阿智先輩がラブラドールガチャをやりたいと言ったので、動物園の後は大学前の本屋に寄った。
夏の夕暮れはまだ明るく、ジージーと蝉が鳴いている。阿智先輩は俺と並んで店前の歩道に立ち、ガチャガチャのイメージ写真をじっくりと眺めながら、「てかさ」と不審そうな顔で口を開いた。
「最初見た時も思ったんだけど、黒とクリーム以外の三色キモすぎない?」
「いやそれが、そうでもないんですよ」
俺は背負っていたリュックサックを前に持ってきて、内ポケットにこっそり入れていた水色のラブラドールを取り出し、掲げてみせる。
「多少色が奇抜でも、それを補って余りある造形の可愛さがあるというか。わかります? この首元のもふもふ感。手足の大きさも絶妙だし、つぶらな瞳はもちろん、少しだけ覗く舌のピンクが俺的には結構ポイントで……」
思わず語ってしまって、途中で気づいて口をつぐんだ。すぐにキーホルダーをしまって「忘れてください」と睨み上げると、阿智先輩はちょっと困った感じで笑い、「光希は可愛いね」とつぶやいた。
「それ、次言ったら殴りますよ」
「はいはい。で、京くんが持ってたのは何色なわけ?」
「……クリームです」
俺が答えると、阿智先輩は自分のポケットから財布を取り出し、さっさと小銭を投入してガチャガチャを回した。ハンドルを回し切った後、取り出し口からカプセルを引き出し、ぱかっと開いて「ビンゴ」と笑う。
「はい一発。俺こういうの、結構引きいいんだわ」
「うわー、マジか」
阿智先輩の指先で、まだ透明の内袋に入ったままのラブラドールが揺れる。やっぱり定番は可愛いなあと悔しく思っていると「ほしい?」と尋ねられた。
いいんですか、と手を伸ばす。瞬間、ひょいっと手の位置をずらされて、バランスを崩した俺は阿智先輩の方へ倒れ込んだ。
「わ、すみませ――」
「いいよ。その代わり俺と付き合って」
言葉を理解するよりも先に、肩に腕が回ってきた。
そのまま痛いほど強く背を抱かれ、俺は驚きに目を見開いた。
「え。ちょ、ちょっと阿智先輩、ふざけないでください」
「本気なんだけど」
「本気って……え? だって今、付き合ってって」
「だから、本気で付き合ってって言ってんの」
「は?」
好きだよ、と、そう言いながら腰を引き寄せられ、びくりと体が跳ねる。
押し返そうとした右手を掴まれて身動きが取れないまま、真剣な目で覗き込まれた。
「ずっと好きだったし、アピールもしてきたつもりだったけど、お前全然気づかねーし。それならそれで仕方ないかとも思ってたけどさ、やっぱりぽっと出の わんちゃんに盗られんのは、なんかすげー癪なんだわ」
京くんとは付き合ってないんだもんな?
阿智先輩はそう言って、俺の腰にあった手を顎下までスライドさせた。もう片方の手でキャップのつばを押し上げ、首を傾けて顔を近づけてくる。
キスされる……!
逃げたくても逃げられず、俺は咄嗟に目をつむった。暗闇の中、脳裏をよぎったのは京の顔だった。
――キスとかしたいってことだよ。
――可愛いものが好きな可愛いみっちゃんのことが、俺はずっと大好きだったよ。
――みっちゃんが危ない目に遭ったら、俺がいつでも守るからね。
ああそうだった、と強く思う。
抱きしめられるのも、可愛いと言われるのも、昔から好きだった。
だけどそれはもう、誰でもいいわけじゃない。それがキスならなおさらで、あの熱とあの手のひらじゃなきゃ、俺はちっとも嬉しくない。
……あと一回でいいからチャンスが欲しい。そうしたら本当に、今度こそちゃんと、誤魔化さないで好きだと伝えるから。
「みっちゃん!」
ぐっと体を引かれて、目を開けると阿智先輩の体が遠くにあった。
背中には確かな体温があって、見覚えのある大きな手のひらが、俺の肩口をしっかりと抱き込んでいる。
「俺のみっちゃんなんです。触らないで」
初めて聞く険しい声に驚いて、俺は顔を上げる。京は阿智先輩をきっと睨みつけると、俺の手を掴んで一目散に走り出した。
「あ、ちょっ、おい京、もう少しゆっくり……!」
大学前の大通りを、アパートの方向へとぐいぐい引っ張られる。なんでここに、と問いかけても、京は全然こちらを振り向かない。
あの優しいタレ目が見えないと、怒られているような気がして不安になる。なにせ俺には、心当たりが多すぎる。
住宅街に差しかかり、人気のない路地に入ってようやく、京は足を止めてこちらを振り向いた。予想通り、茶色っぽい瞳には厳しい色が浮かんでいて、鳩尾のあたりがきゅっとなる。
「……お前、なんでいるんだよ」
「集中講義終わったの。帰ろうとしたらなんか、みっちゃんが襲われてるから」
気をつけなきゃ駄目じゃん、とぴしゃりと言われて、腹の底がもやっとした。色々なことがまだ整理できていなくて、つい「でも」と言い訳を口走ってしまう。
