上戸が眠った同時刻。中原は、自室でスマホを開いていた。画面には、上戸からのメッセージ。眠るまでの数分のやり取り。彼からのスタンプを見つめ、そっと微笑んだ。

「また明日ね、上戸」

 スマホを胸に抱え、ソファに背を預ける。心の奥が、ふわりとあたたかく満たされていく。これからも、ずっと一緒にいたい。目を軽く閉じ、今日1日を振り返り浸っていると、ドアを軽く叩く音で現実に引き戻される。中原は大きなため息をつき「はい」と返事をした。

「アミ。ちょっといいか?」

 兄、ケンタの声が、部屋の外から響いた。

「今行く」

 中原はスマホを机に置き、もう一度息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。

 リビングに降りると、ケンタはソファに深く腰を下ろし、コーヒーが入ったマグカップを片手にしていた。無言のまま、妹をじっと見つめている。

「何、兄さん」

 中原は立ったまま、静かに問いかけた。

「お前さ、彼氏できたんだって? 下関から聞いたぞ」

 ケンタの声には、どこか詰まったものがあった。中原は、ふっと微笑む。

「うん。やっとね」

 ケンタの眉が、わずかに動いた。その『やっと』という言葉に、何かを感じ取ったのだろう。

「下関のこと振っといて、よくやるわ」
「好きじゃないから断った。別に普通でしょ?」

 ケンタは、手の中のカップをぐっと握った。そして、深く息を吐く。

「アイツ、昔からお前のこと、マジで好きだったんだぞ。3回も告って全部振られて」
「そうだね。だから東京行ったんだっけ?」

 中原アミの声は、どこまでも淡々としていた。まるで他人事のように、何も感じていないかのように。

「お前のせいで、お前が『人生経験多い男じゃないと無理』とか言うから、アイツあんなに女遊びするようになって……」

「そう」

 兄の言葉に全く動じず、アミはキッチンに行くと、冷蔵庫から水の入れ物を出してグラスに注ぐ。

「……お前と、アイツに群がってた女子たち。俺、正直、トラウマだわ」

 ケンタは諦めたように息を吐き、うなだれていた。そんな彼に向け視線を少しだけ落とし、ぽつりと呟く。

「シモくんには感謝してるよ」
「は?」

 ケンタが甲高い声と共に顔を上げる。妹が、キッチンのカウンター越しに、笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

「シモくんがモテまくったおかげで、やっと上戸の彼女になれた」

 アミがうっとりと目を細める。その瞬間、リビングの空気が冷たく感じられた。ケンタの顔がこわばる。

「ずっと見てたのに……。上戸ってば、他の女とばっかりつき合って。あの子たち、みんな上戸の顔しか見てないバカばっかのに。私だけが、ただの友達のまま、我慢するしかなかったんだよ?」

 ケンタの背筋が冷えていく。妹は笑っていなかった。その目は、確かな嫉妬の熱を帯びている。

「そんなの、悔しくないわけないでしょ」
「だったら、お前もすぐ告ればよかったじゃん」
「それじゃ意味ないし。あのバカ女たちと同じになるだけなんだから」

 ケンタは、言葉を失った。自分の妹が、ここまでの感情を抱えていたことを、これほどまでに歪んでいたことを、知らなかった。知りたくもなかった。結果、幼馴染の下関が、伝説のイケメンと呼ばれ、もてはやされたのにも関わらず、初恋に敗れて地元を去ってしまった。今なお傷ついている親友を思うと、がっくりと肩を落とすしかない。

「アミ、お前、ホント怖いよ」

 苦し紛れの兄の言葉に、アミは、肩をすくめ口角を上げた。

「怖くてもいいよ。誰に何を言われても平気。私は上戸の初恋になれたんだから」

 落ち込むケンタを一瞥(いちべつ)し、アミは席を立ち、部屋へと戻った。ベッドに横になって、スマホを手に取り、あるフォルダを開く。

「U」と書かれたフォルダ。そこには想い人についての無数のメモ、写真、記録。丁寧に積み重ねてきた、軌跡。それらを見つめ、とろりと目尻を下げる。優しく、指で画面に映る彼の顔を撫でた。
 ——好き。好き。大好き。初めて見たときから顔が好き。優しいところも、実は努力家なところも、大好き。優柔不断で流されやすいところも、他人からの評価が気になっちゃうところも、傷ついてもそれを口に出せない弱いところも、何もかも全てが愛おしい。

「やっと始まった。あとは、上戸のお嫁さんになる準備かな」

 中原の瞳は、どこまでも静かで、満ち足りていた。