学食には近づけないので、二時限目の後は購買へ寄った。惣菜パンを二つ手に取り、何気なくレジへ向かう途中で、俺の目は新発売のエクレアに吸い寄せられた。
 ひと袋に小さいエクレアが四つ入っていて、犬や猫のキャラクターが踊るパッケージには【期間限定いちご味】と書いてある。恐らく京が研究室に持ってきたマカロンと同じシリーズで、ランダムシールも入っているらしい。
 いちご味、いいなあと手が伸びる。しかしそのあまりにもファンシーな見た目に、俺はやはり購入を躊躇してしまう。
 昼休みの購買は学生も多いし、レジは有人だ。二十歳過ぎの男子大学生として、これを持つのは恥ずかしい。
 ああでも、いちご味……と、未練がましく見つめていたところで、カフェでいちごタルトを頬張る京の顔が浮かんだ。
 あいつはそういうの、本当に気にしないよな。散歩中の飼い主に平然と声をかけた時もそうだったけど。
 うらやましいほどの無邪気さを思い出して、つい頬が緩む。ほっと温かい気持ちになるのと同時にとくとくと鼓動が速まって、ああどうしようと迷いつつ、俺の指先は自然とエクレアのパッケージをつまみ上げていた。
 ……俺が食べるんじゃない。京に買っていってやって、ついでに半分もらうんだ。
 俺が京に会いにいくのは、これを渡すためで。これを渡すのは、京が以前マカロンをくれたことへのお返しってことで。
 そうだ、それがいいと自分を納得させて、俺はレジの列に並んだ。店員のおばちゃんがエクレアを持ち上げた時は緊張したけど、当たり前だが咎められることもなく、無事に会計を済ませて建物を出ることができた。
 扉の前から少し脇にずれ、俺はレジ袋の中を覗き込む。一番上に置かれたエクレアを見て気持ちがふわんと舞い上がる。
 京はどんな顔をするだろうか。
 俺から会いにいくなんて初めてだから、きっと驚くだろう。驚いた後は多分、目をきらんと輝かせて、見えない尻尾をぶんぶん振って喜ぶはずだ。
 一年生は取るべき授業が多いから、京は今も、キャンパス内にいる可能性が高い。昼休み中に渡せるかもしれないと思えば、もうすぐ会えるというそわそわで胸がいっぱいになる。
 心の準備がしっかりできる上、マカロンのお礼にエクレアを渡すという明確な理由もあるため、気持ち的にもずいぶんと楽だった。電話をしても出なかったので、俺はとりあえず、学食前で京を待つことにした。
 正面口からは絶え間なく人が出てきたり、逆に入っていったりしている。俺は三限が空きコマなので、もし今京と会えなくても、先ほど買った惣菜パンを食べつつ折り返しがくるのを待てばいい。
 まあでも、できればすぐに会いたいけど――と、そう思ったところで、見覚えのあるふわふわ頭が歩いてきた。
 俺は顔を上げて、一歩踏み出す。しかし京の隣に可愛らしい女子学生がいるのを見て、すぐにその場で立ち止まってしまう。
 二人は笑顔で話していた。特に女子の方は、その仕草や表情から、京のことが好きなんだなと明らかにわかる感じだった。
 京が笑顔なのはいつものことだけれど、俺はやっぱり、その顔がめちゃくちゃ気に食わなくて。ああこれ、京が来た飲み会の時とか、ラブラドールのキーホルダーを見た時と同じ気持ちだなって気づく。
 あの時はまだ、お気に入りのおもちゃに無遠慮に触られたみたいな、子どもっぽい独占欲が強かった気もする。でも今はそこに妙な焦燥感が加わって、胸の中がぐるぐるして、すぐに二人を引き離したい衝動に駆られる。
 プライドにかけて、もちろんそんなみっともないことはしない。だけど少なくとも、先ほどまでの浮き足立った気持ちは、冷水を浴びせられたみたいに一瞬でしぼんでしまった。
「あれ、みっちゃん?」
 こちらに気づいた京が、女子と別れて駆け寄ってくる。
 初めに想像した通り、驚きと喜びの入り混じった顔で「どうしたの?」と尋ねられた俺は、しかし不機嫌に眉根を寄せてエクレアを突き出すことしかできなかった。
「これ、やる」
「いいの?」
「いい。……研究室の女子にたまたまもらっただけだから」
「あ、そうなんだ。ありがとう」
 嘘だ。お前と食おうと思ってわざわざ買ったんだ――などと訂正できるわけもなく。「お前、俺が好きなら、誰にでも愛想良くするんじゃねーよ」と本音を言えるわけもなく。
 俺は内心頭を抱えた。どうして俺は、こんなにも素直になれないんだ。
 先ほどの女子の顔が脳裏をよぎって、奥歯を強く噛み締める。
 いつまでもこんな態度じゃいけないということは、自分でもよくわかっている。こいつはモテるんだから、早く返事をしなければ、いつ呆れられて心変わりされるかもわからない。
 もし京が俺以外の誰かと付き合って、俺のことなんて少しも気にしなくなってしまったら。
 ちょっと想像しただけで腹の底が冷えて、泣きたくなるような不安に駆られる。
「……きょ、京」
 その冷たい気持ちから逃れたい一心で、俺は京に呼びかけた。ん? と首を傾げつつこちらを見たタレ目に向かって、決死の覚悟で「俺も、」と言葉を絞り出す。
「俺も、そのっ……ええっと」
 ためらっている間にも自分の心臓の音がどんどん大きくなって、鼓膜に響いてすごくうるさい。好き、好き、と頭の中で念じれば念じるほど、それを言っている自分の姿を想像して消えたくなる。
 恋とか好きとかのイメージは、どうしたってピンクやハートで。
 そういうのはやっぱり、俺には全然似合わない。
 個性とか多様性とか、多分全然関係なくて、つまりはセルフイメージの問題なのだ。自分には似合わないと思っている色の服を着る時の、あのすごく恥ずかしくていたたまれない気持ちに似ている。
 俺はもう、ピンクは着れない。スカートも履けない。
 そんな自分が嫌いなわけでもないけれど――だけどこいつと再会してから、俺は時々、ものすごく苦しくなる。
「あれ、もしかしてみっちゃんも食べたかった?」
 なんだかんだ当初の目的を言い当てられ、瞬く間に顔が熱くなった。なぜか「ちげーよっ」と口走ってしまい、もう駄目だ、とにかく撤退、と立ち去ろうとしたところで手首を掴まれ、驚きを込めて京をふり仰ぐ。
「ねえみっちゃん、来週の水曜日もご飯大丈夫?」
 京の目には、わずかに心配の色が浮かんでいた。
 気遣われてしまったと悟って、もう限界だった。
「……っ、用事あるから無理!」
 えっ、と声をもらす京の手を振り切って、俺は今度こそその場を立ち去った。
 完膚なきまでの敗走である。なんか俺、こいつの前では負けてばっかりいる気がする。