尽きることはない。
 結局、屋台よりコーラを飲んで喋っていた時間の方が長かった。
「たい焼き、すっかり覚めちゃったな」
 ファミレスを出て、冷めたたい焼きの存在を思い出した。
「チンすれば、ほかほか」
「やっぱり、千香を誘えばよかったな……」
 俺がそう言うと、海里は足を止めた。振り向くと、真剣な眼差しが向けられる。
「なんで?」
「え?」
「俺、七海だから誘ったんだけど」
 強めに言われて驚いていると、海里が俺の胸を指でとんと突く。
「型抜きの賭け。勝ったから俺と遊園地へ行こ」
「遊園地? まさか、チケット代を奢れとか言うんじゃないよな?」
「そんなケチくさいこと言うわけないじゃん」
「え、一緒に行くだけ?」
「あぁ」
「なんで……」
 賭けって、海里の言うことを聞く権利だったよな?
 もっと他にあるだろう。好きな料理をたらふく食わせろとか。弁当の具の指定とか。見たことないデカいハンバーグを作れとか。食い意地が張った海里のことだから、食べ物の頼みごとだと思ったのに。
 自分が考えていたこととは全く違ったから、ぽかんと口を開けてしまう。
「あ、えーと……千香を呼ぶ?」
「俺は七海とふたりで行きたい」
 はっきり言い切られて、萎(しぼ)んでなくなったはずの違和感がまた現れる。
「七海? どっち」
「――どっち?」
 どっち、なのだろう。
 微かな風が吹いて、目の前にある住宅の庭にある木がざわざわと葉音を立てる。
 落ち着かない気分になりながら、頷いた。
「行くよ」
「よかった。親に入場チケットをもらってさ。七海以外と行ってもつまんないじゃん」
「そういうことか。……チケットが余っていたってことね」
 少し張り詰めた空気がいつも通りになって、胸を撫でおろす。
「いつ行く?」
「んー、寒すぎる前がいいな」
「あぁ、寒いと、ジェットコースターにも急流すべりにも乗る気分にはならないもんね」
 海里はにこやかな笑顔で同意する。
 テストや行事ごとを避けると、一週間後の土曜となった。

 ◇

「ん……」
 柔らかいものが首筋に触れた。
 なぜかそれは、くっついて、離れてを繰り返す。
 ゆったりとしていて嫌な感じはしなかった。
 けど、こそばゆい。身じろぎすると、柔らかいものに挟まれる。
 熱くて、ちょっとぬめっていて、変なの。
 はむはむって……あれ? 俺、食べられている?
「む……」
 瞼を開けると、カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。
 顔をしかめて、起き上がろうとすると重い。自分の身体を見れば、腹に太い腕が巻き付いている。海里は横向きに寝ている俺のことを抱き枕にしていた。
 そうだった……。秋祭りから海里と一緒に帰宅して、そのまま泊まる流れになった。けど、昨日は俺自らが、客用布団を隣に敷いてやったというのに……。
「なんでだよ……」
 げんなりしながら、俺の腰に巻き付く太い腕を離そうとする――が、なかなか離れない。
 両手で指の一本ずつ剥(は)がすことにすると、ぎゅうぎゅうと苦しいほどに抱きしめられた。
「おま――」
 文句を言おうとしたとき――ごり、と尻に硬いものが当たる。
 げ。この硬いものは……!?
 同じ男として、何がどうなっているものを押し付けられているのか、想像に容(た)易(やす)い。
「――海里ぃ、朝勃ちを押し付けてくるんじゃない!」
 腕を強めに叩くと、海里は薄目を開けた。けど、またすぐに閉じる。
「おーきーろ!」
「ん〜……いい夢……」
「いい夢!? さては、食べ物の夢を見ているな! それ、実際は俺の首を食べていたんだからな! 謝れ! あと、離せ!」
「……うるさい」
 昨日、夜更かししてしまったので、いつもより寝起きが悪い。

「海里が腕を離せば、すぐに静かにしてやるってば!」
 すると、腰に巻き付いていた手が、優しく俺の腹をポンポンと叩く。それで俺をなだめているつもりか!?
