「ほう、そうか」
 穴吹颯太と付き合うことになった、と日和佐から報告された新町葵は、その長いまつ毛を伏せると大して興味なさげに相槌を打った。
「まあいいんじゃないか? ジュン、お前にしては少し趣味が悪いとは思うが」
「そうかな。彼、あれで結構いい男だよ」
「いい男、ねぇ……」
「それに、彼の打ち筋は僕の麻雀の参考になる。土壇場で高い手が入るとか、そういうオカルト的な要素は抜きにしても、だ」
「……本当にそれが理由か?」
 新町は自宅の遊戯室で本を広げながら、目線だけで日和佐の方を見た。かつての同級生は相変わらず涼やかな目元を眼鏡に隠して、いつものように微笑を浮かべている。だがその微笑みには、どこか以前までは感じられなかった甘さのようなものが滲み出ているように見えた。
「あのな、僕は来月には全国大会を控えているんだ。そんな乙女みたいになっている暇があったら、僕と二人麻雀でも打ったらどうだ?」
「すまないね。あいにくだが、僕はもう少し浸っていたいんだ」
「よくもまあ抜け抜けと……」
 砂を吐きそうになりながら、新町はスマートフォンのスリープモードを解除した。高校麻雀部のグループチャットにいくつか通知が来ていることに気付き、それをチェックする。
「お前が腑抜けているようだから、何人か部員を呼んでみるとするか。四麻ならお前も少しはやる気が出るんじゃないか?」
「んん、どうかな……」
「コイツ……」
 新町は携帯を投げ出し、眉間を指で押さえてみせる。

 どうして自分は、長い人生の中でほんの少しの間だけでも、この男をイイなと思っていたのだろう。由岐も由岐だ。こんな色ボケ乙女に執着せずとも、もっと良い相手などいくらでもいるだろうに。

「とにかく、僕はしばらくこの嬉しさを享受していたいんだ」
「そうかよ。なら好きにするといい」
 新町はそう吐き捨てると、さっさと本を片付けて二階へと降りていく。


 ドント・ビー・ナイーブ。日和佐が進学したJ高校で麻雀同好会を立ち上げたという、鴨島彩羽が掲げたスローガン。ナイーブという言葉は日本だと繊細だとか傷付きやすいとかそういうニュアンスで使われることが多いが、本来は『ウブで世間知らず』とか『騙されやすい』という意味であるらしい。それに否定形をくっつけて、『騙されるな』というメッセージを発信する。
 一度、練習も兼ねてJ高校の部室で打たせてもらった時に、そのスローガンを直接目にしたことがあった。お世辞にもあまり上手とは言えない毛筆書きで英文が書かれている様はなかなかにシュールで、新町はつい笑ってしまい、思いの外剛腕の鴨島にド突かれたものだ。
 今思うと、あのスローガンには何か、鴨島自身の経験が反映されていたのだろうか。仮にそうだとしたらあの神秘的に見えてなかなかに俗っぽい、世間からはプロ入りを望まれている少女は、一体何をナイーブに悩んできたのだろう。

「まあ、この世間をせいぜい生き抜くことだな。僕も含めて、だが」

 独り言を呟いて、新町葵は両親の手伝いをしに、フリー麻雀しんまちの店内へと入っていった。