なぎさに会えなくなって、一週間が経った。
ずっと考えてた。
でも何もできないまま、時間だけが過ぎていく。
ある日の放課後、教室に残ってスマホをいじっていた咲に声をかけた。
「なあ、なぎさの家……知ってる? 途中まで送ってったことはあるんだけどさ」
咲は、手を止めて俺を見て、少しだけ、表情を曇らせる。
「……行くつもり?」
「行くつもりじゃなくて、行きたいと思ってる」
俺の言葉に、咲はため息をついた。
「……亮平とも言ってたけどさ。あの子、ちゃんと理由も言わずにいなくなったんだよ。もしかしたら、それが答えかもしれないじゃん」
「それでも、俺は……会いたい」
静かな声だった。でも、自分でも驚くくらい、はっきり言えた。
咲はしばらく黙っていたけど、またスマホをいじって、写真を一枚開いた。
「……この投稿さ、知ってるとこだったんだよね。うちの近所のマンションの裏んとこ。覚えてない?」
「いや……
「……ちゃんと話す覚悟、あるなら教える」
「ある」即答した。
すると咲は小さくうなずいて、位置情報を送ってくれた。
「おせっかい、焼いたことにしないでよね」
そう言いながら、どこかほっとしたように笑っていた。
「さんきゅ」
咲が教えてくれたその場所は、駅から少し歩いた静かな住宅街にあった。
細い道を曲がった先にある低層のマンション。4階建てで、白い外壁が少しだけ古びていた。
このあたりはこんなに静かだっただろうか。あのときは全然気づかなかった。
集合ポストを見ると、郵便物とチラシが溜まっているところがあった。名前はわからなかったけれど、きっとここだろう。
インターホンを押しても、応答はない。
オートロックじゃないから、そのまま3階にあがってみる。
表札にも何も書かれていなかった。
けど、ドアの前に、空色の傘が立てかけられていた。
でも、そこに、人の気配はなかった。まるで、何かを置き忘れたまま、誰も取りに来なかったみたいに。
しばらく玄関の前に立ち尽くしていた。
もう何分ここにいるのかわからない。
もしかしたら、ここにはもう、なぎさの夏なんて残っていないのかもしれない――そんな思いが、じわじわと胸を締めつけていく。
諦めて階下に降りていったそのときだった。
「……佐久間くん、だよね?」
ふいに声がして、振り返ると、制服姿の女の子が立っていた。
小柄で、落ち着いた雰囲気がある。初めて見るはずなのに、なぜか少し見覚えがあるような、そんな感覚があった。
「私、小川玲奈といいます。……紗月の中学のときの友達でした」
「……紗月?」
「あ、糸井なぎさって名前は、仮の名前で……。本名は紗月。お姉さんの名前を借りてたの、たぶん、この夏だけは」
息が詰まって、耳の奥がきゅっとなった。知らない言葉が多すぎて、心が追いつけない。
戸惑う俺の表情を見て、玲奈はすぐに続けた。
「ごめんなさい、急にこんなふうに話して……。でも、ずっと……あなたのこと、探してたんだ」
「……俺を? 人違いじゃ?」
すると、彼女はバッグの中から小さな手帳を取り出した。
「ううん。人違いじゃないの。これ、見覚えないかな? 佐久間くんにいつか渡してって言われてて……」
文庫本サイズの、表紙の角が擦れた、見覚えのあるそれだった。
「これ……」
言葉が出なかった。あのとき、教室の机の上でなぎさが指先でなぞっていた、あの手帳だった。
「知ってるかもしれないけど、中はほとんど白紙。でも、最後のページに、あなたの名前が書いてありました」
受け取った手帳の重みが、ずしりと手の中に沈んだ。ページをめくると、本当に何も書かれていなかった。
きれいな白いままのページが続いていたけれど、最後の一枚だけ、鉛筆の薄い文字で俺の名前が書かれていた。
「あの子……紗月……ね、昔から、何かに本気になるのが怖い子だったの。頑張っても、比べられるのが怖い。期待されるのが怖い。だから、あんまり自分のこと、話さなかった」
玲奈の声は静かだったけど、ひとことひとことが丁寧で、温かかった。
「でも、なんで名前……」
「なぎさっていうのは、お姉さんの名前なんだって。すごく自由で、何でも器用にできる人で、アートの道に進んで、今は海外に住んでるらしいの。お姉ちゃんみたいになれたらって、よく言ってた」
