「おう光希。お疲れー」
七月半ばの金曜日、俺が始業時刻ギリギリに講義室に駆け込むと、一番後ろの席を陣取っていた阿智先輩がひらっと手を振ってきた。
「ああ、お疲れ様です」
ここおいでよ、と誘われるがままに阿智先輩の隣に腰掛け、俺は挨拶を返す。
「この講義、三年の必修ですよね。そんなんで卒業大丈夫なんですか?」
「去年休みすぎて単位落とした。一限はしんどい」
大したことでもないというように、阿智先輩は肩をすくめた。一歩間違えれば留年だというのに相変わらず飄々としているなあと、俺はひそかに感心する。
「なあみっちゃん、今度の水曜日また飲みに行こうぜ」
突然誘われて、俺はペンケースや前回のレジュメを出しながら眉をひそめた。
「みっちゃんって呼ばないでください」
「だからさ、なんで? 京くんは呼んでるじゃん」
「あいつは仕方ないって、前も言ったでしょ。……俺はそういう可愛い感じ嫌なんです。阿智先輩が呼び出したら、一瞬でバ先にも広がりそうだし」
「ふうん?」
阿智先輩は頬杖をついて、ものすごくなにか言いたげな視線をよこした。それに気づかないふりをしていると、「なあ水曜日」ともう一度つぶやいて、俺の顔を覗き込んでくる。
「飲み行こ。サシで」
「なんでまた」
「だって光希、俺があげた香水結局つけてくれてないだろ」
「それはそう、ですけど」
俺はぐっと顔をしかめた。そこを突かれると弱い。
「……まあ、水曜日以外だったらべつに」
阿智先輩とサシで飲んだことは、そういえば一度もない。なんだって今さら誘ってくるのか謎といえば謎だが、水曜以外だったら特別問題がないのも事実である。
なんで水曜は駄目なわけ? と問われたので、「なんでそんなこと聞くんですか」と問い返して誤魔化した。チャイムが鳴り、せっかく急いで来たのに教える方が遅刻かよと釈然としない気持ちになっていると、「どうせ京くんだろ」と不機嫌そうな声が飛んできた。
えっと驚いて、俺は阿智先輩の方へ顔を向ける。
先ほどと同じように頬杖をつきながらも、阿智先輩の瞳は鋭く光っていた。
初めて見るその表情に、俺はすっかりたじろいでしまう。
「好きなわけ? 京くんのこと」
「すっっっっっきなわけないじゃないですか!」
思わず叫び返したところで、前方から扉の開く音がした。やべ、と思って視線をやると、驚いた表情でこちらに顔を向けた講師とばっちり目が合ってしまった。
「おーい後ろ、うるさいぞー」
俺は慌てて頭を下げ、阿智先輩とは反対側へ席を一つズレる。注意されてしまった恥ずかしさと睨まれたことへの動揺で、心臓が嫌な感じでドキドキする。
どうして阿智先輩が、俺と京のことを気にするんだ。しかもあんな、なんか怖い感じで。
そりゃあ、せっかくもらった香水をつけていないのは本当に申し訳ないけど、と、そこまで考えて、俺は小さくため息をつく。
……だけどもう、俺はあの香水をつけることはできないと思う。
ようやく始まった講義なんて少しも聞かずに、俺は机に広げたレジュメの上に顔を伏せた。
あの日。京と出かけた日。
カフェの後はぶらぶらとウィンドウショッピングをして、夕方からは話題のアニメ映画を観た。
夕食を食べてアパート前で解散するまでの間、告白の返事をするタイミングはいくらでもあったはずなのに、俺は京に好きだと言うことができなかった――それどころか、笑いかけられたり見つめられたりするたびに、なぜかいつも以上に京を突き放してしまって。
結局、それから二週間近く経った今も、俺はこの奇妙な現象に悩まされている。
京の顔を見て「好き」と言おうとすると、冗談でなく胸が苦しくなって声が掠れる。そんな風に正面から好意を伝えるのは自分には似合わないような気がして不安になるし、そうやってうろたえていること自体が恥ずかしくて、体がすぐに熱くなる。
しかも京は、そんな一部始終を、あのまっすぐな目で容赦なく見つめてくる。だから俺はよけいに、すぐにでもその場から消えてしまいたくなって。
その結果としての「やっぱいい。なんでもない」が積み重なって、多分俺は今、あいつの中でかなり挙動不審な人間になってしまっている。
そんな俺を、京はどう思っているのだろうか。
それを考え出すと本当に、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなくて、最近の俺はもはや京を避け気味だ。
学食にも行けてないし、人文学部棟の前は通らないようにしている。キャンパス内であの頭一つ抜けた長身を見かけたら、わざわざ遠回りをして目的地を目指す。
その分かかってくる頻度が上がった電話は、必ずスピーカーモードで対応している。普通に電話した時の耳元で話されているようなあの感覚に、俺はもう耐えられないから。
好き避けなんて、中学生みたいで本当に情けない。だけどもう自分ではどうにもできなくて、そのくせ会いたい気持ちはあるのだから、事態はよけいにややこしい。
俺に告白した後も平然としていた京がいかにすごかったか、今ならわかる。悔しいけど尊敬する。俺には絶対に無理だ。
このままずっと普通に話せなかったらどうしよう――と、一度そう考えだすとなんだかすごく寂しくて不安で、昨夜もあまりよく眠れなかった。
恋煩いで遅刻未遂とか、自分がメンヘラすぎてマジでしんどい。
