夏祭りの準備が、本格的に走り出した。
俺たち夏祭り委員は、全体の進行管理と、学校全体の装飾の一部も任されていた。各クラスごとにテーマが配られ、看板や飾りつけの分担が決まったのは、つい先週のことだ。
「で、今年の校門前の看板は、うちら二年が担当ってことで決定……か」
俺が資料をめくりながらつぶやくと、隣でなぎさがふんわり笑った。
「じゃあ、いよいよ大仕事だね」
「去年、アーチ作ったクラスあったけど、あれ地獄だったって言ってたぞ」
「じゃあ、今年は地獄じゃない看板にしようよ。おしゃれで、軽くて、ちょっと映えるやつ。私、考えた」
そう言って、なぎさはホワイトボードのマーカーを手に取り、大まかなデザイン案を描き始めた。
文字の角度やバランスも考えてるのがわかる。
俺はそれを横から見ながら、ふと思う。最初は、ただの明るい転校生だと思ってたんだけどな。
それにしても、夏祭り委員の仕事は、日が経つごとに少しずつ忙しくなっていった。看板案の打ち合わせ、教室の装飾素材のチェック、あとは校門前に設置する巨大パネルの配色会議。
初めてと言ってたわりに、なぎさはどの場面でもいつのまにかみんなの中心にいて、よく気が利いた。「手伝えることある?」と誰よりも早く言うくせに、「無理してない?」と誰かに聞かれると、絶対に「してないよ」と笑っていた。
「やっぱ、佐久間くんと一緒に組むと早いわー」
なぎさが、にやっと笑って言った。
「たまたまだろ」
「嫌?」
「別に」
「そっけなー」
なぎさは肩をすくめて笑ったけれど、別に、もちろん嫌じゃなかった。
なんでだよ。
なんで気づいたら、なぎさと一緒に看板のアイデア出して、準備までしてるんだ?
亮平や咲以外の人と、こんなに長く話したの、いつ以来だっけ?
俺、変わってきてるのか……?
いや、変わってるなぎさと話してるからこうなるのか?
そんな日が続いて、一週間ほど経った金曜日の午後。なぎさが体育の授業を見学していた。
グラウンドの隅にしゃがんで、ひじを膝にのせるようにして座っている。その姿が目に入って、俺はつい、足を止めて見てしまった。
「貧血持ちなんだって。また出ちゃったのかな」
追いついてきた咲が気づき、そのまま「保健室連れていくわ」と走っていった。
本人は、声をかけられる友達に「なんともないよー」と軽く手を振っていたけれど、顔色は、すこしだけ青かった。
授業が終わっても戻ってこなかったから、荷物を持って保健室に向かった。
入ろうとした時、保健の先生のボソボソとした声が聞こえた
「最近、通院の頻度増えてるんじゃない? 無理しちゃダメよ。お母さんも心配してるでしょ」
返事をする声は聞こえない。
立ち聞きしたと思われるのも嫌なので、俺は大きくノックして、「失礼しまーす」と入った。
「おまえさ……か弱いの?」
冗談ぽく聞くと、なぎさは「知らなかった……?」と神妙な顔をして言い、「なーんてね」と笑った。
すると、保健の先生が「荷物持ってきてくれたんなら……そのまま家まで持っていってあげて」と俺に言ってきた。
「え、大丈夫ですけど」というなぎさに、「いいのいいの、佐久間くんよろしくね」と先生は豪快に笑った。
廊下に出ると、なぎさはぴょこぴょこと飛び跳ねるように歩いた。
「病み上がりなんだから、気をつけた方がいいよ」
「なんかいい学校だなーって思って。私、この学校、自分で選んだんだ」
「……え? 転校してきたの親の都合とかじゃないの?」
「ううん、自分で決めた。どうしても会いたい人がいたから――なんてね。ドラマチックすぎ?」
俺の顔をふざけてのぞきこむような表情にドキッとした。
そんなはずないのに。
その翌週の火曜日。
美術室へ向かう階段で、上がりきったところになぎさが立っていた。
声をかけようとすると、手すりに手を添えて、そっと息を整えている。
「どした? 大丈夫か?」
