お化けの衣装に着替えただけで大絶叫。
 クラスの熱気に、富田先生は頭を悩ませていた。一限目が終わると、他クラスの教師からうるさいと注意されたそうだ。
 それで昼休み、大木と杉本と海里は、富田先生に職員室に呼び出されてしまった。先生の注意はねちっこく昼休憩が終わるまで帰ってこないだろう。
「呼び出すべきは総監督の園村じゃないのか? 大木と杉本は分かるけど、なんで海里まで?」
 疑問を口にしたら、隣でポッキーを頬張る園村が答えてくれた。
「文化祭、皇の元に女子が集まるだろうから、混雑回避とかの注意じゃないか? ポッキー食う?」
「有り得るな。……もらうよ」
 園村が差し出したポッキーをかじっていたら、教室の隅で「どうしよう!」と焦った声が聞こえる。
 振り向けば、慌てているのは姫野と美術部だった。
 周囲にいた女子たちが、どうしたの?と姫野たちを囲んだ。
「午前中、小道具が置いてある教室の窓を開けっぱなしにしていたみたいなの。風で看板が校舎の外に落ちちゃったみたい」
 えぇっ、と女子の大きな声が、教室内に響く。
 文化祭用品の保管は、空き教室を利用していた。
 どうやら、窓際のロッカーに立てかけていた看板が、風に飛ばされ地面に落ちてしまったようだ。しかも今日の朝方、小雨が降っていて、地面はぬかるんでいた。湿気を含んでふにゃふにゃになった看板は、修復不可能らしい。
 俺がほとんど作った看板だからか、姫野はこちらを見て頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「あぁ、いいって。作り直せば、間に合うだろう」
「うん。ただ今すぐは無理かも。ちょうど、絵の具が切れちゃって。美術部や他のクラスも当たってみたけど無理だったの」
 ロッカーの上に看板を立てかけたのは、姫野だった。彼女は責任を感じ、絵の具を買ってくると言う。
「じゃあ、荷物持ちとして俺も一緒に買いに行くよ」
「いいの?」
「みんなで負担軽くやっていこ」
 俺がそう言うと、園村は相槌を打つ。
「そうそう、だから俺も同行する」
 園村はそう言って俺の肩を掴んだ。細い目で見つめてくる。
 なんだ、アイコンタクトか? 分からない。伝わらない。
「……そんなに行きたいなら、行く?」
 園村は目力を込めて頷いた。
 放課後、俺たち三人は、最寄りのショッピングモールへと向かった。
 そこのテナントに入っている画材屋には、大容量の絵の具が定価より安く売られている。美術部の奴らの行きつけなんだそう。
「花栗……いいか。出来るだけ俺から離れるんじゃないぞ」
 園村は俺の真後ろにぴったりとくっついて、ぶつぶつと何かを言い続けている。
 買い物に付いてくると言ってから、ずっとこの調子だ。
 園村は壊滅的に絵が描けないと聞いたし、画材にもきっと興味がない。姫野が切羽詰まっている様子が不憫で、俺たちに同行したのかと思いきや、そうでもなさそうだ。
「何をぶつぶつ言っているんだ?」
「俺が想像するに、アレが抱いているのはとんでもなくデカくて禍々(まがまが)しいもんなんだよ。お前が女子といるときなんぞ、ごうごうと燃え盛るような嫉妬狂いの目をしているんだぞ……」
「アレって何? 訳が分からない」
「訳は分からないままでいい」
「あぁもう。売り場は狭いんだから! 店に入らず、ここで待っててよ」
 売り場面積が小さい。人ひとり分しか通れない狭い通路には、画材がひしめくように置かれている。額などの割れ物も多いのに、その置き方は案外無造作だ。
 そこでじゃれつかれても、面倒くさいし他の客の迷惑になるだけだろう。
「──あは」
 園村が微妙そうな顔をすると、姫野は声を出して笑った。
「君たちって、本当に面白いよね」
「あぁ、園村はインテリ風だけど、中身はお笑い系だから」
「俺が面白いことは自負している。やたらと周囲が見えて、気も利くからこうして……」
「はいはい。人一倍気が使えるってことで。園村はここで待つように」
 もう一度、園村にマテと声をかけ、俺は姫野と画材屋の中に入った。
「せっかく、ここまで付いて来てくれたのに」
「それもそうだな。詫びにうちの店のラーメンチケットでもあげとく」
 姫野が小さくクスクスと笑うのを聞きながら、俺はぐるりと店内を見渡した。
 脚立が必要なほど高い商品棚には、びっしりと画材が並んでいる。
「必要なものは取るから」
「そうね。じゃあ、上から二段目にある絵の具、取って欲しいな」
 姫野は遠慮がないタイプだ。俺は脚立を使って、言われた通りにあれこれと棚に手を伸ばす。
「はい」
「ありがとう。花栗くんって気が利くよね」
「そう?」
「うん、優しいし、話しやすい。好きになるなら君みたいな人がいいな」
「それはどうも」
 棚にある絵の具に目をやりながら、褒め言葉に礼を返す。
「脈、全然ないね!」
「え?」
〝脈〟と聞いて、ハッとする。
 さっきのは、褒め言葉ではなく、アプローチ?
