「ふむ」
 日和佐準之助は柳の眉に困惑の色を浮かべ、小さく息を吐いた。
「二周目にして正答率三割というところか」
「たはは……」
 颯太は気まずそうな笑みを浮かべて頬を掻く。麻雀専門雑誌を発行している出版社がインターネット上に公開している、いわゆる「何切る問題」を寄せ集めて印刷した冊子を颯太から返された日和佐は、中を軽くペラペラとめくった後。
「あと三周」
 無慈悲な宣告を下した。
「日和佐先輩!? 待ってください、同じやつを合計五周やれってことですか!?」
「だからそう言ってるだろう」
「いやいや! 新しい問題をやるならともかく、同じ問題を五周もやったら、いくら俺でも答えを覚えてしまいますよ!?」
「何を言う、それが目的だ。この問題集に出てくる手牌はどれも、実戦で目にする機会の多い並び方になっている。五周もすればどんなに覚える気がない人間でも、その並びを目にしたら次にどの牌を切るべきか、ノータイムで答えが見えてしまう。そうなってしまうくらいには実践的な問題ばかりというわけだ」
「そうよ穴吹君。大学受験でもいろいろな問題集に手を付けるより、一冊の問題集を何周もして完璧に仕上げる方が、ずっと効果的なの。だから頑張って」
「部長〜!」
 鴨島からもとどめを刺され、颯太は嘆くように大げさな声を上げる。住吉と松茂はそれを見てカラカラと笑うと、日和佐や鴨島と共に再び雀卓へと向き直った。
 颯太が麻雀同好会に入部して三週間。あれ以来、先輩たちと卓を囲んだことは一度もない。先輩四人が半荘を打っている横で、一人黙々と問題集を解く日々が続いているのだ。横で皆が真剣かつ楽しげに麻雀を打っているというのに、自分は問題集のページをめくることしかできないなんて。
 五月のくせに夏日を超える暑さが続く中、颯太は自分も早くあの卓を囲むメンツに入りたいという一心で、問題集にかじりついていた。
 中間試験が近付き、部活動も休みの期間に入ったある日のこと。一日の授業が終わった後、颯太は帰るわけでもなく、自分の教室の机について本を読み耽っていた。本と言っても参考書の類ではない。連休中に小遣いで買った、麻雀初心者のための指南書である。
「ここは三萬を……いや違う、六萬を切った方がその後の受け入れが広いんだ……だから……」
 部室で延々解かされている何切る問題集を開きつつ、ぶつぶつと呟きながら指南書のページをめくる。
「おい」
「これは相手が既にリーチをかけているから……宣言牌が五索だからこっちの三索は切りにくくて……」
「おい、穴吹」
「この場合はツッパっても良さそうだけど……でもわざわざ相手がツモ切りを繰り返しているって書いてあるから……ここはテンパイしていると見て……」
「おい穴吹! お前耳聞こえてねぇのか!」
 周辺の空気を揺らす怒鳴り声に颯太はビクリと身体を跳ねさせて、声のした方を見上げる。そこには腕を組んだガタイの良い短髪の少年――板野和孝が、不快感を隠そうともしない仏頂面で颯太を見下ろしていた。
「え……な、何……?」
「何、じゃねぇだろ。お前こそ何やってんだ。それ、麻雀の本だろ」
「あ、うん……」
 蚊の鳴くような声で返事を返す颯太に、板野はますます不機嫌になって「チッ」と舌打ちまでかましてくる。
「そんな呑気に麻雀の本なんて読んでて、お前馬鹿か? 来週には高校入って初めての中間試験があるんだぞ」
「そう、だね……でも俺、同好会で夏の大会に出ないといけないから。まずは県予選だけど、先輩の足引っ張るわけにいかないし……」
「あー、そういやお前、麻雀同好会に入ったんだってな。お前みたいな陰キャが、そんな治安の悪い部活に入っていいのかよ。麻雀なんて、ヤクザやキナ臭ぇ連中の金稼ぎの手段だろ。さっさと辞めちまえ」
