フリルつきのワンピースときらきらのネックレスを身につけて、俺は柔らかいラグの上に寝転がっていた。
手には触り心地のいいぬいぐるみ。ぎゅっと抱きしめたまま顔を上げると、優しく微笑んだ母がこちらを見つめている。
――とっても可愛い。可愛いね、光希。
温かい手のひらが伸びてくる。慈しむように髪を撫でられて、喜びに笑みがこぼれる。
安堵から眠くなった俺に、母はいちご柄のタオルケットをかけてくれた。身じろぎをして横向きになって初めて、自分はラグではなく、大きなラブラドール・レトリバーに身を預けていたと気づく。
クリームの毛並みに頬を寄せる。「ラブ」と呼びかけると、ラブの腹が微かに震えて、くうんと控えめな鳴き声が返ってくる。
体を丸めたラブは大きな舌で俺の頬を舐めた――くすぐったい。くすぐったいよラブ。あはは、やめて。いい子だからさ、ねえ、お願い。
俺は手を伸ばして、ラブの体をぎゅっと抱きしめる。俺よりもラブの方が体が大きいから、抱きしめても抱きしめられてるみたいになる。
とくとくと鼓動が聞こえてあったかい。嬉しいな、幸せだなあと思ったところで、ああこれ夢だとぼんやり気づく。
すうっと意識が剥がれて、目を開けるとただ白いだけのアパートの天井が視界いっぱいに広がった。
「……最悪」
身を起こし、ぼんやりとつぶやいて目尻を拭う。指の先を、忘れものみたいな水滴が濡らす。
*
アルバイト先の事務所で上着を脱いでいると、「お疲れーっす」と言って阿智先輩が入ってきた。
「っす」
俺は小さく頭を下げるだけで返して、荷物の整理を急ぐ。
「お疲れ光希。なんか機嫌悪い?」
「逆に、俺の機嫌がよかった試しってあります?」
「あはは、こりゃ相当キテんね」
俺の隣に並んで、阿智先輩は着ていたパーカーをがばりと脱いだ。程よく筋肉のついた上半身を横目で見ながら、俺は眉をひそめる。
「それ、女子たちの前でやったらセクハラですよ」
「いやいや、むしろサービスっしょ。そもそも更衣室ないのが悪いんだって」
俺のジト目をものともせず、阿智先輩は悠々と店のTシャツに着替える。
その自信がどこからくるのか、俺にはさっぱりわからない。
「どうせ悪い夢でも見たんだろ」
なにげなく言われて、驚いて顔を上げた。「あれ図星?」と首を傾げて、阿智先輩は唇を歪める。
「冗談だったのに。可愛いね、光希」
「チッ……死んでください」
「あーそれチクチク言葉。俺傷ついた」
「勝手に傷ついとけ」
俺は阿智先輩の裏ももに蹴りを入れてタイムカードを切り、フロアに出る。今日は金曜日だから、今は開店前で静かな客席も、一時間後にはほとんど埋まる。
嫌な夢を見てただでさえ最悪な気分なのに、想像しただけでテンション下がりまくりである。
京が店に入ってきたのは、開店二時間後の二十時だった。
いつぞやと同じ二時間飲み放題つきのコースが十二名様分、またうるさそうなのがきたなあと舌打ちをしたくなるのを必死に堪え、「いらっしゃいませ」と営業スマイルを振りまいた先で、ばっちり目が合った。
京は足を止め、俺の顔を見つめたまま大きく目を見開いた。なにも言われなくても、俺にはわかる。あれは絶対に「みっちゃんが笑った」と考えている。
「よお一年。なにしにきた」
「不可抗力だって。学科の先輩が飲み好きなの」
笑顔を消して詰め寄ると、京は顔の横で慌ただしく両手を振ってみせた。
「ふーん。ストーカーじゃなくて安心したよ」
さっさと行けよと顎で席を案内する。あいにく両手は下げてきたビールジョッキと小皿で塞がっているし、そうでなくとも、俺は今日すこぶる機嫌が悪い。
「あれ、今のやつ、四月にも来てなかった?」
席の案内を終えて戻ってきた阿智先輩が、こそこそと尋ねてくる。「よく覚えてますね」と応じると、「めっちゃ背高いし、光希と仲良さそうだったからね」と返ってきた。