 姫野の方を向くと、彼女は笑っていた。身体のどこにも力は入っておらず、いつもの彼女がそこにいた。
「ごめんね」
 だから、俺はさらりと謝った。姫野も軽い話を流そうとするみたいに手を振る。
「ううん。ちょっと言ってみただけ」
「そっか」
「花栗くんは、文化祭の準備とかで好感度上がっているよ~。特に美術部の子からはね」
「……えぇと」
 杉本が、〝人生にはモテ期が二度ある〟と言っていたことを思い出した。脳内で杉本と大木がふざけ合う。
 一度使ったので、あと一回しか使えましぇん……だっけ?
「これこれ。大容量アクリル絵の具、三本買っておこうかな~」
「さっきから色々手に取っているけど、そんなに使う?」
「えへ、自分用。あ、こっちは自分で買うから!」
 姫野は画材を見ていると、テンションが高まるのか。この紙質がいいとか蛍光色の新色がポップでいいだとか語り出した。
 レジに向かう彼女の背を見ながら、モテフラグがあっという間に消えたのが分かる。
 ……全然違う。
 海里の告白とは違っていた。
 海里と姫野の様子や反応もそうだけど、俺自身が違う。
 あの告白は、言われる前から緊張して、言われたあとも緊張して、返事するときは、吐きそうなくらいだった。返事したあとはもっと苦しかった。
 はっきりとした自分の中の違いに気づいて、羞恥心めいたものが込み上げてきた。身体がもぞもぞする。
 顔が赤くなってしまいそうで、顔に力を入れていると、姫野がレジから戻ってきた。
「変顔してる?」
「……まぁね。一芸でも覚えようかと」
「それ、あんまりウケないかも」
 顔に力を入れたまま、姫野から絵の具を受け取って、画材屋を出た。
「あれ? 園村くんがいない」
「あれ?」
 待っているはずの園村は、画材屋の前にいなかった。
 俺は携帯電話を見た。園村から連絡が入っているかと思いきや、何もない。
「どこかへ行っているのかな? すれ違うと面倒だから、ここで待っておこうか?」
「うん。じゃあ、ちょっとトイレ行っていい?」
「おー」
 トイレを照れもなく男に伝える姫野。
 さっきの会話、すっきり彼女の中でな(・)か(・)っ(・)た(・)ことになっているな。
 俺は彼女に手を振りながら、手すりに軽く身体を預けた。
 モールの広々とした通路をぼんやりと見渡す。
 壁に貼り付けられているPOPには、近日開催予定のブラックフライデーの文字が掲げられていた。
 セール前で、さらに平日の今の時間帯は客の姿はまばらだ。ほとんどが夕食の買い出しに来たと思われる主婦ばかり。
 そこに青里高校の制服を着た生徒がいたら、自然とそこに視線が向く。
 長身で広い肩幅にがっしりとした身体つき、長い脚、あれは……。
「海里……?」
 モール通路の真ん中は吹き抜けになっていて、向かい側の通路を海里が歩いていた。
 海里の影になっていてよく見えなかったが、隣にいる女子は千香だ。
 時刻は十六時十五分。海里は部活のはずなのに。
 疑問を浮かべていたら、ふたりは斜め前にある本屋に入っていった。
 とりわけ用事があるわけでもない。けれど、声をかけておくかと、園村と姫野にメールを入れて本屋へ向かった。
 一番奥にある参考書の棚に、ふたりの背を見つける。
「か」
 声をかけようとしたとき、千香が海里の腕を組む。
 いつもこうしていると言わんばかりの仕草に、思わず俺は本棚に隠れてしまった。
『ふたりは付き合っているんじゃないか』
 大木の声を頭によぎらせながら、棚から顔を覗かせる。
 どっと心臓が嫌な音を立てる。
 家の中では、あんな風に千香は海里に腕を組んでじゃれつかない。ピンとこなかったけど、今のふたり距離感は――カップルっぽい。
 なんで……。
 じわっと、黒く濁(にご)った気持ちが湧き上がってくる。
 呆然と立ち尽くしているあいだに、ふたりは本屋から出た。
 声なんて到底かけられない。
