夏祭り当日、なぎさはいつもより少しだけ、静かだった。
みんなの中で笑ってはいたけど、その笑いはどこか、ワンテンポ遅れていた。
昼間はクラスの出店の手伝いで、忙しく動き回っていたけれど、ようやく夜になって、やっと、ふたりきりになれた。
学校からちょっと離れた小さな神社の境内。屋台の明かりも届かない場所で、俺たちはベンチに並んで座った。
「ここ、涼しくていいね」
なぎさが、浴衣の袖をそっと握りながら言った。
「でもちょっと、静かすぎかもな」
「ううん。ちょうどいい」
声は優しかったけれど、それが少しだけ遠くに感じた。
ふいに俺は口を開いた。
「明日の代休、どっか行かない?」
「どっかって?」
「いや、どこでもいいんだけど、映画……とか?」
デートらしいデートをしたことがない俺は発想が貧困だ。イマドキの若者はどこでデートをするんだ?
「夏休みもさ、花火とか海とか? 夏らしいことしたくない?」
なぎさは、すぐには何も言わなかった。数秒の沈黙。その静けさが、妙に長く感じられた。
「……そんな先のこと、わかんないよ」
「なんで? そんな遠くの話じゃないだろ」
「明日のことだって、ううん、5分後のことだってどうなるかわからないのに」
なぎさは、ふと空を見上げた。
夜の空には、花火の音が遠くで鳴っていた。
「しかも……今がちゃんとしてないと、未来の話なんてできないじゃん」
「……今、ちゃんとしてないって、どういう意味?」
なぎさは答える代わりに、スマホをポケットから取り出し、空を一枚、撮った。
指先でフィルターをかけて、数秒、画面を見つめて、そのまま投稿したらしい。
「……もう、青じゃないね」
そう言って、スマホの画面を伏せた。その声があまりにも静かで、俺は何をどう返せばいいかわからなかった。
投稿の中身を、俺はまだ見ていない。いや、フォローしてないから、こっちから見にいかないとだ。でも、なぜかその投稿が、俺へのメッセージみたいに感じられて、胸がざわついた。
帰り道、手をつなぐと、浴衣の袖が風に揺れて、花火の音が遠くでまたひとつ、響いていた。
それでも――心はすれ違ったままだった。
家に帰ると、珍しくキッチンのあかりがついていた。
母が冷蔵庫から何かを取り出し、ドアがゆっくりと閉まる音がした。冷気がわずかにこぼれ、空気がすっと変わる。
「おかえり」
「……ただいま」
母の声は、いつも通りのトーンだった。なのに、今日は少しだけ、それが遠く感じた。
「どうだった? 夏祭り」
聞かれるとは思っていなかった。
いつもは画面ばかり見て、夕飯の時間でさえ会話らしい会話なんてなかったのに。まさか学校の行事を知っているなんて。
「……普通」
冷たい返事をしたつもりはなかったけど、言葉が短くなった。
母が炊飯器のふたを開けると、蒸気がふわっと立ちのぼる。
しゃもじを動かす手は止めず、目線もこちらに向けないままだった。
「おまつり、写真とか……撮った?」
「撮ってない」
「そう」
その一言のあと、また沈黙が落ちた。俺は少しだけ立ち止まった。立ち止まって、何かを言おうかとも思った。
でも、やっぱりやめた。言っても、どうせちゃんと届かない気がしたから。
背中を向けたとき、母の声が落ちてきた。
「……別に、何か話したいことがあるなら、今じゃなくていいから」
「は?」
「今は、あんたの話をちゃんと聞ける自信がないの」
その言葉が、妙にひっかかった。
いつも無関心なくせに、なんでそんなこと言うんだよ。
俺の中で何かが言葉になりかけて――でも、喉の奥で止まった。
「……わかった」
それだけ言って、リビングをあとにした。
階段を上がりながら、さっきの「そう」というひとことがやけに虚しく響いた。
部屋のドアを閉めて、机に置いたスマホを開いた。
フォローしていないなぎさのアカウントを検索する。
さっきの空が投稿されていた。
青くもなく、黒くもなく、ただ滲んだような夜空に、打ち上がった花火がかすかに映っていた。
その下に、こんなキャプションが添えられていた。
「少し先の未来が、こんなに遠いなんて思わなかった」
結局、明日の約束もせず、「もう、青じゃないね」と、さっきなぎさが言った言葉が、改めて意味を持ちはじめる。
週明け、なぎさは学校に来なかった。
メッセージを送っても電話をしても、既読にならない。
その次の日も。
そのまた次の日も、状況は変わらない。
担任に聞いても、「家庭の事情」としか言わなかった。
誰も、理由を知らなかったし、俺以外は――たぶん、誰も異変に気づいていない。
インスタを検索しても、画面は、あの夜のまま止まっていた。
言葉が更新されない画面ほど、人を不安にさせるものはない。
俺はただ、あの夜、つないだ手の温度だけを思い出していた。
体育館の脇を通ったとき、ボールが転がる音が幻聴みたいに聞こえた。
昔の自分が、まだそこにいるような気がして、ドアの前で足が止まる。
「……なぎさ」
声にならない声が喉の奥で渦巻いた。なぎさがいなくなったこの教室は、もう前の自分に戻れないくらい、何かを残していた。
みんなの中で笑ってはいたけど、その笑いはどこか、ワンテンポ遅れていた。
昼間はクラスの出店の手伝いで、忙しく動き回っていたけれど、ようやく夜になって、やっと、ふたりきりになれた。
学校からちょっと離れた小さな神社の境内。屋台の明かりも届かない場所で、俺たちはベンチに並んで座った。
「ここ、涼しくていいね」
なぎさが、浴衣の袖をそっと握りながら言った。
「でもちょっと、静かすぎかもな」
「ううん。ちょうどいい」
声は優しかったけれど、それが少しだけ遠くに感じた。
ふいに俺は口を開いた。
「明日の代休、どっか行かない?」
「どっかって?」
「いや、どこでもいいんだけど、映画……とか?」
デートらしいデートをしたことがない俺は発想が貧困だ。イマドキの若者はどこでデートをするんだ?
