春の午後、校舎の窓から見える中庭には、やわらかな陽差しが降り注いでいた。
風はほんのり暖かく、桜の花びらを静かに揺らしている。
上戸は、ゴミ箱を手に、渡り廊下を歩いていた。 今日は教室の掃除当番だった。 窓から覗く空は快晴。ふわりと吹く風は、どこまでも穏やかで、心地よかった。
「ねぇ、上戸くん」
突然、背後から声をかけられる。振り返ると、隣のクラスのヒナが立っていた。小柄で細身、小さな顔にぱっちりと大きな目、友人たちがかわいいと言っていたな。自分とは委員会が一緒で、廊下ですれ違うと挨拶する程度だ。何か連絡だろうか? と上戸が考えて見下ろすと、彼女は制服の袖をぎゅっと握るようにして、視線を落としている。
「あー、ヒナちゃん。どうしたの?」
「ちょっと……いい?」
上戸は「うん」と頷いてゴミ箱を廊下の端に置き、彼女に促されるまま、中庭へと向かった。
中庭についてヒナと向き合うと、桜の花びらを纏った風が、彼女との間をそっと通り過ぎた。春の匂いと、少しの緊張が混ざっている。
「どうしたの?」
「うん、あのね」
上戸の問いかけにヒナが小さく頷き、ゆっくりと口を開く。なんとなく、次に出てくる言葉に想像がついた。
「えっと……私、ずっと上戸くんのこと、好きでした。よかったら、私とつきあってください!」
その声はやや上擦り、小さく震えていた。けれど、潤んだ瞳はまっすぐこちらを見ている。上戸は少しだけ目を丸くしたものの、すぐにふっと目元を緩めた。
「ああ、うん。ありがとう。俺でよかったら、よろしく」
ヒナは一瞬驚いたように眉をあげ、それからほっと息を吐くようにして、明るい笑顔を浮かべた。それを見ながら、かわいいな、と上戸の口の端が上がる。それはごく自然な気持ちで、これまでも何度も同じように感じてきたことだった。
「マジかよ、お前またつきあったの?」
教室に戻ると、クラスメイトの田中が声を上げる。小学校の頃からの友人だが、彼女ができるたび、この第一声は変わらない。
「ヒナちゃんだろ? 羨ましいなぁ、あの子かわいいし!」
高校からの友人鈴木も、ニヤつきながら肩を叩いてくる。
「ま、まぁ……そんな感じ」
上戸は照れ隠しのように笑った。こうやって冷やかされるのも、もう慣れたものだった。
「でもさ、ヒナちゃんってさ……下関くんと付き合ってたって噂なかったっけ?」
その場にいた仲間のその一言に、上戸はふと顔を上げた。
「え、マジで?」
「うん、塾一緒だったとかなんとか。柚月、知ってた?」
「知ってる〜。私も同じ塾だったから」
小学校からの友人で、田中の彼女でもある柚月が、大きく頷いた。
「私が通ってる塾に、去年は3年だった下関くんもいたんだけど……。私、本人の顔、一度も見たことなかったんだよね」
「え、マジで? なんで?」
田中が驚いたように身を乗り出す。
「だって、いつも女子が周りにいっぱいなんだもん。廊下とかでも取り巻きがいて、遠くから人だかり見えるなーって思ったら、下関くんって感じで……」
「うわー、それはヤバいな。さすが伝説のモテ男、下関くん」
鈴木が感心したように頷いた。
下関くん。彼は上戸たちが住む地域の隣町に住んでいた、2歳年上で伝説のイケメンだった。生活圏が微妙に違うのか、一度も会ったことはないが、その伝説は彼が大学進学のため東京に引っ越して行った今もなお語られている。
「そうそう。だから、どんな顔してたのか、実は知らないの。そんなイケメンなら一度くらい見てみたかったな〜」
柚月がぽつりと呟くと、田中が眉尻を下げ、肩を落とす。
「……え、柚月?」
「ん?」
口を尖らせる恋人に、柚月はくすっと笑った。
「でも、田中くんよりかっこいい人、私見たことないよ」
「ゆ、柚月……そういう不意打ちやめろって!」
田中が顔を真っ赤にして叫ぶ。教室に、ひととき和やかな笑い声が広がった。
「すごい人だったんだなぁ、下関くんて」
上戸は感心しながら頷く。確かに、一度は彼を見てみたかったものだ。
「そういえばさ」
ガヤガヤと田中たちが騒がしい中聞こえた声は、いつもはあまり話さない中原のものだった。同い年の女子にしては静かで、けれど妙に耳に残るトーン。
「上戸の元カノって、全部、下関くんのお下がりじゃない?」
一瞬、教室が静まり返った。田中と鈴木すら目を丸くして固まった。上戸はぎこちなく首を傾げる。
「ん? どういうこと?」
「ほら、中学のときつき合ってた佐野先輩も、今回のヒナちゃんも。それに他の子たちも。全部、下関くんと何かしら関わってたってこと。別に、深い意味はないけど」
中原が何気ないように言葉を連ねて微笑んだ。上戸は苦笑して、くしゃりと軽く髪の毛を掴んだ。
「そっか……言われてみたら、そうかもな。偶然だけど」
「うん、偶然だね」
中原は肩をすくめて、手にしていたスマホに視線を戻した。
その日の帰り道、上戸はヒナとの会話を何度も思い出していた。笑ってくれた顔。ぎこちない告白。自然に頷いた自分。でも、そのたびに、ふと頭の中をよぎるのは、あの言葉だった。
『お下がりじゃない?』
そんなはずない。そんなつもりもなかった。過去があるのは当たり前。自分だってそうだ。でも、一度意識してしまうと、妙に心に引っかかる。
「お下がり、か」