 板野の乱暴な物言いに、颯太は顔を曇らせる。
確かに颯太自身、最初は麻雀に対して板野が言っているのと似たようなイメージを抱いていた。しかし日和佐と一緒に同好会の部員と実際に打ってみて、その印象は覆ったのだ。相手の心理を読み、ツモの流れを見て、配られた牌をより高い打点でアガれるように組み立てる。日和佐も言っていたように、麻雀とは紛れもなく、頭脳を使って行うスポーツの一種なのだ。
「麻雀はそんな悪いものでも、怖いものでもないよ」
 いつの間にか、颯太の口から板野への反論が滑り出ていた。
「少なくとも、麻雀同好会の先輩たちに悪い人はいない。ちょっとヘンだなって思う人はいるけど……でも皆、純粋に麻雀が好きで集まっている人たちなんだ」
「どうだか。お前、騙されてんじゃねぇの」
 騙される。板野が発したその言葉が引き金になり、颯太は自身が麻雀同好会に入部した時のことを思い出した。自分は確かに、完全に騙されて同好会へと入部させられたのだ。今でもあの時のことを思い出すと、胸のあたりがムズムズするような心地を覚える。
 いつの間にか、当時を思い出してクスクスと笑みが漏れていたらしい。怪訝そう、というよりは不快そうな顔をした板野が、「何がおかしいんだよ」と問いかけてくる。
「いや……ごめん、何でもない」
「何かイラつくわお前。……あのな、一回しか言わねぇけどよ、俺はお前を心配……」
「穴吹君! 良かった、まだ残っていたのだね!」
 板野が言いかけた言葉を遮るようにしてガラリと教室の扉が開き、日和佐の声が飛び込んでくる。唐突に一年生の教室へと現れた美形の先輩に、残っていた生徒たちが何事かというような眼差しを向けた。日和佐の涼しげな目元と頬に浮かぶ端正な笑みに、教室のどこからかほう、と感嘆したようなため息が聞こえる。
「日和佐先輩? どうしたんですか?」
 颯太が顔を向けると、日和佐はつかつかと彼の机へと歩み寄ってくる。やはり片手には閉じた扇子を持っており、それでもう片方の手のひらをリズミカルに叩きながらこちらを見下ろしてきた。
 タイプの違うイケメン二人に見下されるというのはこんなにも圧迫感があるのか、と颯太は妙な感心を覚える。片方もとい板野の方は突然現れた上級生に驚いたのか、たじろいだように身を引いていた。コイツもこんな風に動揺することがあるんだな、と颯太は心の片隅で思う。
「喜べ穴吹君、今日は君も麻雀が打てるぞ!」
「はい? いや、でも、今は部活休みですよね?」
「打つのは部室ではない。僕の知人の親御さんが経営している雀荘で、だ」
「ええ? いやいや、雀荘って確か、高校生は入れないはずじゃ……」
「つべこべ言うんじゃない。それとも何か? 君は久方ぶりに本物の牌に触ることができるこのチャンスを、みすみす逃そうというのか?」
「そうじゃなくてですね、あっ、ちょ! それ、俺がお小遣いで買った本!」
 日和佐は机の上に出されていた本と問題集をかっぱらうようにして取り上げると、初めて部室に連れて行った時のように颯太の腕を引っ張って教室を連れ出そうとする。
「ああもう、何でこの人はこの見た目で力が強いんだ! ごめん、そういうわけだから、また!」
 呆然とした表情でこちらを見送っている板野に叫ぶと、颯太はあっという間に日和佐に引っ張られて廊下へと出てしまった。
 嵐が過ぎ去ったかのごとき勢いで連れ去られた颯太を見送った板野は、チッとまた小さく舌打ちをする。
「……んだよ、仲良さそうにしやがって……」
 彼は教室にいる他の誰にも聞こえないような声で、ぼそりと呟いた。


「『フリー麻雀しんまち』?」
「そう、それがこれから行く雀荘の店名だ。ご夫婦で経営されているのだが、息子さんが中学の同級生でね」
