「獄卒、ですか」
「そ。卓についている内の一人に極端に執着して、とにかく徹底的にいじめ抜くんだと。いじめるってか、心を折るってカンジ? 何にせよ悪趣味だよな」
まだどこか梅雨が開け切っていないような湿っぽい天気の続く七月始め。颯太は住吉からそんな話を聞いた。渡されていた何切る問題集は辛うじて五周分をこなし、ようやく先輩たちと卓を囲む許可が下りたのだ。
「そもそも本人の引きがめちゃくちゃ良くて、打ち方も精密なんですよ。そのうえでそんなスタイルで勝とうとするんだから、強者の考えることは分かりませんよね」
対面の松茂が牌を切りながら言う。
「大々的に行われる高校生の公式戦は今年が初よ。Mリーグ準拠のルールで、ランダムに割り当てられたメンツによる半荘一回勝負。もちろん、学校ごとのペアが同じ卓にはならないよう、配慮されているわ。ペアで獲得した点数が最も大きいチームだけ、全国への切符を手にできる」
鴨島の口からなされた説明に、颯太は改めて気を引き締める。しかしその直後に打牌した四萬で、早々に放銃してしまった。
「ロンです。まさかこの流れで出てくるとは」
「通ると思ったんですけど……」
「はは、こりゃあ下旬の大会は記念出場みたいな気分でいた方がいいかもな」
「うう……」
手牌を倒してみせる松茂と相変わらずマイペースな調子で笑う住吉に、がっくりと肩を落とす。しかし鴨島は顎に手を当てて小さく唸っていた。
「穴吹君って何か……もう少しで何かが見えてきそうなのよね。もちろん理論の詰め方や細かいミスはまだまだあるけど、キミって時々とんでもない発想と引きを見せることがあるから」
「そうでしょうか……俺は全然皆さんに追い付けてる気がしませんけど」
「そこは年季が違うもの。でも、キミは日和佐君が目をかけている子だし。彼の見立てって、あんまり馬鹿にできないのよ」
長い睫毛を伏せつつ、鴨島は柔和な微笑みを湛える。そう言われれば、ジュン先輩は何をしているのだろうか。颯太、住吉、松茂、鴨島の四人で打ち始めて、かれこれ一時間経つ。
後ろを見ると、彼は窓際で椅子に座り、タブレットをいじっていた。夕日に照らされたその姿をぼんやり眺めていると、「過去のローカル大会に出場した際の、由岐清史郎の牌譜を見ている」と教えてくれる。
「彼の対局スタイルは皆が言っている通りだ。ただでさえ強運なうえに読みも精緻。そして……」
先輩はそこで言葉を切ると、タブレットを鞄に仕舞って席を立った。
「……まあ、何だ。面白い大会になることは間違いないから、当日はそのつもりで打ってきたまえ」
「はあ……?」
「僕は君に期待しているんだよ、颯太君。信じているからこそ、この大会には君に出てもらいたいと思ったんだ」
眼鏡の奥にある瞳が颯太を正面から見つめる。その眼差しは真剣そのもので、彼が冗談の類いを一切口にしていないことを物語っていた。
「そもそも俺らが獄卒と同じ卓になるかどうかも分からんしな……てか、お前らいつの間に名前で呼び合うようになったの?」
そんなことを聞いてくる住吉に笑って、先輩は部室を出て行く。その後ろ姿を、颯太はいつまでも見つめていた。
県予選大会の当日は、それまでの曇り空が嘘だったかのように晴れ渡っていた。会場となっている市民ホールには早朝から少しずつ人が集まっており、高校生の麻雀大会という珍しさもあってか新聞や雑誌の取材班らしき人影も見える。
自分がどの卓に割り当てられるかは、予選当日である今日知らされる。自分がどんな相手と対局することになるか、それは大会の結果を大きく左右する大切な要素だ。颯太は心臓が口から飛び出しそうになりながらも、対戦表を見た。
「うそ……?」