「でもそんな、阿智先輩が俺のこと好きとか全然」
「俺はわかってたけど?」
「じゃあ言えよ」
「言ったじゃん、みっちゃんは可愛いんだから気をつけてって」
――可愛い。
そのたったひと言で、阿智先輩のことも今怒られてることも全部吹き飛んで、じわじわと体中が熱くなる。
多分、ずっと前からそうだった。俺は京に可愛いと言われるたび、消えたいくらい恥ずかしくなって、でも跳び上がるほどに嬉しくなる。
そうだな。俺が悪かった。
八つ当たりして、着拒までしてごめん。
可愛いって言ってくれてありがとう。俺もお前のこと、実はすごく好きなんだ。
俺は心の中で、何度も何度も言葉を唱える。だけどやっぱり、口からは少しも吐き出すことができなくて。
「……可愛いとか、気安く言うな」
やがて鼓膜に届いた自分のセリフに、もうどうしたらいいかわからなくて、あふれる涙を止める気力もなかった。
訂正だ。チャンスはやっぱり、あと一回じゃ全然足りない。
何度でも挑戦させてほしい。俺がきちんと、自分に可愛いを許せるまで。
「好きとかもそうだ。心臓変になるからそういうの簡単に言うな――中身ふわっふわのくせに無駄にイケメンなのもやめろ。犬っぽくていちいち可愛いのもまじムカつく。手が大きいのも体温高いのも、触ってほしくなるからほんと嫌なんだよ……これ以上俺の中に入ってくんな。お前のせいで、俺もうずっとおかしい」
俺は泣き続けた。それはもう、目が滝になったんじゃないかって錯覚するくらい。
京はそんな俺をしばらく見つめて、それからふっと目尻を緩めて首を傾げた。
「どうしよう、俺、好きって言われてるようにしか聞こえない」
大きくて温かい手が、優しく耳元に伸びてくる。「キスしていい?」と顔を覗き込まれて、肯定も否定もできずに視線をさまよわせる。
「するからね。嫌だったらちゃんと逃げてね」
逃がす気なんかさらさらない力強さで腰を抱かれた。ふわんと触れた甘い唇に、全身の力がくったりと抜けていく。
「好きだよみっちゃん。みっちゃんは俺のこと好き?」
うん、と、そううなずくことが、その時の俺の精一杯で。
それでも京は心底嬉しそうに笑って、飽きることなくいつまでも俺を抱きしめ続けていた。
夏の夕暮れはまだ明るく、ジージーと蝉が鳴いている。阿智先輩は俺と並んで店前の歩道に立ち、ガチャガチャのイメージ写真をじっくりと眺めながら、「てかさ」と不審そうな顔で口を開いた。
「最初見た時も思ったんだけど、黒とクリーム以外の三色キモすぎない?」
「いやそれが、そうでもないんですよ」
俺は背負っていたリュックサックを前に持ってきて、内ポケットにこっそり入れていた水色のラブラドールを取り出し、掲げてみせる。
「多少色が奇抜でも、それを補って余りある造形の可愛さがあるというか。わかります? この首元のもふもふ感。手足の大きさも絶妙だし、つぶらな瞳はもちろん、少しだけ覗く舌のピンクが俺的には結構ポイントで……」
思わず語ってしまって、途中で気づいて口をつぐんだ。すぐにキーホルダーをしまって「忘れてください」と睨み上げると、阿智先輩はちょっと困った感じで笑い、「光希は可愛いね」とつぶやいた。
「それ、次言ったら殴りますよ」
「はいはい。で、京くんが持ってたのは何色なわけ?」
「……クリームです」
俺が答えると、阿智先輩は自分のポケットから財布を取り出し、さっさと小銭を投入してガチャガチャを回した。ハンドルを回し切った後、取り出し口からカプセルを引き出し、ぱかっと開いて「ビンゴ」と笑う。
「はい一発。俺こういうの、結構引きいいんだわ」
「うわー、マジか」
阿智先輩の指先で、まだ透明の内袋に入ったままのラブラドールが揺れる。やっぱり定番は可愛いなあと悔しく思っていると「ほしい?」と尋ねられた。
いいんですか、と手を伸ばす。瞬間、ひょいっと手の位置をずらされて、バランスを崩した俺は阿智先輩の方へ倒れ込んだ。
「わ、すみませ――」
「いいよ。その代わり俺と付き合って」
言葉を理解するよりも先に、肩に腕が回ってきた。
そのまま痛いほど強く背を抱かれ、俺は驚きに目を見開いた。
「え。ちょ、ちょっと阿智先輩、ふざけないでください」
「本気なんだけど」
「本気って……え? だって今、付き合ってって」
「だから、本気で付き合ってって言ってんの」
「は?」
好きだよ、と、そう言いながら腰を引き寄せられ、びくりと体が跳ねる。
押し返そうとした右手を掴まれて身動きが取れないまま、真剣な目で覗き込まれた。
「ずっと好きだったし、アピールもしてきたつもりだったけど、お前全然気づかねーし。それならそれで仕方ないかとも思ってたけどさ、やっぱりぽっと出の わんちゃんに盗られんのは、なんかすげー癪なんだわ」
京くんとは付き合ってないんだもんな?
