夏祭りの準備が、本格的に動きはじめた。
 俺が前に出て進行し、それをなぎさが黒板に記入していく。
 意外にも、クラスの出し物は、「レモネードスタンド」と「フォトブース」の組み合わせにしようとすんなり決まった。
 色とりどりのレモネードを販売して、買ってくれた人はチェキ風のフォトブースで写真が撮れる。そして、カップを持って笑う瞬間を、「写ルンです」で一枚。希望者にはあとで現像して手渡す予定だ。
 ひとまずフォトブース組と、スタンドを作る組に分かれる。
 準備が始まると、教室にはガムテープのちぎれる音や、ラメシールの袋を開ける音、誰かの笑い声があちこちで混ざり合った。
 なぎさは、そうした雰囲気に自然ととけ込んでいた。誰にでもやわらかく声をかけて、すっと輪の中に入っていくタイプだ。でも、それが「無理してる」とか「あざとい」という感じではなくて、ただ、ごく当たり前にそこにいる――そんなふうに見えた。
「すごいな、なぎさ。どこでもすぐなじめるタイプっていうか」
 準備の合間、咲がペンを回しながらぽつりと言った。
「でも、ちゃんと自分は出してない気がしね?」
 亮平が手を止めて、のりづけした画用紙を見つめながら言う。
「たぶん、周りをよく見てるんだと思う。ああ見えて、人との間に線引いてる感じ、するしね。でもすごい」
 咲はしきりに感心している。
 俺は彼らの会話には加わらず、教室の後ろで、窓ぎわに置かれた机の上を見つめていた。
 そこに、なぎさの手帳が置かれている。文庫本くらいのサイズの例のやつ。古びているけど丁寧に扱われているのがわかる。
 今日も、なぎさはずっとそれをそばに置いていた。夏祭りのアイデアをメモするためかと思っていたけれど、ページが開かれる気配はない。まるで、持っていることに意味があるみたいに、閉じられたまま、静かにそこにあった。
 
 夏祭りの準備も中盤にさしかかって、フォトブースの装飾がほぼ完成した。
 背景には青と白の布、紙吹雪風のライト、星形のガーランド。 
 クラスの何人かが試し撮りをはじめた。チェキで撮って、壁に貼ってみたり、カップを持って撮ったり。
 にぎやかな声が飛び交う中で、誰かがなぎさに声をかけた。
「なぎさちゃんも一緒に撮らない? 映え担当としてバッチリじゃない?」
 女子のひとりが声をかけると、なぎさは一瞬笑って、手を振った。
「ううん、私はいいや。写るの、ちょっと苦手で」
 なぎさは苦笑して、軽く手帳を抱き直すようにして立ち上がった。
「えー、もったいない。絶対かわいく撮れるのに」
「ほんと、なぎさちゃんこそモデルになれるよ」
 そんな声にも、なぎさはいつもの調子で笑って首をふる。
「見るのとか撮るのは大好きだけど、自分はなんか……そこにはまってるのが落ち着かないっていうか」
 それは少し変わった理由だった。
「そうなんだー」
 なぎさにとって、何かを残すってことは、誰かにとっての普通とは、少し意味がちがうのかもしれない。
 それ以上は誰も強く言わず、場は自然と別の話題に移っていった。

 放課後、担任に言いつけられた用事をすませて教室へ戻ると、なぎさがまだ席にいた。夕方の光が斜めに差し込んでいる机の上には、あの手帳が置かれている。
 自分の席に戻ろうとすると、窓際のなぎさの机の上で手帳のページが微かに風に揺れていた。その瞬間、偶然、開いたページに書かれた文字をとらえた。
 手帳のページには、小さな文字で『Re』というタグと、『バケット1完了』という短い一文が書かれていた。樹がその文字に目を止めていると、なぎさが気づき、慌てて手帳を閉じた。
「あ、見た……?」
「え、いや、ごめん。別に……ちゃんとは見てないけど」
 なぎさはほんの少しだけ困ったように笑って、手帳をぎゅっと抱きしめた。
「ごめん、ちょっと恥ずかしくて。日記みたいなやつだから」
「うん……ごめん」
 結局、何も聞けずに席に戻ったが、頭の中には今見えた言葉が引っかかっていた。
 Reって、なんだろう?  バケットって? 
 でも、なぎさはもうそれ以上手帳を開かなかった。
 夕陽が差す教室で、二人の間に小さな沈黙が落ちた。
「……なあ、それ、予定とか書いてないの?」
 俺は無意識に声をかけていた。
 なぎさは顔をあげ、一瞬きょとんとして、それから手帳をそっと閉じた。
「ううん、あんまり。持ってるだけで落ち着くっていうか」
「記録とかもしないのか。さっき、日記みたいなって……」
 追いかけるように言った自分に、少しだけ驚いた。
 なぎさが少しだけ見せた笑顔は、昼間みんなと話しているときよりも、ずっと静かだった。
「覚えておきたいことほど、書きたくないんだよね」
 ぽつりと、そう言った。
 たったそれだけの言葉なのに、妙に引っかかった。
 大事なことって、言葉にした途端に消えてしまいそうになる――そんなふうにも聞こえた。
「へえ……変わってんな」
 俺がそう言うと、なぎさは「よく言われる」と小さく笑った。
 笑顔なのに、どこか遠くを見ているようだった。