自分が割り当てられた卓には市の中心部の高校、県南の高校の生徒と、そして。
「……『獄卒』……」
由岐清史郎の名が刻まれている。一瞬、それまでうるさいぐらいに高鳴っていた心臓の鼓動が、ピタリと停止したかのように思えた。
「おー、災難だな」
「住吉先輩……」
「俺はAブロックだから先に行ってくる。穴吹、お前もあんま気負い過ぎんな。ゆっくり朝飯でも食いながら出番まで待ってろ」
「朝食は家で食べました」
すでに疲労した表情で呟く颯太の背中を、住吉が笑いながらバンバンと叩く。いつの間にか、彼の後ろに他の部員も集まっていた。
「住吉君の言う通りよ、穴吹君。緊張するのは仕方ないけど、あまり考え過ぎない方が、あなたの場合はいい結果になりそうな気がするわ」
「まあ、普通に遊んでくるつもりで打ってきたらいいんじゃないですか? 対局中は控え室で観戦できますから、みんなで見ていますよ。安心してボコボコにされちゃってください」
「ボコられること前提ですか! いやまあ、確かにトップは厳しいかも、っていうか無理でしょうけど……」
松茂の遠慮のない物言いに、颯太はかえって気分が楽になった。しかしジュン先輩だけは険しい表情で颯太を見やり、つかつかと歩み寄ってくる。
「颯太君」
「は、はい?」
「少しこちらを向いてくれないか」
何ですか、と言おうとした次の瞬間、少し冷たい先輩の手が額に触れた。緩くクセのついた前髪を引っ張るように横に流され、耳にかけられた状態でピン留めされる。
「いつも髪が垂れているのが気になっていたんだ。これで少しはマシになったね」
「……あ、ありがとうございます……」
間近に寄せられた先輩の美麗な顔に動悸を覚えつつ礼を言うと、彼はくすりと微笑んでみせた。おかげで颯太の心拍はますます速くなってしまう。
「……君なら勝てるよ。頑張っておいで、颯太」
「せ、んぱ」
頬が熱くなり、目尻が勝手に潤んでしまう。この人は一体どうして、自分が一番欲しい言葉を、こんなにもあっさりと口にしてくれるのだろうか。
「こうしてみると君はなかなか可愛らしいね」
「後輩をイジるのもそこまでにしておけ、ジュン」
不意に投げかけられた声に振り向くと、制服姿の新町葵が呆れたような顔で立っていた。
「あ……おはようございます?」
「うん、確かにお前のうざったい前髪はそうしている方がスッキリしていい」
やはりズバズバと物を言う人である。颯太が少々萎縮する横で、ジュン先輩は飄々と笑った。
「このヘアピン、良いデザインだろう? 先日、街のショップで見つけてね。彼に似合うと思ったんだ」
「お前がそんな洒落っ気を出すとは珍しい。よほど入れ込んでいるようだな」
入れ込まれているのだろうか、自分は。新町の言葉に、颯太はふと考え込んでしまう。
少なくとも、自分は日和佐準之助という先輩を慕っている。何の取り柄もなく、無為に日々を過ごしていた自分に麻雀の基本と楽しさを教えてくれたのは彼だ。できることなら、先輩に何か返せるようなモノがあれば良いのにと思う。
その感情に名前をつけるとしたら、何になるのだろう。
「何をぼんやりしている。そろそろ最初のブロックの対局が始まるぞ。控え室に行かなくていいのか?」
「あ……はい! それでは失礼します!」
新町の指摘に我に返った颯太は、彼に頭を下げて控え室の方へと駆けていく。その背中を見送った新町はため息をつきながら、いつものように涼しげな面持ちで立っている元同級生を横目で見た。
「ジュンはやはり、公式の大会には出ないのか」
「こういう場に出るのに、僕よりふさわしい人間はいくらでもいるからね」
「由岐はお前と打ちたかっただろうに」
