会わなかった分を埋め合わせるみたいに、その後の夏休みは毎日のように京と会った。一緒に過ごす時間の中で、俺は改めて、京のことをたくさん知っていった。
 例えば、ボウリングが上手くて泳ぐのが好きなこと。部屋には英語の本が大量にあることや、曲を知っている・知らない以前に、歌がそんなに上手くないこと。
 あとはまあ、これはわかっていたことでもあるけれど、俺のことが好きすぎるってこと。
 嫌いなカラオケも、俺が行くと言えばついてくる。電話をかければ五分で来る。一緒にコンビニに行って、こっそり食べたいなと思った新作のスイーツは、なぜか次の日には必ずあいつの手の中にある。
 ――ファミレスに行った時なんか、俺が嫌いなセットサラダは「好きだからちょうだい」とねだられ、京が頼んだいちごソースのパンケーキは「ひと口あげるよ」で半分くらい取り分けて渡された。はっきり言って、甘やかしすぎである。
 とはいえ俺は、なんだかんだそれが嬉しくて。でもやっぱり、素直にお礼なんて言えなくて。
 これじゃあ良くないよなと、いつか本当に嫌われて捨てられるんじゃないかと。
 そう考えて時々眠れなくなるくらいにはまあ、俺も京のことが好きだったり、する。
「どうしたのみっちゃん」
 ちょっと首を傾げながら小声で尋ねられ、俺は慌ててパソコンの画面に視線を戻した。
 クーラーの効いた室内、窓からの光に透ける髪が綺麗で見てしまっていたなんて、絶対に言えない。
「いや……この単語、なんて読むんだ?」
 誤魔化しついでに、机上にあった英語の課題プリントを指さして尋ねてみる。
 京はちらりとそちらを見ると、びっくりするくらい流暢な発音で答えてきた。それを聞いた俺は、ああそういえば、こいつは帰国子女だったんだと思い出す。
「ねえみっちゃん、俺も理系の話出てきたから教えてほしい」
 周囲の静かな雰囲気に配慮してか、向かいの席にいた京は立ち上がって俺の隣に移動してきた。
 触れた肩から体温が伝わってきて、身を反らした分だけ、わざとらしく距離を詰められる。
「おい」
「ん?」
「近い」
「駄目?」
「駄目……じゃ、ない、けど」
 ふにゃりと嬉しそうに、茶色っぽいタレ目が緩む。それだけで心臓の鼓動が速まって、いややっぱ駄目だろと思い直す。
 だってここは大学の図書館だし。夏休みが終わるまであと一週間しかなくて、お互い明日こそ課題を終わらせようと、昨日決めたばかりだし。
 京と付き合い始めるまではあんなに無心で課題をやっていたのに、この一ヶ月遊びすぎたせいで、俺の方の進捗はわりとギリギリだ。
 どちらかの部屋でやろうとしても、どうしても気が散ってしまって――というか、その、主に京が、俺にべったりになってしまって。
 仕方がないので、こうしてわざわざ、緊張感漂う図書館に足を運んだというわけである。
 ……でもこれじゃ、全然意味ないんだが。
 俺は気にしないふりを装いながら、横目でこっそり京を見る。
 やっぱり近い。さっきから体が熱くて、レポートのことなんて一ミリも考えられない。

「なあ、今日は夜どうする?」
 その後すぐに昼食を挟み、十五時まで粘ったところで、俺たちの集中力は限界を迎えた。
 図書館を出て、まだ蝉がうるさいキャンパス内を歩きながら夕食の相談をすると、京の方から「俺が作るよ」と申し出てくれた。
「べつに、外食でもいいぞ」
「だってみっちゃん、一人で食べる時はどうせ外なんでしょ。前にみっちゃんが酔っぱらった時、冷蔵庫見てびっくりしたんだから」
 俺が作れる時は作るよ。みっちゃんが嫌じゃなければ。
 なんの裏表もなく言われて、ほわんと胸が温かくなる。食事を作ってもらうのは好きだ。疑う余地がないほどに、大切にされてると実感できるから。
「……さんきゅ」
 ぼそりとつぶやけば、「うん」と優しいうなずきに続いて大きな手のひらが降ってくる。その熱を感じながら、俺たちはいつも通りにアパートを目指す。