「仲いいっていうか、まあ、幼馴染みたいなもんです」
「ふうん?」
そこで阿智先輩は、ちらりと後ろを振り返った。つられて振り返ろうとした瞬間、覆い被さるように肩を組まれて、俺は小さく悲鳴を上げる。
「危なっ! ちょっと、なにするんですか」
「六月四日、シフト空いてるメンツで飲もうって話出てんの。光希も来いよ」
「は?」
「誕生日でしょ」
切れ長の目に至近距離から覗き込まれて、心臓が跳ねて言葉に詰まる。
「そう、ですけど」
なんで知ってるんだろう。メッセージアプリの通知だろうか。
それにしたってよく覚えているなと感心していると、「来てくれたらプレゼントあげる」と阿智先輩がつけ足した。
プレゼント、という響きに少しひかれて、俺は阿智先輩の顔をまじまじと見返す。にやりと意地の悪い感じで笑った阿智先輩は、俺の思考を先回りして「来てくれなきゃあげないよ」と口を開いた。
「まあ、デートの予定でも入ってるんなら仕方ないけどね」
「いや、それは全く……」
そもそも何曜日だっけ、と思考を巡らせて、水曜日だということを思い出す。バイトのシフトを出す時にそのことに気がついて、「誕生日までフルコマかよ」と少し落ち込んだのだ。
「あ、でも」
「でも?」
「水曜日は――」
水曜日は京と、と言いかけたところで、はたと気づく。
なんで俺が、あいつのためにわざわざ予定を空けなきゃいけないんだ。
そもそも京との夕食は、約束しているわけではないのだ。俺にはプレゼントとわんちゃんのお守りを天秤にかける権利があるし、京の方だって、ある程度断られる可能性があるとわかっているはずである。
「プレゼントって、結構いい物です?」
「多分。光希が欲しがってるやつだと思うよ」
「じゃあ行きます。飲み明かしましょう」
「やば、ゲンキンすぎてしんど」
ぷはっと笑って、阿智先輩はようやく俺の肩から腕を離した。
解放されたことに安堵しつつ、俺は下げた食器を置きに厨房へ急ぐ。
手には触り心地のいいぬいぐるみ。ぎゅっと抱きしめたまま顔を上げると、優しく微笑んだ母がこちらを見つめている。
――とっても可愛い。可愛いね、光希。
温かい手のひらが伸びてくる。慈しむように髪を撫でられて、喜びに笑みがこぼれる。
安堵から眠くなった俺に、母はいちご柄のタオルケットをかけてくれた。身じろぎをして横向きになって初めて、自分はラグではなく、大きなラブラドール・レトリバーに身を預けていたと気づく。
クリームの毛並みに頬を寄せる。「ラブ」と呼びかけると、ラブの腹が微かに震えて、くうんと控えめな鳴き声が返ってくる。
体を丸めたラブは大きな舌で俺の頬を舐めた――くすぐったい。くすぐったいよラブ。あはは、やめて。いい子だからさ、ねえ、お願い。
俺は手を伸ばして、ラブの体をぎゅっと抱きしめる。俺よりもラブの方が体が大きいから、抱きしめても抱きしめられてるみたいになる。
とくとくと鼓動が聞こえてあったかい。嬉しいな、幸せだなあと思ったところで、ああこれ夢だとぼんやり気づく。
すうっと意識が剥がれて、目を開けるとただ白いだけのアパートの天井が視界いっぱいに広がった。
「……最悪」
身を起こし、ぼんやりとつぶやいて目尻を拭う。指の先を、忘れものみたいな水滴が濡らす。
*
アルバイト先の事務所で上着を脱いでいると、「お疲れーっす」と言って阿智先輩が入ってきた。
「っす」
俺は小さく頭を下げるだけで返して、荷物の整理を急ぐ。
「お疲れ光希。なんか機嫌悪い?」
「逆に、俺の機嫌がよかった試しってあります?」
「あはは、こりゃ相当キテんね」
俺の隣に並んで、阿智先輩は着ていたパーカーをがばりと脱いだ。程よく筋肉のついた上半身を横目で見ながら、俺は眉をひそめる。
「それ、女子たちの前でやったらセクハラですよ」
