朝が来た音がやけにうるさい。カーテンのすき間から差し込んでくる陽の光が、まぶたをじりじりと焼いてくる。
目を開けたくない。
部屋の時計の音。聞きたくないのに、昨日も今日も、そして明日も、まるで区別がないように時を刻んでいく。
きっと窓の外には青空が広がっている。しかし、それをきれいだとは思えないから、見ないようにしている。
鳴らなくなったスマホ。
たまにSNSを開いても、どんな投稿も遠い国の話のように感じてしまう。スクリーンの光すらまぶしすぎて、俺は画面を伏せた。
階下に降りていくと、珍しく母がいた。しかし、キッチンに立つ母の背中は、壁のようだ。コーヒーを片手に慌ただしくタブレットをスクロールする手は、俺の存在なんか最初から見えてないみたいだった。食卓にはパンとサラダ、スクランブルエッグが用意されている。でも、それは俺や父のためというより、単なる「ルーティン」にすぎない気がする。
母は医療系の研究者で、今はがんや難病の新薬開発に関わっている。
「この研究が成功すれば、救える命があるの」
何度もそう聞かされた。誇り高くて、真っすぐで、でもあまりに遠い。
ダイニングの向こうにあるリビングには父がいた。ソファに寝そべったまま、朝刊を読んでいる。サイドテーブルにはコーヒー。いつも通りの光景だ。フリーの翻訳家だから母とは違って家にいる時間は長いけれど、それが家庭的という意味にはならない。実際に家のことはあまりやらない。
「無理すんなよ、お前」
新聞をめくりながら、父は俺にそう言った。
昨日も、一昨日も、その前も。気づけば父はずっと、「がんばらなくていい」というメッセージだけを俺に投げかけてくる。
昔は、そういうのが少し気が楽だった。まわりのみんなみたいに過度な期待をかけられたり、叱られたりしなかったから。
でも今は、わからなくなる。
がんばる意味って、何だ?
がんばらなくていいって、本当に優しさか?
誰かを救うことが正しいのか、毎日を楽しく生きることが正しいのか。
答えは出ないまま、時間だけが過ぎていく。
「行ってきます」
一応、口にすると、母は今気づいたかのように、こちらを見た。けれど、返ってきたのは「今日は書類提出、忘れないでね」という業務連絡だけだった。
高2になった春、バスケ部を辞めた。
理由は、怪我のせいだと周囲には伝えている。
実際、大事な大会前に足首をひどくひねった。リハビリもつらくて、もう選手としては戻れないと悟った。
だけど本当は、それだけじゃなかった。
気力はそれより前に途切れていた。仲間の気遣いも何もかもが重くなって、もうゴールを狙う気持ちなんて残っていなかった。
母のようにはなれないし、父のようにもなりたくない。
だったら俺はどう生きればいい?
ほとんど何も入っていないリュックをしょって、玄関を出る。
家からも自分からも逃げ出すように。
学校でもそうだ。
休み時間はたいてい寝ているし、昼休みは、教室を出て一人で図書室とか屋上に向かう。
昼は誰かと食べてたっけ? そんなことさえ思い出せない。
幼馴染の室井咲や間瀬亮平に「一緒に食べよ」と言われなければ、誰とも話さず一日が終わる日だってある。
俺の人生って、いつからこんなに無音になったんだろう。
教室の席に座っていても、周囲のざわめきが遠く感じる。
教室という名の水槽の中で、一人だけ息を止めているような感覚だ。みんなの声も、笑いも、波のようにぼやけて聞こえる。
なのに、いつものそのざわめきが、ふと、違うリズムを帯びた。
「……転校生だって」
「この時期に?」
何人かがひそひそ声でつぶやき、教室の空気がわずかに張りつめる。HRの途中で、担任が誰かを連れてきた。
何となく顔を上げた俺の視界に光が差し込んだ。
黒板の前に立っていたのは、陽射しをまとうような女の子だった。形につくかつかないかくらいの風になびくボブヘアが、教室の静けさをかすかに揺らす。