「それで……だったんだ」
思わずつぶやいた俺の言葉に、玲奈は小さくうなずいた。
「なぎさっていうのは、この夏だけの名前。今だけ自分のことを、なぎさって呼んでみたかったんだと思う。本当は紗月って名前にも、ちゃんと自分があるのにね」
そう言って玲奈はスマホを取り出すと、何かを開いた。
「……インスタ、知ってますか?」
「一応。最後までフォローできなかったけど…」
「全部の投稿に“#Re”ってついてたの、気づいてた?」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
#Re――
空にも、海にも、青にも、ぜんぶに添えられていたタグ。
「紗月って、タグとか普段使わない子だったの。というか、投稿もしないタイプだったんだよね。でも、この夏の投稿には “Re”がついてて、私のことかなって。私、玲奈だから」
「あー、そういうことか」
俺が納得したように言うと、玲奈は小さく首を振った。
「でも、今になって思うと、いろんな意味があったんじゃないかって。“Reply”のRe、返事。“Reminder”のRe、思い出させるもの。“Return”のRe、戻りたい場所。“Remember”のRe――忘れたくない人、みたいな」
一つ一つの言葉が、夜の空気に染み込んでいくようだった。
「……全部、届かなかった返事みたいだったな」
俺の言葉に、玲奈は少し目を伏せた。
「うん。でも、多分、本当は佐久間くんに届いてほしかったんだと思う。いつも言ってた。『本当の自分で、誰かと向き合ってみたい』って」
その誰かが、自分だったのかもしれない……。
ようやく、その可能性に気づいたのに――言葉にできない感情が、胸の中でぐしゃぐしゃに混ざっていった。
手帳には何も描かれていない。けれど、空白のページすべてが、なぎさの声で埋まっている気がした。
言葉を残さなかったんじゃない。言葉にならなかっただけなんだ。
「でも、あの子すごいの。あの学校に行けて、佐久間くんに会えて、あなたのそばにいれて、願いごと一つ一つクリアしていった」
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような空虚さが広がる。
まるで、自分の中の「夏」が、静かに音を立てて崩れていくみたいだった。
「紗月ね、前に入院してた病院で――あなたと、お母さんがすごい剣幕で口論してるのを見たことがあるって」
そういえば、なぎさはその話をしていた。
俺と同じようなことがあるんだなと思ったけれど、俺だったのか。
母の白衣。
無機質な病院の廊下。
泣きながらぶつけた言葉。
「もう頑張れないかもしれない」って訴えたあの夜。
あんな姿を、誰かに見られていたなんて。
玲奈は、俺の反応を見透かしたように、優しく言った。
「たぶん紗月、あのときから……あなたのこと気になってたんだと思います。『あの人も、きっと戦ってる』って」
それを聞いた瞬間、胸の奥にじん、と何かが染みた。
なぎさ――いや、紗月が、ずっと俺を「見てくれていた」という事実が、ようやく現実になって迫ってきた。
名前のない想いが、やっと名前を持った気がした。
玲奈は、少し間を置いて言葉を継いだ。
「それから、ずっとあなたのこと、気にしてたみたい。会ってからは……ますます、ね」
俺は何も言えなかった。
玲奈は少し笑って、でも目元は赤くなっていた。
「佐久間くんといられた夏、すごく幸せだったと思う。たぶん、紗月はちゃんと『自分になれた』って感じてたんじゃないかな」
何か言いたかったけれど、何も言えなかった。
言葉にしたら、全部が嘘になってしまう気がして、手の中の手帳がずしりと重く感じられる。ただ、胸の奥が、じんわりと熱くなる
なぎさは、たしかにここにいた。ずっと笑っていた。
誰にでもわけへだてなく接して、自然に輪の中に入っていく。でも、本当に見せたい顔は、きっと、限られた誰かにしか見せてなかった。
あの青い空の写真たちが、一枚一枚、誰かに向けた返事だったのかもしれない。
俺はそのすべてに、気づけなかったし、気づこうとしなかった。
なぎさが残したものは言葉ではなかった。
