全国高等学校麻雀選手権の県予選が終わると、すぐに終業式がやって来た。颯太にとっては高校生活で初めての夏休みである。
終業式とその後のホームルームを終えると、生徒たちは皆一斉に教室を飛び出していく。級友と連れ立って早速遊びに行く者、部活仲間とどこかへ出かける者、受験を見据えて予備校の夏期講習へ向かう者など、過ごし方はそれぞれだ。
颯太はというと、放課後の生徒たちでごった返す廊下をかき分けながら、麻雀同好会の部室へと向かっていた。今日は特に活動予定もないので、本来なら部室には誰もいないはずだ。だが、引き戸を開けるとそこにはすでに先客がいた。
「ジュン先輩、来てくれてありがとうございます。すみません、急に呼び出したうえに待たせてしまって」
「いや、構わないよ。しかし珍しいね。何か用事でもあるのかな?」
先輩の質問に言葉では答えることなく、颯太は部室に置かれた全自動雀卓へと向かった。牌を流し込むとガシャガシャ音を鳴らしながら撹拌が行われ、四つの山がせり上がってくる。いつもの部室の光景だ。
「先輩、二人麻雀やりましょう」
「二人麻雀というと、あれかな。十七巡して、先に振り込んだ方が負けという遊び」
「それです」
颯太が首肯すると、先輩は微笑んで「いいね」と頷いた。本来なら今頃帰宅できていたところを、呼び出されたうえにいきなり変則麻雀をやらされるというのに、この寛容さ。その根本にはまず一番に麻雀を好きだという気持ちがあるのだろうが、それだけではないのではないかという気が颯太はしていた。
「ルールは先輩もよく知っていると思います。今ここにある三十四枚の中から、満貫以上のテンパイ形を作る。余った二十一枚のうち、十七枚分を二人で切っていって、先にロンアガリできたら勝ちです。ゲームの性質上ツモはナシ。ダブリーと、今回は赤ドラもナシでいきましょう。河底撈魚、一発はアリです。東家は先輩どうぞ」
「ずいぶん強気じゃないか。僕は構わないけれどね」
颯太の対面に先輩が座った。慣れた手つきで山を開くと、素早く手を組んでいく。颯太も目の前の山を開き、手牌を組む。ドラは一索。
思い切って、役満手を組むことにした。一萬が二枚と、萬子と索子の九が三枚ずつ、筒子の一が三枚と九が二枚。一萬もしくは九筒待ちで、完成すれば清老頭だ。これからとんでもない『賭け』をするのだから、これぐらいの勝負には出なければなるまい。
「さて、では始め……」
「待ってください。その前に先輩、この勝負で一つ、賭けをしませんか?」
「賭け?」
先輩が戸惑ったような声色で繰り返す。彼もこういう姿を見せることがあるのだな、と颯太は思いつつ、己の中にある決意を示すように、ぐっと手のひらを握りしめた。
「俺が勝ったら……」
下手をすると大会の時以上の緊張で声が上擦りそうになるが、それでも今しかないと思った。ここで言わなければ、きっと一生後悔する。
「俺が勝ったら先輩、俺と付き合ってください」
先輩の涼やかな瞳が一気に開かれた。さすがに驚きを隠せないようだが、それでも彼の指先は繰り出すための牌を的確に捌いている。
「君は……いや、何でもない。いいよ。その賭け、引き受けよう」
「先輩……! ありがとうございます! あ、ゲーム中の会話は何でもオッケーです。これ言ったら三味線になるとか、気にしないでください」
分かった、と先輩が返事をして、颯太にとって一世一代の勝負が始まった。
ルールの都合上、初手は必ずリーチとなる。先輩が發を切った後、心臓を鳴らしながら白を切ると、まずは通ってくれた。
先輩の方はあまり迷いなく打牌してくる。二巡に南、三巡目で中。
「先輩、一つ聞きたいんですけど」
「何だい」
「何で俺を麻雀同好会に入れたんですか? 俺、まったくの素人なのに」
