自分の見ているモノと他人の見ているモノはどうやら違うらしい、と日和佐準之助が気が付いたのは小学校高学年の時だ。図工の授業で交通安全ポスターの制作をすることになり、画用紙に描いた信号機に色を塗っていると、当時の担任教師から「どうして赤信号をその色で塗っているの?」と尋ねられたのだ。これが自分に見えている色だ、と素直に説明すると彼女は即座に準之助の両親へ連絡を取り、専門の医療機関で検査を受けることとなった。その時初めて自分が色覚異常であると分かったのである。
ネット麻雀にハマったのもその頃だった。幼児期に親兄弟と遊んだドンジャラがきっかけで麻雀の面白さに目覚めたが、赤ドラと赤ドラ以外の牌の区別がつかず、リアルで打つ麻雀では平気でドラを捨ててしまうことが多々あった。その点、たまたま登録したあるネット麻雀のサイトでは、ドラを打牌する前に確認のウィンドウが出るという設定にすることが可能だった。
ドラというのは持っているだけで点数が加算される、いわばボーナス牌だ。赤ドラ有りと無しとでは、戦い方が大きく変わってくる。準之助でも文明の利器の力を使えば、現実で感じているハンデを補いながら、思う存分麻雀で遊ぶことができるのだった。
由岐清史郎という少年に出会ったのは中学に上がってからだ。週末に立ち寄った繁華街の本屋で、麻雀漫画を物色していたところを見られていたらしい。月曜日に登校するといきなり声をかけられて、「麻雀、好き?」と聞かれた。
「え? うん、まあ……でもどうして」
「一昨日、駅前の本屋で漫画探してただろ。同じ学校の子だって気付いてさ、ちょっと聞いてみようと思って」
由岐はクセのない真っ直ぐな黒髪を指先でいじりながら、「俺のツレに実家が雀荘やってる奴がいるんだ。打てるんなら、ちょっと顔出してみないか?」と準之助を誘う。
「いや……誘ってくれるのは嬉しいが、遠慮しておくよ。僕はリアルで打つのはあまり好きじゃないんだ」
「何だよ、ネット麻雀専門ってことか? いいじゃんかよ、ちょっとぐらい。どの道、あと一人いないと三麻すらできねえんだって」
「でも……」
少し迷ったが、準之助は自身がもつハンデについて正直に打ち明けることにした。色覚異常で赤ドラがどれなのか判別できないと告げると、由岐はしばらく黙っていたが、やがて「そんなことかよ」と言って笑い出した。
「『そんなこと』?」
「そんなこと、だろ。赤ドラを気にしなくったって、勝てるやり方なんかいくらでもある。いいか? 人生ってのはな、配られた牌で勝負するしかないんだ。自分に配られた牌を、少しでも高い手になるようにして、切り抜けるしかないんだよ。一番重要なのは配牌の内容じゃなくて、そこからどうやって自分に有利な手を組み立てていくか、だ」
そうだろ? と言って笑う由岐の顔を見ていると、昔動画で見たあくびをするキツネの姿を思い出す。キツネは寝起きの時やカーミングシグナルとしてあくびをする場合があるが、その瞬間両目がまるで笑っているかのように細められるのだ。この時の由岐は、まさにそんな表情だった。
気付いた時にはフリー麻雀しんまちに連れて行かれ、これまた同じ中学で別のクラスの新町葵と顔を合わせていた。
新町一家の遊戯室で、当時はよく三人で卓を囲んでいたものだ。
由岐に言われて以降、準之助はそれまで以上に牌効率や受け入れ枚数、表示牌によって示される通常のドラの運用法などに着目して打つようになった。
人生は配られた牌で勝負するしかない。ならば、僕は僕なりに牌を活かす方法を考え出すだけだ。
そう決意してからは、今までよりもはるかに麻雀が楽しくなった。
あれは中一の秋頃だったと記憶している。いつものように三人で遊戯室の卓を囲んだ後、帰宅しようとビルの階段を降りていた時に、二階部分がざわついていることに気付いた。
何事かと思って軽く覗いてみると、若い男の二人組と新町夫妻が何やら言い争いをしているようだ。二人組の方は準之助たちより少し年上のようで私服姿だったが、どうもまだ未成年らしい。
「だから、ウチは十八歳未満は一律入店をお断りしているんだよ」
「何がお断りだ、オレらは成人してるって何度も言ってんだろ!」