「俺は幼児か! そんなに抱き枕が欲しいかよ!?」
「……うん」
 酷く寝ぼけた海里は、俺の身体を離すどころか、腹を撫でてきた。
 さらにその手は服の中にまで忍び込んでくる。ゆっくり身体を這(は)い、胸元から腹部を大きく上下に撫でる。
「ひゃはっ、よせ、くすぐ――」
 むずかゆさに鳥肌が立ったとき、その中指が胸にある小さい尖りをかすめた。
「へ?」
 その指は突起物の感触が気になるのか、何度もふにふにと触れてくる。
「お、おい……、寝ぼけすぎ」
 やめろ。そこは男でも敏感で触られたくないところだ。
 乳首を弄(もてあそ)ぶ指をどかそうとしたら、今度は軽く引っ掻かれた。
 びくんっ!
 突然の刺激に身体が跳ね、息を呑んだ。
 そのあと、自分の反応に羞恥心が込み上げてくる。
「――くぅう、この馬鹿っ!」
 俺は海里から離れようと全力で後ろ手で突っぱねた。
 ほぼ同時に海里が両腕を離すから、反動で俺は勢いよくベッドから床へ転がり落ちる。
「か~い~りぃ」
「……悪い」
 起き上がって睨むと、海里はバツが悪そうに顔を逸らし、自分の髪の毛を手でぐしゃぐしゃにする。そのあと、両手で顔を覆って深いため息を漏らした。
「何?」
「……なんでもない」
「あっそぉ。あぁ、くそ。腰打った」
 俺は立ち上がって、ぐしゃぐしゃになっている髪の毛をさらに掻きまわした。
 海里は反省しているのか、何一つ文句を言わない。
 反応がないと面白くないので、最後にぺちんと肩を叩いて、部屋を出て一階へと降りた。
「お兄ちゃんって、静かに起きられないの」
 朝から千香が可愛くない。
「……海里に言えよ」
「海里くんは?」
 俺は、とぼけて「さあ」と答えた。
「朝めし、何食べる?」
「私、ホットケーキが食べたい!」
「分かった」
 日曜の朝なので、千香のリクエスト通りに作ってやることにした。
 生地を焼き始めていると、トン、トン……と、階段から降りてくる足音が聞こえてきた。
 海里は千香に挨拶をしたあと、キッチンに立つ俺の真隣に立って、耳元で囁(ささや)く。
「さっきはごめん。許して」
「……珈琲、淹れて。それから食べたあと、食器と台所をピカピカに磨くこと」
 それでチャラだと言うと、海里は頭同士をくっつけた。
 了解の意だとそれだけで伝わる。
「朝っぱらから、ふたりとも……」
「ちいちゃん、朝からうるさかったよな。ごめんね」
 いつものやりとりだ。
 次に来る千香のセリフは、こうだろうと予測出来る。
 俺はぶりっ子っぽく顔を傾け、身体をくねらせて上目遣いをした。
「いいの。海里くんは特別だよぉ」
「……っ」
 海里は目を見開いて、固まった。
 よほど俺の裏声が気持ち悪かったか。
「――て、おい。いつまで固まっているんだよ。千香にするような爽やかな笑みを俺にもくれよ。もしくはツッコめ」
「…………」
「だんまりかよ。いつもお前たちだけで甘ったるくしすぎだぞ」
 言い終える前から、海里が口角をひくひくさせて、ちょっと変顔が入った笑みを浮かべる。
 どうしてか、千香までひょっとこみたいな変顔をしている。
 ふたりして、俺をからかうつもりか。
「あのさ、俺は七海と甘……っておい。七海! ホットケーキが焦げてるぞ」
「やべ。……まぁ、最後に焼いていたの、海里の分だからいいかあ」
 仕返しをすると、すぐさま海里は腰を低くして深々と頭を下げた。
「ふざけて、本当にすみませんでした」
「ふははは。そうであろう。詫(わ)びろ」
「本当にごめんなさい」
 その丁寧さに免じて、焦げたホットケーキは、俺の分と半分こにした。
 いただきます、と三人で食べ始めたときだ、店に通じるドアからドスドスと鈍い足音が近づいてくる。