「……そうだね。君はやはり覚えていないかな」
「はい?」
先輩は笑うと四萬を切った。颯太はひとまず安全な中を切り様子を見る。
「高校入試の前日だよ。翌日は試験会場になるから在校生は終日校内立ち入り禁止だというのに、当時一年生だった僕は課題を教室に置き忘れてしまったんだ」
「先輩でもそんなことがあるんですね」
「僕を何だと思っているんだい? それで、時刻はもう夜だったけど、取りに行くことにしたのさ」
五巡目で、先輩は一索を切ってきた。ここでドラを捨ててくるか、と颯太は少し考える。
「高校から一番近いコンビニから一本入った道に、点滅信号があるだろう? 昼間でもなるべくあそこは避けて通っていたんだが、早く帰りたいのもあって近道することにしたんだ。するとどうしてもその道を渡らなくちゃいけなくてね」
先輩の話に耳を傾けつつ、颯太は七萬を切った。どうも先輩の受け手に回っている気がするな、と内心焦るが、このゲームはとにかく相手に振り込まないことが重要だ。ここは慎重な打牌をもう少し繰り返して、スキを見て出アガリを狙うしかない。
「あの道に建てられているのは赤と黄色の点滅信号だけど、僕には信号が今は赤で点滅しているのかどうかの区別がつきにくい。一応、歩行者も赤点滅だと他の交通に注意して進むよう規制上は定められているからね。とはいえ、もう帰宅ラッシュも過ぎた時間だったし、そこまで交通量も多くないだろうと踏んだんだよ」
先輩が八筒、五索と切ってきたので、颯太は五筒、西を打牌した。手の中に気持ち索子が薄いような気がするのだが、先輩の手に渡っているのか、それとも他の山に紛れているのか。
「行きは良かったんだ。何とか学校が完全に閉まる前に入ることができて、課題も無事に持って帰れたからね。教員には苦い顔をされたけど」
八巡目。初手で切られた發がもう一枚出てきた。先輩もこちらに振り込むことを警戒しているのだろうか。もともとは麻雀素人だった自分が、日和佐準之助という先輩から警戒してもらえる程度にはなったのかと思うと、心が少しじんわりとする。
しかし逆に言うと先輩は本気で勝ちに来ているということで、それはつまり颯太の告白を決して受けるつもりはないということだとも感じてしまう。無論、手加減されて適当に遊ばれても、それはそれで嫌なのだが。
「帰りは少し遠回りして安全な道を通っても良かったけれど、無精して帰りも同じ道を通ることにしたんだ。行きの時に問題なく通れたのだから、帰りも大丈夫だろうと思ってね」
九巡目では五筒が捨てられた。そろそろ何か仕掛けないと、いつまで経ってもアタリ牌が出てくる気がしない。颯太はここで六筒を切った。通るかどうか不安だったが、無事に通ってくれた。
しかしだからといって、九筒がすぐに出てくる相手ではない。次に出たのは二萬だった。
「後で知ったが、あの時信号は赤で点滅していたんだってね。油断し切っていた僕はその時、危うく乗用車と接触するところだった。だけど……」
颯太が五萬を切った直後に三筒を打牌しつつ、先輩は当時を思い出したかのように押し黙る。
「だけど、とっさに手を引いてくれた人がいたおかげで、僕は無事だった」
次はとりあえず、六筒を切れば絶対に通るはずだ。しかし、いい加減アタリを出させるためにも、もう少し捻った方が良いのか?
「驚いて固まってしまった僕に向かって、その人は『今の車、スピード出し過ぎですよね。危なかったっすね』とだけ言って、すぐに走り去ってしまったよ。ロクにお礼も言えないまま、僕はしばらくその場で立ち尽くしてしまった。次の日も、またその次の日も気になって同じ道を注意しながら通ってみたけれど、その人には会えなかった」
十二巡目。先輩は四索を打牌した。五巡目でのドラ一索切りもあるし、これは一、四、七で七索が通るのでは?