「だったら身分証を出しなさい。免許証なりマイナンバーカードなり、年齢が分かれば何でもいいから」
「だからそれも家に忘れたんだって!」
きゃんきゃんと喚く男たちから視線を外し、準之助と由岐はそそくさと退散しようとした。しかし何の巡り合わせか、店の外を通り過ぎようとした彼らは二人組と目が合ってしまう。準之助たちが着ている中学校の制服に、男たちは心当たりがあったらしい。
「おいおい、中坊が出入りしてんじゃねえかよ。よくそれで十八歳未満はお断りなんて言えたもんだな?」
「彼らは息子の友人だよ。今日はたまたま遊びに来ていただけで、店とは関係ない」
制止する新町潔を無視した二人組がニヤニヤと笑いながら、準之助と由岐に近付こうとしてくる。だが、それを阻んだのは騒ぎを聞きつけて三階から降りてきた葵だった。
「父さんの言う通り、彼らは僕の友人だ。お前たち、そんなに麻雀がやりたいなら上に来い。僕がまとめて相手してやる」
「何だこのガキ、偉そうに」
「ガキはお互い様だ。いいから黙ってついて来い」
一触即発。そんな空気の中、流れを変えたのは由岐の言葉だった。
「まあまあ。この店の大事なお坊ちゃんが出るような幕じゃないだろう。新町さん! すみませんが、そこの卓を一つ使わせてもらえますか?」
「おい、由岐……」
「日和佐、帰る前にちょっと遊んでいこうぜ」
そう言って準之助の方を振り返って見る由岐の顔は、やはり笑うキツネのようで。
「……分かった」
準之助が気付いた瞬間には、彼の言葉に頷いていた。
準之助と由岐、男たち二人の計四人で卓につく。
「ええと、基本Mリーグルールで、数え役満はアリでしたっけ?」
「そうそう。スッタンとか、ダブル役満はナシ」
由岐の質問に潔が答え、いざ対局開始という直前。
「なあ、一本場1500点のトビ終了アリにしようぜ」
「さっさと終わらせてやる」
二人組が笑いながら、そんな提案をしてきた。
「いいっすよ。ウチ門限厳しいんで、早く終わった方がこっちもありがたいし」
由岐が一歩も引かずに承諾する。準之助の心臓は緊張で高鳴っていたが、同時にフワフワと体が浮くような、どこか不思議な感覚に襲われていた。
東一局。サイコロの結果、起家は由岐となった。準之助は彼の左隣に座っているので、北家ということになる。
対局自体はいたって静かに進んだ。六巡目、二人組の片割れがリーチをかける。
「お望み通り、一瞬で終わらせてやる」
対面に座る由岐をねめつけながら言う男に対して、彼は眉一つ動かさずに。
「そうですか。あ、ツモです。16000オール」
「はあ!?」
頓狂な声を上げる男に構わず、由岐は手牌を倒した。一筒、二萬、四索、七索が三つずつ、中が一つ。
ツモってきたのは中。四暗刻、単騎待ち。文句無しの役満だ。
「ダブル役満はナシだから、16000で合ってるよな?」
「君ね、最初からアクセルベタ踏みで来ないでくれよ。僕まで飛んだらどうしてくれるんだ」
「ハッ、心にもないことを!」
呆然とする男たちをよそに、準之助は大人しく点棒を払う。
東一局、一本場。ドラは二筒。
「リーチ」
一巡目から準之助はリーチをかけた。
「今度はこっちのガキがダブリーかよ……」
「動揺すんな、ただのコケ威しだ」
二人組が何やら言い合いをしているようだ。二巡目に西をツモったので、「ツモです」と準之助は手牌を倒した。
一筒と二筒、三筒が二つずつと、萬子の一、二、三、そして索子の一、二、三と西。裏ドラは三筒だった。
「リーヅモ一発、純全帯么九、三色、一盃口……裏ドラ乗って十三飜なので、数え役満ですね。8000・16000の一本付け」
そのまま牌を全自動卓の穴に流し込もうとして、「あっ」と思い出した。
「そうか。一本場1500点だから、お二人は」
「仲良くトビ、っすね」
由岐がニヤニヤしながら続ける。
「ちょ、ちょっと待て! 一本場は普通300点だろうが!」
「いや、あなた方が最初におっしゃったんですよ……」
「ちなみにそれはこの場にいる全員が証人だ」
制服姿のガキ二人から口々に言われ、男たちの顔がみるみるうちに赤くなる。椅子を倒す勢いで立ち上がる彼らにあわや暴力沙汰かと思われたが。
