その週は京とうどんを食べた。香川県出身の店主が経営する讃岐うどんの店だ。
 喉越しのいい麺はとてもおいしかったけれど、やはり男子大学生の胃袋には少し物足りなくて、帰りに二人でコンビニに寄った。
「俺さー、お盆前に集中講義あるらしいんだよね。なんか有名な先生が来てくれるやつ。みっちゃんは? 夏休みの予定ある?」
 自動ドア脇でコーンアイスをかじりながら、京が首を傾げる。俺もつられて首を傾げながら、自分の氷アイスを開封する。
「特にないな」と応じると、「じゃあ遊ぼうよ」と嬉しそうな声で誘われた。
「あー、まあ、気が向いたらな」
「やった。え、どうしよう? みっちゃんどこ行きたい?」
「気が向いたらって言っただろ」
 じとっとした目を向けると、京は照れくさそうに頬をかいて笑った。どこに行くとも、そもそも本当にどこかに行くかどうかも決まってないのに、よくもまあそんなに嬉しそうにできるなと感心する。
 こわ、とつぶやいて自分のアイスに戻る途中、俺は京の肩口で視線を止めた。白に近いクリーム色のラブラドール・レトリバーのキーホルダーが、トートバッグの持ち手で揺れていた。
「なにそれ」
 つい一昨日、研究室で会った時にはなかったはずだ。指をさしながら尋ねると、京はあっと気づいた感じで顔を輝かせ、「可愛いでしょ」と目尻を緩めた。
「俺に似てるって言って、同じ学科の子がくれたんだ。みっちゃんにも見せようと思ってつけてた」
「……ふうん」
 それって女子? と喉まで出かかって、俺はなにを聞こうとしてるんだと我に返る。京の交友関係なんて俺には関係ない。付き合っているわけでもないんだし。
 ……今の俺と京って、なんて名前の関係なんだろうな。
 しゃりしゃりとアイスを齧りながら、俺はうつむいた。足元では、誰かがこぼした飲み物の残骸にアリが行列を作っている。
 先輩と後輩。幼馴染。友人。
 間違ってはいないけど、しっくりくるわけでもない。
 京にとっての俺は、「アピール中の好きな人」なのだろう。初めて一緒に夕食を食べた時の視線の意味が、今ならわかる。考えるだけで首元が熱くなるくらいには恥ずかしいけれど、それは多分、きっと、事実だ。
 じゃあ俺にとっての京は?
 むわっとした空気を感じながら、俺は京と再会してからの日々を振り返った。
 初めは本当に関わりたくなかった。昔のことを持ち出してからかわれたり、面白半分に広められたら最悪だと思ったし、過去を知られているという事実そのものに、なによりも俺自身が耐えられないと思った。
 だけどいつの間にか、夕食を一緒に食べるようになっていた。京はよくも悪くもわかりやすくて、その様子はなんだかラブに似ていて。振り回されることも多いけれど屈託なく慕われれば悪い気もしなくて、ああなんだか可愛いなと、酔いに任せてつい手を伸ばしてしまったのが一ヶ月前。
 告白されてるんだから、友人は違う。と思う。幼馴染で片づけるには会いすぎてる。先輩と後輩で括るのはなんだかそっけなさすぎる気がして――そのそっけなさを一番悔しく感じているのは実は自分だと、気づいていないわけでもない。
 ラブラドールのキーホルダーは文句なしに可愛い。正直、俺もほしいくらいだ。
 気になるのは、それを京に渡した人間なわけで。
 ――俺みっちゃんが好きなんだよ。だから、他の人にもらった香水はつけないでほしい。
 ふと気を抜いた拍子に、同じセリフを口走ってしまいそうだった。この気持ちはひょっとして、京が俺に向ける気持ちと同じなのだろうか。
 俺は京が好きで、キスとかしたいと思っているのだろうか。
 ゆっくり顔を上げて、京の横顔を見る。コーンに伝ったクリームを追って、柔らかそうな舌がちろりと覗く。
「ん?」
 視線に気づいた京と目が合って、体温が二度くらい上がった気がした。
 瞬く間に顔が赤くなっていくのが自分でもわかって、それをどうにか誤魔化したくて。でもなにか言おうと口を開いても、思考が空回りしていい言葉が見つからず、結局は鯉みたいに唇をぱくぱくさせることしかできない。
