「ねえみっちゃん、なんか歩き方ふらふらしてるよ。俺の腕掴まりなよ」
「うるさいなあ。大丈夫だって何度も言ってるだろ」
 俺が眉をひそめながら見上げると、京はずいぶんと困った顔をしてみせた。俺はそれが気に入らなくて、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。
 トイレから戻った後は散々喋ってアイスも食べて、阿智先輩たちとは店の前で解散した。
 帰り道が同じ京は、先ほどからやたらめったら俺の顔を覗き込んでくる。それが鬱陶しくて、俺はまたもや機嫌が悪い。
 正直、なんなんだこいつ、である。あんな風に抱きしめて無理矢理ついてきたくせに、俺を不快にしかさせないではないか。
「お前さあ、実は俺のこと嫌いだろ」
 きっと睨みつけると、京は心底焦った感じで「なんでっ?」と叫んだ。酒のせいか、その顔が本当に間抜けに面白く感じられて、俺はすぐに腹を抱えてけたけたと笑ってしまう。
「もうやだ。酔っ払い嫌だ……」
「ああ? こんなんマシな方だわ。俺の知り合いなんかなあ」
 まだ飲み会参加歴の浅い京に向かって、本当の酔っ払いがいかにはた迷惑かを教えてやる。
 アルバイト先が居酒屋なのも手伝って、なにせサンプルだけは大量にある――道端の猫をストーカーしたり、財布やスマホを落とすなんてのは序の口だ。謎に宇宙と交信し始めたりチャリの飲酒運転で捕まったり、「日の出が見たい」と言って隣県の山まで走っていってしまったり。
 気持ちよく喋っていると、右の手のひらになにかが触れた。
 言葉を切ってうつむくと、京の長い指が俺の指先に絡んでいた。
「……なにしてんの」
「手つないでる」
「なんで」
「転ばないか心配だから」
 ――心配。
 その言葉が胸に引っかかって、一度は収まったもやもやが再びわき上がってくる。ああ俺、酔ってんなと頭の端っこで思いながらも、でもべつにこれは酔ってなくても、ひとこと言ってやらなきゃ気が済まないタイプの話だし、と自分を納得させる。
「なんで俺が、あんたに心配されなきゃいけないわけ」
 自分でも意外なほど、ぐっと低い声が出た。
 本当は、京が飲み会に行きたいと抱きついてきた日に言うべきだった。
 心配とか可愛いとか、そういうのは俺にはいらない。俺は男で、身長も一七三センチあって、口が悪くてガサツで足癖も悪いただの一般的な男子大学生なのだから。
「みっちゃんが可愛いから」
「可愛いって言うな。俺は男だ」
「男でも可愛いよ」
「キモイこと言うな」
「キモくない」
「いやキモイだろ。男が可愛いは、普通に。……めんどいから変な言い訳しなくていいよ。女子二人に挟まれてへらへら笑ってたくせに」
 ひょい、と当たり前みたいに京の腕に抱きついたミキを思い出す。じわっと腹の底が苦しくなって、ムカつきすぎて悲しいくらいだ。でもその理由はやっぱりよくわからなくて、夕方の商店街で母親とはぐれた子どもみたいな心細さに、俺はますます泣きたくなる。
「カナさんとミキさんがみっちゃんのバイト仲間だからだよ。嫌われるより好かれたかったの。俺が本当に話したかったのはみっちゃんだし、そもそも一番気になってたのは女子じゃなくて――」
 京はそこで一度、言葉を切ってうつむいた。
「ねえみっちゃん、阿智先輩からなにもらってたの」
「なんでそんなこと教えなきゃいけないんだ」
「いいから答えてよ。俺にとっては大事なことなの」
「意味わかんねえ。絶対に言わねえ」
「お願いみっちゃん。気になって眠れなくなる」
「ふざけんな」
「ねえほんとに」
「……もういいよ。勝手にしろ、馬鹿」
 妙に必死な様子が煩わしくて、俺は一方的に話を打ち切って歩き出す。
 何度振りほどこうとしても、京は俺の手を離してくれなかった。あの大きな手で握りこまれているのだから、京が離す気にならないのなら諦めるしかない。

 俺が倒れないか心配だとか言って、京は家の中までついてきた。泊まっていくとか抜かしやがって、意味がわからないけど断る気力もなくて好きにさせた。
 玄関で靴を脱いだ俺はいつも通り部屋の入口にリュックサックを下ろし、ラックの上のぬいぐるみに近寄りかけて足を止める。
 後から入ってきて鍵を閉め終わった京が、もうこちらに向かって歩いてきていた。子どもみたいにぬいぐるみに額をすり寄せているところなど、絶対に見られるわけにはいかない。
 ……まただ。またこいつのせいで。
 ルーティンを崩されたことに腹が立って、俺はむしゃくしゃした気持ちのまま布団にダイブした。ふわふわの掛布団に顔を埋めて、そのまま大きく息を吸う。
 そうしているとようやく、少しだけ気持ちが落ち着き、そのせいか今度は疲労感と眠気が一気に押し寄せてくる。
「ねえみっちゃん、冷蔵庫チョコばっかりなんだけど。いつもなに食べてるの? 水道水でいいの?」
「んー」
「グラス勝手に出すよ。あとペットボトル捨てなよ」
「うるせえなあ」
「まだ寝ちゃ駄目だからね。水飲んで、歯磨きもした方がいいよ」
「嫌だね。磨いてほしかったら歯ブラシ持ってこい」
 まさかそこまではしないだろう、と、そう思っての発言だったのだが、しばらくしてベッド脇にやって来た京の手には、俺がいつも使っている歯ブラシが握られていた。