「思い通りにいかないことなど、世の中には掃いて捨てるほど存在するさ」
そうか、と答える新町の声には幾許かの寂しげな響きが込められている。日和佐は黒と灰色のグラデーションがかかった扇子を手に持ったまま、他の部員たちに続いて控え室へと歩いていった。
今大会ではウマ10-30かつ25000点持ちの30000点返しというルールで点数が計算される。Aブロックの対局では住吉が32000点で二位に着き、まずは12ポイントがJ高校男子ペアに加算された。颯太が出る番の時点で、最も点数が高いペアとの差は69ポイント。
女子の部では鴨島と松茂が善戦を見せたが、あえなく全体三位という結果に留まった。J高校麻雀同好会が全国に行くとなると、颯太がトップで終わらなければ厳しい。
「はぁ……」
トイレの蛇口で手を洗うついでに顔にも冷水を叩きつけ、颯太はため息をついた。部活で鍛えられているとはいえまだまだ初心者の域を出ない自分が、中学時代から世間に名の知れている相手も交えた中で、果たしてどこまで戦えるのか。
「よう、辛気臭ェ顔してんな」
「えっ!? うわ、え、何で……?」
とぼとぼとした足取りのままホールへ向かおうとしていた颯太は、目の前に現れた大柄な影に挙動不審になりつつ後退った。板野和孝。颯太を目の敵にしているはずの彼が、何故ここにいるのか。
「午前中にバスケ部の練習試合があったんだよ。練習相手の高校が市民ホールの近くだったからよ。ほれ」
「え、え?」
スポーツバッグを持ち学校指定のジャージ姿のままの彼は、コンビニの小さな有料レジ袋を半ば押し付けるようして寄越す。戸惑いながら受け取った袋の中には小さなチョコレート菓子数個と、栄養ドリンクが入っていた。
「あの、これって」
「頭使ったら糖分欲しくなるだろ。糖質って代謝される時にビタミンも使うからな、ドリンクで補給しとけ」
「あ、ありがとう……」
戸惑いながらもしっかり礼を言い、早速チョコレート菓子の包みを一つ開けて口に放り込む。栄養ドリンクを飲み干すとあの特有の味が脳まで染み渡るようで、思わず目を瞑ってしまった。
「じゃ、そういう訳だから俺はもう帰……」
「ああ、いたいた! 穴吹君!」
板野が踵を返そうとしたその時、松茂の声が廊下の奥から聞こえてきた。
「もう対局始まっちゃいますよ! 早くホールに!」
「うわ、本当だ!? すみません、教えてくださってありがとうございます!」
「あれ? あなたは……」
慌てて会場へと走っていく颯太の背中を見送りながら、松茂は板野に訝しげな眼差しを向ける。
「穴吹君のご友人、ですか?」
「お、俺は……」
「お友だちなんですね! ぜひ控え室で一緒に応援しましょう!」
「は、はあ……?」
一人で勝手に納得して強引に控え室まで案内し始める松茂に、どうも麻雀同好会の部員はクセの強いのが多いらしい、と板野は今更ながらに思うのだった。
席についた颯太は、同じ卓についているメンツの顔を軽く見回した。上家と下家にはそれぞれ市内と県南の高校に通う男子生徒、そして対面に『獄卒』こと由岐清史郎という並びである。
「よろしくお願いします」
挨拶をすると、皆会釈を返してくれる。由岐に会うのは初めてだったが、笑うキツネのような目元が少々印象的なだけで、ニックネームからイメージするような凶悪な雰囲気は感じられなかった。なんなら彼の指通りの良さそうな滑らかな黒髪は、颯太にとってどこか羨ましいものがある。少し長めのその髪の毛を、現在の彼は後ろで軽くひっつめるように結わえていた。
直後、彼らが属するEブロックの対局を開始するアナウンスが流れ、サイコロが振られた。
――何か、思ったよりも打ちやすい……?
