夏祭り本番を三日後に控えた放課後。
 美術室の隅で、俺たちは最後の装飾を仕上げていた。さっきまで他のクラスのやつもいたのに、出ていってしまったからとても静かだ。そんな部屋の中で、風がカーテンを揺らしている。
 窓からは西日が差し込み、紙の上の色が少しずつオレンジ色に変わっていく。
 なぎさは筆を手にして、模造紙の中央に青のグラデーションを重ねていた。
 少し前に提案した夏祭りの看板用ロゴ。「校門に飾るから、少し華やかにしよう」と決まったものだった。
「この辺、もう少し色足してもいいかもね」
 なぎさが、迷いながら筆先を動かす。
「任せる。なぎさのセンス、けっこう好きだし。俺、どこ手伝えばいい?」
 その一言に、なぎさの手がふっと止まった。
「……それ、けっこう嬉しいかも」
 そう言って少しだけ笑った横顔が、窓から差す光に照らされている。まつげの影が頬に落ちていて、表情が読みにくかった。
「でもね、実はちょっと怖かったんだ」
「何が?」
「こういうの。描くのは好きなんだけど、大きい絵とか、目立つやつとか……失敗したらどうしようって思うと、手が止まっちゃうことあるの」
「まじで?」俺は、つい聞き返していた。
「うん。びっくりするよね」
 なぎさは笑いながらも、筆の先をじっと見つめていた。
「中学のとき、文化祭のポスター描く係になって、途中まで頑張ってたんだけど……急に体調崩して、完成させられなかったことがあってね。代わりに友達が仕上げてくれたんだけど、あとから、途中までしか描かなかったよねとか言われて。それがすごく嫌だった」
 淡々とした声だったけど、その一言に込められた感情は、すぐに伝わってきた。「それ以来、なんか任されるのがちょっと怖くなったんだ。最後までできなかったら、また誰かに迷惑かけるかもって」
「なのに、よく委員なんてやったな」
「あ、ほんとだ。そうだね。なんでだろ」
 俺はそういうなぎさの横顔を見つめた。
 普段、明るくて何でもこなして見える彼女が、こんなふうに記憶を引きずっていることに少し驚いた。
「……やっぱ、想像つかない」
「でしょ? でも実は私、けっこう小心者だよ?」
 そう言って苦笑する声が、妙にまっすぐに胸に響いた。
 なぎさは首をすくめながらも、筆を置いて、小さなパックジュースを手にした。差し出されたそれを俺も受け取って、しばらく無言で並んで座った。
「中学のとき、途中から体育が見学ばっかになってさ。描くくらいしかできることなかったから、色とか影とか……そういうの、ずっと見てた」
 あくまで平坦な声。でも、その中に言葉にできないものがたくさん渦巻いているのを感じる。
「そういうの……見えるんだな」
 俺は、ふと思ったまま口にしていた。
「ん?」
「影とか、色とか。……そういうのって、気づかないやつはずっと気づかないままだから。だからたぶん、なぎさはちゃんと見てるんだろうなって」
 なぎさは少しだけ驚いた顔をして、それから、ふっと笑った。
「観察魔ですから」
 冗談っぽく返したその言葉の裏に、どこか照れがにじんでいた。
 少しだけ笑いあったあと、二人の間にまた静けさが戻ってきた。
 なぎさがふと手を止めて、完成しつつある看板をスマホで撮影しはじめる。
「何やってんの?」
 俺が聞くと、なぎさは少しだけ照れたように笑った。
「なんか、こうして撮ると、ちゃんと『今』って感じがするんだよね」
「今って?」
「そう。ほら、こういうのって後になったら忘れちゃうでしょ?」
 なぎさはスマホを軽く振りながら、窓から差す夕陽に目を細めた。
「だから、今を忘れないために撮ってるの?」
「うーん、忘れないためっていうより……今をちゃんと味わいたいからかな」
 俺にはその感覚がピンとこなかった。
 そもそも、『今』を味わいたいなんて思ったことがなかった。バスケを辞めてからは特にそうだ。むしろ、いろいろ考えたくない。
「ずっと先のこととか、考えたりしないわけ?」
「ん? あんまり考えないかな。先のこと考え始めると、せっかくの今がもったいない気がするし」
 なぎさはあくまで明るく、さらっと言った。その口調は軽かったけれど、なぜか胸に引っかかった。
「怖くないの? 先のこと考えないで生きるって」
「怖くないよ。むしろ、楽しいんだよ?」
「楽しい?」
「そう、未来のことを考えなくていいから、目の前のことだけに全力になれる。それって、けっこう幸せなことだと思わない?」
 なぎさはそう言って、もう一度、スマホで装飾を撮影した。
 俺は言葉を返せず、ただ彼女の笑顔を見ていた。
 なぎさの明るさはいつも不自然なくらいに真っすぐで、その明るさが、逆に俺の中に小さな不安を生んだ。
 彼女は、なんでこんなに『今』だけにこだわるんだろう?
