ある日、サッカー部の練習終わり、上戸はグラウンド脇でひと息ついていた。
6月の後半、昨日は雨。
 足元の土はまだ少し湿っていて、踏みしめるたびに、草の青い匂いがふわっと立ち上る。
その中に、自分のシャツに染みついた汗が混じって、夏の空気を強く感じさせた。
生ぬるい風が吹き抜けるたび、肌にまとわりつく汗が少し冷えて、心地よいような、気怠いような感覚が残る。
 草の匂いと、汗の匂い。初夏から夏へ季節が変わる、ほんの少し手前。上戸はこの時期が嫌いじゃなかった。

「お疲れ。がんばってたね」

 着替えて部室を出て数歩。声をかけてきたのは、中原だった。

「また来てたのかよ」
「うん。たまたま、だけどね」

 彼女は、そう言っていつものように無表情に笑った。

「バス?」
「うん」

 ふたりは自然に並んで歩きだす。
夕暮れ前の空はまだ明るく、セミが鳴き始める前の、静かな時間が流れていた。校門を出た頃、上戸は汗を拭いながら、ふと口を開いた。

「なぁ、中原」
「ん?」
「この前、『ちゃんと見てる人はいる』って言ったよな」
「言ったね」
「サッカーは、まあわかるとしてさ。俺の優しいとことか、どこを見てそう思ったの?」

 中原は少しだけ驚いたように目を見開いて上戸を見る。それからゆっくりと顔を伏せた。

「……中学の時のこと、覚えてる?」
「ん?」
「入学したばかりの頃。廊下でハンカチを落としたの。それ、拾ってくれたじゃん」
「ああ、あったっけ? そんなこと」
「あったよ。そのとき、上戸が笑ってくれて……すごく、安心したの。私、隣町から引っ越してきて、
ひとりだけ小学校も違って。それまでは、緊張して、誰とも話せなかったから」

 正直上戸には全く覚えがなかった。だがハンカチが落ちていれば拾うだろう。なんてことない出来事だ。

「そっか。ごめん。俺、全然覚えてないや」
「だよね。思い出せないくらい自然なことなんだよね、上戸にとっては。けど私、ずっと感謝してたんだ。
そのおかげで緊張が解けて、柚月とかとも仲良くなれたし」

 少し遠くを見る中原の目が、静かに弧を描いた。綺麗だ、と思った。上戸は急に顔が熱くなり、ごまかすように視線を外した。

「たいしたことじゃないと思うけどな」
「うん。でも、私にとっては、大事なことだったから。あのときは、ありがとね」
「お、おう」

 風が、少しだけ涼しくなった気がした。
夕焼けの光が、ふたりを静かに包んでいた。

「なぁ、中原」
「何?」

 上戸はバス停の前で息を整え、まっすぐに中原を見据えた。

「俺さ、中原のこと、もっと知りたいなって思ってる」

 彼女は驚いたように瞬きをして、
すぐに、静かに頷いた。

「私も、上戸のこと、もっと知りたい」