写真を盾に取られては無視するわけにもいかず、八月十二日の朝、俺は腑に落ちない気持ちでヘアセットをしていた。プレゼントの件で持ち上がっていた阿智先輩の株は、現在地面を突き抜けて地球の裏側まで下落中である。
その上どうして彼が「デート」なんて物言いをするのか、俺はさっぱり理解できないでいた。要するに暇だから遊ぼうぜ、というだけの話だと思うのだが、端的に言ってやめてほしい。京とのあれこれを思い出して、無駄に苦々しい気持ちになるから。
……まあでもものすごく好意的に捉えるなら、様子のおかしい俺を気遣って、気晴らしに誘ってくれたのだと考えられなくもない、とも思う。
俺にはもらった香水を全く使えていないという負い目があるので、プラスマイナス若干マイナスくらい、というのが、とりあえずの結論だ。
家を出る直前、ラックの上に置きっぱなしの香水を振り返って、俺は頭を悩ませた。一度戻って近づき、蓋を開けてにおいをかぐ。
柑橘系の爽やかな香りは当初の想像以上に使いやすそうで、最近は特に、出かける時は毎回、つけようかどうか迷う。
それでもやっぱり、最終的には京の「つけないで」が頭をよぎって――散々突き放してしまった今、それにどれほどの意味があるかはわからないけれど――俺は今日も、すっきりとした香りを吸い込むだけに留めて、急ぎ足で玄関を出た。
大学の最寄駅で待ち合わせをした阿智先輩は、細身の体に黒のTシャツとカーゴパンツをまとい、無駄に女子の注目を浴びていた。俺が近づいた時にもちょうど声をかけられていて、「悪いけど俺、今からデートなんだわ」と断っている。
「あ、ほら来た。光希ー?」
にやっと前歯を見せて手を振るものだから、逆ナンしていた女子までこちらを見て、目が合った途端に困惑した表情を浮かべた。
俺はなんとも言えない気持ちで頬が熱くなった。マジで勘弁してほしい。
「おはようございます。遅くなってすいません」
「いいよ。超声かけられてダルかったけど」
俺は改めて、近づいてきた阿智先輩をまじまじと見た。
ピアスやブレスレットなどのアクセサリーはシルバーで統一していて、キャップの陰からは鋭い三白眼が覗く。チャラいけど確かにモテそうだ。
「阿智先輩ってイケメンだったんですね」
しみじみと言うと、阿智先輩は「そうだよ」と唇の端を釣り上げた。
「知らなかったの?」
「興味なかったんで。でも絶対、付き合ったらヒモ化するタイプ」
「光希って基本、ひと言多いよな」
気をつけなさいよ、と言いながら、阿智先輩は自分のキャップを俺の頭に被せた。顔を上げて「なんですかこれ」と尋ねると、「熱中症対策」とそっけなく返ってくる。
「行こーぜ」
ぐっと手首を掴まれて、俺は目を見開いた。
「先輩、手離してください」
「なんで? デートでしょ」
「なに馬鹿なこと言ってるんですか。普通に暑いです」
その設定まだ生きてたのかと驚きつつ、抗議する。阿智先輩は「あ、そう」と肩をすくめて、あっさり手を離して改札へ向かった。
その背中を追いながら、俺は静かに胸を撫で下ろす。少しどきりとしたのは内緒だ。阿智先輩のおふざけにいちいち真面目に付き合っていたら、散々振り回されて疲れるだけである。
お盆休み直前ということもあり、電車はかなり混雑していた。言うまでもなく動物園にも人が溢れており、ただ立っているだけで汗がにじむような天気の良さも相まって、俺はわりとすぐにへばってしまう。
それを察してか、阿智先輩は空いているベンチがあるとすぐに「座ろうぜ」と腕を引っ張ってきたり、自販機を見つけるたびに「なんか買う?」と尋ねてきたりした。
なんだこの人、普通に気遣いとかできるんだなと、そのたびに驚くばかりである。
「ん? なに?」
園内の遊歩道を歩きながらちらりと見上げると、目が合った阿智先輩は不敵に笑った。少し首を傾げる仕草に京を重ねてしまい、俺は反射的に顔をしかめる。
「なんか笑っただけで睨まれたんだけど」
「……すみません。あ、ほらあそこ、レッサーパンダですよ」