 学校を出て県庁のある通りを歩きつつ、二人は駅前の繁華街へと向かう。喫茶店が建っている角を曲がると、二階部分の窓に『麻雀』と書かれた雑居ビルが目に映った。郵便受けが並ぶ脇に階段があり、日和佐は迷うことなくそれを上っていく。
「穴吹君の言う通り、雀荘は基本的に十八歳未満及び高校生は立ち入り禁止だ。しかし、今回僕たちは友人の自宅に遊びに来ただけだ。その友人宅がたまたま雀荘を経営していて、これまた偶然なことに彼の自室にも雀卓が存在している。ただそれだけの話だ」
「そんな、お客さんがたまたま夜通し寝ちゃっただけで、あくまでウチは宿泊施設じゃありませんよって主張しているネットカフェみたいな理屈で……」
 そんなことを喋りながら二人は雑居ビルの階段を上り、『フリー麻雀』と書かれた扉をくぐる。店の中には雀卓がいくつか並んでいて、その内の一つが既に埋まっていた。奥の方では、夫婦らしき男女二人が何やら作業をしているのがうかがえる。
「遅いぞ」
 開口一番、ピシャリと厳しい言葉をぶつけてきたのは、くりくりとした瞳が印象的な少年だった。隣の市にある高校の制服を着て、店の備品らしい折り畳み椅子に腰かけている。少々色素の薄い髪は生まれつきなのか、傷んだ様子もなくサラサラと流れていた。
「待たせてすまない。彼が件の新入生、穴吹颯太君だ。穴吹君、こちらは僕の中学の同級生で、フリー麻雀しんまちの息子さん、新町葵(しんまちあおい)君だ」
「は、はじめまして……?」
 訳も分からないまま連れて来られた颯太は、とりあえず自分よりは年上らしい少年に頭を下げてみる。それに対して新町はフンと軽く鼻を鳴らし、「冴えない男だな。そのモジャモジャした頭ぐらい整えたらどうだ」と颯太が地味に気にしている癖毛をこき下ろしてきた。彼は一見するとショートヘアの少女のようにも思える容姿だが、性格はなかなかに豪胆なようだ。
「葵君、ウチの可愛い後輩をあまりいじめないでやってくれないか。彼は我が校期待の星なんだ」
「その割には貫禄がないな」
「穴吹君、すまない。驚いたかもしれないが、葵君はこういう男なんだ。しかし麻雀の実力に関しては確かだから、そこは安心してほしい」
「はあ……そうですか……」
 日和佐のフォローになっているのかいないのかよく分からない言葉を聞いた新町が、再び鼻を鳴らす。
「三つ子の魂百まで。僕の性格などどうでもいいから、さっさと席に着いてもらおう」
 彼は立ち上がると店から外に出る扉へと向かい、そのまま歩いていってしまう。
「では僕たちも行こうか、穴吹君」
「あ……は、はい!」
 慌てて新町の後を追うと、彼はビルの三階へと上っていくところだった。どうやら建物の三階は新町一家の居住スペースになっているようで、玄関を上がった先に廊下が伸びている。新町が右手のドアを開けると、部室で毎日のように眺めているのとよく似たタイプの全自動雀卓が中央に置かれた洋室に出た。部屋の壁には本棚がいくつか並べられており、いずれの棚にも書籍がぎっしりと詰められている。
「我が家の遊戯室だ。普段、家族麻雀を打つ時にはここを使っている。雀卓は最近買い替えたヤツだ」
「アモスJP-EXか、いいね。僕もこの機種は好きだ」
 同級生ということもあってか気安く会話を交わす二人を見ていると、何故か颯太の胸の奥が細い針で刺されたかのように痛んだ。痛みの理由が分からないまま突っ立っている内に、日和佐はさっさと雀卓につき、「穴吹君もこちらに」と自分の隣の椅子へと彼を座らせる。
「あの、今回はこのメンツで、三麻をやるってことですか?」
 慌てて席に着いた颯太が、隣に腰を下ろしている日和佐へと尋ねる。
「いいや。もちろん三麻もそれはそれで面白いが、葵君の本領が発揮されるのは四人麻雀なんだ」
