そんなこんなで、俺はもう二度と京と関わるつもりはなかったわけなのだけれど。そこはまあ、同じ大学だからそりゃそうかという感じで、結論、俺はまたもや声をかけられる羽目になってしまった。
 しかも、傘を返した次の日である。十二時半過ぎ、昼休みの学食、ほぼほぼきっかり二十四時間後。これはちょっと運が悪すぎる。俺はなにも、神様に嫌われるようなことはしていないはずなのに。
「みっちゃーん」
 同じ学部の佐藤と食事を終え、学食を出ようとしている時だった。聞き覚えのある声にぎくりと振り向くと、驚き半分、喜び半分といった表情でこちらに手を振る京がいた。
「なんだ、同じ大学だったんだ。言ってくれればよかったのに」
 レトリバーよろしく尻尾ぶんぶんで近寄ってきた京を見上げて、佐藤が「でか……」とつぶやく。その気持ちは俺もよくわかる。一九三センチは何度見てもでかい。
「ってかなに、みっちゃんって光希のこと? かーわいー」
「ぶん殴るぞ」
 さっそく(はや)し立ててきた佐藤を睨んでから、俺は京に向き直る。
 京は俺の顔をじっと見下ろしてきて、その後なぜかにこっと笑ってみせた。
「ねえみっちゃん、今日講義何時まで?」
 突然の問いかけに、はあ? と眉をひそめる。なんで俺が、お前にそんなことを教えてやらねばならんのだ。
「ああこいつ、フルコマだから五限までみっちりだよ」
「おい佐藤」
「そうなんだ。じゃあさ、一緒に夕ご飯食べようよ」
「駄目だ。今日はバイトが――」
「え? 光希、水曜はフルコマで疲れるから、絶対にバイト入れないって言ってたじゃん」
「佐藤、てめえ」
 低い声でうなって掴みかかろうとすると、佐藤は勘弁勘弁、と顔の横で両手をひらひらさせた。
「だって可哀想じゃん? こんなに尻尾ぶんぶんのお友だちを無下にしちゃ」
 ね、みっちゃん?
 ニタリ、と完全に面白がっている顔で佐藤が笑う。
 ……こいつ、後で絶対にシバく。
 俺は心の中で決意しつつ、「京」と口を開いた。
 結局、誤魔化したり嘘をついたりして穏便に済ませようとするから、佐藤なんかに邪魔されるのだ。
 俺の行動を決めるのは俺なんだから、いくら予定が空いていようが、嫌なものは嫌だとはっきり断ればいいだけの話である。
「最初に会った時も言ったけど、俺はもうあんたとは関わりたくないんだ。番号教えたのも昨日会ったのも借りた傘を返すためで、同じ大学だって言わなかったのは、あんたにこうやって声をかけられると迷惑だから――」
 そこまで言って、俺はつい言葉を切ってしまった。
 目の前の京が、さっきまでキラキラと輝かせていた瞳に悲しみをにじませて、それこそ叱られた犬みたいに肩を落として俺を見つめ返してきたからだ。
 しょぼん、とか、しゅん、とか、そういう効果音がぴったりの、ハの字に下がった眉。くぅーんと幻聴が聞こえてきそうな、きゅっと引結ばれた唇。
 げ、と俺が慄いている間にも、両側頭部にぺたりと垂れた犬耳が見え始める。すっかり丸まってしまった尻尾と全身から放たれる「ごめんなさい」オーラは、じゃれつきすぎて叱られた時のラブにそっくりだ。
「みっちゃんは、俺のこと嫌い?」
「き、嫌いとか、そこまでは言ってないだろ」
「でも空気読まないで声かけて、迷惑だったってことだよね」
「それは……そうっちゃそうだけど、その、俺にも色々と事情があって」
「ごめんね。俺ほんと、また会えたのが嬉しくてさ。ずっと会いたいなって思ってたから……みっちゃんに嫌われてるんだろうなってわかってたけど、どうしても縁を切りたくなくて」
 痴話喧嘩の様相を呈してきた俺たちを、通りすがりの学生たちが面白半分に見やってくる。当然だ。大男がすごすごと丸まっているのだから、目立つことこの上ない。
「なに? お前らって付き合って――いってえっ!」
 俺は佐藤の左足を思い切り踏みつけつつ、「わかった。わかったから」と京をなだめた。
「とりあえず今晩は一緒に飯食うから、泣くな」
 この俺が思わずそう言ってしまうくらいには、京の声は本当に、泣きそうだったのである。
 京はこちらの様子を伺うようにゆっくりと顔を上げた。涙こそ浮かんでないものの、落ち込みと不安がない混ぜになった瞳に射抜かれて、心臓が跳ねる。
 なんだその目は。まるで俺が悪いみたいじゃないか。
 罪悪感と反発心が半分ずつ。それでいてきゅっと胸が締めつけられる。
 ちょっと可愛いかも、だなんて死んでも認めたくない。だってこいつはラブじゃないし、今年で十九になる立派な男だし。
 そりゃ昔は、可愛かったけどさ。今だって、俺に拒絶されたくらいでここまで悲しそうにするあたり、正直いじらしいと思わなくもないけれど。
 でもやっぱり、そういうのはほら、なんか違うだろ?
「本当に? 本当に一緒に食べてくれる?」
 ――本当に?
 ふいにあの夏の日の公園がよみがえって、体がぱっと熱くなった。念入りに押し込めていた当時の感情が、噴火する火山のマグマみたいに吹き出してくる。
 陰口を言われた悔しさとか、裏切られた悲しさとか、誰にもわかってもらえなかった寂しさとか――そういうのを全部、京にどうにかしてほしくて、「抱きしめていいよ」と言った自分のずるさとか。
 あの日、俺は京に自分を抱きしめてほしかった。甘えさせるふりをして、甘えていたのだ。
 本当に恥ずかしい。本当に嫌だ。だからこいつとは関わりたくなかったんだ。
 俺は苦々しく唇を嚙んでから、「五限終わりに図書館前」とぶっきらぼうに答える。京はみるみるうちに顔を輝かせて、抱きつかんばかりの勢いで「ありがとうっ」と言った。
「お、和解か?」
 懲りずに茶化し始めた佐藤のすねに蹴りを入れてから、俺は三限の教室に向かう。
 口も悪いし足癖も悪いが、単位は取りたいので授業は真面目に受けるというのが、俺の大学生活における基本的なスタンスなのである。