でも、それ以上にたしかなものだった。
ずっと考えてた。
でも何もできないまま、時間だけが過ぎていく。
ある日の放課後、教室に残ってスマホをいじっていた咲に声をかけた。
「なあ、なぎさの家……知ってる? 途中まで送ってったことはあるんだけどさ」
咲は、手を止めて俺を見て、少しだけ、表情を曇らせる。
「……行くつもり?」
「行くつもりじゃなくて、行きたいと思ってる」
俺の言葉に、咲はため息をついた。
「……亮平とも言ってたけどさ。あの子、ちゃんと理由も言わずにいなくなったんだよ。もしかしたら、それが答えかもしれないじゃん」
「それでも、俺は……会いたい」
静かな声だった。でも、自分でも驚くくらい、はっきり言えた。
咲はしばらく黙っていたけど、またスマホをいじって、写真を一枚開いた。
「……この投稿さ、知ってるとこだったんだよね。うちの近所のマンションの裏んとこ。覚えてない?」
「いや……
「……ちゃんと話す覚悟、あるなら教える」
「ある」即答した。
すると咲は小さくうなずいて、位置情報を送ってくれた。
「おせっかい、焼いたことにしないでよね」
そう言いながら、どこかほっとしたように笑っていた。
「さんきゅ」
咲が教えてくれたその場所は、駅から少し歩いた静かな住宅街にあった。
細い道を曲がった先にある低層のマンション。4階建てで、白い外壁が少しだけ古びていた。
このあたりはこんなに静かだっただろうか。あのときは全然気づかなかった。
集合ポストを見ると、郵便物とチラシが溜まっているところがあった。名前はわからなかったけれど、きっとここだろう。
インターホンを押しても、応答はない。
オートロックじゃないから、そのまま3階にあがってみる。
表札にも何も書かれていなかった。
けど、ドアの前に、空色の傘が立てかけられていた。
でも、そこに、人の気配はなかった。まるで、何かを置き忘れたまま、誰も取りに来なかったみたいに。
しばらく玄関の前に立ち尽くしていた。
もう何分ここにいるのかわからない。
もしかしたら、ここにはもう、なぎさの夏なんて残っていないのかもしれない――そんな思いが、じわじわと胸を締めつけていく。
諦めて階下に降りていったそのときだった。
「……佐久間くん、だよね?」
ふいに声がして、振り返ると、制服姿の女の子が立っていた。
小柄で、落ち着いた雰囲気がある。初めて見るはずなのに、なぜか少し見覚えがあるような、そんな感覚があった。
「私、小川玲奈といいます。……紗月の中学のときの友達でした」
「……紗月?」
「あ、糸井なぎさって名前は、仮の名前で……。本名は紗月。お姉さんの名前を借りてたの、たぶん、この夏だけは」
息が詰まって、耳の奥がきゅっとなった。知らない言葉が多すぎて、心が追いつけない。
戸惑う俺の表情を見て、玲奈はすぐに続けた。
「ごめんなさい、急にこんなふうに話して……。でも、ずっと……あなたのこと、探してたんだ」
「……俺を? 人違いじゃ?」
すると、彼女はバッグの中から小さな手帳を取り出した。
「ううん。人違いじゃないの。これ、見覚えないかな? 佐久間くんにいつか渡してって言われてて……」
文庫本サイズの、表紙の角が擦れた、見覚えのあるそれだった。
「これ……」
言葉が出なかった。あのとき、教室の机の上でなぎさが指先でなぞっていた、あの手帳だった。
「知ってるかもしれないけど、中はほとんど白紙。でも、最後のページに、あなたの名前が書いてありました」
受け取った手帳の重みが、ずしりと手の中に沈んだ。ページをめくると、本当に何も書かれていなかった。
きれいな白いままのページが続いていたけれど、最後の一枚だけ、鉛筆の薄い文字で俺の名前が書かれていた。
「あの子……紗月……ね、昔から、何かに本気になるのが怖い子だったの。頑張っても、比べられるのが怖い。期待されるのが怖い。だから、あんまり自分のこと、話さなかった」
玲奈の声は静かだったけど、ひとことひとことが丁寧で、温かかった。
「でも、なんで名前……」
「なぎさっていうのは、お姉さんの名前なんだって。すごく自由で、何でも器用にできる人で、アートの道に進んで、今は海外に住んでるらしいの。お姉ちゃんみたいになれたらって、よく言ってた」