「七海!」
「はいよ、起きてるよ」
 母だ。ふくよかな体型だが、小回りが利き、よく動く。
 痩せないのは、食べすぎなのか、体質なのかは分からない。だけど、物心ついた頃から、母はまんまるい。父親は痩せているので、多分、俺の体質は父親譲りなのだろう。ちなみに千香は食べるとすぐに太るから気にしている。
「七海、今日も店、手伝ってちょうだい!」
「え。今日はやだ」
「そう言わないでちょうだい。ブロガー様が私の美(び)貌(ぼう)を気に入ったばかりに、連日凄い賑わっているのよ」
「よく分かります」
 ブロガー様と客が気に入ったのはうちの料理だろう。そう、ツッコむ前に海里が頷く。
 たとえ、母が世界一の美女だと自称しても、海里は同意する。
 この男は、母に対して絶対的なイエスマンだ。この家の敷居を跨(また)ぐには母の機嫌を損ねてはならぬ。と子供心に感じたのかもしれない。
「あらぁ、さすが海里くんは分かっているねぇ。――それで、こっちも手違いでさ、予約分だけで餃子のたねを切らしちゃったの。母ちゃん、裏方に回るから。店が開いたら、接客頼んだわよ」
 母はそれを伝えるや、店に戻った。えぇ~、やだ~、という俺の言葉は虚しく宙に浮く。
 千香も店を手伝うことはあるが、忙しいときには戦力にはならない。
 しごかれて育った長男だから見込まれて期待されている……と、物は考えようだ。
「七海の働いている姿、格好いいよ」
「お兄ちゃん、ファイト」
 声援、どうもありがとう。
 それで、結局俺も頼られるとしぶしぶ引き受けてしまうのだ。周りにはおねだり上手が揃いも揃っているから、そういう気質になっちゃったのだ。

「餃子、ラーメン、半炒飯、七海!」
「はいよぉ!」
 店内には、親父のテンポのよい声が響き渡る。
 メニューと俺の名が交互に呼ばれるので、新規客は〝七海〟というメニューがあるのではないかと誤解することがある。
 ほら、新規客がメニュー表を見た。七海ってメニューはありません……。
「餃子三人前、ラーメン、半炒飯をお持ちしました」
 客はすぐに箸を持つわけではなく、携帯電話を持って複数枚写真を撮り始めた。冷めてまずかったって口コミするんじゃないぞ。
 お。食べ出したら、食べっぷりは悪くない。
「七海くーん、こっち来て」
「はぁい!」
 今度は常連客が俺の名を呼んだ。餃子と青菜炒めとビール!
 めまぐるしい忙しさの中、ふと時計を見ると、もう一時半。開店からノンストップで働いてきたけど、体感では三十分程だ。
 母もテイクアウトの餃子をすべて客に渡し、ようやく手が空いた。外で待っている客を呼び込んだら、休憩に入ろうと店の外に出る。
「二名でお待ちの姫(ひめ)野(の)様――あれ、姫野?」
「花栗くん?」
 店前に設置した椅子に座っていた客は、クラスメイトの姫野ここみだった。
 肩まで伸びた髪の毛は、パツンと切り揃えられている。着ているロックバンドの古着Tシャツはなかなかにセンスがいい。
 彼女の隣にいる女性は、姫野ここみそっくりの顔立ちだ。確か、三年で姫野の姉。ふたりとも美術部で、絵がプロ並みに上手いとクラスの誰かが言っていたっけ。
「こちらへ、どうぞ」
 俺はふたりをテーブル席へと案内した。
 姫野はきょろきょろと店内を見渡したあと、俺を見る。
「へえ。花栗くんのおうちが料理屋だって知っていたけど、ここなんだ」
「うん。そうだよ」
「あ、そうだ。おすすめ教えてよ」
「全部かな。一番人気は餃子。あと、女性がよく注文するのはエビチリかな」
「ふーん。じゃ、せっかくだしおすすめ食べようかな……お姉ちゃんは?」
「私はブロガーがおすすめしていた炒飯が食べたいな」
 おぉ、ここにもブロガー効果が。
