それ以降、水曜日の夜は京と夕食を食べに行くようになった。
 予め約束しているわけではないのだが、水曜日の午前中になると必ず、京の方から構内で声をかけてきたり、電話がかかってきたりする。一度付き合った手前、俺もなんとなく断るタイミングを見失い、そのまま一ヶ月。
 そんなわけで、俺は今日も五限終わりに図書館を目指している。いつもより十分ほど早く講義が終わったので、京と会う前にレポート課題に使う本を借りるつもりだ。
 五月も半ばになると、十八時過ぎでも空は少し明るい。気温も上がり、空気には夏のにおいが混ざりだして、キャンパス内を歩く学生たちも皆なんとなく浮き足立って見える。
 きゃあきゃあと笑い合うどこかのサークル集団とすれ違った俺は、入口に学生証をタッチして図書館に入り、専門書の書架を目指して階段を上った。
 二階は勉強スペースもあるが、私語厳禁なのでとても静かだ。四年生らしき学生が卒業論文をやっていたり、ぐっと集中して課題をやる人間がいたりと、あまり近づきたくない空間である。
 なんとなく体を縮こまらせながら棚間を歩き、レポートに使えそうな本を探していく。二冊ほど見繕い、後一冊、と手を伸ばしてから、飛び出しそうになった舌打ちを慌てて飲み込んだ。
 ギリギリ届かない。
 この大学の図書館は、蔵書数が多い代わりに本棚の背が高い。俺の身長は一七三センチで、特別低いわけでもないのだが、上の方の本を取る時は背伸びをする必要がある。
 しかも目当ての本がある棚は、横幅いっぱいにみっちりと書籍が詰まっていて、ちょっと引っ張ったくらいじゃ取り出せない感じになっていた。左手で既に選んだ二冊を抱え、つま先立ちで右手を伸ばすような状態では、握力が足りなくて到底引き出せない。
 踏み台、取りに行くか?
 いやでも、なんか悔しいよなあ……。
 変な意地がわいてきて、その場で少しジャンプしてみる。しかし当然、背表紙に触れることはできても掴むところまではいかず、ただ息を切らすだけの結果となった。
「くそ……」
「なにぴょんぴょんしてるの、みっちゃん」
 背後から突然訪れた気配に、反射的に肩が跳ねる。陰った視界の中、慌てて後ろを振り返ると、見覚えのあるベージュのシャツがすぐ目の前にあった。
「この本であってる?」
 俺の取ろうとしていた本を右手に持って、京は上から覗き込むようにして尋ねてきた。
 滅多にない角度で目が合い、そのあまりの近さに、反射で顔が熱くなる。
「あ、ああそう、それ。その本。さんきゅ、助かった」
 棚と京の体の間から、慌ただしく自分の身を逃がす。みっともなく跳ねていたところを見られていたと気づけば、心臓の鼓動はよけいに速まった。
 びっくりするくらい恥ずかしい。大人しく踏み台を取りにいけばよかった。
「よかった。踏み台使えばいいのに」
「そ……っれはそうだけど、いけるかもって思ったんだよ」
「そうなの?」
「そうなの。お前みたいなでかいやつにはわかんねーよ」
 ってかなんでいるんだよ。
 俺が尋ねると、京は「五限休みだったんだよね。だから課題やってた」と軽い調子で応じた。
「井出先生、昼過ぎくらいから熱出したらしいよ」
「マジか」
 俺はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をつける。
 メールアプリには教授からのメールが一件。メッセージアプリには、同じゼミの同期グループと、なぜか阿智先輩とのトークルームからも、新規メッセージの通知がきていた。
【いでせんインフルって聞いた? 季節外れすぎてやべえ】
 阿智先輩の方は、その後にケラケラと腹を抱えて笑うキャラクターのスタンプがくっついていた。俺はハッと鼻で笑って、【先輩も気をつけてください。夏風邪はなんとかがひくって言いますから】と返信する。
「誰?」
「ああこら、勝手に覗くな」
「教えてよ」
「ゼミの先輩。それよりお前、五限休みなら俺なんか待ってないで、先帰ればよかっただろ」
 スマートフォンを見つめたまま言い返すと、予想外に沈黙が訪れた。あれ、と思い顔を上げれば、京はものすごく苦々しい顔をして俺を見下ろしていた。
「え、なに。俺なんか悪いこと言った?」
「……ううん。べつに」
 はい、と本を渡してきた京は、すぐにこちらに背を向けて棚間を歩き始める。京がどうして急に拗ねてしまったのか、俺にはさっぱりわからない。
「おい京、夕飯。なに食いたい?」
 並んで歩き出しながら尋ねると、京は小さな声で「カレー」と答えた。
「日本風? インド風?」
「みっちゃんの好きな方でいいよ」
「じゃあインド風な。最近ハマってる店あるから教えてやる」
「みっちゃんのおすすめ?」
「おう。俺は自分が気に入ってなきゃ連れてかねーよ」
「そっか」
 いく分和らいだ声に、俺はちらりと京を見上げる。そこに見慣れた穏やかな表情が戻ってきているのを確認して、京に隠れてほっと息をついた。
 一度ラブに重ねてしまったせいか、こいつが変な顔をしていると、俺もなんとなく気になってしまう。非常に不本意な話なのだが。
 勉強スペースに置きっぱなしだった京の荷物を回収し、本の貸し出し手続きを済ませて、俺たちは図書館を出た。そのままいつも通り、正門前の大通り沿いに歩いて目的の店を目指す。
 大学の周りということもあって、この辺りは安くて量の多い個人経営の店がたくさんある――そういう店を、俺は学科や研究室の先輩に教わった。
 だから、京がこうも毎週、俺に声をかけてくるのを見ると、こいつの学生生活は大丈夫なんだろうかと時々心配になる。
 ……まあつまり、なけなしの先輩心というやつだ。
「お前、学科のやつらとどうなんだよ」
「どうって?」
「上手くやってんの?」
「うーん。上手く? かはわかんないけど、今週末はカラオケ誘われたよ」
「ふーん。よかったな……って、嫌いなんだっけ」
「うん。俺日本語の歌あんまり知らないから、行こうかどうか迷ってる」
 京の返答に、ああそうか、こいつはずっとアメリカにいたんだと思い出す。
「向こうの友だちとは連絡取ったりしねーの」
「向こう?」
「アメリカ」
「高校の時はたまにメッセージがきたけど、今は全然かなあ」
「……ふーん」
 なんとなくシン、としてしまって、俺はポケットに手を突っ込んだまま手持ち無沙汰に首を回した。
 アメリカでの生活なんて、全く想像できない。でもぼんやりと、京は寂しかったのかもしれないと思った。
 そうじゃなきゃ、ずっと昔に疎遠になった人間の家をわざわざ訪ねたりなんかしないだろう。
「まあさ、カラオケは行ったほうがいいぜ。付き合いって大事だし」
「うん。そうだよね」
 ありがとうみっちゃん、と微笑まれて、俺はそこそこに満足した気持ちで「おう」と応えた。
 そうやって少しずつでも同じ学科のやつらと打ち解ければ、京も自然と、俺への興味を失うだろう。