「中学生相手に負けるようじゃ、ウチで遊んでも大して楽しめないかもね」
苦笑交じりの潔がそう告げると、二人組は口々に捨て台詞を吐きながら店を出て行った。
「すみません、遊戯代を」
準之助と由岐が財布を出そうとすると、潔は手のひらでそれを制す。
「いや、今日君たちはここに『来なかった』ことになってるからね。お金なんて払う必要はないよ」
「え、それって」
「もちろん、そこの卓で君たちが打ったという事実もない。……そういうことにしておかないと、さっきの連中よりよっぽど面倒な人たちが絡んでくることになるからさぁ……」
由岐からその誘いを受けたのは中二の時だ。一学期の期末試験が終わり、あとは夏休みまで指折り数えて待つのみという時期の、ある日の昼休み。
「なあ、ウチの県出身のプロ雀士で、板東って知ってる?」
「うん。日本プロ麻雀連盟所属で、今はA2リーグにいる方だね」
「八月に東京でトークイベントやるらしいんだよ。俺らもちょうど夏休みだろ。行ってみないか?」
親に内緒でさ、と由岐は続けたが、準之助たちが住んでいる県と東京の距離でイベントに参加するとなると、日帰りはおそらく難しい。泊まりがけで行くとして、果たして家族に秘密で行動できるだろうか。
「お互いの家に泊まるってことにしておけば大丈夫だって。新町も行くだろ?」
「いや、八月は店の方でイベントをいくつかやる予定なんだ。両親だけじゃ回らないから、僕も手伝わないといけない。黙っておいてやるから、二人で行ってこい」
葵は相変わらずさっぱりとした物言いで誘いを断ってみせる。
三人で行けないのは残念だが仕方がないので、二人で東京まで往復の飛行機と宿を探して予約を取ることにした。貯めておいた小遣いをはたいてチケットを取り、宿は安いビジネスホテルの素泊まりでツインの一部屋。当日は着替えなど必要最低限の荷物を持って、ドキドキしながら空港行きのバスに乗った。
「何かさ、こういうのイイよな。親に黙って友だち同士で旅行って、めっちゃ青春って感じしねぇ?」
「僕はまだちょっと不安だがね……今日の東京は猛暑日になる予報だし、熱中症になったら……」
「心配性だな、日和佐は! 大丈夫だって」
朝からすでに気温三十度を超える中、準之助が見上げると、雲一つない青空が目に入った。それは天気予報が間違いなく的中していることを表している。
イベントは池袋の本屋で行われる予定だった。実際に行ってみると思いの外小ぢんまりとした店舗で、二人が到着した時にはすでに店の外まで列ができていた。整理券が配られ、時間が来ると店内の会場へ誘導するとアナウンスされる。
「しゃーねー、外で待ってようぜ。三十分前に着いたってのに、やっぱ人気あるんだな」
由岐が自前らしい扇子で涼を得る中、準之助はハンディファンを回す。しかし家を出る前に電池を替えたはずなのに、故障したのかものの数分で止まってしまった。
「え、止まった? 早くね?」
「壊れたのかな……まあ、もう少しで会場に入れるし、我慢するよ」
本当は少し気分が悪くなりかけていたが、せっかく由岐が楽しみに計画してくれた旅行を台無しにしたくない一心で、準之助は平気なふりをする。だが、十四歳の体には負担が大きすぎたらしい。
「すまない……僕は先にホテルに行って部屋で待っているよ。確かもうチェックインはできる時間だよね?」
「日和佐? おい、大丈夫かよ」
「問題ない……少し休めば、すぐに良くなるさ」
列を離れて予約しているビジネスホテルまで歩き出そうとする準之助だったが、突然視界が回るようなめまいに襲われた。
ああ、倒れる。ぼんやりとした頭でそう思ったが、いくら待っても覚悟した衝撃は訪れず、むしろ何かに寄りかかっているような感覚があった。
「すみません、病人です! 通してください!」
おぼろげな意識の中、由岐が懸命に声を上げているのが聞こえる。日陰に横たえられ、冷たいペットボトルが脇に当てられる感覚を最後に、準之助の視界は途切れた。
次に目覚めたら、病院にいた。ベッドに横になり、腕には点滴の針が刺さっている。
「目、覚めたか?」
「由岐……僕は……」
「近くにいた人が、救急車を呼んでくれたんだよ。もう親にも連絡してる。当たり前だけど、死ぬほど怒ってた」