 忙しくって大変だけど、なかなかに有難いな。
「じゃ、餃子二人前と炒飯とエビチリ!」
「はいよ!」
 厨房にいる父に注文を伝えたあと、母には彼女たちに食後のデザートか飲み物をサービスするよう頼んだ。
 それからゴミをまとめ、裏口のドアから家に戻る。
 冷蔵庫には、母が用意したつけ麺があった。それを取り出し、椅子にどかっと腰を下ろす。
「はぁ、疲れた」
 なんとなくテレビをつけて、つけ麺を啜る。製麺所から取り寄せている麺はのど越しがよく、あっという間にペロッと完食。
 テレビは暇つぶしにもならないほど退屈で、俺はソファから立ち上がった。

「あ、花栗くん!」
 店に戻ると、ちょうど、姫野たちが食べ終わって会計をしているところだった。
「どうも──あ、ドア開けるね」
 見送ろうと、俺もふたりと一緒に店の外に出る。
「食べに来てくれて、ありがとうね。お姉さんもありがとうございます」
「花栗くんがおすすめしてくれたエビチリ、凄く美味しかった」
「よかった。うちのエビ炒飯もうまいよ。エビがごろごろ入っているから、おすすめ」
「うわ、美味しそう、通っちゃう。ていうか、花栗くんって学校と店とじゃ雰囲気が全然違うんだね。もっとすかした感じだと思ってた」
 そりゃ、営業だからね。
 学校でも、愛想が悪いわけではないと思うけど、店用のテンションで始終いられるわけがない。何より、女子とは何を話していいのか分からず、緊張しちゃうし。
「今度、ここで、うちのクラスの女子会させてもらおうかな」
「中華屋で女子会するの? それって全然お洒落じゃないなぁ。町中華じゃ映えないでしょう……お待ちしております」
「あはは」
 姫野の笑い声がその場に響いたとき、前方から海里が歩いてくる。この時間帯ならば、部活帰りだろうか。
「よ。海里、おつかれ」
「うん。七海も」
「え!? なんでここに皇くんがいるの?」
 姫野は前髪を整えて、やや緊張した面(おも)持(も)ちになった。
「海里ン家、ここの隣だから」
「そっか。花栗くんとご近所さんなんだ。ふたりとも仲いいもんね」
 姫野の頬が赤くなっている。俺と喋るときとは全然様子が違う。
 姫野だけじゃなくて、大抵の女子は海里の前ではこうなる。
 時折、杉本や大木が海里に突っかかるのは、あからさまな違いがあるからかも。そんなことを思っていたら、姫野は俺の服を軽く引っ張って、耳元に顔を寄せてくる。
「ねぇ、皇くんの連絡先、教えてくれない?」
 小声で囁くので、俺も手で口を隠し小声で返答する。
「目の前にいる本人に言えばいいじゃん」
「私が聞いても教えてくれるか分からないじゃん」
「誰に頼まれても個人情報の横流しは出来ないよ」
「……う。そうだよね」
 姫野がもの分かりのいいタイプでよかったと安堵したとき、腕を強く引っ張られた。ぐんっと身体が後ろに下がる。
 振り向けば、海里は眉間にシワを寄せて姫野を睨んでいた。
 滅多に見ないけど、あからさまに不機嫌になっている。
「何してんの」
 その迫力に、彼女はたじろいで後ろに数歩下がった。
「七海、――店へ戻りな」
「あ、うん」
 海里に軽く背中を押されて、俺はもう一度姫野たちに声をかけてから店の中に戻った。
 店内には客の姿はなくて、厨房にいるふたりの片付ける音しかしない。
「姫野さん、少し話が聞こえてた。……俺、大した用事もないのに連絡もらっても、平気で無視する奴だから。好きな人以外にはまめじゃないんだ。ごめんね」
 ドアを挟んで、海里の低い声が響いた。
 どうやら、コソコソ話は筒抜けだったようだ。慌てて、姫野が謝罪の言葉を付け加える。
 そこで話は終わったようだけど、俺は入り口前で突っ立って考え込んだ。
 ……まめじゃない?