駆け上がってそう声をかけると、なぎさはぱっと振り返って笑った。
「うん。ちょっと暑かっただけ」
そういうなぎさの表情は、どこか無理しているように見えた。
美術室には、装飾用の絵の具がずらりと並べられていた。模造紙の上にマスキングテープで枠をとって、担当の部分を作り始める。
「俺、絵苦手なんだよな」
「私は、本当はもっともっと絵を描きたい」
「描けばいいじゃん」
「……うん、でも絵を描くと残っちゃうから、怖いんだ。あとで見たときに、その時の気持ちとか思い出すでしょ? 今みたいに楽しい気持ちだったらいいけど、後でつらくなったら嫌だから。だから、『今』を楽しんで、何も残さないの」
それを聞いたとき、母の「未来のための犠牲」という発言をなぜか思い出した。
「水持ってくるわ」と立ち上がり、窓の外を見ると、うっすらと夕焼けが出ていた。
「きれいだな」
すると、なぎさも窓の外を見上げた。
「この色、好きなんだー。今の空、こんな感じだよね」
なぎさが、筆で水色と橙を混ぜながら言った。
「……空、好きなんだな」
言ってしまってから、インスタを見ていることがバレないかドキッとしたけれど、なぎさは気づいていないようだった。
「空、見てると落ち着くんだよ。ずっと変わらないようで、変化をしてて」
「そうか? 俺は逆に、落ち着かない、かな」
「なんで?」
「……広すぎて、どこまで行っても終わらない感じがして」
なぎさはしばらく黙って、絵の具を混ぜる手を止めた。その指先が、少しだけ震えている気がした。
「私は……そういうとこが、ちょっと好きかも」
その好きが、どんな意味なのか、うまく聞けなかった。聞いてしまったら、変に意識してしまいそうだったから、やめた。
でも――
あの広すぎて落ち着かない空に、今は、なぎさの横顔が重なるような気がしていた。
数日後の放課後の教室。
夏祭りの装飾準備で机を脇に寄せたあと、買い出ししてきたものを選り分けていた咲と亮平と俺は、話をしながら、教室の後ろにいるなぎさの手元をなんとなく眺めていた。
なぎさは、模造紙に描く装飾の下絵を黙々と描いていた。カラーペンの青が彼女の指先からのびるように、するすると紙の上を走っていく。
咲がぽつりとつぶやいた。
「やっぱり青ばっかり使うんだね」
その声に、亮平がスマホを取り出して、画面を軽くスクロールした。
「インスタ、また更新されてた。……ほら、空、空、また空」
咲がのぞきこみ、少しだけ眉をひそめる。
「この#Reってタグも気になるんだよなー。誰かに宛ててるみたいで。でも何となく聞きにくくて」
「まあ、最近は、意味深っぽいタグ流行ってるからな。意外と昔の親友とかじゃないの」
「そりゃそうだ。あの子、友だち多そうだしね」と咲はそれ以上何も言わず、スマホを閉じた。
俺は、亮平のスマホに残った画面をふと見てしまっていた。
青い空の写真。
まるで昨日も、今日も、同じ空を切り取ったかのような色合い。
そしてその下に、小さく添えられた#Reの文字列。
俺は、なぎさのアカウントをフォローしていない。だから、そこに何が投稿されているかなんて知らなかった。それでも、手帳と同じその文字はなぜか胸にひっかかった。まるで、言葉にならなかった手紙のように。誰かに届くことを願って。
でも返事なんて来なくても、ただ差し出されたままのタグ。そんなふうに見えた。
そのとき、模造紙に顔を近づけていたなぎさが、ふっと顔を上げた。青いペンを持ったまま、少し遠くを見つめていた。
俺は視線を逸らした。そして、なぜだかわからないまま、ポケットの中で自分のスマホをぎゅっと握った。
その日は、夏祭りの準備が予想より早く片づいた。
「なあ、ちょっと飯食って帰らね?」
帰り支度をしていたとき、亮平がそう言ってきた。
「咲は?」
「今日はこのあと部活顔出すって。……たまには、2人だっていいだろ」
「まぁ、いいけど」