目が合ったわけじゃない。
けれど、不思議と目をそらせなかった。
彼女は、ほんの一瞬、笑った。その笑顔には作り物の気配がなかった。
「はじめまして。糸井なぎさです。よろしくお願いします」
まっすぐな声が、午前中のけだるさを一瞬で吹き飛ばす。
その瞬間、心の中の曇った窓が一枚、ふっと開いた気がした。
――なんで、そんなにまぶしいんだよ。
次の休み時間には、なぎさはもうクラスの輪の中にいた。俺よりよっぽど溶け込んでいる。
前の席の女子に自然に話しかけ、「今日の課題、教えてもらってもいい?」とにこやかに笑い、近くの男子のほうにも、気後れなく言葉を投げ、笑い声が弾んだ。
「うわー、始まった」
幼なじみの室井咲が小声でつぶやいた。なぎさの周りに人が集まりはじめたのを見て、あきれたように笑っている。
「転校生って、最初は人気出るよね。あの、みんなのチヤホヤ期間、何なんだろ」
もう一人の幼なじみの間瀬亮平も、隣の席からプリントで顔をあおぎながら言う。
「転校生あるあるだろ。最初はめっちゃ注目される。さぁーっとみんながいなくなって、ひとりになっちゃったら、俺たちの出番」
「そうそう。で、さみしくなった頃に『第二波』として突撃」
咲が指で空中に波を描く。二人とも、からかっているようで、どこか達観しているんだ。
「第一波」には乗らないタイプ。だけど、見てはいる。人が一人になったときに、声をかけられるかどうかを、ちゃんと考えてるやつらだ。この二人はくされ縁といえばくされ縁だけど、取り繕う必要がないから楽だ。
俺は二人の会話に加わらなかった。ただ、視線だけが彼女を追っていた。
彼女の机の上には、スマホとは別に、一冊の古びた手帳が置かれている。
文庫本くらいのサイズで、表紙は少し角が擦れている。それを誰かに見せる様子もなく、話をしながら、時折、そっと指でなぞっていた。まるで何か、忘れたくないものがそこに書かれているかのように。
昼休み、教室を出て、いつものように屋上へ向かった。誰にも会わずに、風の音だけを聞いていたかった。
それなのにドアを開けた瞬間、足が止まった。風の中に人の気配が混じっている。
フェンスのそばに、糸井なぎさが立っていた。髪が風に揺れて、空をまっすぐに見ている。教室で見たにぎやかさとはちがって、誰にも話しかけずに、ただひとりで。「……君も、ここ来るんだ?」
先に気づかれたことに、少し驚いた。
「私、気に入ってるんだ、ここ」
そう言って、なぎさは笑った。転校生のような気負いはどこにもなくて、まるで、ずっとこの学校にいたかのように、空気になじんでいた。
「席、前の方だったよね。佐久間くん、で合ってる?」
「……うん」
「樹くんって呼んでもいい?」
なぜ俺の名前を知ってるのか気になった。
けど、聞くのはやめた。今は、聞かなくてもいい気がした。
俺が「いいよ」という前に、彼女は「私のことはなぎさって呼んでくれてもいいよ」と笑った。
「さっきね、購買で買ったんだ」
なぎさが、手にしているドリンク型のオレンジゼリーを軽く持ち上げる。
「でも、全部は食べないんだー。最近ちょっと控えてて」
何も聞いていないのに、一方的に言いながら笑う。
「ほら、春から夏にかけてって何かと太りやすいじゃん? 代謝落ちるっていうし」
とりとめもなく、彼女が放った言葉は、どうでもいいようでいて、不思議と耳に残る。言葉の調子がやわらかくて、風と混ざって消えていくようだった。
「でも、甘いのってやっぱり落ち着くよね」
フタをあけて、ゆっくりと口に運ぶ。ちゅるっと小さな音がした。
ゼリーのパッケージが光に透けて、風と一緒に揺れていた。
俺は何も返せなかった。けれど、なぎさはそれで十分らしかった。
返事を求めるでもなく、ただ、風の中に立っていた。その沈黙のなかで、何かがふっとほぐれる。いつもより、風が少しだけやわらかく感じた。
