家を出る直前、何気なく冷蔵庫を開けた。
そこには、いつもと違うものが入っていた。
ミネラルウォーターと、栄養補助バーが1本。
そこに小さな付箋が貼ってあった。
「今日、動くならちゃんと水分とって。母」
たったそれだけの走り書き。
でも、「母」という言葉を本人が書いたのは、たぶん初めてだった。
笑えるくらい不器用で、でも――なんか、それが、嬉しかった。
俺はそのメモをスマホの裏に挟んで、体育館へ向かった。
体育館につくと、隅にボールの転がる音が響いた。
誰もいない静まり返ったバスケットコート。俺は一人、ゴールの前に立っていた。
スピードも勢いも、あの頃みたいには戻らない。でも、ボールの感触は、驚くほどすんなり手に馴染んでいく。
強く跳ね返さなくてもいい。ただ、今の自分のリズムで――ゆっくりでも、丁寧に。
一本、また一本とシュートを打つ。
入ろうが外れようがどうでもよかった。ただ、「動いている」ことが、うれしかった。
前みたいに全力で走れなくてもいい。今の俺にできることを、今だけのリズムで積み重ねていけばいい。あいつが笑ってた「今」は、たぶん、そういうことなんだ。
しばらくして、ふと何かの気配を感じて振り返る。
でも、誰もいない。そのいないことに逆に救われた。
ふと、ギャラリーの階段に、小さな紙袋が置かれているのに気づいた。
袋の口には、青いクリップで「佐久間くんへ」とメッセージカードがとめてある。
いつから置いてあったのだろう。開けてみると、中にはミネラルウォーターと小さなメモ帳、それと、風景のポラロイド写真が一枚。
海と空。なぎさ――いや、紗月がよく載せていた色だった。
メッセージカードには、丸い文字で短くこう書かれていた。
《ちゃんと水分取って。体は正直なんだから》
胸の奥が、少しだけきゅっとなった。
彼女らしいなと思う。
優しさも、距離のとり方も、いつもさりげなくて、残る。
メモ帳の表紙には、青いシールで《Re》の文字。
それを見て、なぜか自然と笑えた。本当の本当はどんな意味だったのか――もう、本人に聞くことはできないけど。
俺はベンチに腰を下ろして、メモ帳を開いた。
ペンを取り出して、ゆっくりと、最初のページに書く。
《今日、またバスケをした。》
それだけの文章だけど、俺にとっては、多分、今まででいちばんちゃんとした返事だった。
もしかしたら、これが《Re》のもうひとつの意味かもしれない。
“Restart”。――もう一度、始める。
この夏は、もう戻らない。でも、何かは、たしかに受け取った。
そして、この先、誰かの“Re”に返せる自分になれるかどうかは、まだわからない。
でも、進んでみようと思う。
いまの自分にできる歩幅で。
風が吹き、メモ帳のページが、一枚だけめくれた。
次のページには、まだ何も書いていない。
母の白衣の背中を、ふと思い出す。
大学の研究室で、黙々と顕微鏡と向き合っていた姿。白い光のなかで、何かを見つめていたあの横顔。
多分、いろんなものを犠牲にしてきたんだろう。
時間も、家族も、自分の弱さも。
その背中を、いまの俺なら、少しだけまっすぐに見られる気がした。
俺には、青がどんな色かも、わかっていなかった。
空の青も、海の青も、なぎさがインスタに載せてた透き通った風景の青も。
ただ、まぶしくて、まっすぐすぎて、目を逸らしていた。
でも今なら、わかる気がする。
あいつの青は、まなざしだった。
人の弱さも、強がりも、未来のかけらも、全部、包み込むような色。
あれを、好きになりたかった。
いや、きっと。
もうとっくに、好きになっていたんだと思う。
ひとつ。またひとつ。今の自分で積み上げていけばいい。
誰かに追いつくためじゃない。誰かの背中をなぞるためでもない。
再び、シュートを打つと、ボールがリングに当たって、軽い音を立てた。
いいんだ、投げたということに意味があるのだから。