「どうしたのみっちゃん。あ、もしかしてラブラドール気に入った? 可愛いよね」
「かっ、可愛くねーしっ」
「ええ? でも、好きそうだなって思ったんだけど」
「好きじゃねえし。全然。全く」
「そっかあ」
 京は心持ち残念そうな表情でラブラドールのキーホルダーを撫でた。しばらく指先で転がして、そうだ、と再びこちらを見る。
「みっちゃん、この前大丈夫だった?」
「この前?」
「ほら、俺がマカロン渡しに行った日」
「ああ。大丈夫ってなにが」
 気持ちを落ち着けたい一心で、俺は京から目を逸らし、アイスに集中する。前歯に染みるのもいとわず勢いよく食べて、それでようやく、体の方も平熱に戻っていく。
「いやなんか、扉の窓のとこから見えたんだけどさ。阿智先輩と、その、なに話してたのかなあって」
「なにって……なんで俺があげた香水つけないのって聞かれて」
 最後のひとかけらをもごもごやりながら言って、俺は途中で言葉を止めた。あ、やばい、と気がつくのと同時に、京が「えっ」と驚きの声を上げた。
「本当につけないでくれてるんだ」
 再び目が合い、お互いに沈黙する。
 じっと見つめられて、羞恥心がつのる。でもとにかく、今度こそなにか言わねばと開いた俺の口から、アイスの棒がぽろりと落ちる。
「あ……わり」
 俺は身を屈めてそれを拾い、外袋と一緒にゴミ箱に捨てた。捨てたはいいが向き直る勇気が出ず、京に背を向けたまま固まってしまう。
「阿智先輩ってさあ」
 俺の背後で、京は意味深につぶやいた。
「なんだよ」
「……いや、なんでも」
 ねえみっちゃん、と呼ばれ、無視するわけにもいかずに振り返る。まだ自分の顔が赤いんじゃないかとか、目が合うとまた話せなくなってしまう気がするとか、そういう情けない心配でまばたきばかりする俺に向かって、京はにっこりと笑う。
「みっちゃんが危ない目に遭ったら、俺がいつでも守るからね」
 その笑顔には、小学生の頃と同じ幼さがにじんでいて。
 だからこそよけいに、知らぬ間にずいぶんと高いところにいってしまった目線や広い肩幅へと、俺の関心は引き寄せられる。
「……デート、してやってもいいけど」
 ぼそりと言って、すぐに自分で自分の言葉が恥ずかしくなった。
 デートってなんだ。っていうかなんで俺から誘うんだ。
 せめて普通に、「出かけよう」でよかったんじゃないか。
 頭の中は再びパニックだ。早くなにか答えてほしくて様子を伺ったが、京はきょとんと目を見開いたまま活動停止状態である。
「もっ、もういい。やっぱ今のなし――」
「どこ行く?!」
 ずいっと迫られて、今度こそ心臓が飛び出るかと思った。
 呆気にとられる俺の目の前で、茶色っぽい瞳がきらきらと輝いた。
「初めてのデートなんだから、絶対にみっちゃんの楽しい場所に行きたい。どこがいい?」
「あ、ええっと」
「本当にどこでもいいよ! なんでも付き合うから」
「わかった。じゃあ……」
 今さら提案を引っ込めることもできず、さまよわせた視線が京の肩口で止まる。
 ちらちら揺れるクリーム色のラブラドール。
「ドッグカフェ、とか?」
 恐る恐る伝えると、京は食い気味に「いいねっ」と答えた。すぐにスマートフォンを取り出して店を調べ、あっという間に日付まで決めてしまう。
 ほくほくと喜び丸出しの横顔を見ながら、「そんなに俺のことが好きなのか」と他人事みたいに感心した。男同士云々は、どうやら京の気にするところではないらしい。
 そのまま視線を下ろして、俺はぼんやりと広い肩幅を眺めてしまう。
 俺も好きって言ったら――また、抱きしめてくれるだろうか。
 ふと考えた瞬間、再びじわっと体温が上がる。すっぽりと包み込まれた時の落ち着く感じや温かさを思い出してしまい、その場で勢いよく首を左右に振って、(よこしま)な思考を追い払う。
「そろそろ行くぞ」
 声をかけて歩き出すと、京は慌てて後を追いかけてきた。
 そのいつも通りの足音に、俺はポケットに手を突っ込んだまま、妙な安心感を覚えた。