颯太は一瞬そう思ったが、すぐに罠ではないかと思い直す。
「その人は少しクセのある柔らかそうな髪をしていてね、一見派手な雰囲気はないけれど、少しだけ見えたその瞳には何か……惹かれるものがあった」
ひとまず一旦は安全牌の南を出して耐える。そろそろ決めたいところだが、なかなか手が進まない。
「……まだ思い出さないかな? それとも、思い出すこともないぐらい、君にとっては些末な出来事だったのかい」
「え?」
不意に、先輩の声が明確な方向性をもって颯太に問いかけてきた。
「君があの時、手を引いてくれたおかげで僕は今ここにいるんだ。もう二度と会えないだろうと思っていたけど、高校の入学式の後オリエンテーションを受けている制服姿の君を見て、僕は本当に神様っているんだなと思ったよ」
七筒、八萬と切ってきて、残り三巡。焦りと同時に先輩の言わんとしていることがぼんやりと理解できてきて、颯太の心臓が高鳴り始める。
「ええと……高校の入試の前日、確か俺は最後の復習中によりにもよっていつも使っていたシャーペンが壊れて、コンビニに買いに行ったことは覚えてるんですけど……」
「へえ、そうかい。じゃああの時の僕は、君にとってシャーペン以下だったんだね」
「いや、あの日はとにかく翌日の入試が気がかりで……」
しどろもどろに言い訳をする颯太に、先輩は「冗談だよ」と口端を上げた。同時に九萬を打牌してくる。ここでそれが出るのか、と内心舌を巻きつつ、颯太も八索を切った。
「人生は配られた牌で勝負するしかないからね。僕は僕なりに、どうやったら君とより深い繋がりを持てるかと考えて、この同好会へと誘うことにした。方便じゃないが、他の部員たちには初心者だが才能を感じる新入生を見つけたと言ってね。どの道、男子があと一人入ってくれないと、全国高等学校麻雀選手権にも出場できなかったからさ」
残り二巡。先輩が西を切った。逃げるつもりなのか、それとも。
「僕は多分、あの時から君に惹かれていたんだと思う。大人しそうに見えて、その実どこか今ひとつ食えないというか、簡単には折れない強さを持っている少年。同好会に強制的に引き入れて、その打ち筋を見ているうちに、僕は君に秘められた才能の大きさに正直驚いたよ」
一歩一歩、少しずつ歩みを進めてきて、最後の十七巡目。結局、ここでもかわされて颯太はロンアガリすることができなかった。
あとは颯太が先輩に振り込まなければ、この回は流局となる。
「……先輩」
颯太は最後に切る牌を決めた。ゆっくりと指先で七索を取り、河へと置く。
「ごめん颯太。この局は、僕の勝ちだ」
先輩が手牌を倒した。索子の一から九が一枚ずつと、一索がもう一枚、東が三枚。
「混一色ドラ2、跳満で18000だ」
先輩の申告を聞いた瞬間、ふうっと颯太は詰まっていた息を吐き出すかのように呼吸した。最後の最後で、見えている罠に乗ることにしたのだ。ひょっとしたら、ひょっとするかも、と思って。
だが現実はそう甘くない。これもドント・ビー・ナイーブだろうか。俺が初めてきちんと自覚した恋は、今散っていった。
颯太が泣きそうになりながら、それでもどこか晴々とした気持ちでいると、先輩が不意に目線を落とした。
「勝負は僕の勝ちだが、僕が勝った場合の報酬を決めていなかったね。そうだな……」
遊び終わった牌を片付けつつ何やら思案している先輩の様子に戸惑いつつ、颯太も牌と部室の片付けをする。言われてみれば確かに颯太が勝った時のことだけしか決めていなかったので、負けた時どうするかを話していなかった。一体何を言われるんだろう。
牌と雀卓を整理し、部室も簡単に片付けた。そろそろ教員から注意される可能性もあるので早く帰るべきなのだが、どうにも足がうまく動かない。