 数日後の昼休み、咲がスマホを手に近づいてきた。
 今日のなぎさは家庭の事情とやらで学校を休んでいる。
「ねえ、見た? なぎさのインスタ、また更新されてる」
 画面を差し出されて、思わずのぞき込むと、そこには、相変わらずの「青」が並んでいた。
 空、海、また空。
 角度や光の加減は違うけれど、どれも、まるで誰かの記憶の中の風景のようだ。
「あの子、本当に青が好きなんだね」
「そうみたいだな」
 投稿には短いキャプションだけが添えられていた。
 《今日の空も、ちゃんと青かった。#sky #light #Re》
 また、「Re」がある。あの手帳に書かれていた文字だ。
「なあ、“Re”って何だと思う?」
「さあ……」と咲が首をかしげる。
「“Reply”とかかな? 気づいたらずっとこのタグ使ってるんだよね」
「なんだろな」
 なぎさの見せる青は、たしかにきれいだ。
 でも、きれいに切り取られた世界にあるのは、ただ撮っているだけではなく、残すための景色という、そんな印象があった。
 なのに、手帳は白紙に近い。
「書かない」ことで刻もうとしているものと、「残す」ための投稿。そのふたつの間にある何かが、まだうまく言葉にならないまま、俺の中に残っていた。

 翌朝、いつもより少し早く教室に入ると、なぎさがひとりで教卓のあたりを探っていた。
「あ……樹くん。おはよう」
「おす」
 彼女が顔を上げて、紙を一枚ひらひらと持ち上げる。
「これって樹くんのだよね?」
 それは、俺がメモ代わりに書いておいた祭りの段取り表だった。昨日の準備中にどこかに置きっぱなしにしていたのかもしれない。
「さんきゅー」
 受け取った紙は、しわくちゃになっていたけど、字はちゃんと読めた。
 ちょうどその時、咲が教室に入ってきた。顔を見るなり、なぎさに声をかける。「なぎさ、いたいた。この前、ほんと助かった。ありがとね」
 なぎさは、きょとんとした顔で咲を見る。
「え? 私、なんかしたっけ?」
「うん。だってさ、ポスター係と買い出し係の連絡がごっちゃになってたの、気づいてくれたでしょ? あれ、私たぶん気づかずに突っ走ってたら、いろいろ大変なことになってた」
「ああ……でも、あれはたまたま。私がメモとってただけで」
 なぎさはちょっと照れたように笑う。
「あと、莉子がちょっと拗ねてたときもさ、意見聞いた方がいいかもってこっそり言ってくれたでしょ」
 咲の声は、ほんの少しだけ照れくさそうだった。
「こんな言い方、上から目線かもしれないけど……なぎさ、ほんと気が利くし、空気読める子だなって思った」
 なぎさは手帳を抱き直しながら、ほっとしたように笑った。
「よかった。なんか、自分が出しゃばっちゃダメな気がしてたから」
 咲の表情がふっとやわらいだ。
「ねえ、今度さ、よかったら一緒にカフェでも行かない? 樹とか亮平も一緒でよければ」
「え? 俺?」
「え? いいの?」
 俺となぎさの言葉がかぶったけれど、咲はなぎさを優先させた。
「もちろん。あ、樹のおごりでね。うちら、わりと腹割って話すタイプだから、油断すると怖い先輩枠って思われがちなんだよね」
 ふたりは目を合わせて、笑いあっていた。
 その笑いは、まだ少しぎこちなかったけれど、確かに近づいていた。
 それを見て、俺はちょっと意外だった。一匹狼の咲だけど、意外とちゃんと向き合えるやつなんだなと、素直に思った。そしてなぎさも、あの手帳の白紙のページの奥で、少しずつ、この教室の空気に触れながら、書かないままの何かを、心に残そうとしているのかもしれない。もしかしたら、心の底の部分で咲と共通するところがあるのかもしれない。
 昨日、スマホで見たなぎさのインスタの横顔。
 たぶん、あの青は、見せかけだけじゃない。
 本当に空が青かった日を、本当に誰かと笑っていた時間を、忘れたくないから見せている――そんな気がした。