東三局が終了した時点で、颯太はトップに着けていた。時折上家の待ち変えに翻弄されたり下家からの鳴きに動揺したりと波はあるものの、それでも何とか食らいつけている。問題の『獄卒』もここまでノー和了だ。流れが良くないのだろうか、それとも噂ほど恐れる必要のない相手なのか。
何にせよ、現時点で颯太の持ち点は36000点。この調子で終局まで持ち堪えれば、全国出場も夢ではない。
東ラスは上家の男子生徒が親番だ。ここはなるべく早めに流して、南場へ持ち越そう。幸い、この時颯太に入ってきた手は萬子と筒子の一から三と、索子の一、三、四、六、七。そして西が二枚。下の三色で一向聴、それなりに早く聴牌まで持っていけそうだ。
しかしツモが良くなかった。索子の二、五、八のどれか一枚でも入れば良いのだが、こういう時になるとなかなか手元にやって来ない。
これでもない、それでもない、と打牌を繰り返して五巡目。上家が親リーチを仕掛けてきた。宣言牌は七萬。その他の捨て牌は西、白、二筒、六筒。
萬子で張っている可能性があるな、と感じた。ここで押して、万一振り込んでしまったら痛い。颯太はひとまず、この局はオリることに決めた。
そうなるとどの牌が安全かを見極める必要がある。とはいえ、まずは現物を切るのがセオリーだ。
――とりあえず、字牌を切れば二巡は安全だ。
颯太は迷うことなく西を手に取り、河に置いた。
「ロン」
低い声が響いたのはその瞬間だった。え、と思わず前を向く。声がしたのは上家からではなく、対面からだった。
「穴吹君、と言ったね」
キツネのような瞳が颯太を射抜く。所々筋張った器用そうな両指が倒牌をする様が、スローモーションのように見えた。
「すまないがそれ、アタリなんだ」
萬子、筒子、索子でそれぞれ一、九の数牌と東、南、北、發、中。そして白が二枚。
国士無双。直視した刹那、颯太の全身から血の気が引き、強烈な寒気が背筋を駆け上った。
「32000」
由岐清史郎が静かな声で点数を申告する。上家と下家の生徒もこれには面食らったようで、しばらく呆気にとられた顔をしていた。
32000点の放銃。残りの持ち点は、4000点のみ……。
颯太は目の前が暗くなるような心地を味わいながら、牌を自動卓に流し込んだ。
「国士無双……って、何かめちゃめちゃスゴい役っスよね? 俺でも聞いたことあるぐらい」
控え室で観戦していたJ高校のメンツが、無理やり連れて来られながらも大人しく対局を見ていた板野の言葉にそれぞれ頷く。
「役満貫ですね。役満と略すことも多いですが……」
「単一の役のみで、獲得できる最大点数を得られる役。もちろん、作るのは難しいけどな」
松茂と住吉がそれぞれ簡単に解説する。二人とも試合会場の様子に釘付けとなっており、板野は「へえ、なるほど……」と相槌を打ちながらスマートフォンで改めて検索をかけてみた。
「出現確率……0.04%!? んな珍しい役をあの相手は引き当てたっつーのか!」
「そうよ、噂通りの強運だわ。おまけに運だけじゃない」
鴨島が厳しい表情で言う。
「既に河には西が二枚出ていたわ。あとの二枚は牌山か、もしくは誰かの手牌に残っているのみ。でも他の字牌の捨てられ方や、穴吹君の理牌のやり方、視線の流れ方から、彼が西を二枚持っていることを読み取った……」
「東家がリーチをかけてくることも読んでいたんでしょう。颯太君の持ち点や状況からして、今回はオリるしかない。するとこの場合、一般的には確実に安全だと思われる西が出てくる。そこを狙い撃った」
「……!?」
板野が絶句して鴨島と日和佐の方を見る。二人とも険しい表情で、対局の行方を見守っていた。
「さすがに相手が悪すぎたな」
住吉がそう呟くのを聞いて、鴨島が苦々しげに続ける。
「トップで安心していたところの役満放銃。点数的に痛いのはもちろんだけど、それ以上に心配なのは穴吹君のメンタルね」
「何とか持ち直してくれればいいんですけど……」
松茂が呟いた言葉に、その場にいる全員が黙って肯定の意を示した。
南一局。颯太の親番だが、当の本人はほとんど上の空だった。現在の手牌は萬子の二、七、八、九と索子の七、九、筒子の四から八、北が二枚。ドラは七索である。
上の三色で揃えられれば親満貫で高得点が狙える。親の強みを生かすのなら、ここは押しの一手だが。
「……あ」
上家が八索を出してきた。一瞬、颯太の口から小さ過ぎる声がこぼれる。
「何か?」
「あ、いや、何でもありません……」
ほんの僅かな間だが、チーしようか迷ったのだ。しかしそうすれば九筒でアガれたところで2900か3000点止まり。ギリギリのところで、何とか踏み止まった。
「あちゃー。穴吹君、腰使っちゃいましたね。あれはさすがにちょっとマナーが」
「腰?」
控え室で観戦していた松茂が漏らした言葉に、板野が反応する。
「腰牌、というのがあるんですよ。他家の捨て牌に対して、鳴くかどうか迷って反応することなんですけど」
「悪意を持ってあえてそういう動きを見せると、他家を惑わせてしまう場合があるんだよ。それは卑怯だっていうんで、雀荘なんかではマナー違反とされることが多いな。で、腰を使った場合、その牌でロンアガリすることはできないっていうルールが適用されることもある」
「はー、そうなんスか……」
板野が納得したような声を出す横で、日和佐と鴨島はやはり厳しい表情で対局を見守っている。
一方の颯太は、自分のツモ番で八索を引いてくることができて安堵していた。鳴かなくて良かったと胸を撫で下ろし、二萬を切る。
これでテンパイだ。待ちは筒子の三、六、九。だが、高くアガるのなら狙いは九筒一本だ。
「……」
まとわりつくような対面からの視線には気付かない振りをして、颯太は河を見る。下家が五萬を切った後、対面の由岐は三筒を切ってきた。
――……!