 なのに気づけば、俺はふたりの背を追いかけていた。
 馴染みのモールには、目新しいものはなかった。いつもなら通りすぎるような店でも、ふたりは楽しそうに喋って眺めている。
 冷や汗が頬に伝ったとき、ブブブ……と、制服のポケットに入れた携帯のバイブが鳴った。
 その音にはっとし、携帯を確認したあと、またふたりに視線を戻す。
 ……あれ? 誰だろう。
 一瞬のあいだで、千香の前に同じ中学の制服を着た男子学生がいた。
 ひょろ長い体型に、整えていない髪の毛は肩まで伸びている。
 千香の友達? それにしては千香の表情が強張っている。それに海里の表情も険しい。
 男は何かを話しているが、何も聞き取れない。
「だからあ!」
 なのに、千香のちょっと張り上げた声はしっかりと耳に入った。
「この人は私の彼氏なんだってば! ね、海里くん!」
 ……彼氏?
 なに……どういうこと? 違うはず……。
 けど、海里はその言葉に頷き、千香を守るように男とのあいだに入った。
「今後この子に付きまとったら容赦しない」
 海里の背後から千香は、念を押すように言う。
「私たちラブラブだもん。このあと、おうちデートだもんね!」
 海里と千香は、恋人同士──。
 聞き間違えじゃない。しっかりと耳に入り、聞き取れた。
 じっと海里を見つめていると、ずきんと胸が強く痛んだ。
「…………」
 その場を離れていくふたりを、俺はもう追いかけなかった。
 全身から力が抜け、肩を落とす。踵(きびす)を返して、画材屋の前に戻ると、姫野が待ってくれていた。
 彼女を見て、あ、そっか。と思った。
 ――海里は、さらっと次へ、いっちゃったんだ。
 俺は、遅かったんだ。
 鼻の奥がツンとし、目の奥が熱くなる。
「帰ろう、か」
 園村はいないけど、あとで連絡しておくし、とにかく今は帰ろう。
 姫野に声をかけて、一緒にエレベーターに乗った。三階から一階へ。数字がゆっくりと変わっていく。エレベーターの扉が開き、出入り口へ向かっていると、後ろから肩に手を置かれた。
 その手の大きさに、俺は大袈裟に肩を揺らした。
「花栗?」
 その声に振り返れば、園村だった。
「……なんだ、園村か。携帯見た?」
「見た。それと、皇に花栗といることを報告した。偶然にもモールにいるってさ、すぐにこっちに来るから」
「海里に? ……なんで?」
「前に応援してるって言ったろ」
「だから」
 さっぱり分からない。聞き直そうと思ったけど、やめた。
「……もういいよ」
 ただ、海里がここに来るなら千香と一緒だろう。ふたりが一緒にいる姿を今は見たくない。
 俺はここにはいられそうにないから絵の具を園村の胸に押し付けた。
「え、おい。花栗?」
「俺、先帰るよ」
 え?と意味が分からなさそうな姫野を横目に、足早にその場から離れる。
 すぐ角を曲がった通路の奥には、駐車場の出入り口がある。
 俺はそこからモールの外に出た。点々と駐(と)まっている車と車のあいだを斜めに進んでいると、真後ろからぬっと大きな影が現れる。
「七海」
「…………」
 声をかけられる前から海里だと分かっていた。けれど、無視を決め込んで歩き続ける。
「七海ってば?」
 大股で回り込んでこようとするので、足を止めた。
 海里は息を切らしている。ここまで急いで来たのだろうか。
「千香は……?」
「ちいちゃんは、園村に託したよ。なんだ、一緒にいるところを見てたのか。声をかけてくれたらよかったのに」
 自分から千香の名前を出したのに、海里が言った瞬間、どろりと嫌な感情が溢れてきた。
 なんだよ。
 さっきは、声なんてかけられる雰囲気じゃなかったじゃないか。
「俺は園村からモールに七海がいるって聞いたからさ、追いかけてきたんだ。一緒に帰ろう……七海、どうかした?」
 俯いていた俺の前髪を海里は指で掻き分けてきた。覗き込もうとする仕草を感じた瞬間、思わず身体を後ろに引いてしまった。