「ははは、そりゃあそうだろうね……」
力なく笑う準之助に、由岐はうなだれながら「悪い」と口にする。
「俺がイベントに誘ったから……俺が日和佐の体調に気付いてやれなかったから、だから……」
「いいんだよ、そんなことは。むしろ僕の方が申し訳ないな。君があんなに楽しみにしていたイベントなのに」
「んなのどうだっていいんだよ! 俺はお前の方が……っ」
由岐の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。準之助は「君が泣くんじゃないよ」と言った後、再び目を閉じて休むことにした。
病院を出た後は文字通り飛んできた互いの親に二人揃ってこってり絞られ、そのまま帰ることになった。帰り際、由岐から彼の使っていた扇子を差し出される。
「まだ本調子じゃないだろうし、こんな物でもないよりかはマシだろ」
そんなことを言いながら渡された扇子は黒と灰色のグラデーションで、シンプルなデザインだ。
結局、その後の夏休みは外出禁止令が出され、家まで見舞いに来てくれた葵には心底呆れられた。
「県内中学生の麻雀大会?」
「そう。地元の新聞社が主催するローカル大会だけど、中学生対象の大会ってほとんどないだろ」
「二人とも出るつもりかい?」
「ああ。僕も由岐も、先日エントリーを済ませてきた」
中学三年生になったばかりの春。由岐と葵は準之助にそんな話を持ち掛けてきた。
大会は六月に行われる予定だそうだ。今までは友人同士で打つばかりだったが、大会となると様々な強敵と相対することになるだろう。準之助はそれを想像するだけで武者震いがするような心地だったが、すぐに俯いて、「僕は無理かな」と呟く。
「は? 無理って何だよ」
「何って、知っているだろう? 僕のハンデについて」
「気にすることねえよ。お前、俺らと打つ時そんなの全然感じさせねえだろうが」
「……いや、それは君たちのような、気心の知れた相手と打つ時に限ってのことだ。公式戦となると話が違ってくる。ルールは当然、赤アリだろう?」
「そうだな。赤ドラはもちろん、喰いタン後付けアリのアリアリルールだ」
葵が答えると、準之助は首を横に振ってみせた。
「僕が出ても、他の出場者の邪魔になるだけだ。僕はあくまで、君たちの対局を応援する立場でいるとしよう」
「日和佐……」
由岐は悔しそうに準之助の名を呼んだが、それ以上は何も言わない。葵も何か言いたげな表情で見つめているが、準之助は微笑むばかりである。
大会は六月の第二日曜日に行われた。会場は県庁所在地に建つ市民ホールだ。勝負は個人同士のトーナメント戦で、半荘を一回ずつ行い、その局でトップを獲った者が上に上がれるという仕様だった。
雀荘の息子で幼い頃から牌を触っていた葵はかなりの善戦を見せ、得意の鳴きを駆使するスタイルで準決勝まで上り詰めた。彼に『流星王子』という異名がつけられたのもこの時である。準決勝で県西の中学校に通っている生徒にあえなく敗れたが、それでもベストエイトという好成績で終わった。
これには準之助も純粋に感心した。しかし、さらに衝撃の結果を見せたのは由岐の方だった。
元来の引きの強さと、それを余すことなく生かす読み。そして準之助たちと打っている中で鍛えられた勝負強さが、如何なく発揮された大会だった。
だが、準之助が真に驚愕したのは由岐が大会で見せたプレイスタイルである。彼は東場の三局が終わるまでは静かに打っていたが、東ラスになると獣が牙を剥くように、その卓でトップを獲っていた者をまくり始めたのだ。
さらにまくるだけでは飽き足らず、南場で逆転して自分がトップになった後もその者に執着して、執拗にアガリを潰しにかかるのである。その様子は見ている側まで寒気を感じる程で、準之助は初めて目の当たりにする友人の姿にただただ愕然としていた。
大会の結果は、由岐の優勝。その戦いぶりを見た観客たちは、彼を『獄卒』と呼んだ。最初に誰が言い出したのかは分からない。だが、地獄で亡者たちを責め苛むという鬼の名前は、由岐清史郎という少年に対して何故かとても似つかわしいように思われた。