待て。やめろ。こんな安目でアガれないだろ!
颯太の頭の中で、そんな叫び声が響いた。しかしその悲痛な叫びは、『でもこれを見逃して、最後までアガれなかったらどうする? ましてや、ツモ切りした牌をさっきみたいに放銃してしまったら?』という声にかき消される。
「ロ……ロンです。2900」
気付いた時には、そう口に出していた。
平和、ドラ1で30符2飜。アガれないよりかはマシ、と己を慰めるしかない。目の前の由岐はやはり人を食ったような笑みを浮かべて、点棒を渡してきた。
ジャラジャラと牌が音を立てて卓へと流し込まれる。だが牌が混ぜられる直前、対面の手牌の中に九筒が存在していたのが、颯太の目に映った。
分かったうえで止められていた。由岐という男は、高い手でアガれそうだった颯太に、わざと振り込んで安い手で終わらせたのだ。
――今のはアガれたんじゃない、アガらされたんだ。
そのことを悟った颯太は、思わず叫び出しそうになる。
地獄の鬼。目の前に存在しているのは、地獄に堕ちた亡者を痛めつける、閻魔の手下だ。
無理。むり。ムリ。こんなの、勝てる訳がない!
絶望に暗くなった視界で、次の配牌を取っていく。最早頭の中にロクな情報が入ってこない。配られた手でどうやってアガリまで持っていくべきか。それすら考えられないまま南二局が始まろうとしていた。
――終わったな、コイツ。
――一度堕ちてしまえば、あとはいたぶられるだけ。
脂汗を流す颯太を見て、上家と下家の男子生徒二人が密かに笑みを交わす。その表情からは大きな侮蔑と、かすかな憐憫の色が見て取れた。それを察知した颯太の頭はますます混乱を極める。モヤがかかったような脳味噌を少しでも晴らしたくて、軽く頭を振ろうとした。
しかし途中でその動きが止まる。頭を動かそうとした時に留めていたヘアピンがずれて、髪の毛が数本額にはらりと落ちてきたのだ。
留め直そうとしてヘアピンに触れた指先が固まる。これを頭に差してくれた時の、ジュン先輩を思い出した。
『……君なら勝てるよ。頑張っておいで、颯太』
労るような優しい声が、その時の表情が、そして颯太を信じてくれたあの眼差しが、走馬灯のように頭の中で再生される。
その瞬間、颯太の脳内に巣食っていたモヤのようなものが、急速に晴れていった。暗かった視界がクリアになり、再び光が射し込む。
そうだ。俺は一人じゃない。信じて待っていてくれる人がいる。
お前は今までの人生でこんなふうに、期待をもって何かを任せてくれるような人に出逢ったことがあるか?
今まで知らなかった世界を見せてくれて、お前ならできると信じてくれて、背中を押して大きな舞台へと送り出してもらえた経験が、今までにあっただろうか?
産まれて初めてだろ、そんなの。
だったらここで、こんなところで諦めるなんていう選択肢が。
――あるワケないだろ、穴吹颯太!
