梅雨入りはその一週間後だった。
 そこからさらに二週間と少しが経った今日も、窓の外は相変わらずどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだ。その景色をぼんやり眺めながら、俺は手元のビーカーの泡を流しては、隣の水切りカゴに粛々と並べていった。
 今日の午前中は井出先生のお達しにより、手の空いているゼミ生全員が研究室の掃除に駆り出されていた。普通こういうのは長期休み前や年度末にやるものだと思うのだが、井出研は毎年この時期らしい。
 学生が期末試験に集中できるようにという名目だけれど、今現在中間試験の真っ只中という現実を踏まえると、ただ単に井出先生が夏休みや春休みを長めに取りたいだけだと俺は予想している。
「光希。みーつき。おーい、みっちゃん?」
 背後からの呼びかけに、俺はびくりと肩を震わせて振り返った。にやにやと笑う阿智先輩と目が合って、思い切り顔をしかめる。
「阿智先輩、危ないんで驚かせないでください。あとみっちゃんって呼ぶな」
「なんで? 京くんは呼んでるのに?」
「あいつは昔からあれだから、もう仕方ないんです」
 飛び出てきた名前に内心どきりとしつつ、平静を装ってそっけなく答える。
「ふーん」
「どういう感情なんですか、その返事は……ひゃっ」
 突然首筋に鼻先を寄せられて、変な声が出てしまう。慌てて口元を覆うと、阿智先輩は今度は、まだ濡れている俺の手を掴んで自分の顔に寄せた。
 その仕草が自然、あの日の朝の京と重なってじわじわと体が熱くなる。他人に手を取られるのは今月二回目だ。京といい阿智先輩といい、急に抱きついたり鼻先を寄せたり、いくら男同士だからって気安すぎないか。俺の体はフリー素材じゃないんだが。
 阿智先輩は俺の手をくるんと翻して、なぜか手首の内側のにおいをかいだ。反対側の手も掴んできて同様に。珍しく顔をしかめて、「つけてなくない?」とつぶやく。
「俺があげた香水、一回もつけてないよね。気に入らなかった?」
 いつになく真剣な顔で覗き込まれて、どきりとした。
「いや、気に入らないとかじゃなくて……その……」
 確かに一度もつけていないし、その理由もわかっている。
 わかっているけど。
「ええっと……」
 言えるわけがないんだよなあ。
 切れ長の三白眼から目を逸らして、俺は研究室内に視線をさまよわせる。
 いつの間にか、他のゼミ生は綺麗さっぱりいなくなっていた。俺が洗い物をしている間に二限目終わりのチャイムが鳴っていたから、各々適当に切り上げて帰ってしまったのだと思う。
 助けを求める相手がいないと悟り、俺は本格的に言い訳を考え始めた。
 今日に限って、阿智先輩の意思は固そうだ。かれこれ二年以上の付き合いになるので、一度頑固になった彼がそれなりに面倒だということを、俺は知っている。
「光希」
 握られたままだった指先をそろりと撫でられる。
 背筋がそわっとしたのを誤魔化したくて、俺は咄嗟に口を開いた。
「……きょっ」
「きょ?」
「京が、その」
 やばい、これってもしかして、もう逃げ場ない感じ?
