春の風が、校舎の窓をやさしく揺らしていた。
 放課後の中庭で、誰もいないベンチに座って、俺はゆっくりと手帳を取り出した。
 
 どこにでもあるノートだけど、そのざらりとした表紙の手触りが、なぜか紗月の手帳を思い出させた。
 白紙のページを開く。
 何か書こうと思ったけど、ペンは止まったままだった。
 ──まだ、書けない。
 でも、その沈黙も、自分の今なんだと思った。
 だから、こう記した。
《あの夏のことを書けるようになるには、もう少し時間がかかる気がする》

 紗月のインスタアカウントは、今も残っている。
 空、海、夕焼け、見知らぬ街角。どの写真も、やわらかくて、それぞれにパンチがあった。
 言葉は少ない。
 けれど、あの青の数々が語っていた。
 誰かの“いま”を切り取って、そっと残していくような視線。
 うるさくはないけれど、確かにそばにある気配。
 きっと、あれが紗月の好きな青だった。
 もう声は聞こえないけれど、あの青だけは、まだ画面の向こうに残っている。
 その青を、俺も少しずつ、好きになれたらいい。

 書けないことも、きっと始まりなんだと思う。
 だからまたいつか、ちゃんと自分の言葉で、この続きを書こう。そして、誰かに継いでいこう。
 風がまた、手帳をなでていった。
 そのぬくもりが、ほんの少しだけ、青かった。