バッと振りかぶるように頭を上げ、落ちてきた前髪をまとめて頭頂部に撫でつけるようにしてヘアピンで留めた。気合十分、目の前の牌に集中する。
ドント・ビー・ナイーブ、甘ったれたことを言って立ち止まっているヒマはない。人生は配られたモノで勝負するしかないのだ。なら俺にできることは、今自分の手の中にあるモノを、でき得る限り美しい形へと整えるだけだ。
叶うなら、今も見てくれているだろうあの人にも、キレイだと思ってもらいたい。
◆
場の雰囲気が変わった。由岐清史郎はその変化を、全身でもって敏感に感じ取った。心を折ったつもりだったが、思った以上に立ち直るのが早い。
穴吹という男子生徒は先程までとは打って変わり、冷静沈着そのものといった様子で理牌を行っている。ぽわぽわとしたクセのある前髪をオールバックにするようにヘアピンで留めたその姿は、どこか吹っ切れたようでもある。
南二局。対局は静かに始まった。由岐は颯太の動きをこれまで以上に注視する。
八巡目で、彼の捨て牌は東、西、九萬、二索、三索、五索、六萬、白。
――筒子の染めか。
ここから彼が由岐を下し逆転するとなると、染め手の高打点狙いしかない。
だが、そう上手くいくものか。由岐は無論、他家の二人も彼の目論見には気付いている。ここから筒子が場に出る可能性は、限りなく低い。
まあ、ここはノーテン流局でも構わないだろう。
萬子を切りながら、由岐はそう思った。
◆
颯太は不思議に思っていた。諦めない。そう決めた瞬間から思考が晴れ、自分の進むべき道がはっきりと分かるようになったからだ。
かつてフリー麻雀しんまちで打った時に、新町潔から言われた内容を思い出す。あの日も、後半で落ち着いて打っていれば四暗刻をツモれていたのだ。
今回は同じ轍は踏まない。牌が示してくれている道を、俺は真っ直ぐに駆け上がる。
他家から筒子が出なくなった。さすがにもう読まれている。だが、それが何だと言うのか。出アガリだけが麻雀でアガる手段ではない。
十三巡目。颯太はツモろうとした牌に触れた瞬間、指先がビリビリと痺れるような感覚に襲われた。
ああ、これだ。これが、地獄から這い上がるための一手。
颯太は確信を持って牌を見る。引いたのは五筒だった。
来た!
パシッと音を立てて、牌を卓に叩き付ける。
「ツモ、6000・12000!」
最早声が震えることもない。颯太は己の手牌を静かに倒した。上家と下家の二人が息を呑む。
手牌の内容は、筒子の二から八が全て二枚ずつ。
メンチン、タンピン、二盃口。下家の生徒が呟く。上家の生徒の口からは三倍満、との声が漏れた。
対面の由岐は動揺する素振りを見せず、やはりキツネのように細めた眼をこちらに向けているだけだったが、その目尻がかすかにヒクついたのを颯太は見逃さなかった。
「大車輪!? よくもまあ、この状況でツモアガったもんだ!」
「はい! 最初は無茶な染め方のように思えましたが、やってくれましたね、穴吹君!」
控え室の中、住吉と松茂が興奮した様子で言う。どこか所在なさげにしている板野に気付いたらしい松茂は、頬を上気させながらも説明を加えた。
「二から八までの筒子のみで今の穴吹君が作ったような形にすると、『大車輪』と呼ばれるローカル役になるんです。あくまでローカルなので採用するかどうかは場所によりますが、一部の雀荘では役満扱いになることもありますよ。こういう大会などではさすがに役満として扱うことはありませんが……それでも門前清自摸和、清一色、タンヤオ、平和、二盃口で三倍満確定という、恐ろしい形です」
「な、なるほど。とにかく高い役ってことなんスよね? 本当にあいつ、よくこのタイミングで……」
「この状況だからこそ、でしょうね」
耳にかけた髪を手でかき上げながら、鴨島が呟く。
「麻雀は運だけのゲームじゃない。実際、昨今ではいわゆるオカルト的な理論も下火になりつつある。私も普段はデジタル打ちだしね。それでも時々……理屈だけでは説明し切れない打ち手が存在するのも、また事実よ」
「理屈では説明できない……穴吹がそうだって言うんですか?」
「言葉にすると陳腐な響きになるけどね。例えば、そう。『ピンチになると途端に高い手が入るようになる』、とか」