久しぶりに男ふたりで帰り、駅前のチェーンのうどん屋に入った。
店内は空いていて、冷房が少し効きすぎていた。
「冷たいぶっかけと、半熟卵天にしよ」
俺も考えるのが面倒くさくて、自分の注文を済ませた亮平に合わせて同じものを端んだ。
一つだけあいていたテーブルに座って向かいあう。
「お前、最近……なぎさと仲いいよな」
「まあ、夏祭りで一緒にやること多いから」
亮平はうどんをずるっとすすってから、少しだけ間を置いて言った。
「……あんま本気になるなよ」
「は?」
「いや、別に悪く言うつもりじゃないんだけどさ。ああいう子って、なんか……近づきすぎると、あとで痛い目見るタイプ、みたいな。いい子だとは思うんだけど」
言葉はやわらかくて、遠回しだった。
でも、心に刺さったのはたぶん、亮平がそれをわざわざ俺に言ったってことの方だった。
「バスケやめてからさ、お前、ちょっと変わったと思ってた」
「……何それ」
「別に、悪い意味じゃないよ。ただ、なんか見てて思った。前は無理して笑ってたとこあったけど、最近は、無理せず沈んでる感じだったからさ」
その言い方は、妙に的確で、俺は返す言葉を探しているうちに、気づけば自分の箸が止まっていた。
亮平が残りの出汁を飲み干して、ふっと笑う。
「……ま、今さらそんな話しても遅い気もするけど。お前、もう気づいちゃってるっぽいし」
「何を」
「それは自分で考えろよ。ごちそうさま」
そう言って帰り支度をはじめたので、俺も慌てて出汁を飲み干した。
「あー、うまかった。ここ、お前のおごりな」
「なんでだよ」
「ごちそーさん」
そう言って、伝票が乗ったトレイを押しつけてくる顔は、いつも通り、どこか面倒くさそうだったけど、妙に優しかった。
帰宅後、シャワーを浴びてからベッドに沈み込んだ。
窓の外では虫が鳴いていて、まだ少し蒸し暑い空気が部屋に残っていた。
スマホを手に取って、何気なくインスタを開く。俺はまだ、なぎさのアカウントをフォローしていない。だけど検索履歴の一番上に、彼女の名前が残っていた。
今日の投稿は、数時間前に上がっていた。
青空。少し角度のついたフレーム。雲が一筋、淡く流れている。
その下には、珍しくなぎさの笑顔が写っていた。光がまぶしくて、目を細めている表情だ。
そこには「今日は大丈夫だったよ」と短いキャプションがある。
……大丈夫って、何が?
誰に向けて言ってるんだ、その言葉。
空に? フォロワーに? 誰かひとりに?
その下に、変わらず“#Re”のタグが添えられていた。何度見ても意味はわからない。でも、なぜか胸の奥に、ぽつんと沈んで残る。
もしかしたら――このタグも、この言葉も、どこにも出せない本音の、置き場所なのかもしれない。
階下に行くと、母は部屋ではなく、定位置で研究らしい論文を読んでいた。
声をかけるでもなく水を飲み、無意識にため息をつくと、母は珍しく顔を上げた。「どうしたの?」
「……いや、ちょっと、クラスのやつが病気っぽくって」
「そう。何の病気なのかしら」
「詳しくはわかんないけど、難病……だったりして?」
自分の分野だからか、母は話に乗ってくる。
「そう……私たち研究者が今頑張ってるのは、そういう病気を治す未来のためよ。お友だちも今は苦しいかもしれないけど、いつか必ずよくなる」
「……でもさ、今が辛かったら、未来まで待てないだろ」
母は少し考えるような表情になった。
「でもね、今だけを見てたら、未来は変えられない。誰かが未来を作らないと」
そのまま淡々と論文に視線を戻す。
母はいつも未来しか見ていないのかもしれない。今、この一瞬を楽しもうとするなぎさとは逆だ。
そのまま部屋に戻るとまた、スマホが目に入る。
投稿を閉じているのに、彼女の笑顔が、まぶたの裏に焼きついたままだった。
好きって、なんなんだろう。
まだ名前をつけられない気持ちが、静かに、でも確実に、俺の中で形になろうとしていた。