「いやいや、むしろサービスっしょ。そもそも更衣室ないのが悪いんだって」
俺のジト目をものともせず、阿智先輩は悠々と店のTシャツに着替える。
その自信がどこからくるのか、俺にはさっぱりわからない。
「どうせ悪い夢でも見たんだろ」
なにげなく言われて、驚いて顔を上げた。「あれ図星?」と首を傾げて、阿智先輩は唇を歪める。
「冗談だったのに。可愛いね、光希」
「チッ……死んでください」
「あーそれチクチク言葉。俺傷ついた」
「勝手に傷ついとけ」
俺は阿智先輩の裏ももに蹴りを入れてタイムカードを切り、フロアに出る。今日は金曜日だから、今は開店前で静かな客席も、一時間後にはほとんど埋まる。
嫌な夢を見てただでさえ最悪な気分なのに、想像しただけでテンション下がりまくりである。
京が店に入ってきたのは、開店二時間後の二十時だった。
いつぞやと同じ二時間飲み放題つきのコースが十二名様分、またうるさそうなのがきたなあと舌打ちをしたくなるのを必死に堪え、「いらっしゃいませ」と営業スマイルを振りまいた先で、ばっちり目が合った。
京は足を止め、俺の顔を見つめたまま大きく目を見開いた。なにも言われなくても、俺にはわかる。あれは絶対に「みっちゃんが笑った」と考えている。
「よお一年。なにしにきた」
「不可抗力だって。学科の先輩が飲み好きなの」
笑顔を消して詰め寄ると、京は顔の横で慌ただしく両手を振ってみせた。
「ふーん。ストーカーじゃなくて安心したよ」
さっさと行けよと顎で席を案内する。あいにく両手は下げてきたビールジョッキと小皿で塞がっているし、そうでなくとも、俺は今日すこぶる機嫌が悪い。
「あれ、今のやつ、四月にも来てなかった?」
席の案内を終えて戻ってきた阿智先輩が、こそこそと尋ねてくる。「よく覚えてますね」と応じると、「めっちゃ背高いし、光希と仲良さそうだったからね」と返ってきた。
「仲いいっていうか、まあ、幼馴染みたいなもんです」
「ふうん?」
そこで阿智先輩は、ちらりと後ろを振り返った。つられて振り返ろうとした瞬間、覆い被さるように肩を組まれて、俺は小さく悲鳴を上げる。
「危なっ! ちょっと、なにするんですか」
「六月四日、シフト空いてるメンツで飲もうって話出てんの。光希も来いよ」
「は?」
「誕生日でしょ」
切れ長の目に至近距離から覗き込まれて、心臓が跳ねて言葉に詰まる。
「そう、ですけど」
なんで知ってるんだろう。メッセージアプリの通知だろうか。
それにしたってよく覚えているなと感心していると、「来てくれたらプレゼントあげる」と阿智先輩がつけ足した。
プレゼント、という響きに少しひかれて、俺は阿智先輩の顔をまじまじと見返す。にやりと意地の悪い感じで笑った阿智先輩は、俺の思考を先回りして「来てくれなきゃあげないよ」と口を開いた。
「まあ、デートの予定でも入ってるんなら仕方ないけどね」
「いや、それは全く……」
そもそも何曜日だっけ、と思考を巡らせて、水曜日だということを思い出す。バイトのシフトを出す時にそのことに気がついて、「誕生日までフルコマかよ」と少し落ち込んだのだ。
「あ、でも」
「でも?」
「水曜日は――」
水曜日は京と、と言いかけたところで、はたと気づく。
なんで俺が、あいつのためにわざわざ予定を空けなきゃいけないんだ。
そもそも京との夕食は、約束しているわけではないのだ。俺にはプレゼントとわんちゃんのお守りを天秤にかける権利があるし、京の方だって、ある程度断られる可能性があるとわかっているはずである。
「プレゼントって、結構いい物です?」
「多分。光希が欲しがってるやつだと思うよ」
「じゃあ行きます。飲み明かしましょう」
「やば、ゲンキンすぎてしんど」
ぷはっと笑って、阿智先輩はようやく俺の肩から腕を離した。
解放されたことに安堵しつつ、俺は下げた食器を置きに厨房へ急ぐ。


