次の日、俺はアラームではなく眩しさで目を覚ました。
 部屋の明るさからもうだいぶ陽が高いことを悟り、頭痛にうめきつつ枕元のスマートフォンに手を伸ばす。
 瞬間、手のひらが生温かいものに触れ、俺は声にならない悲鳴を上げた。
「えっ? は……っ?」
 俺の枕元に両腕を乗せ、そこに顔を伏せた状態で、京がすうすう寝息をたてている。
 全然意味がわからない。なんでこいつがここにいるんだ。
 頭痛に耐えながら昨日の記憶をたどる。フルコマ、飲み会と順に思い出して、蘇った醜態の数々に背筋が粟立った。
 酒は飲んでも飲まれるな――いやもういっそのこと、記憶が飛んでくれればよかったのに。なんで俺、吐いた後のことは忘れて、一番忘れたいところはわりかしちゃんと覚えてるんだ。
 なんかもう今すぐ隕石とか降ってきて、人類が滅亡したりしないだろうか。
「ん……みっちゃん?」
 現実逃避を試みていると、京が目をしばたたかせながら顔を上げた。まだ眠そうなタレ目にぼんやりと見つめられて、どきんと心臓が跳ねる。
 京の方は全部忘れてたり……するわけないか。だってこいつ、普通に素面(しらふ)だったしな。
 ――プレゼント代わりに抱きしめてもいいよ。
「っ!」
 俺は勢いよく上体を起こして、京から離れて壁際に寄った。途中、手元にあった掛布団をむんずと掴み、頭からすっぽり被る。
 自分の体が熱すぎて、熱がこもって息苦しい。でも京に顔を見られるくらいなら、このまま死んでしまった方が何億倍もマシだ。
「みっちゃん? なんで隠れるの?」
 とろんと舌足らずな声が布地の向こうから聞こえてくる。ベッドがぎしりと鳴いて、京がこちらに近づいてくる気配を感じる。
「みっちゃーん。俺の可愛いみっちゃん、どこ」
 おっ、おおおお前のもんになった覚えなんかねーよ。あと可愛いって言うな……!
 脳内ツッコミすら、暑さと息苦しさと動悸のせいで上手くできない。暗闇で目を泳がせる俺の元へ、京は着実に迫ってくる。
「あ、いた。おはようみっちゃん」
 強い力で布団を剥ぎ取られ、明るくなった視界の中、京がにっこりと笑う。
 そのままがばりと抱きつかれて、俺の羞恥心は最高潮に達した。
「はっ、離せっ……!」
「ええ? なんで?」
「重いし、暑いし、苦しいっ」
「駄目?」
「駄目、に、決まってんだろうが! いい加減目え覚ませ馬鹿っ」
 思い切り耳を引っ張ると、京は「痛っ」と悲鳴を上げて力を緩めた。俺は京の腕を素早く抜け出し、自分のスマートフォンを回収する。
 画面をつけると、もう十二時半だった。木曜の午前中はもともと休みだが、十三時からはゼミがある。
「痛い。みっちゃん酷い」
「いつまでも寝ぼけてるからだボケ! 俺もう出るから、お前もさっさと帰れ」
 室内に干しっぱなしのタオルを慌ただしく回収し、なんとか風呂場に駆け込む。二分でシャワー、三分でドライヤーとヘアセット、と段取りを組みながら準備を進めることで、胸に渦巻く混乱から必死に目を逸らす。
 最悪だ。マジで。俺は特別酒に弱いわけではないし、そもそも普段はあんなになるまで飲まない。でも昨日は、あいつが急についてくるとか言い出して、そのくせ女子と楽しげで、それが俺はなんだかすげームカついて、それで、それで……って、それって結局、全部丸ごと京のせいじゃねーか。
 熱いシャワーを勢いよく止め、頭を思い切り左右に振る。体を拭き始めてから着替えを準備し忘れたことに気づき、舌打ち混じりに腰にタオルを巻いて風呂場を出る。
「みっ、みっちゃん、服を着よう?」
「着るための服を取りにきたんだよ。ってか本当、早く帰れ」
 同性の上裸くらいで頬を赤くする京に、だんだん恥ずかしさよりも腹立たしさが勝ってくる。なに照れてんだこいつは。俺なんか、お前のせいで、新たな黒歴史(超絶特大)を生産する羽目になったんだぞ。
 下着とジーンズを身につけながら、ふとリュックサックの口から黒い箱が覗いていることに気づく。そうだ、阿智先輩にもらったんだと思い出して、俺はしゃがみ込んで手を伸ばす。
「あっ、だ、駄目!」
 蓋を開けて中身を取り出した直後、京が思い切り叫んだ。弾かれたように立ち上がって、「はあ?」と眉をひそめる俺に近寄ってくる。
「それ香水? 阿智先輩にもらったやつだよね? 駄目。つけないで」
「なんで」
「昨日言ったじゃん」
「言われてねーよ」
「言ったじゃん。すっ、好きだって」
 京は隣にしゃがみ込むと、香水を持った俺の手を掴んで顔を覗き込んできた。
「俺みっちゃんが好きなんだよ。だから、他の人にもらった香水はつけないでほしい」
 至近距離から見つめられて、また恥ずかしさが大きくなる。
 なにか返そうにもなかなか言葉が出ず、俺は何度も口を開いたり閉じたりする。
「……なに、それ。す、好きとか、意味わかんねーし」
 抱きしめてもらったことも、好きだと言われたことも、きちんと覚えていた。
 でもだって、意味がわからないし信じられない。俺は男で、京も男で、「好き」にだって、色んな種類があるわけで。
「キスとかしたいってことだよ」
「きっ、」
 慌てて後ずさろうとするも、手を掴まれているので十分な距離を取ることができなかった。「離せ」と絞り出した自分の声が、みじめに震えていて泣きたくなる。
「ねえみっちゃん、俺本気だからね。ずっと、本当に、好きだったんだ」
 京はそう言って、指先にきゅっと力を込めた。そのまま俺の手を引き上げ、少しまぶたを伏せながら、手の甲にふわりと優しく口づける。
 昼時の部屋には光が満ちていて、京の髪はきらきらと光っていた。
 その光景は悔しいほどに綺麗で、俺は一瞬、時を忘れて、長く揃ったまつ毛と滑らかな頬に見惚れてしまう。
「またご飯、誘うからね」
 京は名残惜しそうに俺の手を離すと、ベッド脇に置いてあった自分のトートバッグを持って部屋を出ていった。
 がしゃん、と扉の閉まる音を聞いてから数分、俺はその場から一歩も動くことができなかった。

 その後のゼミはもちろん遅刻で、息を切らしながら講義室に駆け込んだ俺を見て、井出先生は「珍しいねえ」と穏やかに笑った。
「秋本くんはいつもクールだからね。うん。たまにはそうやって必死になった方がね、うん、年相応に可愛らしくていいんじゃないかね、うん」
 だから、可愛いって、言うな!
 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、俺は「すみません」ともう一度頭を下げた。
 講義の内容など全く頭に入ってこなくて、自分はいったい何をやってるんだと思うと、長い長いため息が出るのだった。