高校受験のシーズン。それまで和気藹々としていた教室にもどこか張り詰めたような空気が流れる中、準之助は由岐が口にした志望校の名前を聞いて驚きを隠せなかった。
「K高校? そんな、二人で同じJ高校へ行こうと言っていたじゃないか」
「事情があんだよ……俺はお前と、同じ所には行けないんだ」
学校の椅子に腰掛けてどこか切羽詰まったような表情で話す友人にただならぬ雰囲気を感じ取った準之助は、「今日は久しぶりに一緒に帰ろう。途中に公園があるだろう? そこで話を聞かせてもらえないか」と提案する。由岐は笑うわけでも、嫌がるわけでもなく、ただ淡々と頷いてみせた。
帰り道。二人はしばらく無言で歩いていたが、公園のベンチに腰を落ち着けたあたりで、ようやく由岐が口を開く。
「お前さ、俺が六月の大会の後でつけられたあだ名知ってる?」
「……ああ。なかなか尖った異名だとは思うが、その……」
「『獄卒』、な。確かに後から思い返せば、あの時の俺は地獄の鬼だったよ」
「……」
ぽつりぽつりと言葉を紡ぎながら、由岐は続ける。
「あれな、別に狙ってやってたわけじゃねえんだ。ただ、その卓で一番強そうなヤツ……それか一番ツイてそうなヤツを、俺なりに警戒してただけなんだよ。そしたら結果的に、ああいうスタイルになっただけでさ」
「そう、だったのか」
「同じ卓についてるヤツらに、化け物でも見たような……絶望したような目で見られるのは、初めての経験だった。その時ターゲットにしたヤツなんか自分の手牌そっちのけで、脂汗を流しながら、許しを乞うような眼差しで俺を見てくるんだ。その顔を見ると何かこう……ゾクゾクするんだよ」
「由岐……?」
ベンチに座っている由岐の視線は地面を向いていて、準之助のそれとは一切交わらない。よく見れば汗をかくような季節はとうに過ぎたというのに、彼の額からは玉のような汗が流れていた。
「何だい君、穏やかじゃないね。まるで相手をいたぶることを好んでいるみたいに……」
「みたいじゃない、って言ったら、どう思う?」
「由岐」
「あの大会で、ようやく自分でも気付いていなかった本心が分かったんだ。俺、こういう人間なんだよ」
「分かった、分かった。百歩譲って、本当に君がそういう趣味だとしよう。でもその話と、同じ高校に行けないというのは、どういう繋がりがあるんだ?」
準之助が問うと、由岐は何か異物が喉に詰まっているんじゃないかと思う程に長いため息を吐き出して、静かに呟く。
「俺はもう、お前と同じ場所にはいられない」
「だから何でそうなるんだ? 僕は君のそういう嗜好なんかに一切興味はないし、気にもしないよ。人生は配られた牌で勝負するしかないって、君が教えてくれたんじゃないか。持って生まれた性質は変えようがないし、それを恨んだところで……」
そこまで話したところで、ようやく由岐の目線がこちらを向いた。キツネのような目の奥で、瞳孔が完全に開いているのがうかがえる。
「分かんねえか、日和佐」
「何が……」
「俺の本心。俺が一番、そういう顔が見たいって思っている相手が」
引きつったような笑みを浮かべて、由岐は準之助の目を真っ直ぐに見つめる。次の瞬間、準之助の全身にぶわりと鳥肌が立った。
雪国に住むキツネは狩りをする際、優れた聴覚で獲物を探し、見つけた獲物にジャンプして飛びかかるという。今の自分は、探し出された獲物だ。そう錯覚してしまう程に、由岐の眼差しは容赦がない。
「なあ、もう分かっただろ。同じ学校じゃ、どう頑張ったって完全な『敵同士』にはなれねえんだよ。仲間をいたぶったところで、あんなカタルシスは得られない」
「由岐、僕は……」
「違う学校なら、いつか敵として対局できる日が来るかもしれねえ。高校生の公式戦って、今はまだ数も少ないがな」
「由岐!」
自分でも意外に思う程、泣きそうな声が出た。由岐は再びふっと視線を外し、ベンチから立ち上がる。
「じゃあ、またな」
そう短く告げ、彼は公園から出て行く。準之助は慌てて追いかけようとしたが、足が動いてくれなかった。
ベンチの上で呆然としている内に由岐の姿は見えなくなり、遠くから烏の鳴き声がする。準之助の鞄のポケットには、昨年の夏に由岐からもらった扇子が今も入っていた。