鴨島の言葉に、板野は目を見開いた。そんなことがあるなんて信じられない、という表情だ。彼は大きく開いた目を、再び対局会場へと向ける。
「それで? キミはこれを予見していたってワケ? 日和佐君」
鴨島が視線を向けた先、そこには颯太の様子を静かに見守り続ける日和佐の姿があった。住吉や松茂のように飛び上がって喜んではいないが、その口元は隠せないほどに綻んでいる。
「鴨島部長、運命の女神には前髪しかないという言葉をご存知ですか」
「ああ、ローマ神話の女神フォルトゥーナのことね。あれ、もとはと言えばギリシア神話の男神カイロスのことらしいけど」
日和佐は鴨島の指摘には答えることなく、「何にせよ、彼は掴んだみたいですよ」と呟いた。その目は愛おしい者を見るように、そして同時に、その者を誇らしく思うかのように細められている。
鴨島はそんな彼を見て軽く息をつき、再度対局の状況へと視線を移した。
南三局、由岐清史郎の親番。ドラは八筒。
「リーチ」
八巡目で親リーチがかかった。由岐の捨て牌は發、南、三萬、一筒、一索、九萬、六筒、四索である。
一方、現在の颯太の手牌は萬子の二から四が二枚ずつと筒子の六から八、索子の四、五と八が二枚という形になっていた。三索か六索の両面待ちでテンパイ。ここは追っかけリーチして加点を狙うべきか、それともダマでいつでもオリられるようにしておくべきか。
――前者だ。颯太はそう決断した。
颯太と由岐の現在の点差は16200。オリることを前提で打っていては、決して縮まらない差だ。
「リーチ!」
宣言して点棒を場に出した。由岐はちらりとこちらを見たものの、すぐに視線を自らの手牌へと戻す。上家と下家にも目をやったが、彼らはその表情からしてオリる心算のようだった。
◆
全国高等学校麻雀選手権が開催された、その日の午後。フリー麻雀しんまちは、いつものように開店準備を進めていた。明日がゴミの回収日ということで大きな袋を持って外に出た新町潔は、回収ボックスに袋を押し込んだ後の帰り際、店に戻る直前になって不意に空を見上げる。
どこまでも晴れ渡った抜けるような青空に、一筋の雲が滑るように通り過ぎていった。
「どうしたの?」
なかなか帰ってこない夫を心配した妻が、サンダル姿で声をかけてくる。彼女の問いかけに、潔は「いや、何でもない」と答えた。
「何でもないんだが……ただ、その、ね」
「……? 何?」
「風が吹いたな、と思ったんだよ」
天つ風。そんな言葉が潔の頭を過る。かつて天女たちの姿を今しばらく留めておくれと歌われた、天を吹く風。
――彼、やってくれたみたいだね。
潔の目線は遠く青空を抜け、今まさに熱戦繰り広げられる市民ホールへと向けられていた。
◆
「めくり合い、ね」
鴨島が独り言のようにこぼした後、板野に向けて「どう思う?」と意見を求めた。
「どうも何も、俺は麻雀詳しくないので……何か緊迫した展開だなっていうのは分かるんですけど」
「そうじゃなくて、私が聞きたいのは『今の穴吹君を見てどう思うか』よ」
「……っ!」
不意に板野は目線を逸らして黙り込む。そんな彼に、鴨島は微笑みを浮かべて囁くように言った。
「今日のバスケ部の練習試合、市の外れにある私立高校で行われたでしょう。そこからこの市民ホールまでは、電車を乗り継いで来る必要があるわ。よほど気にかけている相手じゃないと、わざわざ応援に来ようなんて思わない」
「……何が言いたいんですか」
「穴吹君、教室じゃあんまり目立たない方みたいね。高校どころか、今までの人生でもほとんどそんな感じだったそうよ。どちらかと言えばいじめられっ子だったって、この前部活の時に少しだけこぼしていたわ」
「……」
「だけど今の彼を見て。あんなにひたむきになって、勝利への渇望と敗北のプレッシャーでギリギリの精神状態にいながら、真剣に戦っている。穴吹君のあんな表情、見たことある?」
「……それは……」
板野は唇を噛んで言い淀む。その仕草が表す答えは『否』だ。見ている側がこんなにも引き込まれるような、目が離せなくなるような、そんなカオをする颯太を見たのは今回が初めてだった。鴨島はそんな板野にゆっくりと告げる。
「穴吹君があそこまで奮起できたのは、彼を信じてこの舞台を託してくれた人がいるからよ。その期待に報いるために、彼は今、必死に戦っている。でもね、その相手はあなたじゃない」