今の俺には、それがすべてだった。
そこには、いつもと違うものが入っていた。
ミネラルウォーターと、栄養補助バーが1本。
そこに小さな付箋が貼ってあった。
「今日、動くならちゃんと水分とって。母」
たったそれだけの走り書き。
でも、「母」という言葉を本人が書いたのは、たぶん初めてだった。
笑えるくらい不器用で、でも――なんか、それが、嬉しかった。
俺はそのメモをスマホの裏に挟んで、体育館へ向かった。
体育館につくと、隅にボールの転がる音が響いた。
誰もいない静まり返ったバスケットコート。俺は一人、ゴールの前に立っていた。
スピードも勢いも、あの頃みたいには戻らない。でも、ボールの感触は、驚くほどすんなり手に馴染んでいく。
強く跳ね返さなくてもいい。ただ、今の自分のリズムで――ゆっくりでも、丁寧に。
一本、また一本とシュートを打つ。
入ろうが外れようがどうでもよかった。ただ、「動いている」ことが、うれしかった。
前みたいに全力で走れなくてもいい。今の俺にできることを、今だけのリズムで積み重ねていけばいい。あいつが笑ってた「今」は、たぶん、そういうことなんだ。
しばらくして、ふと何かの気配を感じて振り返る。
でも、誰もいない。そのいないことに逆に救われた。
ふと、ギャラリーの階段に、小さな紙袋が置かれているのに気づいた。
袋の口には、青いクリップで「佐久間くんへ」とメッセージカードがとめてある。
いつから置いてあったのだろう。開けてみると、中にはミネラルウォーターと小さなメモ帳、それと、風景のポラロイド写真が一枚。
海と空。なぎさ――いや、紗月がよく載せていた色だった。
メッセージカードには、丸い文字で短くこう書かれていた。
《ちゃんと水分取って。体は正直なんだから》
胸の奥が、少しだけきゅっとなった。
彼女らしいなと思う。
優しさも、距離のとり方も、いつもさりげなくて、残る。
メモ帳の表紙には、青いシールで《Re》の文字。
それを見て、なぜか自然と笑えた。本当の本当はどんな意味だったのか――もう、本人に聞くことはできないけど。
俺はベンチに腰を下ろして、メモ帳を開いた。
ペンを取り出して、ゆっくりと、最初のページに書く。
《今日、またバスケをした。》
それだけの文章だけど、俺にとっては、多分、今まででいちばんちゃんとした返事だった。
もしかしたら、これが《Re》のもうひとつの意味かもしれない。
“Restart”。――もう一度、始める。
この夏は、もう戻らない。でも、何かは、たしかに受け取った。
そして、この先、誰かの“Re”に返せる自分になれるかどうかは、まだわからない。
でも、進んでみようと思う。
いまの自分にできる歩幅で。
風が吹き、メモ帳のページが、一枚だけめくれた。
次のページには、まだ何も書いていない。
母の白衣の背中を、ふと思い出す。
大学の研究室で、黙々と顕微鏡と向き合っていた姿。白い光のなかで、何かを見つめていたあの横顔。
多分、いろんなものを犠牲にしてきたんだろう。
時間も、家族も、自分の弱さも。
その背中を、いまの俺なら、少しだけまっすぐに見られる気がした。
俺には、青がどんな色かも、わかっていなかった。
空の青も、海の青も、なぎさがインスタに載せてた透き通った風景の青も。
ただ、まぶしくて、まっすぐすぎて、目を逸らしていた。
でも今なら、わかる気がする。
あいつの青は、まなざしだった。
人の弱さも、強がりも、未来のかけらも、全部、包み込むような色。
あれを、好きになりたかった。
いや、きっと。
もうとっくに、好きになっていたんだと思う。
ひとつ。またひとつ。今の自分で積み上げていけばいい。
誰かに追いつくためじゃない。誰かの背中をなぞるためでもない。
再び、シュートを打つと、ボールがリングに当たって、軽い音を立てた。
いいんだ、投げたということに意味があるのだから。
今の俺には、それがすべてだった。