阿智先輩はそう言って、俺の腰にあった手を顎下までスライドさせた。もう片方の手でキャップのつばを押し上げ、首を傾けて顔を近づけてくる。
キスされる……!
逃げたくても逃げられず、俺は咄嗟に目をつむった。暗闇の中、脳裏をよぎったのは京の顔だった。
――キスとかしたいってことだよ。
――可愛いものが好きな可愛いみっちゃんのことが、俺はずっと大好きだったよ。
――みっちゃんが危ない目に遭ったら、俺がいつでも守るからね。
ああそうだった、と強く思う。
抱きしめられるのも、可愛いと言われるのも、昔から好きだった。
だけどそれはもう、誰でもいいわけじゃない。それがキスならなおさらで、あの熱とあの手のひらじゃなきゃ、俺はちっとも嬉しくない。
……あと一回でいいからチャンスが欲しい。そうしたら本当に、今度こそちゃんと、誤魔化さないで好きだと伝えるから。
「みっちゃん!」
ぐっと体を引かれて、目を開けると阿智先輩の体が遠くにあった。
背中には確かな体温があって、見覚えのある大きな手のひらが、俺の肩口をしっかりと抱き込んでいる。
「俺のみっちゃんなんです。触らないで」
初めて聞く険しい声に驚いて、俺は顔を上げる。京は阿智先輩をきっと睨みつけると、俺の手を掴んで一目散に走り出した。
「あ、ちょっ、おい京、もう少しゆっくり……!」
大学前の大通りを、アパートの方向へとぐいぐい引っ張られる。なんでここに、と問いかけても、京は全然こちらを振り向かない。
あの優しいタレ目が見えないと、怒られているような気がして不安になる。なにせ俺には、心当たりが多すぎる。
住宅街に差しかかり、人気のない路地に入ってようやく、京は足を止めてこちらを振り向いた。予想通り、茶色っぽい瞳には厳しい色が浮かんでいて、鳩尾のあたりがきゅっとなる。
「……お前、なんでいるんだよ」
「集中講義終わったの。帰ろうとしたらなんか、みっちゃんが襲われてるから」
気をつけなきゃ駄目じゃん、とぴしゃりと言われて、腹の底がもやっとした。色々なことがまだ整理できていなくて、つい「でも」と言い訳を口走ってしまう。
「でもそんな、阿智先輩が俺のこと好きとか全然」
「俺はわかってたけど?」
「じゃあ言えよ」
「言ったじゃん、みっちゃんは可愛いんだから気をつけてって」
――可愛い。
そのたったひと言で、阿智先輩のことも今怒られてることも全部吹き飛んで、じわじわと体中が熱くなる。
多分、ずっと前からそうだった。俺は京に可愛いと言われるたび、消えたいくらい恥ずかしくなって、でも跳び上がるほどに嬉しくなる。
そうだな。俺が悪かった。
八つ当たりして、着拒までしてごめん。
可愛いって言ってくれてありがとう。俺もお前のこと、実はすごく好きなんだ。
俺は心の中で、何度も何度も言葉を唱える。だけどやっぱり、口からは少しも吐き出すことができなくて。
「……可愛いとか、気安く言うな」
やがて鼓膜に届いた自分のセリフに、もうどうしたらいいかわからなくて、あふれる涙を止める気力もなかった。
訂正だ。チャンスはやっぱり、あと一回じゃ全然足りない。
何度でも挑戦させてほしい。俺がきちんと、自分に可愛いを許せるまで。
「好きとかもそうだ。心臓変になるからそういうの簡単に言うな――中身ふわっふわのくせに無駄にイケメンなのもやめろ。犬っぽくていちいち可愛いのもまじムカつく。手が大きいのも体温高いのも、触ってほしくなるからほんと嫌なんだよ……これ以上俺の中に入ってくんな。お前のせいで、俺もうずっとおかしい」
俺は泣き続けた。それはもう、目が滝になったんじゃないかって錯覚するくらい。
京はそんな俺をしばらく見つめて、それからふっと目尻を緩めて首を傾げた。
「どうしよう、俺、好きって言われてるようにしか聞こえない」
大きくて温かい手が、優しく耳元に伸びてくる。「キスしていい?」と顔を覗き込まれて、肯定も否定もできずに視線をさまよわせる。
「するからね。嫌だったらちゃんと逃げてね」
逃がす気なんかさらさらない力強さで腰を抱かれた。ふわんと触れた甘い唇に、全身の力がくったりと抜けていく。
「好きだよみっちゃん。みっちゃんは俺のこと好き?」
うん、と、そううなずくことが、その時の俺の精一杯で。
それでも京は心底嬉しそうに笑って、飽きることなくいつまでも俺を抱きしめ続けていた。