 一瞬、なぎさがこちらを振り返った。その表情が、ほんの少しだけ儚く見えた気がした。
 けれど、次の瞬間にはまた笑顔に戻り、彼女は再び作業に戻っていった。
 なぎさは視線を紙に戻しながら、さらりと言った。
「でも、佐久間くんに好きって言われたの、たぶん初めてかも」
「え?」
「色のセンスが、だけどね」
 くすっと笑いながら付け加える。
「こういうのって、うまいとか下手とかは言われても……好きって、あんまり言われたことなかったから」
 俺は少し戸惑って、「……そうなんだ」と返すのが精一杯だった。
「うん。だから、けっこう嬉しかった」
 その「嬉しかった」は、どこか遠回しなようで、本当はストレートすぎるほどの気持ちが込められている気がした。
 きっと、「色のセンスが」って言葉を限定したのは、本当の好きまで伝わってしまいそうで、怖かったのかもしれない。
 その言葉が胸にふわりと残ったまま、俺はなぎさの横顔を見つめた。
 窓の外では、風鈴のような鳥の声が一瞬だけ聞こえた。その音が途切れるタイミングで言った。
「俺さ……なぎさのこと、ちゃんと好きだと思う。色のセンスとかじゃなくて」
 なぎさは、驚いたように目を見開いた。
 ほんの一瞬、表情が固まった。
 それから何かを飲み込むように目を伏せ、ふっと笑った。
「……ありがとう」
 その返事だけで、少し肩の力が抜けた。
 けれど、どこか引っかかった。あいつって、もっと軽く笑い飛ばすタイプだと思ってたから。こんなふうに、真顔で「ありがとう」なんて言うとは思わなかった。
 それは、照れたようでもあって、でもどこか、静かな決意を含んだ笑顔だった。「ちゃんと好きって言われたの、人生でたぶん初めてかもしれない。それが樹くんでめっちゃ嬉しい」
 そう言ってなぎさは、そっと机の上の筆を指で押さえた。
「私も……たぶん……ううん、樹くんのこと、好きだと思う」
 俺の口調を真似して言った言葉が、空気の中に落ちて、静かに広がっていった。
「でも、ひとつだけ、約束してくれる?」
「うん」
 なぎさは少し真顔になって、俺から目線をそらさずに言った。
「もし……いつか、いろんなことが変わって、別れるときが来たら――」
 言い淀んでから、ほんの少し笑って続けた。
「そのときは、無理に美しい思い出にしようとしなくていいから。憎んでくれても、忘れてくれても、構わない」
「なんだそれ。もう別れる話かよ」
 俺は笑い飛ばそうとした。
 彼女がそんな言葉をどんな気持ちで言ってるのかを想像するだけで、胸の奥に何かがゆっくり沈んでいった。
 なぎさは、それでも笑っていた。
「いろんなことが変わるかもしれないけど、今日、この夏、この気持ちは、ちゃんと本物だから」
 その声に、少しだけ震えが混じっていた。
 思わず俺は、何も言わずに、青い絵の具のついた彼女の手をそっと取った。言葉より先に、手のひらがつながったことが、たぶん、いちばん大事な答えだった。

 帰り道。
 校門を出たあと、ふたり並んで歩く。
 駅まで続く坂道は、西日のせいでアスファルトがほんのり赤く見えていた。
 なぎさがふと立ち止まって、空を見上げた。
「この季節、好き。空が……ちょっと泣きそうな色してるから」
 声は軽いのに、ぽつりと落ちたその言葉が胸に迫る。
 俺も空を見上げる。淡い雲がひとすじ流れていて、その向こうで光がゆっくりとにじんでいた。
「……泣きそう、か」
「うん。でも、泣くほどじゃない。その手前で、止まってる感じが、なんか好き」
 その言い方が、まるで自分の気持ちをなぞってるようで、俺は何も言えなかった。
 代わりに、また、彼女の手をそっと取った。
 なぎさは、驚いたようにこちらを見る。でも何も言わずに――指先を絡めてきた。
 それだけのことなのに、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。手のひらの温度が、時間の流れまで少しだけゆっくりにした気がした。
 ふたりの手のあいだで、風が通り抜ける。
 涼しいのに、どこか名残惜しい風だった。
 このまま、どこにも行かずに、この空の下で、手をつないだまま時間が止まったら――そんなふうに思ってしまった。
 たぶん、まだ名前もつけられない気持ちが、ようやく形になりはじめていた。
 それが、どんな形なのかはまだわからない。
 でも、今だけは、ちゃんとふたりでいられる気がした。