そこからどうやって帰ったか覚えていない。ふらふらといつものようにリビングへ入った。
 父も母もそこにいた。
 母はキッチンにいて、無言で湯気の立ったおかずを皿に盛っている。
 いつものルーティン。
 手を洗って、黙って席についた。
 炊飯器の蓋が開く音。味噌汁の匂い。
 俺の前に、母が静かに皿を置いて、言った。
「……おかえり」
 成長してから、こんなふうに出迎えられたことなんてない。
 俺は脇においたリュックからあの手帳を出して、テーブルに置いた。
「この病気……母さんが研究してるやつだったんだろ」
 母の手が、皿を持ち上げかけたまま止まった。少しだけ目を見開いて、それからすぐに伏せた。
「……名前……、聞いてた?」
「……本人からは聞いてない。でも、友だちだっていう子に全部聞いた」 
 母は小さくうなずいて、席に座った。
 父が静かに、箸を置く音が響いた。
「治験の対象だったのよ。まだ……十分な効果は確認されていないけど」
「助かる可能性、あったのか?」
 少しだけ間があった。
 母は、目の前のテーブルではなく、どこか遠くを見るような目で言った。
「……わからない。間に合わなかったかもしれないし、間に合ったかもしれない。でも、誰かにはきっと――間に合うはずだった」
 「はず」。
 その言葉を聞いて、何も言えなくなった。
 でも、胸の奥がぐらぐらと揺れて、気づけば言葉があふれていた。
「……成果が出たからって、誰かが死んだら、それ全部、ただのきれいごとじゃね」 
 母が、驚いたようにこちらを向いた。
「誰かの未来を救うかもしれない? そんなの関係ないよ。目の前の人、一人も救えないなら……研究なんて、なんの意味があるんだよ……!」
 自分でも気づいていなかった怒りが、喉からあふれだした。
 声が震え、息が浅くなる。
「なんで……俺に言わなかったんだよ。なぎ……紗月のこと、知ってたんだろ?」「治験対象の名前と顔が一致するなんて、研究倫理上……」
「そんなの、建前だろ!? 見てたくせに……わかってたくせに……!」
 母は、何かを言いかけたけれど、言葉を呑み込んだ。
 代わりに、父が「やめなさい」と静かに言った。
「……私は、信じてたの」
「何を」
「私のしていることが、誰かの次をつくるって。樹の未来かもしれないし、まだ見ぬ誰かの未来かもしれない。だから……結果で応えるしかなかったの」
 母がどんな思いでこの道を選んで、何を犠牲にしてきたか、そんなことはほとんど知らない。
 紗月が「今」を生きたこの夏。
 未来のことなんて、考えなくてよかったはずの時間。
 俺は食卓に背を向け、手帳を手にとって、自分の部屋へと向かった。

 部屋のドアを閉めて、机に手帳を置く。
 そのページをひとつ、またひとつめくっていく。
 どこにも文字はない。白紙のページが、ただ、静かに並んでいるだけだ。
 それは、どこか紗月らしかった。言葉で飾らない。感情を押しつけない。ただ、そこにあることだけで、何かを伝えようとしてくれるような――そんな空白。

 そして。
 そのいちばん最後のページにたった一行だけ、青いインクの文字が残されていた。
《紗月です。書きたかったこと、書けなかったこと、書かなかったこと、そのどちらも、たしかに私でした。》

 まっすぐな字だった。
 丁寧で、でもどこか迷いの跡がにじんでいるような、そんな文字。
 思わず、指先でなぞっていた。

 書きたかったこと。
 書けなかったこと。
 書かなかったこと。

 どれも、彼女が選んだことだった。
 沈黙もまた、紗月の言葉だったんだ。
 ページの余白が、やけに広く感じられた。でもその空白が、すべて彼女自身だった気がした。
「なぎさ」じゃなくて、「紗月」として書かれた名前。たったそれだけのことなのに――胸の奥が、熱くなるのを感じた。
 母との会話で、すべてが分かったわけじゃない。研究も、命も、未来も、簡単に割り切れるようなものじゃない。
 でも。
 もう、逃げてばかりじゃいけない気がした。誰かに何かを「渡された」なら、今度は、自分も「渡す」側にならなきゃいけない。
 手帳を閉じる。ページが鳴った音が、思ったよりも柔らかくて、少し驚いた。
 深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。たぶん、まだこの気持ちに名前はつかない。
 でも――向き合ってみたいと思った。
 もう一度、ちゃんと。
 自分のこと。
 母のこと。
 そして、紗月のことも。