母のまわりには、いつも無音の時間が流れている。
 白衣がかけられた椅子。研究論文が無造作に積まれた机。微かに冷房の効いた空気。その空気を吸い込むたびに、何か言いかけても、言葉を飲み込んでしまう。
 母は大学の研究所で、がんや希少疾患の治療薬の開発に関わっている。
 テレビで見るような人の命を救う仕事を、現実にやっている人だ。
 たぶん、立派なんだろう。でも俺にとって母は、ずっと、ここにいない人だった。

 家にいても、母の姿は見えなかった。
 冷蔵庫に貼られた「ごはんチンしてね」のメモが、母の気配そのものみたいで。音がしない、においもしない――そんな生活だけが残されていた。
 だから、小学生の頃から、バスケだけが俺の居場所だった。バスケをやっている時間だけは、孤独じゃなかった。
 試合の日は、父がいつも応援に来てくれた。目が合うとにやっと笑って親指を立てる。それが、当時の俺にとっては、世界でいちばんの励ましだった。
 中学に入ってからも、ずっとバスケにのめり込んでいた。
 でも、体が大きくなるにつれてバランスが取れなくなり、ケガが重なりはじめた。
 捻挫、打撲、軽い肉離れ。無理して練習を続けて、試合を棒に振ったこともある。
 それでも、自分にとって唯一だったものを、手放す決断は簡単じゃなかった。

 でも、結局、高1の終わり、俺はバスケ部を辞めた。
 ずっと悩んでいたけれど、最後の試合に出られなかったあの日、もう、いろんなことが無理だと感じた。
 怪我が治っても、気持ちの方が戻らなかった。コートに立っても、以前のように熱くなれなかった。

 リビングのテレビはついていたけれど、誰もそれを見ていなかった。
 母は自分の部屋ではなく、ダイニングとリビングの間の定位置でパソコンを開き、なにかの論文の英語をスクロールしていた。
 父はいつものようにソファで、湯気の立つマグカップを手にしながら、古い文庫本を読んでいた。
 母がぼそりと言った。
「明日も朝から出るから。洗濯物、お願いね」
 目線はずっと画面に貼りついたままだ。
「……バスケ、辞めた」
 キーボードを打つ手が止まる。けれど、母は顔を上げなかった。
「怪我が長引いてるの?」
「……違う。もう、頑張る意味がわかんなくなった」
 それでも、母はモニターから目を離さない。
「……気持ちはわかる。お母さんも頑張る意味がわからなくなることある。けど、研究ってね、それを理由に止められないの。一度止まったら、助けられたかもしれない命が、消えるかもしれないから」
 その言葉は、まるで俺の話じゃなかった。「命」という言葉が出てきたのに、そこに俺はいないような気がした。
「やる意味なんて、自分で決めていいもんだろ」
 今度は父が、本から顔を上げることなく、つぶやいた。
「続けたくて無理するなら、やめるのもアリだって、前から思ってたよ。今の樹の気持ちが大切なんだよ」
 母は反応を見せなかった。
 ほら、こういうとこ。
 もう何も考えたくなくなる。
 自分の部屋のドアを閉めたとき、何かが小さく潰れた音がした。
「頑張る意味がわからなくなった」と言ったその言葉が、静かに自分を空にしていく。
 本当は、誰かに止まってほしかった。
 ちゃんとこっちを見て、「無理しなくていいよ」「一緒に考えよう」って言ってほしかった。けれど、現実的な父、未来しか見ていない母との間で、俺はいつも、どこかで止まったままでいる気がしていた。

 夏祭りの委員会が終わったのは、放課後のチャイムからだいぶ経った頃だった。
 教室の窓にはすでに夕日が射し込んでいて、床を斜めに染めている。
 ポスター案や備品リストをざっくり確認して、担任に提出してから、ようやく解散が告げられた。
 校舎を出ると、気づけば、なぎさとふたりきりだった。
「帰り、こっち?」
 なぎさが自然に俺の歩調に合わせてきた。
「うん。……そっちは?」
「似たような方向。まわり道だけど、気にしない」
 夕方の風が少し涼しくなってきていて、俺たちは並んで歩きながら、袋の中の資料を揺らしていた。
「ねえ、さっきの買い出しリスト。あれ、色分けしてくれたの、糸……そっち?」
「え? 聞こえなーい」となぎさは俺の顔を覗き込む。いまだに彼女の名前を呼んだことがないからだ。
「う。……な……ぎさ?」
「よろしい」と満足げに笑うと、なぎさは続けた。
「そう。みんなわりと、誰が何買うか混乱してたから。ちょっとでもわかりやすくなればいいなと思って」
「気が利くじゃん」
「ふふん、観察魔ですから」
 そう言って笑うなぎさの顔が、夕日に少し照らされていた。
「でも、こういうの、昔だったら絶対やらなかっただろうなぁ」
 なぎさが、笑いながらぼそっと言った。
「意外。ちゃんとやってそうに見えるけど」
「でしょ? でも、だいぶ性格変わったんだよね。あるときから、空気読むっていうか、周り見るようになった」
「何かきっかけでもあったの?」
「んー……なんかね、病院の中庭でさ、親子が口論してるのを見たことがあって」
 俺は少しだけ足を止めた。
「すごく大きなジェスチャーで、でも声は聞こえなくて。一瞬だったけど……あの光景、今でもすごく印象に残ってるんだよね」
「へえ……それって、最近のこと?」
「ううん、少し前」
「そっか……」
「知ってる? 病院って、不思議なんだよ。音はないのに、感情だけはガラス越しに伝わってくる」
 言いながら、なぎさは空を見上げた。何かを見ているような、何かを懐かしむような横顔だった。
 俺はまた、「へえ」とだけ返したけど、心のどこかがざわついた。
 なぎさが言った親子の口論という状況に、自分の家の風景がかすかに重なった。
「……なんか、ウチみたい」
「え?」
「ちょっと面倒なんだ」
 気づけば、俺も口を開いていた。
「うん?」
「母親が研究者でさ。家にいても、会話ほとんどないし。父親は……まあ、一応いるけど、なんかバランスとってるだけって感じ。口論こそしないけどね」
「そっか」
 それだけ言って、なぎさは何も聞いてこなかった。
 でもそのあと、「ちょっと待って」と言って、リュックからペットボトルを一本取り出して、俺に手渡してきた。
「じゃあさ。寂しくなったら、夏祭りの準備をしよう。で、何をするか一緒に考えよう。はい、これあげる」
「なんだよそれ」と思わず笑ってしまった。
 ペットボトルの重みが、少しだけ心を温かくした。
「そういうとこ、ちゃんと見てるんだな」
「だから観察魔だって言ったじゃん」
「自分で言うか?」
「先に言われたらなんか負けた気がするから」
 バスケを辞めてから初めて、心がほどけた気がした。
 そんな会話のひとつひとつが、自分の中に積もっていた誰にも言えなかったものを、少しずつ溶かしていくような感じがした。