 途中、大学前の本屋には相変わらずラブラドールガチャがあって、それを見た俺は、自然と阿智先輩のことを思い出した。
 お盆休み中頃、バイト先で顔を合わせた阿智先輩はいつも通り飄々としていて、気まずさで挙動不審になっていた俺を散々からかってきた。
 その態度にムカついた俺は、その場ではもちろん、ふざけんな、人をオモチャにするなとキレ散らかしたわけだけれど。
 でも多分あれは、俺がこれ以上大学やバイト先で困らないよう、阿智先輩なりに気遣ってくれた結果なのだと思う――だってあの人はずっと、なんだかんだ優しかった。
 誕生日を覚えてくれていて、ほしいものを探ってプレゼントしてくれた。飲み会でふらついた時は支えてくれたし、なにかと様子を気にして、よく声をかけてくれていた。
 動物園でつないだままにしてくれていた手は、確かに温かかったから。
 だからこそ、もっとちゃんと伝えてくれれば、応えることはできなくても向き合うことはできたのにと思ったりもする。
 やっぱり、きちんと言葉にするって大事だ。
 そう思いつつ、まあその気づきは俺の場合、自分にもばっちり跳ね返ってきてしまうので、正直シャレにならないのだけれど。
 じっと考えながら、俺は傍らで揺れる京の手を見つめる。
 俺たちは、外では手をつながない。たまに頭を撫でられたり肩が触れることはあっても、仲のいい友だちでギリギリ済ませられるくらいの安全圏。
 それでも俺は、こうやって京の隣を歩けることが、そこに「幼馴染」以上の関係性があることが、自分でもびっくりするほどに嬉しくて。
 京を好きになるまでは、自分がこんなに、優しい気持ちで誰かと過ごせるなんて知らなかった。京と付き合って初めて、本当の自分をわかってもらえることの幸せや温かさを実感した。
 この一ヶ月、なかなか言葉や態度には出せないけれど、胸のうちにはたくさんの好きと幸せがちゃんとある。そしてそれは全部、京が俺のことを好きになってくれたお陰なわけで。
 改めてそのことを自覚した途端、今俺が生きているなんでもない九月の午後が、なんだかとても大切なものに感じられた。来年も変わらず鳴くであろう蝉の声も、本当に秋がくるのかと疑いたくなるくらいの蒸し暑さも。
 きっと、京と見る景色だから特別なんだ。
 そう気づいたら不思議と、恥ずかしいとかキャラじゃないとか、そういうのが全部、だんだんとちっぽけなものに思えてきた。
 全く恥ずかしくないと言ったら嘘になるけど、それよりもずっと大事なものが、もう俺の手の中にはある。
 ああ、伝えなきゃ。
 今までよりも、いっそう強くそう思う。そして同時に、「伝えなきゃ」よりも大きな気持ちで、「伝えたい」と思っている自分に気づく。
 京に好きだと言われると、俺自身も少しだけ、自分のことを好きになれる。京にとって俺は特別で可愛くて、そんな自分でよかったって世界中に感謝したくなるようなこの気持ちを、俺は京にもあげたいんだ。
 初めてキスをした路地が近づいたところで、俺は勇気を出して、右の人差し指を京の指先にそっと伸ばした。
 ひどく驚いた感じでこちらを向いたタレ目を、じっと覗き込む。
「京、」
 名前を呼ぶだけで、どきどき、どきどきと鼓動が高鳴る。
 拒否されることなんてないってわかっているのに、どうしてこんなに怖いんだろう。
「俺、お前のことさ、」
 ちゃんと好きだから、と。
 俺は素早く言い切った。なにか反応される前に京の腕を引き、思い切り背伸びをして、柔らかくて温かい唇に口づける。
 一瞬の触れ合いでも、すうと体の強張りがほどけていく感じがする――身を離した時、京は見たことないくらいに頬を赤くしていて。
 それがすごく可愛くて愛しくて、俺はつい、妙に緩んだ顔で笑ってしまった。

〈『愛しのラグドール』 了〉