俺たち夏祭り委員は、全体の進行管理と、学校全体の装飾の一部も任されていた。各クラスごとにテーマが配られ、看板や飾りつけの分担が決まったのは、つい先週のことだ。
「で、今年の校門前の看板は、うちら二年が担当ってことで決定……か」
俺が資料をめくりながらつぶやくと、隣でなぎさがふんわり笑った。
「じゃあ、いよいよ大仕事だね」
「去年、アーチ作ったクラスあったけど、あれ地獄だったって言ってたぞ」
「じゃあ、今年は地獄じゃない看板にしようよ。おしゃれで、軽くて、ちょっと映えるやつ。私、考えた」
そう言って、なぎさはホワイトボードのマーカーを手に取り、大まかなデザイン案を描き始めた。
文字の角度やバランスも考えてるのがわかる。
俺はそれを横から見ながら、ふと思う。最初は、ただの明るい転校生だと思ってたんだけどな。
それにしても、夏祭り委員の仕事は、日が経つごとに少しずつ忙しくなっていった。看板案の打ち合わせ、教室の装飾素材のチェック、あとは校門前に設置する巨大パネルの配色会議。
初めてと言ってたわりに、なぎさはどの場面でもいつのまにかみんなの中心にいて、よく気が利いた。「手伝えることある?」と誰よりも早く言うくせに、「無理してない?」と誰かに聞かれると、絶対に「してないよ」と笑っていた。
「やっぱ、佐久間くんと一緒に組むと早いわー」
なぎさが、にやっと笑って言った。
「たまたまだろ」
「嫌?」
「別に」
「そっけなー」
なぎさは肩をすくめて笑ったけれど、別に、もちろん嫌じゃなかった。
なんでだよ。
なんで気づいたら、なぎさと一緒に看板のアイデア出して、準備までしてるんだ?
亮平や咲以外の人と、こんなに長く話したの、いつ以来だっけ?
俺、変わってきてるのか……?
いや、変わってるなぎさと話してるからこうなるのか?
そんな日が続いて、一週間ほど経った金曜日の午後。なぎさが体育の授業を見学していた。
グラウンドの隅にしゃがんで、ひじを膝にのせるようにして座っている。その姿が目に入って、俺はつい、足を止めて見てしまった。
「貧血持ちなんだって。また出ちゃったのかな」
追いついてきた咲が気づき、そのまま「保健室連れていくわ」と走っていった。
本人は、声をかけられる友達に「なんともないよー」と軽く手を振っていたけれど、顔色は、すこしだけ青かった。
授業が終わっても戻ってこなかったから、荷物を持って保健室に向かった。
入ろうとした時、保健の先生のボソボソとした声が聞こえた
「最近、通院の頻度増えてるんじゃない? 無理しちゃダメよ。お母さんも心配してるでしょ」
返事をする声は聞こえない。
立ち聞きしたと思われるのも嫌なので、俺は大きくノックして、「失礼しまーす」と入った。
「おまえさ……か弱いの?」
冗談ぽく聞くと、なぎさは「知らなかった……?」と神妙な顔をして言い、「なーんてね」と笑った。
すると、保健の先生が「荷物持ってきてくれたんなら……そのまま家まで持っていってあげて」と俺に言ってきた。
「え、大丈夫ですけど」というなぎさに、「いいのいいの、佐久間くんよろしくね」と先生は豪快に笑った。
廊下に出ると、なぎさはぴょこぴょこと飛び跳ねるように歩いた。
「病み上がりなんだから、気をつけた方がいいよ」
「なんかいい学校だなーって思って。私、この学校、自分で選んだんだ」
「……え? 転校してきたの親の都合とかじゃないの?」
「ううん、自分で決めた。どうしても会いたい人がいたから――なんてね。ドラマチックすぎ?」
俺の顔をふざけてのぞきこむような表情にドキッとした。
そんなはずないのに。
その翌週の火曜日。
美術室へ向かう階段で、上がりきったところになぎさが立っていた。
声をかけようとすると、手すりに手を添えて、そっと息を整えている。
「どした? 大丈夫か?」
駆け上がってそう声をかけると、なぎさはぱっと振り返って笑った。
