ラブラドールガチャを見つけたのは、正に次の週の水曜日だった。
 講義が終わってバイトは休みで、もちろん予定などなく、結局阿智先輩とのサシ飲みもなく。でも京を自分から誘い直す勇気だって、当然あるわけもなく。
 食欲もないから夕飯はコンビニでいいや、帰りに新刊の漫画でも買っていこうと大学前の本屋に寄ったら、店先のガチャガチャコーナーに見覚えのあるキーホルダーの写真を見つけた。
 あ、これ京が持っていたやつだ、と自然に目が吸い寄せられ、俺はガチャの前で立ち止まった。色違いで展開されているらしく、京が持っていたクリーム色のラブラドールの他には、黒・ピンク・水色・緑と、全五種類のラインナップだ。
 色のチョイスやばいな、と俺は少し笑ってしまう。
 クリームと黒以外は絶対にハズレだ。水色とか特に、小学校で使っていた絵の具の水色と全く同じ色をしていて、顔色が悪すぎてもはやかわいそう。
 俺は財布を出そうとリュックサックを肩からずらし、我に返って背負い直した。冷静に考えて、俺がガチャガチャとかありえない。
 しかもそれが京の真似とか、万が一にでも本人に知られたら、それこそ本当に一生顔を合わせられなくなってしまう。
 目当ての少年漫画は入口すぐの書架に平積みされていたので、俺は一冊手に取ってレジへ向かい、会計を済ませて本屋を出た。ちらっとラブラドールガチャに目をやり、二百円か、となんとなく思って、そのまま帰路につく。
 今時のガチャガチャで二百円って、かなり安いよな。造形は文句なしに可愛かったし、これが企業努力ってやつなのだろう。
 ぼんやり考えながら、蒸し暑い夏の風を感じる。水色の空ににじみ始めたオレンジはまだ優しい色をしていて、綺麗だなと目を細めてから、もう一度ラブラドールガチャのイメージ写真を思い出す。
 ……でもやっぱり、あの色じゃなあ。
 俺はそこで一度、足を止めた。ちらっと後ろを振り返って、いやいや、と首を左右に振って歩みを再開する。
 売れ残ってしまうかもしれないなんてのは、俺じゃなくてガチャガチャを作っている会社が考えるべきことであって。そもそもそんなこと気にしたって、俺の懐事情で救えるラブラドールの数などたかが知れている。
 全てはあの色を決めたデザイン担当が悪いのだ。あの原色はさすがにないだろう。パステルカラーにするとか、バンダナを巻いてその色でバリエーションをつけるとか、本当にラブラドールを可愛いと思っているならもっといくらでもやりようが……。
 俺は再び足を止めた。いやいや、と前に進もうとして、だけどどうしてもラブラドールたちが頭から離れなくて、仕方なく踵を返しラブラドールガチャの前まで戻る。
 一回だけと決めて、俺は財布の中の小銭を確認した。百円玉二枚を手に取って、落とさないように慎重に投入口へと滑らせる。
 ガチャガチャをやるのなんて、それこそ小学生ぶりだ。がり、がり、とハンドルを回す感覚は当時と全く同じで、ああそういえば、好きだったなあと懐かしさに頬が緩む。
 最近のガチャガチャはクオリティも高く、大人でもハマることがあると知ってはいた。実際に学科や研究室の同期から戦利品を見せられることもある。
 でも俺は、そこにまとわりつく子どもっぽさをどうしても許容できなかった。
 今だってべつに、受け入れられたわけではないけれど。でもこれは慈善事業だし、どうせ誰も見てないし。
 取り出し口に手を入れて、少しドキドキしながらカプセルを開ける。中身を取り出すと、透明な袋越しに水色のラブラドールと目が合った。
 なんだ。思ったより全然、可愛いじゃないか。
 俺は少し安心して、水色のラブラドールをカプセルにしまい直し、リュックサックに入れた。実物と写真って、やっぱり違うんだな。
 これですっきり、もう立ち去ろうと決意しつつ、財布の中に意外と百円玉があったことを思い出す。
 こんなに可愛いなら、あと一回くらい――もちろん、何色が出ても可愛いのはわかったけれど、やっぱり俺が一番欲しいのは。
 俺は周囲に視線を走らせて、知り合いが誰もいないことを確認した。手に持ったままだった財布から再び二枚百円玉を取り出し、投入口に入れてハンドルに手をかける。
 がり、がりと回し終えて、出てきたのは先ほどと同じ水色のラブラドールだ。
 申し訳ないと思いつつ、胸のうちにはそこはかとない落胆が広がった。せめて違う色がよかった。
 ……まあ、たった二百円だしな。
 そう自分を説得して、もう一度ガチャガチャを回す。しかし出てきたのは、またしても水色。
 むっと顔をしかめて、もう一度回す。カプセルを開けるとまたもや水色。その次も水色、その次も水色、なんだこの機械、水色しか入ってないのか?
「あれ? なにしてるの、みっちゃん?」
 突然声をかけられて、驚いた俺の手のひらから、持ちっぱなしにしていたカプセルが三つほど転がり落ちる。
 講義終わりらしい京はそれを拾い上げると、半開きの口から中身を確認して「これガチャガチャだったんだ」とつぶやいた。
「でもなんで、全部水色?」
 こてんと首を傾げて尋ねられた瞬間、首元がぱーっと熱くなる。一番見られたくない人間に一番見られたくない姿を見られたという現実が、じわじわと体に染み込んで腹の底に滞留する。
「べっ、べつにこんなの、好きじゃねーよっ」
 半ば叫ぶように言うと、京はびくっと肩を震わせて目をまん丸にした。
 落ち着いてみっちゃん、と伸びてきた手を、俺は勢いよく振り払う。
「お前が持ってたから気になったとか、そういうんじゃ全然ないんだからな」
「わかった。わかったから」
「用事なくなって本屋寄ったら、たまたま目に入ったからやってみただけで。可愛いとか全く思ってないし」
「うん。大丈夫だよ」
「でもいざやってみたら水色ばっかりで、なんか悔しくなって止め時わからなくなってたとか、そういう情けないのでも全然ないし」
「うんうん。それはまあ、ガチャガチャあるあるだよね」
「だから、違うって言ってるだろ!」
 そこまで一気に喋って、喋り疲れて俺はうつむいた。肩で息をしながら、履きつぶしたスニーカーのつま先をじっと見つめる。
 じわっと視界がにじんで、鼻の奥がツンとした。これ以上みっともないところなど見せたくないのに、いつの間にかぼろぼろと涙がこぼれていた。
「……お前なんか嫌いだ」
 言った瞬間に、針で刺されたような痛みが胸に走る。嘘なんて人並みにつくけれど、こんなに苦しい嘘は初めてついた。
 だけどこの嘘は、どこか本当でもあって。
 京と関わると、今まで必死に作り上げてきた自分の外側がすっかり崩れてしまう。酔っぱらったり、泣きたくなったり、甘えたくなったり、そういう子どもっぽくて恥ずかしい自分が飛び出してきてしまって、始末のつけ方がわからなくて途方に暮れる。
 そんな自分を受け入れられるほど、俺はまだ大人じゃない。だから苦しい。理想と現実が喧嘩を始めたら、ただ翻弄されることしかできない。
「え、みっちゃんっ?」
 京の手からカプセル三つを奪い取り、俺はアパートの方向へと全速力で走り出した。

 結局その日が、京と会った夏休み前最後の日になった。
 電話の方も、家に帰ったら不在着信通知が大量にきていて、勢いで着信拒否してしまった。だからその後、京が電話をかけてきたかどうかは、俺には全くわからない。