 無理……。
「……俺はやっぱり海里と仲よく出来ない。無理そう」
「え」
 驚く海里の声に、八つ当たりだと分かっているから、謝った。
「ごめん!」
「えぇ!? ごめんってなんだよ。説明して、ちゃんと聞くから――」
 海里が俺の腕を掴もうとするから、反射的に勢いよく叩いた。
 小気味いい音が響き、顔を上げると、くしゃっと歪んだ海里の顔があった。
 あぁ、やってしまった、傷つけた。と瞬時に後悔する。
 けれど、俺はそんな罪悪感を瓶に詰めて蓋をして、その場から猛ダッシュで逃げた。
 絵の具を園村に託していてよかった。持っていたリュックを背中に背負い直して、後ろを見ずに全力で駆ける。
 駐車場を出た道は渋滞していて、歩くよりも遅い動きの車を俺は何台も追い越した。
 ショッピングモールから四つ目の信号で止まったときに、近づく足音に気がついた。それは俺の真後ろで止まる。
「七海……はぁ、さっきのはなんだよ?」
「…………」
 追いかけてくる足音は、やっぱり海里のものだった。
 俺は振り向かず、何も答えず、信号が青になるのを、早く、はやくと心で唱えた。
 そして信号が青になるや、アスファルト舗道を勢いよく蹴った。
「ひとりで考えたいから、お前は付いてくるな!」
 捨てゼリフを吐いたら、「はぁ!?」と海里が言った。
「意味が分からない! 俺に、『無理』だと言っておいて、逃げるとか有り得ねえだろ!」
 また、追いかけてくる足音が聞こえる。
 海里は、相当足が速い。
 けど、俺だって中学の頃は陸上部だったし、海里より足が速かったし、長距離が得意だったし、家の手伝いで体力はある。逃げ切れる自信もあった。
 ビルとビルの隙間を通り、死角に入って姿をくらませ、信号がない道を選んで一気に引き剥がそうとする。
 けど、追いかけてくる足音が途絶えない。
「……っ、お前は長距離タイプじゃ、ないだろうが!」
 横腹が痛い。心臓が跳ねる。痛い。
 久しぶりの全速力はすぐに限界が来たが、追いつかれそうになるたびに速度を上げて走った。
「――七海!」
 路地裏に入ったところで、とうとう背後から伸びた手に捕まった。
 振り切ろうとしたら、もっと強く腕を掴まれる。
 背後から海里のぜえぜえと荒い息が聞こえてくる。たまにむせ返っている。
 俺も久しぶりで全力で走ったせいか、足ががくがくしてくる。もう走れそうにない。
 小学生でもないのに、全力疾走で追いかけっこするとか――。
「はは……っ」
 おかしいのに、涙が出てきた。
 堪えようとしたら、喉の奥から呻(うめ)き声が漏れる。
「……う」
「七海?」
 目の前にいる汗だくの男は、俺じゃない人を好きになってしまった。そのことがとてつもなく嫌だ。
 ――俺、海里が好きだ。
 恋愛感情として海里が好き。
 ようやく気づけたのに。
 全部、手遅れになってしまった……。
「……俺、なんでもっと、はやく……、分からなかったんだろう」
「え?」
「……うぅ」
 一度、自覚してしまったら、気持ちが引っ込まない。
 海里の気持ちが欲しい。自分と同じ気持ちじゃなくなったことが悲しい。自業自得だって分かっていても涙が止まらない。手で顔を押さえながら、海里に言った。
「追いかけて、来るなよ。どうして、追いかけて来るんだよ……っ」
「……それは」
「俺は、ひとりに、して欲しいんだ……って」
 こんな風に泣き出して、海里には意味が分からないだろう。
「ごめん」
 なのに、海里は謝った。
「離せ、よ」
「……ごめん。それは出来ない。追いかけない、ことも出来ないんだ。……だから、理由を教えて欲しい」
 海里は慎重に絞り出すように、言葉を選んでいるようだった。状況が分からないなりに俺に寄り添うようにゆっくりとした物言いだ。でも、全部不毛だ。
「もう、いいから」
「何が?」