「うん。ちょっと暑かっただけ」
そういうなぎさの表情は、どこか無理しているように見えた。
美術室には、装飾用の絵の具がずらりと並べられていた。模造紙の上にマスキングテープで枠をとって、担当の部分を作り始める。
「俺、絵苦手なんだよな」
「私は、本当はもっともっと絵を描きたい」
「描けばいいじゃん」
「……うん、でも絵を描くと残っちゃうから、怖いんだ。あとで見たときに、その時の気持ちとか思い出すでしょ? 今みたいに楽しい気持ちだったらいいけど、後でつらくなったら嫌だから。だから、『今』を楽しんで、何も残さないの」
それを聞いたとき、母の「未来のための犠牲」という発言をなぜか思い出した。
「水持ってくるわ」と立ち上がり、窓の外を見ると、うっすらと夕焼けが出ていた。
「きれいだな」
すると、なぎさも窓の外を見上げた。
「この色、好きなんだー。今の空、こんな感じだよね」
なぎさが、筆で水色と橙を混ぜながら言った。
「……空、好きなんだな」
言ってしまってから、インスタを見ていることがバレないかドキッとしたけれど、なぎさは気づいていないようだった。
「空、見てると落ち着くんだよ。ずっと変わらないようで、変化をしてて」
「そうか? 俺は逆に、落ち着かない、かな」
「なんで?」
「……広すぎて、どこまで行っても終わらない感じがして」
なぎさはしばらく黙って、絵の具を混ぜる手を止めた。その指先が、少しだけ震えている気がした。
「私は……そういうとこが、ちょっと好きかも」
その好きが、どんな意味なのか、うまく聞けなかった。聞いてしまったら、変に意識してしまいそうだったから、やめた。
でも――
あの広すぎて落ち着かない空に、今は、なぎさの横顔が重なるような気がしていた。
数日後の放課後の教室。
夏祭りの装飾準備で机を脇に寄せたあと、買い出ししてきたものを選り分けていた咲と亮平と俺は、話をしながら、教室の後ろにいるなぎさの手元をなんとなく眺めていた。
なぎさは、模造紙に描く装飾の下絵を黙々と描いていた。カラーペンの青が彼女の指先からのびるように、するすると紙の上を走っていく。
咲がぽつりとつぶやいた。
「やっぱり青ばっかり使うんだね」
その声に、亮平がスマホを取り出して、画面を軽くスクロールした。
「インスタ、また更新されてた。……ほら、空、空、また空」
咲がのぞきこみ、少しだけ眉をひそめる。
「この#Reってタグも気になるんだよなー。誰かに宛ててるみたいで。でも何となく聞きにくくて」
「まあ、最近は、意味深っぽいタグ流行ってるからな。意外と昔の親友とかじゃないの」
「そりゃそうだ。あの子、友だち多そうだしね」と咲はそれ以上何も言わず、スマホを閉じた。
俺は、亮平のスマホに残った画面をふと見てしまっていた。
青い空の写真。
まるで昨日も、今日も、同じ空を切り取ったかのような色合い。
そしてその下に、小さく添えられた#Reの文字列。
俺は、なぎさのアカウントをフォローしていない。だから、そこに何が投稿されているかなんて知らなかった。それでも、手帳と同じその文字はなぜか胸にひっかかった。まるで、言葉にならなかった手紙のように。誰かに届くことを願って。
でも返事なんて来なくても、ただ差し出されたままのタグ。そんなふうに見えた。
そのとき、模造紙に顔を近づけていたなぎさが、ふっと顔を上げた。青いペンを持ったまま、少し遠くを見つめていた。
俺は視線を逸らした。そして、なぜだかわからないまま、ポケットの中で自分のスマホをぎゅっと握った。
その日は、夏祭りの準備が予想より早く片づいた。
「なあ、ちょっと飯食って帰らね?」
帰り支度をしていたとき、亮平がそう言ってきた。
「咲は?」
「今日はこのあと部活顔出すって。……たまには、2人だっていいだろ」
「まぁ、いいけど」
久しぶりに男ふたりで帰り、駅前のチェーンのうどん屋に入った。