ジュン先輩はさっさと荷物を持ち上げると、部室を出ていこうとした。やはり、告白などするべきではなかったのだろうか。どんよりと重たくなる心に気付かないふりをしつつ、颯太も部室を出て先輩と逆の方向から帰ろうとする。
「ちょっと待ちたまえよ、何故そっちに行こうとするんだ」
「え、だって、気まずくないですか……?」
「気まずいって何が?」
「何がって、いや、あの」
きょとんとした表情で言ってのける先輩に、颯太は困惑する。何を言っているのか分からない、という表情の颯太に先輩は「あ」と声を上げて、それから快活に笑った。
「あのね颯太。僕は君から告白されて……本当に嬉しかったんだよ」
笑いながらも、先輩の声はどこか震えていた。その声があまりにも真に迫っていて、颯太は思わず彼の方を直視する。すると先輩も同じようにこちらを見つめながら、今まで見たことがないような表情で微笑んでいた。
「だってそうだろう? ずっと好きだった相手と両思いだったなんて、こんな奇跡みたいなことが他にあるかい?」
「え、せんぱ……?」
「賭けの報酬はひとまず、あとのお楽しみということでしばらく取っておこう。今日はとりあえず、一緒に帰ろうじゃないか」
「一緒に帰るって……?」
「どうしてそこで疑問形になるんだ。付き合っている学生同士というのは普通、放課後は一緒に帰るものなんじゃないのか?」
付き合っている。先輩が口にしたその言葉を颯太は一瞬理解できず、何度か反芻して、ようやく飲み込めた。つまり、先輩は俺の告白を。
「あー、ええと。とにかく、これからは改めてよろしく……?」
普段は立て板に水のごとく流暢に喋る先輩が、珍しく咳払いをしつつどもりながらそんなことを言ってくれる。その頬はうっすらと赤みを帯びていて、どうも今更ながらに恥ずかしくなってきたようだ。
「……! はい! よろしくお願いします、先輩!」
颯太は元気よく返事をして、準之助の手を取った。以前、額に触れた彼の指先は少し冷たかったが、今は燃えるように熱くなっている。
「手、握るのかい……?」
「す、すみません。嬉しくてつい……嫌、でしたか?」
颯太が申し訳なさそうに謝罪しながら準之助を見る。その前髪はあの日もらったヘアピンで留められていて、黒い瞳が真っ直ぐに準之助を射抜いた。
「……嫌じゃ、ない……でも、学校ではさすがに恥ずかしい、から……」
赤面して人が変わったようにぼそぼそと話す先輩に、ぱっと表情を明るくした颯太は、うんうんと頷いて彼の隣に並んだ。校舎の外に出ると真夏の太陽がさんさんと照りつけていて、新たな門出を迎えた二人に陽光を惜しみなく降り注いでいる。
ぱたぱたと手で風をあおぎながら帰路につく颯太は、ふと思いついた質問を述べた。
「そういえば先輩、いつも持っていたあの扇子、最近見ませんけどどうしたんですか?」
「あれは……」
彼は少し言い淀んだ後、ほんの少しだけ切なげな眼差しをして。
「……もう、いいんだ。僕にはもう、必要じゃなくなったから」
そうですか、と颯太は答えつつ、彼に対してまだ完全には踏み込めない領域が存在することを知る。ふと、『獄卒』の顔が頭を過った。大会が終わった後、彼は颯太たちの方を見て寂しげに笑っていたが、あれは準之助に向けた笑みだったのではないか。
颯太は頭を振り、その考えを脳内から追い出した。今はこのままでいい。俺たちの関係は今、ここからまた新しく始まるのだから。
アスファルトからの照り返しが二人の肌を焼く。颯太と準之助は、お互い手と手が触れ合うほどの距離にいながら、その暑さを甘んじて受け入れていた。
多分、これまでの人生で、一番楽しい夏休みが始まる。
(了)

