翌朝、前々から予告されていた夏祭りの委員決めがあった。
 そんなのやるモノ好きがいるのだろうか。
「じゃあ、夏祭りの実行委員、立候補いるか〜? せっかくだから立候補の方がいいぞ〜」
 担任のゆるい呼びかけに、教室の空気が止まる。
 誰も手を挙げず、咳払いひとつ聞こえない。みんな息を止めているかのようだ。
 そんななか、すっと前の方で手が挙がった。
「誰もいないなら……」
 なぎさだった。
「よくわからないことも多いと思うけど、やってみたいです」
 まっすぐ前を見ている。発言とは裏腹に、その横顔は少し緊張しても見えた。
「おぉ、ありがとう。頼むな」と担任は言って、教室を見渡す。
「できればもうひとり! 男子でも女子でもいいぞ」
 そのとき。後ろから亮平が、いつもの調子で声をひそめる。
「なあ、樹、シャツ、脇んとこ……穴、あいてね?」
「え、まじ?」
「さっき腕伸ばしたとき、見えた気がして……それ、ちょっとやばくね?」
 思わず脇のあたりを手で確かめた瞬間――「おっ、佐久間、やってくれるか」と、担任の声が重なった。
「え?」
 今の、手、挙げたことになってた?
「ちょ、待ってよ。違うって」
 慌てて否定したのに、担任は満足そうな顔をしているし、みんなも安堵したように教室が少しざわつく。
「はい、第二波爆誕!」と亮平が小さく拍手を送ってくる。
「そういうことか」と咲は呆れている。
 なぎさが少しだけ振り返った時、目が合った気がした。
 いや、気のせいかもしれないけど、その目はたぶん、ちょっとだけ笑っていた。

 いつも昼メシは抜くけれど、珍しく購買の列に並んでいると、オレンジゼリーが目に入った。昨日、屋上でなぎさが食べていたやつだ。
 なんとなく手に取って、でもやっぱり……と棚に戻したとき、「おいしいのに」と声がした。思わずビクッとして振り返ると、いつのまにかなぎさが立っていた。
 空耳じゃなくてよかったと内心ほっとしていると、「委員、よろしくね」とニコッと笑った。
「……ああ、うん」
 返事がぎこちなくなったのは、自分の意志で手を挙げたわけじゃないから。なのに、なぎさはそんなことお構いなしに、むしろ少し嬉しそうだった。
「こういうの、初めてだから。夏祭りの準備とか、ちょっと楽しみ」
 正直、俺は「面倒くさいな」としか思っていなかった。なのに、なぎさの「楽しみ」という言葉が、妙に真っすぐで、気づいたら、口が動いていた。
「糸井さん……なんで、立候補したんだ?」
 すると、なぎさは空を見上げるようにして、少し間を置いて答えた。
「うーん……なんか、そういうのって、今しかできない気がして」
「へー」
 彼女の声は明るかったけれど、聞き流せない感じがして、心に引っかかる。
「っていうか、なぎさって呼んでほしいのに」
 最近の俺は、咲と亮平以外とまともに話すことなんてなかった。なのに、なぎさは、何の前ぶれもなく、すんと入ってきた。
 不思議だった。
 違和感がないのが、いちばんの違和感だった。

 咲と一緒に帰るのは久しぶりだ。部活がオフらしく、靴を履き替えて出てきた咲は、何のためらいもなく俺の隣に並んだ。
「ね、買い物つきあってくんない?」
「なんで」
「はい、決まりー」
 咲は俺の返事も聞かずに、さっさと決めた。
 咲とは、そういう距離感だ。小学校のころからのつき合いで、何かを説明しなくても通じる相手。周りは今さら感があるからか、付き合ってるとからかわれることもない。それが、気楽だった。
 駅で電車を待っている時、そういえば、と咲が言って、スマホを差し出してきた。「ねえ、これ。なぎさのインスタなんだけど、もう発見されてるっぽいよ。何人かフォローしてる」
 画面には、空、海、また空――とにかく明るい青い写真が並んでいた。
 どれも光の加減がきれいで、風が写っているみたいだ。
 その中に、時々なぎさがいる。手を伸ばして空をつかもうとしている。
 風に髪がなびいて、まるでCMのワンシーンのようだった。
「なんかさ、すごく楽しそうに見えるけど……うまく言えないけど、ちょっとだけ違和感ない?」
 咲がそうつぶやいた。
 たしかに。
 画面の中のなぎさと、学校で話すなぎさ。同じはずなのに、どこか噛み合っていないような気がした。そのズレが、なぜかざらりと胸に残る。
 本当に咲の買い物につきあって、帰りが少し遅くなった。
 といっても、駅前のドラッグストアで日焼け止めとアイスを買っただけだ。
「誰かと歩くと、ただの道も違って見える気がしない?」
 咲はそんなことを言って笑っていた。その誰かが俺でいいのかと思うけど、まぁ、いいか。あっちから買い物に付き合ってと言ってきたのだから。
 家に帰ると、母の靴はなかった。まだ研究所にいるのだろう。最近は深夜まで帰らない日も珍しくない。
 リビングの灯りだけがぼうっとついていて、父がコーヒー片手にノートパソコンを開いていた。
 いつもの光景のはずなのに、なぜか、今日は少しだけ違って見えた。
「……学校、どうだった」
 不意にかけられたその言葉に、思わず足を止める。
 ここ最近、父親からそんなふうに聞かれた記憶はない。
「え……普通」
 なんだなんだ? 普通と答えながらも、本当は普通じゃないことだらけだった。
 なぎさのインスタ。
 昼休みの購買で見たゼリー。
 屋上で笑ったなぎさの顔。
 そして、机の上に置かれていた、あの手帳。
 それらが、ぼんやりと頭の中に浮かんでは、また沈んでいった。
「もう少ししたら、夕飯つくるから」
「あ……さんきゅ」
 父はそれ以上何も言わず、コーヒーをすすっている。ノートパソコンの画面だけが、青白い光を灯していた。

 部屋に戻り、なんとなくスマホを開いた。咲が帰りに見せてきた、なぎさのインスタが気になって、もう一度開いてみる。フォローはしていないけれど、全公開しているようだ。みると、新しい投稿がひとつ増えていた。
 光の中で手を広げている写真。どこかの高台から空を見上げていて、髪がふわりと風に舞っていた。
 コメントもタグもついていなかった。ただ、投稿時刻だけが、帰宅してすぐの時間とぴったり重なっていた。
 まるで今、自分の頭の中にある彼女のイメージを、そのまま切り取られたような感じがして、画面を閉じたあとも、しばらくその余韻が残っていた。