「それで……だったんだ」
思わずつぶやいた俺の言葉に、玲奈は小さくうなずいた。
「なぎさっていうのは、この夏だけの名前。今だけ自分のことを、なぎさって呼んでみたかったんだと思う。本当は紗月って名前にも、ちゃんと自分があるのにね」
そう言って玲奈はスマホを取り出すと、何かを開いた。
「……インスタ、知ってますか?」
「一応。最後までフォローできなかったけど…」
「全部の投稿に“#Re”ってついてたの、気づいてた?」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
#Re――
空にも、海にも、青にも、ぜんぶに添えられていたタグ。
「紗月って、タグとか普段使わない子だったの。というか、投稿もしないタイプだったんだよね。でも、この夏の投稿には “Re”がついてて、私のことかなって。私、玲奈だから」
「あー、そういうことか」
俺が納得したように言うと、玲奈は小さく首を振った。
「でも、今になって思うと、いろんな意味があったんじゃないかって。“Reply”のRe、返事。“Reminder”のRe、思い出させるもの。“Return”のRe、戻りたい場所。“Remember”のRe――忘れたくない人、みたいな」
一つ一つの言葉が、夜の空気に染み込んでいくようだった。
「……全部、届かなかった返事みたいだったな」
俺の言葉に、玲奈は少し目を伏せた。
「うん。でも、多分、本当は佐久間くんに届いてほしかったんだと思う。いつも言ってた。『本当の自分で、誰かと向き合ってみたい』って」
その誰かが、自分だったのかもしれない……。
ようやく、その可能性に気づいたのに――言葉にできない感情が、胸の中でぐしゃぐしゃに混ざっていった。
手帳には何も描かれていない。けれど、空白のページすべてが、なぎさの声で埋まっている気がした。
言葉を残さなかったんじゃない。言葉にならなかっただけなんだ。
「でも、あの子すごいの。あの学校に行けて、佐久間くんに会えて、あなたのそばにいれて、願いごと一つ一つクリアしていった」
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような空虚さが広がる。
まるで、自分の中の「夏」が、静かに音を立てて崩れていくみたいだった。
「紗月ね、前に入院してた病院で――あなたと、お母さんがすごい剣幕で口論してるのを見たことがあるって」
そういえば、なぎさはその話をしていた。
俺と同じようなことがあるんだなと思ったけれど、俺だったのか。
母の白衣。
無機質な病院の廊下。
泣きながらぶつけた言葉。
「もう頑張れないかもしれない」って訴えたあの夜。
あんな姿を、誰かに見られていたなんて。
玲奈は、俺の反応を見透かしたように、優しく言った。
「たぶん紗月、あのときから……あなたのこと気になってたんだと思います。『あの人も、きっと戦ってる』って」
それを聞いた瞬間、胸の奥にじん、と何かが染みた。
なぎさ――いや、紗月が、ずっと俺を「見てくれていた」という事実が、ようやく現実になって迫ってきた。
名前のない想いが、やっと名前を持った気がした。
玲奈は、少し間を置いて言葉を継いだ。
「それから、ずっとあなたのこと、気にしてたみたい。会ってからは……ますます、ね」
俺は何も言えなかった。
玲奈は少し笑って、でも目元は赤くなっていた。
「佐久間くんといられた夏、すごく幸せだったと思う。たぶん、紗月はちゃんと『自分になれた』って感じてたんじゃないかな」
何か言いたかったけれど、何も言えなかった。
言葉にしたら、全部が嘘になってしまう気がして、手の中の手帳がずしりと重く感じられる。ただ、胸の奥が、じんわりと熱くなる
なぎさは、たしかにここにいた。ずっと笑っていた。
誰にでもわけへだてなく接して、自然に輪の中に入っていく。でも、本当に見せたい顔は、きっと、限られた誰かにしか見せてなかった。
あの青い空の写真たちが、一枚一枚、誰かに向けた返事だったのかもしれない。
俺はそのすべてに、気づけなかったし、気づこうとしなかった。
なぎさが残したものは言葉ではなかった。
でも、それ以上にたしかなものだった。

