京が待ち合わせに指定してきたのは、俺の通う大学の正門だった。時間は十二時半、昼休みど真ん中である。
 俺は二時限目が座学の講義だったので、普通に大学にいた。でもキャンパス内から正門に向かったら同じ大学だとバレてしまうので、一度裏門から出て外周を歩き、わざわざこの大学を訪れた感じを演出することにした。
 ほとんど散ってしまった桜を見上げながら、大通り沿いの歩道をぼんやり歩く。四月半ばとはいえ、もうだいぶ温かい。
 着信はないので、京は予定通り来るのだろう。
 一年のこの時期はなにかと忙しいし、新しいことの目白押しで日々目まぐるしい。馬鹿真面目に「返す」なんて言ってしまったが、あいつからしたら鬱陶しかったかもしれない。
 そこまで考えて右手に持った傘を見下ろし、「これからもよろしく」と電話してきた時の京の声色を思い出す。鬱陶しそうでは……いや、全くなかったか。むしろこちらが鬱陶しく感じかねないくらいには、嬉しそうだった。
 俺の場合、とにかく自分が口が悪くて粗雑なものだから、周りにいる人間もそういうやつばっかりだ。阿智先輩がいい例で、あの人は俺より口が悪いしダルそうだし、よくからかっていじめてくるのに頼りにならないわけでもないという、本当に謎な人なのである。
 まあつまり、京みたいなわかりやすくて育ちのいい人間は、俺の交友関係の中ではかなり珍しい。属性違い、といってもいいかもしれない。
 あの感情丸出しでしつこい感じ、なんかどっかで見たことあるんだよな……と、そこまで考えたところで、道の先に本人を見つけた。ただでさえ背が高くて目立つのに、周りを四、五人の女子に囲まれて、なにやらよろしくやっている。
「京くーん、三限空きでしょ? 一緒にお昼食べようよ」
「誰待ってるのー」
「英語教えてほしいなあ」
「ってか彼女とかいるのお?」
 次々と畳みかけられる質問に答えきれず、京はなんだかアワアワしている。キョドって全くこちらに気づかないので、俺はキャンパスの外壁に寄りかかり、しばらくその様子を眺めることにした。
「背高いよね。何センチ?」
「次の土曜空いてる? カラオケ行こうよお」
「ええっと、三限は空きだけどお昼はもう食べちゃったからごめんね。友だちが傘返しに来てくれるから待ってるんだ。英語はまた今度教えるよ。後は……えっと、」
「彼女!」
「身長!」
「土曜のカラオケ!」
「ああそうだ……でもなんでそんなことまで……」
 ぼそっとぼやいた瞬間、その場にいた女子全員が腕組みをして、鋭い視線で京を睨み上げた。「答えなさい」の圧がすごい。
「はい、すみません。彼女はいません。身長は一九三センチ、土曜日は空いてるけど、カラオケは嫌いかな」
「彼女はいない」の返答に、明らかに取り巻きがザワつき始めた。しかし京はそれには構わず、大きく一つため息をついて、ようやくきょろきょろと辺りを見渡し始める。
「あ、みっちゃん!」
 目が合った瞬間、茶色っぽいタレ目がぱっと見開かれた。
 俺は背筋に寒いものが走るのを感じた――京に対してではなく、「みっちゃん」という呼びかけに反応した女子たちの、ナイフのように鋭い視線に対してである。
 京は取り巻きをかき分けてぱたぱたと走ってきた。その後ろにぶんぶん振られる尻尾が見えて、俺は気づく。
 レトリバーだ。こいつ、レトリバーに似てるんだ。
 ゴールデンでもいいけど、上品な感じの見た目はどちらかというとラブラドール。体もでかいし、これはなかなかいい線いってるんじゃないだろうか。
「? どうしたの、みっちゃん」
 ついじっと見つめていると、京がこてんと首を傾げた。二十歳間近の男子大学生としては幼げなその仕草も、ラブラドール・レトリバーだと思えば全然アリだ。可愛い。百点満点。
「みっちゃん?」
「ん? ああ、悪い」
 心配そうに呼びかけられて、俺は今度こそ我に返った。もちろん京は、実際には二十歳間近の男子大学生なので、俺の対応が甘くなることはない。
「人を待たせておいて、ずいぶんモテモテだな」と嫌味を言うと、「俺はみっちゃん一筋だよ。アメリカにいた間もずっと」と返ってきた。なんの話だ。
「そういう変なことを言うな。怖いから」
 京の後ろからは依然、女子たちのじっとりとした視線を感じる。男に嫉妬してどうすんだと俺は呆れる。
「ん」
 居心地の悪さを感じて、俺はさっさと傘を差し出した。
 京は拍子抜けした様子でそれを受け取り、「ああ、ありがとう」と戸惑いがちに答える。
「こっちこそ助かった。さんきゅ」
 じゃーな、と手を振って踵を返す。これでやっと、すっきりさっぱり黒歴史誘発要因とおさらばできる。
「あ、待って。みっちゃん!」
 大声で呼ばれて、俺は仕方なく振り返った。
「なに?」
「あのさ、もし時間あったら、お昼一緒に食べない?」
「お前さっき、もう食ったって言ってなかった?」
「あれは嘘だよ。みっちゃんと食べたかったから」
 へえ、と少し感心する。素直なだけかと思ったら、それなりに嘘もつけるらしい。
 騙した相手にも聞こえるくらいのでかい声で種明かしをしてしまうあたり、抜けてるんだなと思わずにはいられないけど。
「残念だけど、俺はもう食べた。ちなみにこれは本当」
 嘘である。でも俺は賢いので、嘘がバレるようなヘマはしないし、バレるような嘘もつかない。
 ラブラドール・レトリバーは盲導犬や警察犬としても活躍する利口な犬種だ。一緒にしたら失礼だっただろうか。もちろん、犬に。
 ……そういえば「ラブ」も、ちょっと抜けてるところがあったなあ。
 ほろりと懐かしい気持ちになって、慌てて首を左右に振った。ポケットに手を突っ込んだまま、わざと大股で風を切って今度こそ帰路につく。
 ラブは俺が中学二年生の時に死んだ。十五歳で老衰、犬種としての平均寿命は十〜十二歳なのだから、大往生である。
 ラブを飼うために一戸建てを借りていた秋本家は、俺が高校生になるタイミングで家賃の安いアパートに引っ越した。ラブの気配が全くない新居は寂しかったけれど、下手に面影があるとふとした瞬間に泣いてしまいかねなかったから、多分それでよかったのだ。