「ッ!」
「好きな相手の前で素直になれないって、よくあることかもしれないけど、ひどい態度を取られた方からしてみればいい迷惑なのよ。何で自分がこんな目に、ってね」
鴨島の言葉に、板野は弾かれたように顔を上げた。その顔には怒りとも悲しみともつかない、複雑な色が浮かんでいる。
「まあ、せめて今日ぐらいは見届けてあげたら? 彼の戦いぶりを。それがケジメってものでしょう?」
鴨島の言葉が響いたのかどうか、板野はフッと視線を床に逸らすとそのまま黙りこくってしまう。ちょっとイジめ過ぎたかしらね、などと鴨島がとぼけて独りごちた時、日和佐が控え室を出ていくのが目に入った。
「日和佐君?」
「ちょっと買い物に出てきます」
「ええ? いやいや、今が一番の見どころですよ!?」
「穴吹のこと、応援してやらなくていいのかよ」
見咎めた麻雀同好会のメンバーが口々に日和佐を引き留めようとするが、彼はそれを微笑んでかわす。
「何、大丈夫ですよ。勝負はもう着いています」
◆
対局が終わって市民ホールを出ると、長いはずの夏の陽もすでに暮れかかっていた。麻雀同好会の部員たちとは挨拶を交わして別れたところだが、ジュン先輩の姿が未だに見当たらない。
まさか、先に帰ってしまったのか。颯太はあの後奮闘し、南三局のめくり合いで勝利を収め、その勢いのままオーラスまで駆け抜けた。しかし最終的にポイントがあと一歩のところで足りず、全国出場は別の高校のペアに譲ることとなってしまったのだ。
もっと言うと、全国への切符を手にしたペアの片割れというのは、新町葵である。
先輩はそれに失望して、颯太を見限ってしまったのだろうか?
そんな考えに至った瞬間、瞳の上にあっという間に涙の膜ができてしまう。全てを振り絞った対局の後というのも相まって思わず本当に泣き出しそうになってしまった、その時。
「颯太」
一番聞きたかった声が響いた。
「せ、先輩……先輩、俺……」
「よく頑張ったね、実に見事な対局だったよ。我が校のMVPと言っても良いのではないかな?」
いつもの調子で涼やかに言ってのけるそのスタンスが、今はとてもありがたい。
「す、すみません、先輩……俺、全国に……全国に行けな……」
「うん。まあ、それはそれ、これはこれだ。颯太、君は公式戦という舞台で、素晴らしい強敵を打ち倒したんだよ。まずはその結果を存分に喜ぶべきじゃないのかい?」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら喋る颯太の頬に流れる涙の粒を、先輩は苦笑しながら細い指先で拭い取ってくれる。その感覚にますます泣きそうになって、颯太は必死で涙を堪えた。
「いや、実を言うと最後の方は直接見てなかったんだけどね」
「は、え? 見てなかったんですか先輩!?」
「だって君が勝つって分かっていたからね。勝者には相応の景品が必要だろう? そこで急遽これを買う必要があったから、今の今まで出ていたんだよ」
何せ一番近い本屋まで歩くと往復二十分かかるものだからさ、と言いながら、先輩はごそごそと袋を漁る。取り出されたのは、麻雀における副露判断についての問題集だ。ついこの間まで散々解かされていた何切る問題を作っている出版社が刊行する書籍で、あまりコンビニ等にも出回っていない商品である。
「いや勝者への景品でこれを選んだんですか!? ちょっとは休ませてくださいよ!」
「何を言うんだい。今回のようなスポンサー付きの高校生向け公式大会は、おそらく今後も開催されるはずだ。来たる戦いに備えて、できることは全てやっておくべきだね」
「正論! だけど人の心ってものがない!」
涙がすっかり引っ込んでしまい、いつかのようにぎゃあぎゃあ喚いていると、背の高い影が二人の横を通り過ぎた。獄卒、由岐清史郎。対局時は後ろで結んでいた肩ぐらいまでの髪を解いて、夏の夕暮れの風になびかせながら歩いていく。
振り向きざま、彼がこちらを見て笑うのが見えた。颯太の勘違いでなければ、その笑みはどこかとても寂しそうで。
「……ジュン先輩」
隣に立つ先輩に呼びかけると、彼も同じように少し寂しげな微笑みを見せる。何だかそれが無性に悔しくて、颯太は彼の空いている手にそっと触れてみるのだった。