目を開けたくない。
部屋の時計の音。聞きたくないのに、昨日も今日も、そして明日も、まるで区別がないように時を刻んでいく。
きっと窓の外には青空が広がっている。しかし、それをきれいだとは思えないから、見ないようにしている。
鳴らなくなったスマホ。
たまにSNSを開いても、どんな投稿も遠い国の話のように感じてしまう。スクリーンの光すらまぶしすぎて、俺は画面を伏せた。
階下に降りていくと、珍しく母がいた。しかし、キッチンに立つ母の背中は、壁のようだ。コーヒーを片手に慌ただしくタブレットをスクロールする手は、俺の存在なんか最初から見えてないみたいだった。食卓にはパンとサラダ、スクランブルエッグが用意されている。でも、それは俺や父のためというより、単なる「ルーティン」にすぎない気がする。
母は医療系の研究者で、今はがんや難病の新薬開発に関わっている。
「この研究が成功すれば、救える命があるの」
何度もそう聞かされた。誇り高くて、真っすぐで、でもあまりに遠い。
ダイニングの向こうにあるリビングには父がいた。ソファに寝そべったまま、朝刊を読んでいる。サイドテーブルにはコーヒー。いつも通りの光景だ。フリーの翻訳家だから母とは違って家にいる時間は長いけれど、それが家庭的という意味にはならない。実際に家のことはあまりやらない。
「無理すんなよ、お前」
新聞をめくりながら、父は俺にそう言った。
昨日も、一昨日も、その前も。気づけば父はずっと、「がんばらなくていい」というメッセージだけを俺に投げかけてくる。
昔は、そういうのが少し気が楽だった。まわりのみんなみたいに過度な期待をかけられたり、叱られたりしなかったから。
でも今は、わからなくなる。
がんばる意味って、何だ?
がんばらなくていいって、本当に優しさか?
誰かを救うことが正しいのか、毎日を楽しく生きることが正しいのか。
答えは出ないまま、時間だけが過ぎていく。
「行ってきます」
一応、口にすると、母は今気づいたかのように、こちらを見た。けれど、返ってきたのは「今日は書類提出、忘れないでね」という業務連絡だけだった。
高2になった春、バスケ部を辞めた。
理由は、怪我のせいだと周囲には伝えている。
実際、大事な大会前に足首をひどくひねった。リハビリもつらくて、もう選手としては戻れないと悟った。
だけど本当は、それだけじゃなかった。
気力はそれより前に途切れていた。仲間の気遣いも何もかもが重くなって、もうゴールを狙う気持ちなんて残っていなかった。
母のようにはなれないし、父のようにもなりたくない。
だったら俺はどう生きればいい?
ほとんど何も入っていないリュックをしょって、玄関を出る。
家からも自分からも逃げ出すように。
学校でもそうだ。
休み時間はたいてい寝ているし、昼休みは、教室を出て一人で図書室とか屋上に向かう。
昼は誰かと食べてたっけ? そんなことさえ思い出せない。
幼馴染の室井咲や間瀬亮平に「一緒に食べよ」と言われなければ、誰とも話さず一日が終わる日だってある。
俺の人生って、いつからこんなに無音になったんだろう。
教室の席に座っていても、周囲のざわめきが遠く感じる。
教室という名の水槽の中で、一人だけ息を止めているような感覚だ。みんなの声も、笑いも、波のようにぼやけて聞こえる。
なのに、いつものそのざわめきが、ふと、違うリズムを帯びた。
「……転校生だって」
「この時期に?」
何人かがひそひそ声でつぶやき、教室の空気がわずかに張りつめる。HRの途中で、担任が誰かを連れてきた。
何となく顔を上げた俺の視界に光が差し込んだ。
黒板の前に立っていたのは、陽射しをまとうような女の子だった。形につくかつかないかくらいの風になびくボブヘアが、教室の静けさをかすかに揺らす。
