彼女が、安らかに眠れますように


 ◇

 ――おはよう。久しぶりだね。

 いつもすぐ近くで声だけが聞こえるだけなのに、今日はなぜか菱川晴の姿がはっきりと目に映る。ご丁寧に背景が空き教室なのは、どんな配慮だろう。ちゃっかり自分も制服を着ている。

 ――会いに行こうと思ったら、君が拒絶しているんだもん。焦っちゃった。

(……あの書き置きは、いつから?)

 ――一昨日くらいかな。過眠期は一週間前に入ったけど、ちょっとだけ起きている時間があったの。その時に先生に渡してもらうようにお願いしたんだ。書き置きにしたら、きっと夢の中で会えるかなって。

 照れくさそうに笑う晴は、起きていた時と変わらない。もしかしたら、最後なんじゃないかとか悪い方向に頭がよぎる。

 ――先生から聞いたよ。もう学校に来ないの?

(わからない)

 家にいても腫れもの扱い、学校での居場所はあの空き教室だけだ。担任の教師だけが瑞貴の不眠症を理解してくれているが、他の教師や生徒からは批判を受けている事も知っている。近いうちに誰も出入りできないように閉鎖されるかもしれない。

(……目を瞑ると、どうしても思い出してしまうんだ)

 夏の暑い日の澄んだ青空、小学校の校舎にかかった時計、錆び始めたジャングルジム、落下する少女に向けて伸ばした自分の手――十年も経っていないのに、その回想は自分を追い詰めてくる。少女が地面に叩きつけられた瞬間が思い出せないのは、最悪のケースをわざと想像させようとしているのか。精神的に自分が自分を追い詰めているこの状況に、もはや抗う気力すら沸かない。

(君はいつ目を覚ます?)

 これ以上思い出したくなくて、瑞貴は話をがらっと変えた。晴は不服そうだが、また小さく笑った。

 ――いつだろうね。明日か、明後日か。はたまた一週間、一年……あと一秒後だったりして? もしかしたら、このまま夢の中で居続けるかもしれないよ?

 話し方も笑みも、あの空き教室で話しているときと変わらないのに、瑞貴は唐突に違和感を覚えた。彼女の瞳は、こんなに哀しそうに揺れていただろうか。

(まさか――)

 ――だから、ね。お礼を言いたかったの! 私を――

 途端、周囲が光り出した。見慣れた教室の風景も、晴の姿も光に包み込まれていく。

(待って、待ってよ)

「――晴!」


 叫んだと同時に目が覚める。ここが自室であることを飲み込むまでに時間がかかった。上体を起こして、寝間着代わりに着ているTシャツがぐっしょりと汗ばんで色が変わっていた。

(夢……そう、だよな。彼女はまだ過眠期だ。夢以外で会えるわけが……)

 大きく深呼吸をして落ち着かせる。ふと、瑞貴は晴へ伸ばしていた手を見つめた。夢だったから、彼女に触れられるわけがない。それでも、瑞貴にはあの晴が、ジャングルジムから落ちたあの少女によく似ていて、一瞬、躊躇ってしまった。

「……また、掴めなかった……っ!」

 今も瞼の裏にいる晴は、一筋の涙をこぼした哀しそうな笑みを浮かべていた。