――ねぇ。
――ねぇねぇ、起きて。
薬のおかげですぐに睡魔に襲われたものの、誰かが呼びかける声に瑞貴は起こされた。
「君、ラムネが好きなの?」
誰かが頭の上から声をかけてきた。肩を揺らしてまで起こすほどのことだろうか。
ようやく眠れたと思ったのに、と不貞腐れながら顔を上げれば、そこには瑞貴の透明なプラスチックケースに入った錠剤をちらつかせた女子生徒が立っていた。黒髪のショートに耳をかき上げるように付けたヘアピンは、小さな子どもが好きそうな星の形をしている。そんなピンをつけるような子は、この学校では有名人だ。
菱川晴――校内で噂の「不思議ちゃん」だ。彼女の言動には子どもらしい好奇心と探求心が詰め込まれており、何かしでかすたびに教職員は頭を抱えている。その一方でほとんどを保健室で過ごしているのにも関わらず、成績は上から数えたほうが早い。まるで雲のように自由気ままで不思議な行動を繰り返す、謎の多い女子生徒だった。
瑞貴も噂程度で聞いたことはあったが、同じクラスでもない晴との関わりはないに等しい。だからどうして空き教室で突っ伏した瑞貴のもとにやってきたのかわからなかった。
眉を顰める瑞貴に対して、晴はむっと口を尖らせると、持っていたプラスチックケースをマラカスようにガシャガシャと振った。
「だーかーらぁ! これ、君のものでしょう?」
「うるさっ……勝手に人の物を盗るなよ」
癇癪を起こす前にプラスチックケースを取り戻す。念のため蓋を開けて中身を確認する。減っている様子はなさそうだ。
「一応聞くけど、食べてないよね?」
「食べないよー。他人様のものを食べるときは、了承を得てからって言われたもん!」
ってことで頂戴? と晴は手を差し伸べてくる。瑞貴は蓋を閉じるとすぐにジャケットの内ポケットに入れた。間違っても他人が口に入れていいものではない。
「なんで君がこれを持っているんだ?」
「出しっぱなしにしてたから。気になって触っちゃった」
「ちゃったって……」
「それよりもラムネ! 私にもちょーだい? 持ち歩いているってことは、それほど美味しいラムネなんでしょ?」
一歩間違えれば泥棒と同じだと突っ込んだところで、彼女から出てくるものは都合のいい後付けだけだろう。目を爛々と輝かせてラムネ――実は睡眠薬なのだが――を求める晴に、瑞貴は呆れたように溜息を吐いた。そもそも、ラムネに美味しいも何もない気がする。
「駄目。これはラムネじゃないからあげられない」
「ラムネじゃないの? じゃあなぁに?」
「……なんで知りたいの?」
「それだけ大切に持っていたら気になるよ。内緒にするから、お願い!」
パチン、と両手を合わせて懇願する彼女を信用できないが、言わなければ言わないで、今後しつこく付きまとってくるかもしれない。それは面倒だ。
「これは、僕にとって大切なお守りなんだ」
と言っても、中身はただの睡眠薬だ。通常、PTP包装シートで管理されているものだが、瑞貴は意図的にすべて封を開けてプラスチックケースに詰めている。一回の使用量を意図的にわからなくするためだ。
これ以上突っ込まれて聞かれると困るのだが、晴はなぜか嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、私と一緒だね!」
「え?」
「私もほら、いつ眠ってもいいように日記を持ち歩いているの。私のお守り!」
晴がジャケットの外ポケットから引っ張り出したのは、手のひらサイズの薄緑色をした手帳だ。屈託のない笑顔を見せるそれは、本当に小さな子どもが自慢しているかのようで瑞貴は困惑する。
「私が眠っても、誰か、が……あれ……?」
「――っ、おい!?」
途端、晴の身体はぐらりと揺れ、そのまま瑞貴のほうへ倒れ込んできた。慌てて受け止めるも、周囲の机や椅子がずれたり、ひっくり返ったりして大きな音が教室に響いた。抱き留めた晴は、瑞貴の腕の中で小さく寝息を立てている。
「大丈夫か、起きろって! 起き……っ!」
その時、椅子の倒れる音と瑞貴の声を聞きつけて誰かが入ってきた。瑞貴がいるクラスを担当している教師だった。光景を目の当たりにして、「またか」といたって冷静に呟いた。
「大丈夫か、芦屋」
「つ、ついさっきまで普通に話していて、急に倒れて……! 病院とか、救急車とか!」
どうしたらいいのかわからなくなって、瑞貴は震える手で教師に向かって手を伸ばした。人が目の前で倒れるなんて思ってもいなかった。不安と恐怖で押しつぶされそうで、バクバクと心音が煩い。呼吸が荒く苦しくなっていく。
すると、教師はすぐに伸ばした手を掴んで、瑞貴に優しく言い聞かせた。
「ああ、大丈夫。あとは先生に任せてくれ。びっくりしたよな、ごめんな」
そこからは慣れたように瑞貴を落ち着かせ、晴を背負い保健室のベッドまで運ぶ。ひと段落ついたところで、教師は瑞貴に事情を話した。
菱川晴は、重度の過眠症らしい。



