京が俺の部屋のチャイムを鳴らしたのは、七月六日日曜日の午前十時ぴったりだ。ワックスの残る手でノブを押すと、目が合った京はぱっと顔を輝かせて「おはよう」と笑った。
「お……はよ」
 会って早々、顔を上げたまま、俺はぽかんと口を開けて固まってしまう。
「なに?」
「いや、ピアス空いてんだなって思っただけ」
 ぱちぱちと目をしばたたかせながら答えて、改めて京の全身を眺める。
 京の耳元では、棒状のシンプルなシルバーピアスが揺れていた。てろっとした素材のシャツや細身のジーンズはいつも通りだが、そこにひとつアクセサリーが加わっただけでだいぶ印象が違い、ちょっとびっくりしてしまう。
「せっかくみっちゃんとデートだからつけてみた。ドッグカフェでは外すけどね」
 照れくさそうに頬をかきながら、京は答えた。
「かっこいい?」
 こてんと首を傾げる癖はいつも通りで、なのになぜか胸がどきっとする。俺はわざとぶっきらぼうに「生意気」と答え、とりあえず京を室内に招き入れた。
「あと髪やるだけだから」
「うん。ここ座ってていい?」
 京はそう言って、ベッド脇の床を指差した。俺がうなずくと、いつぞやと同じように正座で座って背筋を伸ばし、姿見の前で手を動かす俺をじーっと見つめてくる。
 熱視線、としか形容のしようがないそれが非常にむずがゆくて、俺は苦笑交じりに口を開いた。
「お前ってさ、目がうるさいって言われない?」
「え、そうかな」
「俺からすれば相当なんだけど」
「まあ俺がこんなに見るのはみっちゃんだけだからね」
 当たり前のように言われて、「あー……」と思わず声が出る。
「そういうね。はい。わかったわかった」
「ねえ何その反応」
 なにって、なんなんだろうな。
 自分でもよくわからなかった。ただちょっと、胸のあたりがくすぐったい感じがして、なんとなく満更でもないというか。まあそんなこと、もちろん正直になんて言えないけれど。

 ヘアセットを終えた俺は、京と連れ立って大学の最寄り駅から電車に乗った。都内でも珍しい、大型犬と触れ合える店が目的地だ。
 誤飲やじゃれつき防止でアクセサリー類は禁止のため、予約の十五分前に店についたタイミングで、京は宣言通りピアスを外した。
 店に入った俺たちは早々と同意書を書き終え、待合室で少し待つ。その後お店の人から口頭でも説明を受け、十一時きっかりに触れ合いスペースへ足を踏み入れると、人懐っこそうなわんこ五匹が一斉にこちらを振り仰いだ。
「……っ」
 つぶらな瞳十個に見つめられ、俺は鋭く息をのむ――やばい。可愛い。
 スタンダードプードルが二匹と、ラブラドール、ゴールデン、ボーダーコリーがそれぞれ一匹ずつ、皆体が大きくて毛もふわんふわんのもこもこで、尻尾フリフリで温かそうでなんかもうとにかくキュンだ。
 俺は必死に口角に力を込め、右の拳を強く握った。そうでもしないと、今すぐに飛びついてじゃれ合ってしまいそうだったから。
 怪我防止のためあまり揉みくちゃになって遊ぶことは禁止されている上、隣には京がいる。くそ、なんで俺は一人で来なかったんだ。
「可愛いね。あ、みっちゃんのところ寄ってきたよ!」
 京が上半身を屈めて、俺の耳元で嬉しそうにささやく。
 その言葉の通り、俺の膝には、クリーム色のラブラドール・レトリバーが尻尾をぱたぱた振りながら近づいてきていた。撫でて撫でてと期待に満ちた表情を向けられて、拳に込もる力が強くなる。
 ……今撫でたら絶対にデレデレしてしまう。それは非常に困る。俺の沽券に関わる緊急事態である。
 でもそんなこと、目の前のラブラドールには一切わからないわけで。
 俺が葛藤していると、ラブラドールが不安そうに首を傾げた――え、もしかして私、撫でてもらえないの?
 その表情を見て、「駄目だ」と俺は悟る。この期待を裏切るなんて、自分にはできない。
 意を決して、俺はその場にしゃがみ込んだ。握っていた拳をゆっくりとラブラドールの鼻先に近づけ、自分のにおいを嗅がせてから手のひらを開く。代わりに口角に込める力を一層強くして、そっとラブラドールの顎下に触れる。
 ラブラドールは少し口を開いて、ピンク色の舌を覗かせた。きらっと輝いた瞳で俺を見上げ、もっと撫でろとばかりに顔をすり寄せてくる。
「かっ……わいいなあお前!」
 瞬間、俺は無意識のうちに破顔していた。衝動のままに左手も伸ばして、ラブラドールの輪郭を両側からしっかりと包み込む。
 敗北だ。完敗である。それでいい。こんなの負けない方がおかしい。
 少し硬めの毛の感触に懐かしさを覚えつつ、顎下のたるみをわっふわっふと存分に味わいながら、俺は京を見上げる。
 なにあいつ、アホみたいにぽかんと口を開けて突っ立ってるんだ? この可愛さを享受しないなんて、馬鹿の極みじゃないか?
「おい京、お前も撫でろ! めっっっっちゃ可愛いぞ!」
「あっ……うん!」
 京はようやく俺の隣にしゃがんで、一緒にラブラドールを撫でだした。「可愛いね」としきりに言いながら、なぜか俺の顔ばかり見てくる。
「馬鹿、俺じゃなくて犬を見ろ。あっほらあっちからプードルも来るっ。歩いてるだけでマジで可愛いな。やばい連れて帰りたい」
 久しぶりに思い切り笑いながら、俺は大いに楽しい時間を過ごした。
 それはもう、存分に。
 京の存在とかデートだとか、そういうのは途中から、すっかり頭から吹き飛んでいた。世界の中心は俺と犬。時々犬っぽい人間がなぜかすごく嬉しそうにこちらを見てくる。以上。って感じである。