店内は空いていて、冷房が少し効きすぎていた。
「冷たいぶっかけと、半熟卵天にしよ」
俺も考えるのが面倒くさくて、自分の注文を済ませた亮平に合わせて同じものを端んだ。
一つだけあいていたテーブルに座って向かいあう。
「お前、最近……なぎさと仲いいよな」
「まあ、夏祭りで一緒にやること多いから」
亮平はうどんをずるっとすすってから、少しだけ間を置いて言った。
「……あんま本気になるなよ」
「は?」
「いや、別に悪く言うつもりじゃないんだけどさ。ああいう子って、なんか……近づきすぎると、あとで痛い目見るタイプ、みたいな。いい子だとは思うんだけど」
言葉はやわらかくて、遠回しだった。
でも、心に刺さったのはたぶん、亮平がそれをわざわざ俺に言ったってことの方だった。
「バスケやめてからさ、お前、ちょっと変わったと思ってた」
「……何それ」
「別に、悪い意味じゃないよ。ただ、なんか見てて思った。前は無理して笑ってたとこあったけど、最近は、無理せず沈んでる感じだったからさ」
その言い方は、妙に的確で、俺は返す言葉を探しているうちに、気づけば自分の箸が止まっていた。
亮平が残りの出汁を飲み干して、ふっと笑う。
「……ま、今さらそんな話しても遅い気もするけど。お前、もう気づいちゃってるっぽいし」
「何を」
「それは自分で考えろよ。ごちそうさま」
そう言って帰り支度をはじめたので、俺も慌てて出汁を飲み干した。
「あー、うまかった。ここ、お前のおごりな」
「なんでだよ」
「ごちそーさん」
そう言って、伝票が乗ったトレイを押しつけてくる顔は、いつも通り、どこか面倒くさそうだったけど、妙に優しかった。
帰宅後、シャワーを浴びてからベッドに沈み込んだ。
窓の外では虫が鳴いていて、まだ少し蒸し暑い空気が部屋に残っていた。
スマホを手に取って、何気なくインスタを開く。俺はまだ、なぎさのアカウントをフォローしていない。だけど検索履歴の一番上に、彼女の名前が残っていた。
今日の投稿は、数時間前に上がっていた。
青空。少し角度のついたフレーム。雲が一筋、淡く流れている。
その下には、珍しくなぎさの笑顔が写っていた。光がまぶしくて、目を細めている表情だ。
そこには「今日は大丈夫だったよ」と短いキャプションがある。
……大丈夫って、何が?
誰に向けて言ってるんだ、その言葉。
空に? フォロワーに? 誰かひとりに?
その下に、変わらず“#Re”のタグが添えられていた。何度見ても意味はわからない。でも、なぜか胸の奥に、ぽつんと沈んで残る。
もしかしたら――このタグも、この言葉も、どこにも出せない本音の、置き場所なのかもしれない。
階下に行くと、母は部屋ではなく、定位置で研究らしい論文を読んでいた。
声をかけるでもなく水を飲み、無意識にため息をつくと、母は珍しく顔を上げた。「どうしたの?」
「……いや、ちょっと、クラスのやつが病気っぽくって」
「そう。何の病気なのかしら」
「詳しくはわかんないけど、難病……だったりして?」
自分の分野だからか、母は話に乗ってくる。
「そう……私たち研究者が今頑張ってるのは、そういう病気を治す未来のためよ。お友だちも今は苦しいかもしれないけど、いつか必ずよくなる」
「……でもさ、今が辛かったら、未来まで待てないだろ」
母は少し考えるような表情になった。
「でもね、今だけを見てたら、未来は変えられない。誰かが未来を作らないと」
そのまま淡々と論文に視線を戻す。
母はいつも未来しか見ていないのかもしれない。今、この一瞬を楽しもうとするなぎさとは逆だ。
そのまま部屋に戻るとまた、スマホが目に入る。
投稿を閉じているのに、彼女の笑顔が、まぶたの裏に焼きついたままだった。
好きって、なんなんだろう。
まだ名前をつけられない気持ちが、静かに、でも確実に、俺の中で形になろうとしていた。