 内心とんでもなく焦っていると、入口からノックが聞こえた。
「あ、俺行くんで」
 俺はこれ幸いと抜け出して、早足で扉に向かう。はーいと応じながら開くと、噂をすればなんとやら、そこに立っていたのは京だった。
「なんだ、お前かよ。なにしにきた」
「ごめんねみっちゃん。中にいるのが見えたから」
 京はそう言ってぷるぷると首を左右に振った後、右手を掲げてみせた。
「これいる? 購買の新商品なんだけど」
「なにそれ」
「マカロン。なんとなく、みっちゃんこういうの好きかなって思って」
 へえ、と受け取ってパッケージを確認すると、いちご味とさくらんぼ味のマカロンが一つずつ入っていた。外袋には可愛い犬や猫のキャラクターが描かれていて、【期間限定ランダムシール入り】と記載がある。
 そのあまりにも「きゅるん」とした見た目に、俺は一瞬、受け取ることを躊躇する。マカロンは食べたいしシールも気になるが、これを好きだと思われるのはかなり恥ずかしい。
 それに、すぐそこには阿智先輩がいる。
「あー……」
 受け取ろうか、返そうか。
 迷ったまま顔を上げると、期待と不安に揺れる瞳がこちらを見ていた。
 決して押しつけないけれど、できれば喜んでほしい。あわよくばほめてほしい。そんな思いを感じ取って、俺はつい笑ってしまう。
「もらうわ。さんきゅ」
 瞬間、京の顔がぱっと輝いた――テンションぶち上がりで尻尾ぶんぶん、三回(まわ)ってお手お座りもなんのその、と、そんな感じである。
「やった。ねえみっちゃん、今日は一緒に帰れる?」
「あー、今日明日はバイトだから無理」
「え……」
 一転、急降下。全くもって忙しないやつだ。
 生きてて疲れそう。
「でも水曜はいつも通り空いてる」
 そうつけ足すと、京は安心したようににっこり笑った。じゃあ水曜日、約束だからね、と言い残して、機嫌良さそうな足取りで去っていく。
 その後ろ姿を少し見送ってから、俺は小さく息をついた。受け取ったマカロンを見下ろしながら、少し速まっていた鼓動がいつも通りに戻るのを待つ。
 京に告白されてから、早いことにもう三週間が経つ。
 最初こそどうしたものかと悩んだが、そもそも京の好意が丸出しなのは元からだった。特別態度が変わったり、返事を急かされたりすることもなく、したがって表向きは、案外いつも通りの日々が続いている。
 じゃあ本当になにも変わらないのかと問われればまあ、やはりそんなことはないけれど。
 例えばこうやって、わざわざ研究室に声をかけにくるだとか。一緒に帰る予定が決まると、大袈裟なくらい嬉しそうにするだとか。そうやって向けられる好意に、今までとは別の気持ちを見るようになった。
 そして俺は、非常に不本意ながら、意外とそれが不快ではない。
 むしろそう、ちょっと、いや実はかなり、可愛いかもなんて……思うことがないわけではない、というか。
「光希ってそういうの好きなの? 意外」
 ひょいと覗き込まれて本日二度目の悲鳴を上げる。この人もしかして、俺を驚かせるのが趣味なんだろうか。
「……べつに、こんな甘いの、全然好きじゃないっす。押しつけられたからもらっただけで」
「ふうん?」
 阿智先輩の訝しげな視線からそそくさと逃げ、俺はマカロンを自分のリュックサックにしまう。
「光希、学食行こ」
「すいません、俺今日家で食います」
 さっきの香水云々を掘り返されたくないのですみやかに断ると、阿智先輩は「えーマジ?」と不満そうな声を出した。
「あれ全部洗ったら、もう帰っていいんですもんね」
 まだなにか言いたげな阿智先輩の視線には気づかないフリで、俺は残りのビーカーを洗い、荷物を持って研究室を後にする。
 理学部棟を出ると、傘を差すか迷うくらいの雨がぽつぽつと地面を濡らしていた。京が大型犬よろしく首を振っていたのを思い出して、ああ、わざわざ来たんだなとふいに気づく。
 人文学部の京が理学部棟に用事がある可能性は低いし、購買から理学部棟までは少し距離がある。だから京はきっと、俺にマカロンを渡すためだけに、ここまでやってきたのだ。
 それで研究室にまで乗り込んでくるのはまあ、一年にしては度胸がありすぎるけれど。それだって、俺が阿智先輩に絡まれて、昼休みになってもなかなか外に出てこなかったからかもしれない。
 ふと思い立ってスマートフォンの画面をつけると、やはり京からの不在着信が入っていた。
 出なかったのに、来たのだ。そういういじらしさが好ましくないと言ってしまえば、それはやっぱり、嘘になる。
 ――キスとかしたいってことだよ。
 思い出して、にわかに頬が熱くなる。
 付き合うとか正直、全然想像できない。京のことは嫌いじゃないけど、嫌いじゃないと好きの距離は思ったよりも遠い。
 なんだかはっきりしない気持ちは、常にどこかぼんやりとして見える梅雨の空と同じだ。俺はそれが鬱陶しくて――だけどなんだか、大事にしなくてはいけないような気もして。
 投げやりにできない荷物の重さに、俺はついまたため息をついてしまう。梅雨特有のじめっとした空気に、吐き出した息が溶け込んでいく。