 上手く言える気がしないから、首を小さく左右に振る。それを見た海里は「なんで?」と理由を尋ねてくる。
 俺はまた、首を左右に振った。
「それってさ……」
 海里が震えた声で言葉を口にする。
「俺と一緒にいるのが嫌だってこと? 無理ってさ、そんなに俺のことが気持ち悪いのかよ?」
「そんなわけないじゃん!」
「じゃあ、何が無理なんだよ!」
 真逆だ。気持ち悪いなんて思うわけがない。
 答えられないでいると、ずっ――と鼻水を啜る音が聞こえてきた。
 ぽと――、ぽとっと落ちてくる雫が、海里に掴まれている自分の腕に当たって、流れる。
 生温かい感触に驚いて見上げると、海里は泣いていた。
「ごめ、ん……っ」
 その泣き顔を見て、俺は脊(せき)髄(ずい)反射で謝った。
 ひくっと喉が鳴る。
「ごめ、ん、なぁ……」
 こんな醜い気持ちを言いたくない。
 でも、言わないことで海里を苦しめるなら、身勝手な自分をさらけ出すほかないと思った。
「俺、今更でさぁ、ちゃんと全部遅いって分かってるよ。……俺、海里が千香と付き合っているの知らなくて、ふたりを見ていたら……苦しくて、吐きそうで……無理で……」
「違う!」
 俺が全部を打ち明ける前に、海里は即座に否定した。あまりに大きな声だったから、思わず身体をすくませる。
 それでも、海里は聞けと言わんばかりに俺の肩を掴んだ。
「ちいちゃんは、同級生の男にしつこく付きまとわれていたんだ。それを追い払うために、彼氏役をしていただけ。わざと人目があるところで見せびらかすように歩いていただけ!」
「……役?」
「酷い勘違いだ。俺のことなら、訳を話させてよ。俺は七海が好きだって告白したじゃん。フラれたってずっと七海以外、考えられないんだ。今だって苦しいくらい好きなのに」
「…………」
「なかったことにしないでくれ」
 強い言葉に心臓が震えた。
 俺の目から、さっきとは違った意味の大粒の涙がこぼれる。
 海里の気持ちは、どこにもいってなかった……俺のもとに留まっていてくれたんだ。
「うれ……っ、ふ……く」
 返事をしたいのに、上手く言えなかった。
 それでも伝えなくちゃ、と海里の大きな背中に腕を回した。
 ぴくり──と、海里の肩が跳ねる。けど、すぐに抱きしめ返してくれた。
「……か、いり」
 呼べば、ぎゅうっと強く抱きしめてくれる。
 いつもの海里だ。それが俺にとってべらぼうに嬉しくて、自分の喉からするりと言葉が出た。
「俺も、好き」
 海里は静かに息を呑み、ゆっくりと俺の身体を離した。
「……え?」
 驚きを含んだ顔は、訳が分かっていなさそう。
 でも、これ以上何も言えない。鼻水を啜りながら、小さく頷くのが精一杯だ。
「え……」
 また海里は驚いた声を漏らす。
 それから、互いに身体の力がなくなったように、ずるずると地面に座り込んだ。

「えー君たち、大丈夫? 喧嘩かい?」
 それから、暫く俺たちはべそべそと泣いていた。
 どれくらい泣いていたのか分からないけれど、警察官がやってきて、声をかけられた。
 冷静な声に興奮は一気に冷めて、変わりに猛烈な羞恥心が込み上げてくる。
 どうのこうの質問されるのが、またいたたまれない。
「だ、大丈夫です」
「お騒がせしてすみません」
「喧嘩じゃありません」
「怪我もありません。もう帰ります」
 ただただ恥ずかしさで、顔が燃えるようだった。
「それじゃ、気を付けて帰りなさい」
 警察官の質問から解放された頃には、もう辺りは真っ暗だった。
 腫(は)れた目で、ちら、ちらと互いの様子を見る。
「…………」
「…………」
 肩同士が触れ合うこの距離は、親友なのか、それとも別の何かに変わっていくのだろうか。
「あっ、信号が赤に変わりそうだ」
 今まで静かだった海里が、俺の方に振り返り、手を差し出した。
 信号を見れば黄信号だった。
 完全に赤になる前に、俺は、その手を握った。