目が合ったわけじゃない。
けれど、不思議と目をそらせなかった。
彼女は、ほんの一瞬、笑った。その笑顔には作り物の気配がなかった。
「はじめまして。糸井なぎさです。よろしくお願いします」
まっすぐな声が、午前中のけだるさを一瞬で吹き飛ばす。
その瞬間、心の中の曇った窓が一枚、ふっと開いた気がした。
――なんで、そんなにまぶしいんだよ。
次の休み時間には、なぎさはもうクラスの輪の中にいた。俺よりよっぽど溶け込んでいる。
前の席の女子に自然に話しかけ、「今日の課題、教えてもらってもいい?」とにこやかに笑い、近くの男子のほうにも、気後れなく言葉を投げ、笑い声が弾んだ。
「うわー、始まった」
幼なじみの室井咲が小声でつぶやいた。なぎさの周りに人が集まりはじめたのを見て、あきれたように笑っている。
「転校生って、最初は人気出るよね。あの、みんなのチヤホヤ期間、何なんだろ」
もう一人の幼なじみの間瀬亮平も、隣の席からプリントで顔をあおぎながら言う。
「転校生あるあるだろ。最初はめっちゃ注目される。さぁーっとみんながいなくなって、ひとりになっちゃったら、俺たちの出番」
「そうそう。で、さみしくなった頃に『第二波』として突撃」
咲が指で空中に波を描く。二人とも、からかっているようで、どこか達観しているんだ。
「第一波」には乗らないタイプ。だけど、見てはいる。人が一人になったときに、声をかけられるかどうかを、ちゃんと考えてるやつらだ。この二人はくされ縁といえばくされ縁だけど、取り繕う必要がないから楽だ。
俺は二人の会話に加わらなかった。ただ、視線だけが彼女を追っていた。
彼女の机の上には、スマホとは別に、一冊の古びた手帳が置かれている。
文庫本くらいのサイズで、表紙は少し角が擦れている。それを誰かに見せる様子もなく、話をしながら、時折、そっと指でなぞっていた。まるで何か、忘れたくないものがそこに書かれているかのように。
昼休み、教室を出て、いつものように屋上へ向かった。誰にも会わずに、風の音だけを聞いていたかった。
それなのにドアを開けた瞬間、足が止まった。風の中に人の気配が混じっている。
フェンスのそばに、糸井なぎさが立っていた。髪が風に揺れて、空をまっすぐに見ている。教室で見たにぎやかさとはちがって、誰にも話しかけずに、ただひとりで。「……君も、ここ来るんだ?」
先に気づかれたことに、少し驚いた。
「私、気に入ってるんだ、ここ」
そう言って、なぎさは笑った。転校生のような気負いはどこにもなくて、まるで、ずっとこの学校にいたかのように、空気になじんでいた。
「席、前の方だったよね。佐久間くん、で合ってる?」
「……うん」
「樹くんって呼んでもいい?」
なぜ俺の名前を知ってるのか気になった。
けど、聞くのはやめた。今は、聞かなくてもいい気がした。
俺が「いいよ」という前に、彼女は「私のことはなぎさって呼んでくれてもいいよ」と笑った。
「さっきね、購買で買ったんだ」
なぎさが、手にしているドリンク型のオレンジゼリーを軽く持ち上げる。
「でも、全部は食べないんだー。最近ちょっと控えてて」
何も聞いていないのに、一方的に言いながら笑う。
「ほら、春から夏にかけてって何かと太りやすいじゃん? 代謝落ちるっていうし」
とりとめもなく、彼女が放った言葉は、どうでもいいようでいて、不思議と耳に残る。言葉の調子がやわらかくて、風と混ざって消えていくようだった。
「でも、甘いのってやっぱり落ち着くよね」
フタをあけて、ゆっくりと口に運ぶ。ちゅるっと小さな音がした。
ゼリーのパッケージが光に透けて、風と一緒に揺れていた。
俺は何も返せなかった。けれど、なぎさはそれで十分らしかった。
返事を求めるでもなく、ただ、風の中に立っていた。その沈黙のなかで、何かがふっとほぐれる。いつもより、風が少しだけやわらかく感じた。