 ご丁寧に歯磨き粉まで乗せて、「コップは見つけられなかった。ごめん」と謝ってくる。
「……馬鹿じゃねえの」
 とりあえず身を起こして、まずはこっち、と渡されたグラスを口につける。冷たい水に少しだけ酔いが醒め、醒めたら醒めたで、ますます今の状況が理解できなくて困惑する。
 この甲斐甲斐しさはなんだ。心配とか、そういうレベルじゃなくないか。
 これじゃあ本当に、ご主人様のためなら何でもする忠犬だ。
 ん、とグラスを突き返すと、京は当たり前みたいな顔をしてそれを受け取った。続けて歯ブラシを突き出されたので、「そっちはまだいい」と断って首を左右に振る。
「みっちゃん」
 少し責めるような感じの目が、じっとりと俺を見る。こちらを気遣うがゆえの真剣な表情に、心の端っこがそわりとする。
「後でちゃんとやるから。……とりあえず全部机に置いて、そこ座れ」
 京は部屋中央のローテーブルにグラスや歯ブラシを置くと、戸惑いながらも俺の前で正座した。俺はベッドに腰掛けていて、京は床に座っているので、いつも少し遠いところにある茶色っぽい髪が、ちょうど手の届くくらいの高さにくる。
 同じ色の瞳でじっと見つめられて、言葉に詰まる――一途な視線。大きな体。
 胸のうちにわいた衝動を抑えきれず、絞り出すように「右向け」と言うと、京は素直に右を向いた。「左」と言ったら左に、「上」と言ったら上に、一つも文句を言わずに首を傾ける。
「……お前さあ」
「うん」
「もしかして今なら、俺の言うことなんでも聞くわけ」
「なんでもかはわからないけど、多分『殴って』とかじゃなければだいたい」
「あっそ。……じゃあ、下」
 京はすぐにうつむいた。俺はやっぱり少しためらって、でもその理性は、まだ色濃く残る酔いと眠気と欲求にすぐに流され、ふわりとどこかに飛んでいってしまう。
 京の側頭部に、俺はそっと手を伸ばす。茶色っぽい髪は見た目通り、ふわふわと柔らかかった。手のひら全体でさすったり、指の先に絡めたりといじって、髪ゴムが引っかかって顔をしかめる。
「ゴム取って」
 京はうつむいたまま右手を持ち上げ、縛っていた髪をほどいた。
 より撫でやすくなった髪の感触を、俺は気が済むまで無心で味わう。
 滑らかな指通りにラブの耳を思い出した。ラブラドールの毛は基本少し硬めだが、耳元の毛はアクリル毛布のように心地よい手触りで、それを軽く折り曲げたりひっくり返したりして遊ぶのが幼い頃の俺の癖だった。
 ――ラブ。ラブいい子だね。可愛いね。ラブはあったかくて触ると安心するから、おれラブのこと大好きだよ。
 家のリビング。柔らかいラグ。可愛いスカートを履いて、母が夕食を作る音を聞きながらラブを撫でる。
 もうすぐ帰ってくる父を待ちながら、今日のご飯は何だろうと考える。そんな、俺の大好きだった時間。
 ふいに涙腺が緩んで、目をしばたたかせながらうつむいた。突然訪れた寂しさに耐えられなくなって、吸い寄せられるみたいに、目の前の頭にこつんと額を預ける。
 たった一点、触れた場所から、じわりと京の体温が流れ込んできた。ほどけてもろくなった心が、もっとと無遠慮に手を伸ばす。
「俺今日、誕生日なんだけど」
 唇を尖らせながら言うと、京は「えっ」と声を上げて焦り出した。
「そうなの。ごめん、俺知らなかった。プレゼント今度でいい?」
「……いらない」
 いらないから、と、そこで言葉を区切って、また少し迷う。
 言ってしまっていいのだろうか。言ってしまったら、なにかが変わってしまうんじゃないだろうか。
 そう思うのに抗えない。マジで本当にムカつく。こいつといると調子が狂う。
 泣くことも、甘えることも、スカートやネックレスと一緒に心の底にしまい込んだはずなのに。
「いらないから、プレゼント代わりに抱きしめてもいいよ」
 京はしばらく動かなかった。沈黙の長さに恥ずかしさが込み上げてきて、全部忘れろ、と言いそうになった頃になってようやく、ゆっくりと立ち上がって寄ってくる。
 重みでベッドが軋み、傾いた体に長い腕が回ってくる。京のTシャツの布地が頬に触れ、とくとくと聞こえる心臓の鼓動が、鼓膜を通って全身に流れ込んでくる。
 やっぱり温かい。体の強張りがすうっとほどけて、俺は小さく息をつく。
「みっちゃん、好きだよ」
 その声は、どこか遠くから聞こえた。水の中で聞く物音のような、まどろみの中で聞く子守歌のような、そんな穏やかな響きを、ぼんやりとした意識のまま追いかける。
「ずっと好きだったんだ。アメリカでも日本でも、周りに馴染めなくて寂しい時はいつもみっちゃんのこと考えてた。また会えて本当によかった」
 ねえ、みっちゃんは俺のこと好き?
 熱が離れて、こちらを覗き込んでくる気配を感じる。あのまっすぐな視線を受け止める勇気がなくて、俺は目いっぱい顔を逸らす。
「みっちゃん、こっち向いて」
 耳元でささやかれ、身が震えた。心臓がバクバクしすぎて、気持ち悪いくらいだ。
「俺、は。俺は……」
 口を開いて、すぐに閉じる。嫌な感覚が喉元をせり上がってくる。
 気持ち悪いくらいとかじゃない――普通に気持ちが悪い。
「っ」
 京を押しのけて、俺はトイレにダッシュした。
 涙目でげーげー吐きながら飲みすぎたことを後悔し、満身創痍(まんしんそうい)になってしまって、その後のことはあまりよく覚えていない。