「夏休みもさ、花火とか海とか? 夏らしいことしたくない?」
なぎさは、すぐには何も言わなかった。数秒の沈黙。その静けさが、妙に長く感じられた。
「……そんな先のこと、わかんないよ」
「なんで? そんな遠くの話じゃないだろ」
「明日のことだって、ううん、5分後のことだってどうなるかわからないのに」
なぎさは、ふと空を見上げた。
夜の空には、花火の音が遠くで鳴っていた。
「しかも……今がちゃんとしてないと、未来の話なんてできないじゃん」
「……今、ちゃんとしてないって、どういう意味?」
なぎさは答える代わりに、スマホをポケットから取り出し、空を一枚、撮った。
指先でフィルターをかけて、数秒、画面を見つめて、そのまま投稿したらしい。
「……もう、青じゃないね」
そう言って、スマホの画面を伏せた。その声があまりにも静かで、俺は何をどう返せばいいかわからなかった。
投稿の中身を、俺はまだ見ていない。いや、フォローしてないから、こっちから見にいかないとだ。でも、なぜかその投稿が、俺へのメッセージみたいに感じられて、胸がざわついた。
帰り道、手をつなぐと、浴衣の袖が風に揺れて、花火の音が遠くでまたひとつ、響いていた。
それでも――心はすれ違ったままだった。
家に帰ると、珍しくキッチンのあかりがついていた。
母が冷蔵庫から何かを取り出し、ドアがゆっくりと閉まる音がした。冷気がわずかにこぼれ、空気がすっと変わる。
「おかえり」
「……ただいま」
母の声は、いつも通りのトーンだった。なのに、今日は少しだけ、それが遠く感じた。
「どうだった? 夏祭り」
聞かれるとは思っていなかった。
いつもは画面ばかり見て、夕飯の時間でさえ会話らしい会話なんてなかったのに。まさか学校の行事を知っているなんて。
「……普通」
冷たい返事をしたつもりはなかったけど、言葉が短くなった。
母が炊飯器のふたを開けると、蒸気がふわっと立ちのぼる。
しゃもじを動かす手は止めず、目線もこちらに向けないままだった。
「おまつり、写真とか……撮った?」
「撮ってない」
「そう」
その一言のあと、また沈黙が落ちた。俺は少しだけ立ち止まった。立ち止まって、何かを言おうかとも思った。
でも、やっぱりやめた。言っても、どうせちゃんと届かない気がしたから。
背中を向けたとき、母の声が落ちてきた。
「……別に、何か話したいことがあるなら、今じゃなくていいから」
「は?」
「今は、あんたの話をちゃんと聞ける自信がないの」
その言葉が、妙にひっかかった。
いつも無関心なくせに、なんでそんなこと言うんだよ。
俺の中で何かが言葉になりかけて――でも、喉の奥で止まった。
「……わかった」
それだけ言って、リビングをあとにした。
階段を上がりながら、さっきの「そう」というひとことがやけに虚しく響いた。
部屋のドアを閉めて、机に置いたスマホを開いた。
フォローしていないなぎさのアカウントを検索する。
さっきの空が投稿されていた。
青くもなく、黒くもなく、ただ滲んだような夜空に、打ち上がった花火がかすかに映っていた。
その下に、こんなキャプションが添えられていた。
「少し先の未来が、こんなに遠いなんて思わなかった」
結局、明日の約束もせず、「もう、青じゃないね」と、さっきなぎさが言った言葉が、改めて意味を持ちはじめる。
週明け、なぎさは学校に来なかった。
メッセージを送っても電話をしても、既読にならない。
その次の日も。
そのまた次の日も、状況は変わらない。
担任に聞いても、「家庭の事情」としか言わなかった。
誰も、理由を知らなかったし、俺以外は――たぶん、誰も異変に気づいていない。
インスタを検索しても、画面は、あの夜のまま止まっていた。
言葉が更新されない画面ほど、人を不安にさせるものはない。
俺はただ、あの夜、つないだ手の温度だけを思い出していた。
体育館の脇を通ったとき、ボールが転がる音が幻聴みたいに聞こえた。
昔の自分が、まだそこにいるような気がして、ドアの前で足が止まる。
「……なぎさ」
声にならない声が喉の奥で渦巻いた。なぎさがいなくなったこの教室は、もう前の自分に戻れないくらい、何かを残していた。