「七海? 今日はもうあがっていいわよ。ありがとうね」
「あ、うん」
 母が姫野たちのことを可愛いとか褒めているのを聞きながら、誰もいない店内の椅子に座って、携帯電話を手に持つ。
 俺の携帯電話の着信履歴には、海里と賑やかトリオと親からばかり。その中で群を抜いて、海里からの着信が多い。
 内容は、今どこ?とか短いやりとりで、全然大した用事じゃない。
 けれど、こんなに着信履歴をずらりと埋めておいて――連絡がまめじゃないだって?
 それは、海里の生活に俺や俺の家族が関わっているから?
 千香にもそうなのか?
「俺、だから……?」
 思わず呟いたとき、海里からメールが入った。
《七海、会いたい》
「んぎゃっ!!」
 よくあるメール内容なのに過剰反応してしまい、持っていた携帯電話を床に落とした。
 母と父が怪(け)訝(げん)そうな目でこちらを見るので、俺は苦笑いしながら、それを拾って、勝手口から店を出た。
 何を動揺しているんだ。俺の勘違いかもしれないし、早合点は禁物だ。
 そう自分に言い聞かせながら、自室に戻る。
 疲れているし、本当ならすぐにベッドにダイブしたい。けど、さすがに汚れたままの恰好ではまずい。
 先に着替えようと衣類を脱いでいると──。
 海里が勢いよく部屋のドアを開けた。
「――七海!」
「ひぎゃっ! おい、ノックくらいしろよ。びっくりするだろ!」
 ちょうど俺は、片足を上げた間抜けなポーズをとっていた。不安定すぎて、そのまま脱ぎ捨てる。
「ちいちゃんに家に入れてもらって、リビングで七海がここに戻ってくるのを待たせてもらってた」
「……待ってた? 急ぎの用かよ?」
 パンツ一丁なのが心もとないなと思いながら質問すると、海里がつかつかと大股で近づいてくる。海里の大股だと壁際にいる俺まで三歩。
 これまた勢いよく迫ってきて、壁にどん、どん、と両手を置いた。あまりの圧に、頬が引きつる。
「な、んだよ……?」
「ごめん。さっきの俺の態度、かなり悪かった! 謝りたくて」
「へ?」
 海里の態度がおかしかったのは、先ほど姫野姉妹と出会ったときしかない。
 ――わざわざそのために、俺のところに来たのか? そんなに必死な表情で?
「俺に謝る必要ないだろう。この場合はさ、姫野……」
 俺が言い切る前に海里が言葉を遮(さえぎ)るように言う。
「七海以外に謝る必要ないでしょ」
「…………」
「俺がおかしな態度を取って、どう思われるのか気になるのは七海だけだ」
「お、れ……」
 肌寒いくらいの気候だからか、それともあまりに海里が真剣だからか、胴(どう)震(ぶる)いする。
 鳥肌が立った腕を撫でていたら、海里の視線はやや下がった。そして勢いよく顔を逸らす。
「何?」
「――ごめん! 俺はなんにも見てないから。あぁ、寒かったよな!? いいのがあった!」
 海里はベッドから大きめのブランケットを掴んでひっぺがした。それを俺の身体に巻き付けると、もう一度「悪い!」と謝って、部屋から出ていく。嵐のあとのように、しん、とした。
「……は?」
 いやいやいや……ブランケットを巻き付けるより、着替えをしろと促せよ。あるいはツッコめ。
 小首を傾げていると、一階へ降りていく足音が途中で止まった。すると、千香の声が響く。
「海里くん、お兄ちゃんに会えた?」
「ちいちゃん、うん……」
「わっ、どうしたの、凄い顔が真っ赤になっているよ!? 具合が悪いの!?」
 千香が心配すると、海里は慌てて「なんでもないよ!」とうわずった声を上げた。
 ――真っ赤に? なんで、海里が真っ赤になるんだ?
「…………」
 俺は鏡に映るパンツ姿の自分を見た。
 胸はぺったんこで筋肉は薄付き。標準体重より少し痩せ型で別に魅力的な身体ではない。
 わざわざ裸を見せ合うことはないけど、体操服の着替えとかで、見る機会はごまんとある。小学校の頃は、一緒に風呂にも入ったことがあったっけ。
 海里が赤くなったのは、自分の裸が原因だなんて有り得ない。
「えっ海里くん! 足の小指を角でぶつけちゃったの!? 一体どうしたの?」
 ……はずだ。