春の風が吹き抜ける。 中庭にいた時よりも、ほんの少しだけ肌寒く感じた。
上戸は、ゴミ箱を手に、渡り廊下を歩いていた。 今日は教室の掃除当番だった。 窓から覗く空は快晴。ふわりと吹く風は、どこまでも穏やかで、心地よかった。
「ねぇ、上戸くん」
突然、背後から声をかけられる。振り返ると、隣のクラスのヒナが立っていた。小柄で細身、小さな顔にぱっちりと大きな目、友人たちがかわいいと言っていたな。自分とは委員会が一緒で、廊下ですれ違うと挨拶する程度だ。何か連絡だろうか? と上戸が考えて見下ろすと、彼女は制服の袖をぎゅっと握るようにして、視線を落としている。
「あー、ヒナちゃん。どうしたの?」
「ちょっと……いい?」
上戸は「うん」と頷いてゴミ箱を廊下の端に置き、彼女に促されるまま、中庭へと向かった。
中庭についてヒナと向き合うと、桜の花びらを纏った風が、彼女との間をそっと通り過ぎた。春の匂いと、少しの緊張が混ざっている。
「どうしたの?」
「うん、あのね」
上戸の問いかけにヒナが小さく頷き、ゆっくりと口を開く。なんとなく、次に出てくる言葉に想像がついた。
「えっと……私、ずっと上戸くんのこと、好きでした。よかったら、私とつきあってください!」
その声はやや上擦り、小さく震えていた。けれど、潤んだ瞳はまっすぐこちらを見ている。上戸は少しだけ目を丸くしたものの、すぐにふっと目元を緩めた。
「ああ、うん。ありがとう。俺でよかったら、よろしく」
ヒナは一瞬驚いたように眉をあげ、それからほっと息を吐くようにして、明るい笑顔を浮かべた。それを見ながら、かわいいな、と上戸の口の端が上がる。それはごく自然な気持ちで、これまでも何度も同じように感じてきたことだった。
「マジかよ、お前またつきあったの?」
教室に戻ると、クラスメイトの田中が声を上げる。小学校の頃からの友人だが、彼女ができるたび、この第一声は変わらない。
「ヒナちゃんだろ? 羨ましいなぁ、あの子かわいいし!」
高校からの友人鈴木も、ニヤつきながら肩を叩いてくる。
「ま、まぁ……そんな感じ」
上戸は照れ隠しのように笑った。こうやって冷やかされるのも、もう慣れたものだった。
「でもさ、ヒナちゃんってさ……下関くんと付き合ってたって噂なかったっけ?」
その場にいた仲間のその一言に、上戸はふと顔を上げた。
「え、マジで?」
「うん、塾一緒だったとかなんとか。柚月、知ってた?」
「知ってる〜。私も同じ塾だったから」
小学校からの友人で、田中の彼女でもある柚月が、大きく頷いた。
「私が通ってる塾に、去年は3年だった下関くんもいたんだけど……。私、本人の顔、一度も見たことなかったんだよね」
「え、マジで? なんで?」
田中が驚いたように身を乗り出す。
「だって、いつも女子が周りにいっぱいなんだもん。廊下とかでも取り巻きがいて、遠くから人だかり見えるなーって思ったら、下関くんって感じで……」
「うわー、それはヤバいな。さすが伝説のモテ男、下関くん」
鈴木が感心したように頷いた。
下関くん。彼は上戸たちが住む地域の隣町に住んでいた、2歳年上で伝説のイケメンだった。生活圏が微妙に違うのか、一度も会ったことはないが、その伝説は彼が大学進学のため東京に引っ越して行った今もなお語られている。
「そうそう。だから、どんな顔してたのか、実は知らないの。そんなイケメンなら一度くらい見てみたかったな〜」
柚月がぽつりと呟くと、田中が眉尻を下げ、肩を落とす。
「……え、柚月?」
「ん?」
口を尖らせる恋人に、柚月はくすっと笑った。
「でも、田中くんよりかっこいい人、私見たことないよ」
「ゆ、柚月……そういう不意打ちやめろって!」
田中が顔を真っ赤にして叫ぶ。教室に、ひととき和やかな笑い声が広がった。
「すごい人だったんだなぁ、下関くんて」
上戸は感心しながら頷く。確かに、一度は彼を見てみたかったものだ。
「そういえばさ」
ガヤガヤと田中たちが騒がしい中聞こえた声は、いつもはあまり話さない中原のものだった。同い年の女子にしては静かで、けれど妙に耳に残るトーン。
「上戸の元カノって、全部、下関くんのお下がりじゃない?」
一瞬、教室が静まり返った。田中と鈴木すら目を丸くして固まった。上戸はぎこちなく首を傾げる。
「ん? どういうこと?」
「ほら、中学のときつき合ってた佐野先輩も、今回のヒナちゃんも。それに他の子たちも。全部、下関くんと何かしら関わってたってこと。別に、深い意味はないけど」
中原が何気ないように言葉を連ねて微笑んだ。上戸は苦笑して、くしゃりと軽く髪の毛を掴んだ。
「そっか……言われてみたら、そうかもな。偶然だけど」
「うん、偶然だね」
中原は肩をすくめて、手にしていたスマホに視線を戻した。
その日の帰り道、上戸はヒナとの会話を何度も思い出していた。笑ってくれた顔。ぎこちない告白。自然に頷いた自分。でも、そのたびに、ふと頭の中をよぎるのは、あの言葉だった。
『お下がりじゃない?』
そんなはずない。そんなつもりもなかった。過去があるのは当たり前。自分だってそうだ。でも、一度意識してしまうと、妙に心に引っかかる。
「お下がり、か」
春の風が吹き抜ける。 中庭にいた時よりも、ほんの少しだけ肌寒く感じた。