七月半ばの金曜日、俺が始業時刻ギリギリに講義室に駆け込むと、一番後ろの席を陣取っていた阿智先輩がひらっと手を振ってきた。
「ああ、お疲れ様です」
ここおいでよ、と誘われるがままに阿智先輩の隣に腰掛け、俺は挨拶を返す。
「この講義、三年の必修ですよね。そんなんで卒業大丈夫なんですか?」
「去年休みすぎて単位落とした。一限はしんどい」
大したことでもないというように、阿智先輩は肩をすくめた。一歩間違えれば留年だというのに相変わらず飄々としているなあと、俺はひそかに感心する。
「なあみっちゃん、今度の水曜日また飲みに行こうぜ」
突然誘われて、俺はペンケースや前回のレジュメを出しながら眉をひそめた。
「みっちゃんって呼ばないでください」
「だからさ、なんで? 京くんは呼んでるじゃん」
「あいつは仕方ないって、前も言ったでしょ。……俺はそういう可愛い感じ嫌なんです。阿智先輩が呼び出したら、一瞬でバ先にも広がりそうだし」
「ふうん?」
阿智先輩は頬杖をついて、ものすごくなにか言いたげな視線をよこした。それに気づかないふりをしていると、「なあ水曜日」ともう一度つぶやいて、俺の顔を覗き込んでくる。
「飲み行こ。サシで」
「なんでまた」
「だって光希、俺があげた香水結局つけてくれてないだろ」
「それはそう、ですけど」
俺はぐっと顔をしかめた。そこを突かれると弱い。
「……まあ、水曜日以外だったらべつに」
阿智先輩とサシで飲んだことは、そういえば一度もない。なんだって今さら誘ってくるのか謎といえば謎だが、水曜以外だったら特別問題がないのも事実である。
なんで水曜は駄目なわけ? と問われたので、「なんでそんなこと聞くんですか」と問い返して誤魔化した。チャイムが鳴り、せっかく急いで来たのに教える方が遅刻かよと釈然としない気持ちになっていると、「どうせ京くんだろ」と不機嫌そうな声が飛んできた。
えっと驚いて、俺は阿智先輩の方へ顔を向ける。
先ほどと同じように頬杖をつきながらも、阿智先輩の瞳は鋭く光っていた。
初めて見るその表情に、俺はすっかりたじろいでしまう。
「好きなわけ? 京くんのこと」
「すっっっっっきなわけないじゃないですか!」
思わず叫び返したところで、前方から扉の開く音がした。やべ、と思って視線をやると、驚いた表情でこちらに顔を向けた講師とばっちり目が合ってしまった。
「おーい後ろ、うるさいぞー」
俺は慌てて頭を下げ、阿智先輩とは反対側へ席を一つズレる。注意されてしまった恥ずかしさと睨まれたことへの動揺で、心臓が嫌な感じでドキドキする。
どうして阿智先輩が、俺と京のことを気にするんだ。しかもあんな、なんか怖い感じで。
そりゃあ、せっかくもらった香水をつけていないのは本当に申し訳ないけど、と、そこまで考えて、俺は小さくため息をつく。
……だけどもう、俺はあの香水をつけることはできないと思う。
ようやく始まった講義なんて少しも聞かずに、俺は机に広げたレジュメの上に顔を伏せた。
あの日。京と出かけた日。
カフェの後はぶらぶらとウィンドウショッピングをして、夕方からは話題のアニメ映画を観た。
夕食を食べてアパート前で解散するまでの間、告白の返事をするタイミングはいくらでもあったはずなのに、俺は京に好きだと言うことができなかった――それどころか、笑いかけられたり見つめられたりするたびに、なぜかいつも以上に京を突き放してしまって。
結局、それから二週間近く経った今も、俺はこの奇妙な現象に悩まされている。
京の顔を見て「好き」と言おうとすると、冗談でなく胸が苦しくなって声が掠れる。そんな風に正面から好意を伝えるのは自分には似合わないような気がして不安になるし、そうやってうろたえていること自体が恥ずかしくて、体がすぐに熱くなる。
しかも京は、そんな一部始終を、あのまっすぐな目で容赦なく見つめてくる。だから俺はよけいに、すぐにでもその場から消えてしまいたくなって。
その結果としての「やっぱいい。なんでもない」が積み重なって、多分俺は今、あいつの中でかなり挙動不審な人間になってしまっている。
そんな俺を、京はどう思っているのだろうか。
それを考え出すと本当に、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなくて、最近の俺はもはや京を避け気味だ。
学食にも行けてないし、人文学部棟の前は通らないようにしている。キャンパス内であの頭一つ抜けた長身を見かけたら、わざわざ遠回りをして目的地を目指す。
その分かかってくる頻度が上がった電話は、必ずスピーカーモードで対応している。普通に電話した時の耳元で話されているようなあの感覚に、俺はもう耐えられないから。
好き避けなんて、中学生みたいで本当に情けない。だけどもう自分ではどうにもできなくて、そのくせ会いたい気持ちはあるのだから、事態はよけいにややこしい。
俺に告白した後も平然としていた京がいかにすごかったか、今ならわかる。悔しいけど尊敬する。俺には絶対に無理だ。
このままずっと普通に話せなかったらどうしよう――と、一度そう考えだすとなんだかすごく寂しくて不安で、昨夜もあまりよく眠れなかった。
恋煩いで遅刻未遂とか、自分がメンヘラすぎてマジでしんどい。