人混みの隙間から愛らしい顔が覗くのを発見し、つい阿智先輩のTシャツの裾を引っ張ってしまう。
プライドがあるのであからさまにははしゃげないけれど、来たら来たで、動物園は楽しかった。暑さでダレている動物たちは気の毒だが可愛いし、阿智先輩がいてくれるので、よけいなことも考えずに済む。
だけどやっぱり、全く京のことを思い出さないというのは難しくて。
俺は自分のスマートフォンで撮影したレッサーパンダを眺めながら、小さくため息をついた。
動物たちの可愛い瞬間を目撃するたびに、京だったらどんな反応をするだろうかと考えてしまう。こうして写真を撮っているのも、九割くらいは京に見せたいという思いからだ。
京と一緒に来れたらよかったなんて、あまりにも勝手な自分に自分で呆れてしまう――拒絶したのも、それでもめげずに店に来てくれた京に取り合わなかったのも、全部俺の方なのに。
「光希。みーつき。そろそろ次行くぞ」
人混みの外から呼ばれて我に返り、俺は慌ててレッサーパンダの前を離れた。
すいませんと駆け寄ると、阿智先輩は少し身を屈めて再び俺の左手を掴んでくる。
「だから……」
「迷子と転倒防止。お前今日、すげーぼーっとしてて心配」
抗議しようと顔を上げたものの、呆れ切った表情で言われてしまい、反論できずにうつむいた。
「心配」という言葉と手のひらの熱に、またもや京を思い出す。やっぱり俺、散々避けまくったくせに、あいつのこと全然忘れられてない。
「ふれあいコーナーあるっぽいけど行く?」
阿智先輩に尋ねられ、俺はゆっくりと首を左右に振った。
「なんで」
「キャラじゃないんで。前も言いましたけど、可愛いとかそういうの、本当に嫌なんです」
「でもガチャはやってたじゃん」
「あれは京が持ってたからで……」
つい滑り出た泣き言に、これ以上喋っても碌なことはないぞと察して黙り込む。
阿智先輩はそんな俺をしばらく見つめると、やがてなにも言わずに歩き出した。
絶対に茶化されると思っていた俺はすっかり拍子抜けしてしまい、手を振りほどくタイミングも見失ったまま、八月の動物園を歩き回った。
その上どうして彼が「デート」なんて物言いをするのか、俺はさっぱり理解できないでいた。要するに暇だから遊ぼうぜ、というだけの話だと思うのだが、端的に言ってやめてほしい。京とのあれこれを思い出して、無駄に苦々しい気持ちになるから。
……まあでもものすごく好意的に捉えるなら、様子のおかしい俺を気遣って、気晴らしに誘ってくれたのだと考えられなくもない、とも思う。
俺にはもらった香水を全く使えていないという負い目があるので、プラスマイナス若干マイナスくらい、というのが、とりあえずの結論だ。
家を出る直前、ラックの上に置きっぱなしの香水を振り返って、俺は頭を悩ませた。一度戻って近づき、蓋を開けてにおいをかぐ。
柑橘系の爽やかな香りは当初の想像以上に使いやすそうで、最近は特に、出かける時は毎回、つけようかどうか迷う。
それでもやっぱり、最終的には京の「つけないで」が頭をよぎって――散々突き放してしまった今、それにどれほどの意味があるかはわからないけれど――俺は今日も、すっきりとした香りを吸い込むだけに留めて、急ぎ足で玄関を出た。
大学の最寄駅で待ち合わせをした阿智先輩は、細身の体に黒のTシャツとカーゴパンツをまとい、無駄に女子の注目を浴びていた。俺が近づいた時にもちょうど声をかけられていて、「悪いけど俺、今からデートなんだわ」と断っている。
「あ、ほら来た。光希ー?」
にやっと前歯を見せて手を振るものだから、逆ナンしていた女子までこちらを見て、目が合った途端に困惑した表情を浮かべた。
俺はなんとも言えない気持ちで頬が熱くなった。マジで勘弁してほしい。
「おはようございます。遅くなってすいません」
「いいよ。超声かけられてダルかったけど」
俺は改めて、近づいてきた阿智先輩をまじまじと見た。
ピアスやブレスレットなどのアクセサリーはシルバーで統一していて、キャップの陰からは鋭い三白眼が覗く。チャラいけど確かにモテそうだ。