「そろそろ来ると思うが……」
 日和佐と新町が何やら意味深長なことを呟いた瞬間、部屋の扉が開く。
「やあ、遅れてごめんね」
 柔和な声とともに現れたのは、四十代前後と思しき男性だった。どこか見覚えがあると思ったら、先ほど店の奥にいた夫婦らしき男女ペアの男性の方だ。
「どうも、息子がいつもお世話になっています。葵の父、(きよし)です」
「こちらこそ、本日は突然の申し出にも関わらず、お付き合いくださりありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げた日和佐に、颯太も急いで続く。
「お、お邪魔しています。穴吹颯太と言います」
「ああ、どうもご丁寧に」
「父さん、店の方は大丈夫なのか?」
「うん。今はそんなにお客さんも入っていないし、母さんがいるから」
 少し垂れた目尻が特徴的なその男性ははにかむように笑い、「家族麻雀以外でこんな若い子たちと打つ機会は滅多にないからね、ドキドキするなぁ」と指で頬を搔いてみせた。
「じゃあ、ひとまず半荘一回。赤ナシで始めるぞ」
 新町葵が宣言し、サイコロが振られた。


 席の並びは、颯太から見て左隣が日和佐、右隣が新町葵、対面が新町潔という形になった。サイコロの結果、まずは日和佐の親から始まる。
 颯太の配牌は一萬、五萬が二つ、六萬、三筒、四筒、六索が二つ、七索、八索、九索、南、北という並びだ。とりあえず、自風牌ではない北から切っていくことにする。一巡目でツモってきたのは四萬。悪くはない。二巡目では五筒をツモれたので、端から切っていくことにして一萬を打牌した。
「チー」
 するとすかさず、下家の葵が一萬を副露。一萬、二萬、三萬の順子を横に出した。
 葵がどんな手を組んでいるのか、颯太にはまだ分からない。ひとまず么九(ヤオチュー)牌を払って、タンヤオ狙いで行くことに決めた。
 ふと、手牌から顔を上げて他のメンツの表情を軽く眺めてみると、日和佐がほんの一瞬だけ微笑んだように見えた。実際は微笑んだと言うのも憚られるほどかすかに口角が動いただけだったが、颯太の心にはそれが妙に引っかかる。
 日和佐の手番になると、彼は發を切り出した。
「ポン」
 再び葵が鳴く。發の刻子が横に並んだ。
 続いて颯太の元に入ってきたのは九萬である。そのままツモ切りしようとした瞬間、ぞくりと背筋が粟立つような感覚に襲われた。
 マズい、これを場に出してはいけない!
 そう直感した刹那には九萬は河に捨てられ、時すでに遅し。
「チー」
 やはり葵が声を上げた。七萬、八萬、九萬の順子が揃う。
「ツモ!」
 言いようのない不安感に思考を奪われた颯太の耳に、右隣から間髪を入れず声が飛び込んできた。
混一色(ホンイツ)一気通貫(イッツー)、ハツ。2000・4000」
 倒された葵の手牌には四萬、五萬、六萬の順子と、白が二枚。
 あっという間のアガリ、おまけに満貫。何が起こったのか今一つ理解できないでいる颯太に、日和佐が穏やかに言う。
「次は穴吹君が親だね。では東二局、始めようか」


 オーラスが終わって終局を迎えると、颯太は魂が抜けたように天井を仰いだ。トップは新町葵で、日和佐と新町潔が二位、三位と続き、颯太は完全にラスである。手も足も出ない、とはこのことだ。
「ド素人じゃないか、こいつ」
 イライラしている様子を隠そうともしない目つきで颯太を見ながら、葵は吐き捨てるように言う。
「ド素人というほどではないさ。ただ、今の彼では葵君の相手は務まらないね」
 あっさりと言い放つ日和佐にトドメを刺され、うぐぅと低い声が漏れた。この先輩は一体、どんな意図を持って俺をここに連れて来たんだ?