「阿智先輩ってイケメンだったんですね」
しみじみと言うと、阿智先輩は「そうだよ」と唇の端を釣り上げた。
「知らなかったの?」
「興味なかったんで。でも絶対、付き合ったらヒモ化するタイプ」
「光希って基本、ひと言多いよな」
気をつけなさいよ、と言いながら、阿智先輩は自分のキャップを俺の頭に被せた。顔を上げて「なんですかこれ」と尋ねると、「熱中症対策」とそっけなく返ってくる。
「行こーぜ」
ぐっと手首を掴まれて、俺は目を見開いた。
「先輩、手離してください」
「なんで? デートでしょ」
「なに馬鹿なこと言ってるんですか。普通に暑いです」
その設定まだ生きてたのかと驚きつつ、抗議する。阿智先輩は「あ、そう」と肩をすくめて、あっさり手を離して改札へ向かった。
その背中を追いながら、俺は静かに胸を撫で下ろす。少しどきりとしたのは内緒だ。阿智先輩のおふざけにいちいち真面目に付き合っていたら、散々振り回されて疲れるだけである。
お盆休み直前ということもあり、電車はかなり混雑していた。言うまでもなく動物園にも人が溢れており、ただ立っているだけで汗がにじむような天気の良さも相まって、俺はわりとすぐにへばってしまう。
それを察してか、阿智先輩は空いているベンチがあるとすぐに「座ろうぜ」と腕を引っ張ってきたり、自販機を見つけるたびに「なんか買う?」と尋ねてきたりした。
なんだこの人、普通に気遣いとかできるんだなと、そのたびに驚くばかりである。
「ん? なに?」
園内の遊歩道を歩きながらちらりと見上げると、目が合った阿智先輩は不敵に笑った。少し首を傾げる仕草に京を重ねてしまい、俺は反射的に顔をしかめる。
「なんか笑っただけで睨まれたんだけど」
「……すみません。あ、ほらあそこ、レッサーパンダですよ」
人混みの隙間から愛らしい顔が覗くのを発見し、つい阿智先輩のTシャツの裾を引っ張ってしまう。
プライドがあるのであからさまにははしゃげないけれど、来たら来たで、動物園は楽しかった。暑さでダレている動物たちは気の毒だが可愛いし、阿智先輩がいてくれるので、よけいなことも考えずに済む。
だけどやっぱり、全く京のことを思い出さないというのは難しくて。
俺は自分のスマートフォンで撮影したレッサーパンダを眺めながら、小さくため息をついた。
動物たちの可愛い瞬間を目撃するたびに、京だったらどんな反応をするだろうかと考えてしまう。こうして写真を撮っているのも、九割くらいは京に見せたいという思いからだ。
京と一緒に来れたらよかったなんて、あまりにも勝手な自分に自分で呆れてしまう――拒絶したのも、それでもめげずに店に来てくれた京に取り合わなかったのも、全部俺の方なのに。
「光希。みーつき。そろそろ次行くぞ」
人混みの外から呼ばれて我に返り、俺は慌ててレッサーパンダの前を離れた。
すいませんと駆け寄ると、阿智先輩は少し身を屈めて再び俺の左手を掴んでくる。
「だから……」
「迷子と転倒防止。お前今日、すげーぼーっとしてて心配」
抗議しようと顔を上げたものの、呆れ切った表情で言われてしまい、反論できずにうつむいた。
「心配」という言葉と手のひらの熱に、またもや京を思い出す。やっぱり俺、散々避けまくったくせに、あいつのこと全然忘れられてない。
「ふれあいコーナーあるっぽいけど行く?」
阿智先輩に尋ねられ、俺はゆっくりと首を左右に振った。
「なんで」
「キャラじゃないんで。前も言いましたけど、可愛いとかそういうの、本当に嫌なんです」
「でもガチャはやってたじゃん」
「あれは京が持ってたからで……」
つい滑り出た泣き言に、これ以上喋っても碌なことはないぞと察して黙り込む。
阿智先輩はそんな俺をしばらく見つめると、やがてなにも言わずに歩き出した。
絶対に茶化されると思っていた俺はすっかり拍子抜けしてしまい、手を振りほどくタイミングも見失ったまま、八月の動物園を歩き回った。