 疑問は頭の中で渦巻くばかりで、答えには辿り着けそうにない。
「まあ、最初は皆ド素人だからな。こいつが下手な分にはどうでもいい。僕が腹立つのはジュン、お前だ」
「うん?」
 葵がジットリとした目つきで睨んでいるのは、日和佐だった。
「お前、たびたび僕に鳴かせるために牌を切ってきただろう。アシストのつもりか? 僕はお前に手助けを頼んだ覚えはない」
「アシストだなんてそんな、滅相もない。僕はただ、穴吹君に君の凄さを体感してほしいと思っただけだよ」
 日和佐はニコニコと笑みを浮かべながら、温厚に会話を続けている。葵はフンと鼻を鳴らし、「要するに僕は後輩の教育に使われただけってことだな。いい趣味だ」と毒づいた。
「だけ、ということはない。僕自身、久しぶりに君と打てるのが楽しみだったからね」
「……そうか」
 ツンと顔を背ける葵だが、先ほどまでのような剣呑な雰囲気はなくなっている。それどころか若干嬉しそうにしているように見えて、颯太は雀卓に向かっていた時とはまた別種の胸騒ぎを感じた。
「あの、先輩」
「穴吹君、葵君の実力は身を持って体感できたね? 彼は鳴きを駆使して最速でアガるスピードスターだ。中学の頃は『流星王子』なんて呼ばれてね、その道じゃ結構な有名人なんだよ」
「流星王子、ですか」
 確かに先ほどの半荘では、予想もつかないタイミングで鳴きを入れられ、流れ星が一瞬の間に燃え尽きるかのようにアガリをかっさらわれた。王子の方はおそらく、新町葵の姿の良さからつけられた二つ名なのだろう。
「その通り。ちなみに、最初に葵君の本領が発揮されるのは三麻より四麻だと言ったのは、単純に三麻だと鳴きの一つのチーができないからだね」
「そんな二つ名がつくレベルの人と打ってたんですね、俺は。そりゃあ手も足も出ないはずだよな……」
 颯太は椅子の背もたれに寄りかかり、再び天井を見つめる。同じ県内の相手にすらコテンパンにやられるのだ。これで万が一、県予選を突破して全国にまで進めた日には、どんな怪物と相対せねばならぬというのか。
「穴吹君、と言ったね」
 不意に、それまで静かに男子高校生たちのやり取りを聞いていた新町潔が口を開いた。
「は、はい」
「手も足も出なかったと言うが、それは違うんじゃないのかい?」
「え」
 垂れた目尻を柔らかく細めて問いかけてくる彼の言葉に、颯太だけでなく葵の表情にも緊張の色が走る。
「オーラスでの君はとにかくリーチをかけて何とかアガろうという意識が透けて見えていたけど、捨て牌から察するに、不要だと思って切ったはずの牌を何回もツモっていたようだね。焦って最終的に役なしの手牌を組んでしまっていたが、落ち着いて打っていれば、四暗刻でアガれていたんじゃないのかい?」
「あ……」
 言われて初めてそのことに気付いた颯太は、ポカンと口を開ける。葵も「オーラスで役満だったら、ラスは回避できたはずだな」と呟いた。
「それだけじゃない。君はさっきの半荘の最中にも時々、天啓を得たかのような打牌をしていた。ただの偶然、と呼ぶには少し違和感がある。おそらくだが……君は意識的にせよ無意識的にせよ、その場で打っている他のメンツの表情の変化や視線の動きから情報を得て、それを手牌に反映させているんじゃないのかな?」
「ええ? いやいや、俺がそんな大それたこと……」
「さすがは新町さん。僕が穴吹君に対して感じているスケールの大きさについて、この短時間で看破してしまうとは」
 動揺する颯太の言葉を遮って、日和佐が称賛の声を上げる。葵もどこか思い当たる節があったのか、唇を噛むようにして押し黙っていた。
「僕としては今回、穴吹君には葵君という強い打ち手と卓を囲んでもらって、良くも悪くも自分の今の実力というものを知ってもらいたいと思っていたのです。良くも悪くもと言うのは、現在の力量の差を思い知るというだけでなく、自身の中に秘めている才能を開花させるヒントがあるかもしれないという意味も含めてのことです。その上で、彼に何か感じ取ってもらえたらと思っていたのですが……いやはや、実にお見事としか言いようがない」
「ははは! 私をおだてても何も出ないよ、日和佐君」
 日和佐が頭を下げると、潔は大口を開けて笑う。
 要するに今のままでは勝てないが、自分の中に眠っているという才能を目覚めさせることができれば、葵のような実力者とも互角に渡り合えるようになるかもしれないということらしい。しかし自分にそんなことができるとは、今の颯太には到底信じられなかった。
「葵君、全国高等学校麻雀選手権には、出場するんだろう?」
「ああ」
 日和佐の問いに、葵は毅然として答える。
「まずは県予選を勝ち抜くところからだけどな。ジュン、お前も分かっているだろうが……今大会、確実にアイツも出てくるぞ」
「それは素晴らしい! さぞかし見応えのある大会になるだろうね。いやあ、楽しみだな」
 アイツ、というのは一体誰のことだろうか。葵の口ぶりから察するに、おそらく相当な打ち手なのだろうが。
「何を能天気な……お前、そんなこと言ってたら次は赤アリで半荘やるぞ」
「別に構わないとも。次は少々本気で打たせてもらおうかな」
 いつもの扇子を出してきてヒラヒラとあおぎ始めた日和佐を見て、葵は呆れたように肩をすくめる。
「ふん、言ってろ」
 そんな二人のやり取りをぼんやりと眺めていた颯太は、ふとあることに気付く。
「そういえば、何でさっきは赤ナシだったんですか?」
「は? ジュン、お前言ってないのか」
「ああ、どうにも伝えるタイミングを失っていてね。ちょうどいい」
 面食らったように言う葵に、日和佐が応じる。彼は颯太に向き直ると、普段とまったく変わらない様子で口を開いた。
「僕は赤緑色覚異常でね。早い話が、赤色と緑色の区別がつかないのさ」


 その後は雀荘が忙しくなってきたと店の方からヘルプ要請が入り、潔が二階に降りたことで場が立たなくなったため、この日はお開きとなった。
 夕闇が迫る駅前の通りを日和佐と歩いて帰路に着く間、颯太は何度か口を開いて何か言いかけようとした。しかし上手く言葉にできず、結局は黙り込んでしまう。そんな後輩の様子を見た日和佐は、「今日は疲れたかい? 帰ったらゆっくり休むといい」などと優しく声をかけてくれる。
「あ、あの!」
 このままでは埒が明かぬと、颯太は意を決して呼びかけた。
「日和佐先輩、今度からジュン先輩って呼んでもいいですか?」
「何?」
 まさかこのタイミングでこんな申し出をされるとは思わなかったのか、日和佐は驚いた様子である。
「もちろん構わないが、急にどうしたんだい」
「いや、どうしたというか……何かほら、新町さんは同級生ということもあるんでしょうけど、お互い名前で呼び合ってるじゃないですか。それでできれば、俺のことも『颯太』って呼んでもらえたら嬉しいな、なんて……」
 我ながら唐突な申し出をしてしまったと思い、颯太の勢いは尻すぼみにしぼんでいく。そんな後輩の様子を訝しげな眼差しで見ていた日和佐だったが、やがてクスクスと笑みを漏らし始めた。
「な、何かおかしかったですか?」
「いや失敬。面白い後輩君もいたものだと思ってね」
 目尻を指で拭いながらそう言う日和佐は、「分かったよ。では僕も今度から颯太君と呼ばせてもらおう」と続ける。
「はい、それでお願いします。ジュン先輩」
 先輩がもつ色覚異常については触れない。まだ、その時ではない。
 颯太は歩幅を広げて準之助の隣に並び、薄明かりがまだ残っている家路を歩き始めた。